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第四章 浮かぶ
終章 -1-
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「おはよう、冬夜くん、夏久くん。よく眠れたかな」
寝室から出てきた二人に声をかけ、俺は用意した三つのコップに牛乳を注ぐ。そういえば、勾島では牛乳を口にすることはなかったなと思う。
「牛乳は飲んだことがあるだろうか?」
「あるにはあります。あまり手に入るものではないので、嬉しいです」
冬夜の返事にホッとしながら、俺は書斎から持ってきたオフィスチェアに座った。夏久は相変わらずの寡黙ぶりだ。
ダイニングテーブルの上には、トースト・ベーコンエッグ・サラダを三人分用意してある。非常にオーソドックスな朝食だが、勾島での主食は常に島芋だったので新鮮に感じる。普段は毎朝トースト派の俺にとって待望のメニューになるが、はたして二人は気に入ってくれるだろうか。
ここは渋谷区内にある、俺が借りているマンションの一室だ。
今日は五月二六日。
あれから、夏久の作戦通りに島からの脱出は進んだ。彼の操舵する船は問題なく八丈島につき、俺はそこから本町に助けを要請。傷の手当てを受けてから手配してもらった飛行機に乗り、昨日の夜にオフィスに着くことができた。俺はそこで本町にひととおりの報告を終え、採取してきた根贈の分析を依頼した。
本町は冬夜と夏久のためにホテルを手配しようとしてくれていたのだが、彼らが俺から離れたがらなかったこともあり、共に俺の家で一晩を過ごした。事情を知らない角田には「すっかり懐かれましたね」などと茶化されたが、彼らの正確な本心を推察することのできる俺としては、苦笑するより他ない。二人は俺が約束を反故に逃げ出さないように見張っていたいのだろう。
俺の家は、狭いながらも部屋が三つある。玄関から入ってすぐにキッチンとリビングダイニングがつながっている空間があり、奥の部屋を寝室、さらにもう一つの部屋を書斎として使っている。
昨日は寝室にあるベッドを冬夜と夏久に使ってもらい、俺は書斎のオフィスチェアをリクライニングさせてその上で眠った。ダイニングチェアも二つしかないので、いまもそのオフィスチェアを使っている状態だ。不便極まりないが、根贈の分析結果は今日出る。
冬夜と夏久も、根贈から幻覚作用のある成分が検出されれば、安心してホテルへ移動してくれるに違いない。
そこから先、勾島へのMAD製造の捜査や、後藤、健の殺人をどう処理していくかは悩ましい問題だが、俺の心はひどく穏やかだ。勾島を離れてから、幻覚をいっさい見ていない。
「浅野さん、とってもおいしいです」
冬夜が俺の視線に気づき、トーストを齧りながら笑う。
「口に合って良かった」
俺も笑顔を返し、手にしたフォークでベーコンエッグの黄身を割った。好みの硬さにした黄身のとろりとした感触が、家に帰ってきたのだという安心感を与えてくれる。
一人暮らしの家に三人揃っているのは妙な狭苦しさを感じ、朝食を食べ終えてからは、早々に家を出た。白い着物姿だった冬夜は、昨日すでに、東京にいても浮かない服を用意してもらっている。
特別なことをするわけでもないが、俺の案内のもと、電車で東京の街の観光をする。二人とも、いままで一度も島を出たことがなかったようで、自動改札を通ることすら覚束ない様子だった。彼らは見るものすべてに新鮮な反応をし、都会の街を楽しんでいたが、しばらくすると人波に酔ってしまった。
そこで、昼食を兼ねてチェーン店のカフェに入る。
「島を出たいという気持ちはないのかい?」
俺の問いかけに、生ハムのサンドイッチを齧りながら、二人は微妙な表情を浮かべる。
「島を出る選択肢すら持ったことがない、というのが正直なところです。島が僕たちの世界で、世界の外に何があるのかも、よくわかっていませんでしたし」
「外の世界を知ったいまは?」
「色々なものがある面白い場所だなとは思いますが、やはり、島を出たいとは思いません。僕の居場所は島にあると、改めて感じました」
