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第三章 枯れたる砂
三 綱様 -2-
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村役場の向かいにある診療所は、島唯一の医療機関だ。
ガラス張りのドアを押して中へ入ると、暑くなり始めた外気温との差でひんやりと感じられた。島の他の場所に比べると、滞在している神社のあたりも不思議と気温が低く感じるのだが、診療所の中はまた違う空気感を覚える。出入り口付近からすぐ目に入るのは、ビニール張りのソファが置かれた、どことなくレトロな佇まいを感じる小さな待合室。照明が消されていて薄暗い。
待合室に面してカウンターがあるが、いまは誰もおらず人の気配がない。一瞬、診療所に誰もいないのかと思ったが、奥から人の話し声が聞こえてきていた。話しているのは、両者ともに男の声だ。
「何か話されましたか」
「いえ、特に言葉らしい言葉はなにも。ただ、日に日に唸り声が激しくなるばかりで」
「食事は食べられていますか」
「口元まで運んで無理やりといった感じですが、一応は嚥下してくれます」
「食べられているなら、それで構いません。脱水症状になりやすいので、気にしてあげてくださいね。体の動きはいかがですか」
「唸り声と一緒で、激しくなっているようです」
「怪我などはしていませんか?」
「危ないものには近づけないようにしていますから、大丈夫です」
「幸隆さんは噛まれたりしていませんか」
「え? ええ、もちろん」
なされている会話の受け答えは、小さいながらも明瞭に聞こえてくる。だがその間中、獣めいた呻き声のようなものが響いている。
「誰かを診察中みたいだ。少し待とうか」
隣の冬夜へと声をかけると、彼は表情を曇らせていた。診療所の中が薄暗いというのを差し引いても、顔色が悪く見える。俺は慌てて冬夜の腕をひいて共にソファに座り、その顔を覗き込む。
「冬夜くん、どうかしたかい? 血の気がひいているようだが」
「いえ……大丈夫です」
冬夜は体をこわばらせたまま答えるが、顔を上げようとはしない。どうも様子がおかしい。
「おや、珍しい患者さんだ。冬夜に、たしかあなたは浅野さんでしたか」
冬夜の表情を伺うように見ていると、診療所の奥から声がかかった。視線を向けると、奥の診察室から川中が出てきていた。その後ろに続くように、春樹の父である池田と、妻の琴乃の姿もある。つまり、いましがた奥で話をしていたのは、川中と池田の二人ということになる。
なによりも目を引いたのは、池田に手を引かれている琴乃の異様さだ。ボサボサの髪を振り乱し、まるで首の座っていない赤子のように頭をガクンガクンと前後に揺らしている。彼女の半開きになった唇からは、先ほどからしていた奇妙な唸り声が漏れていた。どう見てもまともではない。顔立ちは先日見かけた彼女のものと変わりないのに、まるで別人のようだ。
隣に座る冬夜が、俺の服の裾を掴んだ。彼はいっそう俯いて、視線を床の上へと落としている。
池田は俺に軽く会釈をすると、琴乃を連れてなにも言わず足早に待合室を抜けて診療所から出て行った。
「琴乃さんは、どうかなさったのですが」
「普通は、他の患者さんのことはお話しできませんが……まあ、その……この島にはよくあることなんですよ。綱様と言いましてね」
はじめて聞く名称だ。内容を伺うように視線を向けていると、川中は言葉を続ける。
「根っこ様に近づき見染められると、根っこ様からの託宣を伝えられるようになると言われています。そこで、我々はそんな根っこ様の使者となった者のことを崇拝し、根っこ様と我らを繋ぐものとして、特別に綱様と呼ぶんです。なぜだか女性がなりやすい。綱様になることは、島の風習としては喜ばしいことなんですが……要は、精神を病んでいる状態ですからね。こうして診察もさせていただく。あいにく効く薬もありませんし、経過を観察する以外、治療という治療もできませんが」
琴乃が精神を病んでしまったという事実には衝撃を感じた。だが同時に、亡くなった春樹に縋って身も世もなく泣いていた琴乃の姿を思い出すと、あり得ないことではないような気がした。
川中はこちらに近寄ってくると、俯いたままの冬夜の顔を覗き込んだ。
「顔色が悪いね。今日は冬夜の診察かな?」
「僕はなんともないんです。浅野さんが、川中先生にお伺いしたいことがあると」
首を振りながらの冬夜の答えに、川中は姿勢を戻しながらふむと息を漏らした。
「じゃあ、冬夜は落ち着くまでここでまっていなさい。浅野さんは、よければ診察室へどうぞ」
冬夜の様子が気にかかりながらも、俺は呼ばれるまま川中のあとに続いて診察室へ移動した。診察室での会話はかなり待合室まで漏れ聞こえることを理解しているので、声を抑