夏久は無言のままだが、冬夜の言葉に合わせて僅かに頷いているところを見ると、まったくの同意見のようだ。
「島を出る人は、全体としても多くないのかな」
「そうですね。完全に島を離れたという人は、僕が知っている中では二人くらいです。士郎さんのように、仕事の都合上一度島を出て、また戻ってくるという人もいますが」
「郷土愛というものだろうか。俺は生まれも育ちも都内だが、だからこそ、そのあたりの感覚はよくわからないかな」
言葉を交わしながら、久しぶりに味わうコーヒーに俺は舌鼓を打つ。深く香ばしい香りが鼻腔を抜けていくのがたまらない。
ふと、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが振動するのを感じた。取り出し画面を見ると、本町から連絡が入っている。
「分析結果が届いたみたいだ。食べ終わったら出ようか」
声をかけると、冬夜の表情に緊張が走る。そこからは、会話という会話もなくなくなった。しばらくは二人とも無言のまま食事を続けていたが、食べかけのサンドイッチは、そのまま店内に備えられたゴミ箱に捨てられることとなる。
再度電車に乗り、オフィス最寄りの駅へと向かう。それから雑居ビルに向かう間、俺は、昨日からの心地よさがなぜか遠くなっていく感覚を得ていた。妙な視線がまとわりついているような気さえする。
狭いエレベーターに乗り、中に設置されている鏡を見る。陰気な蛍光灯に照らされて、髪を染めておらず、眼鏡もかけていない、素の状態の自分と対面する。
目的の階に到着し、オフィスへと入る。そこにはいつもどおり、角田がいた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。奥の会議室で本町さんがお待ちですよ」
俺が会釈をして奥へ向かおうとすると、慌てたように角田が立ち上がった。
「うちの機密事項に触れる話があるから、冬夜くんと夏久くんはここで待っててくれるかな? なにかジュースでも飲む?」
冬夜と夏久は戸惑うようにお互いに顔を見合わせ、次に俺を見てくる。
「結果を聞いてすぐに戻ってくるから、待っていてくれ」
彼らを安心させるように微笑むと、あとの対応を角田に任せて、奥の会議室へと向かった。一歩足を前に進めるごとに、先ほどからしている胸騒ぎが大きくなっていく。
「失礼します」
会議室のドアを軽くノックし、中へと入る。
「お疲れ様です本町さん。結果が出たということですが……その、どうかしましたか」
部屋の中には、小さな会議用の椅子と長テーブルがあるだけだ。そこに、神妙な顔をして本町が座っていた。俺はすぐに彼の表情の硬さを察する。促されるままに本町の横に腰掛けると、彼は、口を開いて抑えた声で話し始めた。
「単刀直入に言うが、お前の採取してきた根贈は新種の植物ではあったものの、幻覚を引き起こす成分、並びにMADの原料たりえる成分は検出されなかった」
本町の言葉が耳を通り鼓膜を震わせてしばらく。内容をしっかりと認識するのに時間がかかった。
「え……?」
思わず漏れた声には、なんの意味もない。
「根贈を燃やした煙を吸っても、幻覚作用はないということだ」
改めて端的な言葉で同じ内容を繰り返され、俺は震える手で口元を覆う。全身の血が逆流し始めたかのようだ。総毛立ち、体の平衡感覚が崩れた気がして、自分が真っ直ぐに座っているのかどうかすら不安になる。
嘘だ。そんなことはあり得ない。では、俺が勾島でさんざん見ていた不気味なものや、あの異形や、壮絶な滅びの光景はなんだったというのか。
衝撃を受けたまま、何も返事をすることができないている俺に、本町が言葉を重ねる。
「ただし、この内容は冬夜くんと夏久くんには伝えないほうが良いだろう。幻覚成分があったということにして、とりあえずはその大豊祭とかいう日が過ぎるのを待て。島全体として四人の殺人を計画し、自死を含め実際に四人が死んでいるという異常性が判明したのだから、MADは別にしても次の捜査には問題なく進める……おい、浅野」
言葉の最後に低く鋭い声で名前を呼ばれ、俺は、無意識に落としていた視線を上げて本町の顔を見返す。
「しっかりしろ。まさか、根贈に幻覚作用がなかったからといって、狂った島の言い伝えを信じてるわけじゃねぇだろう? 怪しい宗教に取り込まれるなよ。とりあえず、あの二人の子どもからは距離を置け。すでに二人を入れるホテルは手配した。さっさと連れて行っちまえ。いいな?」
瞳を見つめられながら、言い含めるように諭されて、俺はおずおずと頷く。
と、そのとき。背後に気配を感じた。うなじの産毛が逆立つような、壮絶な寒気。そして、たしかに耳に届く微かな吐息。恐る恐る振り返り、そのまま椅子から転げ落ちる。
俺の真後ろに春樹が立っていた。四季子の白い着物を身に纏い、死体として発見されたときと同様に、全身が海水で濡れている。眼球があるべき両の眼窩にはポッカリと穴が開き、ただただ黒い闇が覗く。
けれども俺には、春樹が俺のことを見つめていることがわかった。彼はこの部屋での会話を聞き、理解したのだ。そして、約束を反故にしようとしている俺を責めている。
春樹の口がゆっくりと開いていく。常人であれば顎が外れてしまうほど、人体としての限界を超えて口が開かれるが、そこから声が発せられることはない。唇の奥には、眼窩同様に深い闇ばかりがある。
「おい、浅野!」
「本町さん、ここに。目の前に春樹くんがいるんです。見えるんですよ、俺にははっきりと。これは幻覚なんでしょうか。それとも……」
「しっかりしろって言っただろ、この部屋には俺とお前しかいない。俺が保証してやる。お前は一ヶ月もイカれた島にいて外部と連絡も取れず、精神が参ってるんだ。人間が幻覚を見るのは、何も麻薬を摂取したときだけに限った話じゃない。家で数日も休めばすっかり良くなるさ」
本町の腕に体を引き起こされ、なんとか立ち上がる。本町はその後、俺の背中を数回力強く叩いた。軽く咽せるほどの衝撃が、逆に気持ちを鎮めてくれる。再度顔を上げると、春樹の姿は見えなくなった。
「行けそうか?」
伺うような眼差しで見つめられ、俺は一度深呼吸をしてから「はい」と返事をした。
寝室から出てきた二人に声をかけ、俺は用意した三つのコップに牛乳を注ぐ。そういえば、勾島では牛乳を口にすることはなかったなと思う。
「牛乳は飲んだことがあるだろうか?」
「あるにはあります。あまり手に入るものではないので、嬉しいです」
冬夜の返事にホッとしながら、俺は書斎から持ってきたオフィスチェアに座った。夏久は相変わらずの寡黙ぶりだ。
ダイニングテーブルの上には、トースト・ベーコンエッグ・サラダを三人分用意してある。非常にオーソドックスな朝食だが、勾島での主食は常に島芋だったので新鮮に感じる。普段は毎朝トースト派の俺にとって待望のメニューになるが、はたして二人は気に入ってくれるだろうか。
ここは渋谷区内にある、俺が借りているマンションの一室だ。
今日は五月二六日。
あれから、夏久の作戦通りに島からの脱出は進んだ。彼の操舵する船は問題なく八丈島につき、俺はそこから本町に助けを要請。傷の手当てを受けてから手配してもらった飛行機に乗り、昨日の夜にオフィスに着くことができた。俺はそこで本町にひととおりの報告を終え、採取してきた根贈の分析を依頼した。
本町は冬夜と夏久のためにホテルを手配しようとしてくれていたのだが、彼らが俺から離れたがらなかったこともあり、共に俺の家で一晩を過ごした。事情を知らない角田には「すっかり懐かれましたね」などと茶化されたが、彼らの正確な本心を推察することのできる俺としては、苦笑するより他ない。二人は俺が約束を反故に逃げ出さないように見張っていたいのだろう。
俺の家は、狭いながらも部屋が三つある。玄関から入ってすぐにキッチンとリビングダイニングがつながっている空間があり、奥の部屋を寝室、さらにもう一つの部屋を書斎として使っている。
昨日は寝室にあるベッドを冬夜と夏久に使ってもらい、俺は書斎のオフィスチェアをリクライニングさせてその上で眠った。ダイニングチェアも二つしかないので、いまもそのオフィスチェアを使っている状態だ。不便極まりないが、根贈の分析結果は今日出る。
冬夜と夏久も、根贈から幻覚作用のある成分が検出されれば、安心してホテルへ移動してくれるに違いない。
そこから先、勾島へのMAD製造の捜査や、後藤、健の殺人をどう処理していくかは悩ましい問題だが、俺の心はひどく穏やかだ。勾島を離れてから、幻覚をいっさい見ていない。
「浅野さん、とってもおいしいです」
冬夜が俺の視線に気づき、トーストを齧りながら笑う。
「口に合って良かった」
俺も笑顔を返し、手にしたフォークでベーコンエッグの黄身を割った。好みの硬さにした黄身のとろりとした感触が、家に帰ってきたのだという安心感を与えてくれる。
一人暮らしの家に三人揃っているのは妙な狭苦しさを感じ、朝食を食べ終えてからは、早々に家を出た。白い着物姿だった冬夜は、昨日すでに、東京にいても浮かない服を用意してもらっている。
特別なことをするわけでもないが、俺の案内のもと、電車で東京の街の観光をする。二人とも、いままで一度も島を出たことがなかったようで、自動改札を通ることすら覚束ない様子だった。彼らは見るものすべてに新鮮な反応をし、都会の街を楽しんでいたが、しばらくすると人波に酔ってしまった。
そこで、昼食を兼ねてチェーン店のカフェに入る。
「島を出たいという気持ちはないのかい?」
俺の問いかけに、生ハムのサンドイッチを齧りながら、二人は微妙な表情を浮かべる。
「島を出る選択肢すら持ったことがない、というのが正直なところです。島が僕たちの世界で、世界の外に何があるのかも、よくわかっていませんでしたし」
「外の世界を知ったいまは?」
「色々なものがある面白い場所だなとは思いますが、やはり、島を出たいとは思いません。僕の居場所は島にあると、改めて感じました」
夏久は無言のままだが、冬夜の言葉に合わせて僅かに頷いているところを見ると、まったくの同意見のようだ。
「島を出る人は、全体としても多くないのかな」
「そうですね。完全に島を離れたという人は、僕が知っている中では二人くらいです。士郎さんのように、仕事の都合上一度島を出て、また戻ってくるという人もいますが」
「郷土愛というものだろうか。俺は生まれも育ちも都内だが、だからこそ、そのあたりの感覚はよくわからないかな」
言葉を交わしながら、久しぶりに味わうコーヒーに俺は舌鼓を打つ。深く香ばしい香りが鼻腔を抜けていくのがたまらない。
ふと、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが振動するのを感じた。取り出し画面を見ると、本町から連絡が入っている。
「分析結果が届いたみたいだ。食べ終わったら出ようか」
声をかけると、冬夜の表情に緊張が走る。そこからは、会話という会話もなくなくなった。しばらくは二人とも無言のまま食事を続けていたが、食べかけのサンドイッチは、そのまま店内に備えられたゴミ箱に捨てられることとなる。
再度電車に乗り、オフィス最寄りの駅へと向かう。それから雑居ビルに向かう間、俺は、昨日からの心地よさがなぜか遠くなっていく感覚を得ていた。妙な視線がまとわりついているような気さえする。
狭いエレベーターに乗り、中に設置されている鏡を見る。陰気な蛍光灯に照らされて、髪を染めておらず、眼鏡もかけていない、素の状態の自分と対面する。
目的の階に到着し、オフィスへと入る。そこにはいつもどおり、角田がいた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。奥の会議室で本町さんがお待ちですよ」
俺が会釈をして奥へ向かおうとすると、慌てたように角田が立ち上がった。
「うちの機密事項に触れる話があるから、冬夜くんと夏久くんはここで待っててくれるかな? なにかジュースでも飲む?」
冬夜と夏久は戸惑うようにお互いに顔を見合わせ、次に俺を見てくる。
「結果を聞いてすぐに戻ってくるから、待っていてくれ」
彼らを安心させるように微笑むと、あとの対応を角田に任せて、奥の会議室へと向かった。一歩足を前に進めるごとに、先ほどからしている胸騒ぎが大きくなっていく。
「失礼します」
会議室のドアを軽くノックし、中へと入る。
「お疲れ様です本町さん。結果が出たということですが……その、どうかしましたか」
部屋の中には、小さな会議用の椅子と長テーブルがあるだけだ。そこに、神妙な顔をして本町が座っていた。俺はすぐに彼の表情の硬さを察する。促されるままに本町の横に腰掛けると、彼は、口を開いて抑えた声で話し始めた。
「単刀直入に言うが、お前の採取してきた根贈は新種の植物ではあったものの、幻覚を引き起こす成分、並びにMADの原料たりえる成分は検出されなかった」
本町の言葉が耳を通り鼓膜を震わせてしばらく。内容をしっかりと認識するのに時間がかかった。
「え……?」
思わず漏れた声には、なんの意味もない。
「根贈を燃やした煙を吸っても、幻覚作用はないということだ」
改めて端的な言葉で同じ内容を繰り返され、俺は震える手で口元を覆う。全身の血が逆流し始めたかのようだ。総毛立ち、体の平衡感覚が崩れた気がして、自分が真っ直ぐに座っているのかどうかすら不安になる。
嘘だ。そんなことはあり得ない。では、俺が勾島でさんざん見ていた不気味なものや、あの異形や、壮絶な滅びの光景はなんだったというのか。
衝撃を受けたまま、何も返事をすることができないている俺に、本町が言葉を重ねる。
「ただし、この内容は冬夜くんと夏久くんには伝えないほうが良いだろう。幻覚成分があったということにして、とりあえずはその大豊祭とかいう日が過ぎるのを待て。島全体として四人の殺人を計画し、自死を含め実際に四人が死んでいるという異常性が判明したのだから、MADは別にしても次の捜査には問題なく進める……おい、浅野」
言葉の最後に低く鋭い声で名前を呼ばれ、俺は、無意識に落としていた視線を上げて本町の顔を見返す。
「しっかりしろ。まさか、根贈に幻覚作用がなかったからといって、狂った島の言い伝えを信じてるわけじゃねぇだろう? 怪しい宗教に取り込まれるなよ。とりあえず、あの二人の子どもからは距離を置け。すでに二人を入れるホテルは手配した。さっさと連れて行っちまえ。いいな?」
瞳を見つめられながら、言い含めるように諭されて、俺はおずおずと頷く。
と、そのとき。背後に気配を感じた。うなじの産毛が逆立つような、壮絶な寒気。そして、たしかに耳に届く微かな吐息。恐る恐る振り返り、そのまま椅子から転げ落ちる。
俺の真後ろに春樹が立っていた。四季子の白い着物を身に纏い、死体として発見されたときと同様に、全身が海水で濡れている。眼球があるべき両の眼窩にはポッカリと穴が開き、ただただ黒い闇が覗く。
けれども俺には、春樹が俺のことを見つめていることがわかった。彼はこの部屋での会話を聞き、理解したのだ。そして、約束を反故にしようとしている俺を責めている。
春樹の口がゆっくりと開いていく。常人であれば顎が外れてしまうほど、人体としての限界を超えて口が開かれるが、そこから声が発せられることはない。唇の奥には、眼窩同様に深い闇ばかりがある。
「おい、浅野!」
「本町さん、ここに。目の前に春樹くんがいるんです。見えるんですよ、俺にははっきりと。これは幻覚なんでしょうか。それとも……」
「しっかりしろって言っただろ、この部屋には俺とお前しかいない。俺が保証してやる。お前は一ヶ月もイカれた島にいて外部と連絡も取れず、精神が参ってるんだ。人間が幻覚を見るのは、何も麻薬を摂取したときだけに限った話じゃない。家で数日も休めばすっかり良くなるさ」
本町の腕に体を引き起こされ、なんとか立ち上がる。本町はその後、俺の背中を数回力強く叩いた。軽く咽せるほどの衝撃が、逆に気持ちを鎮めてくれる。再度顔を上げると、春樹の姿は見えなくなった。
「行けそうか?」
伺うような眼差しで見つめられ、俺は一度深呼吸をしてから「はい」と返事をした。
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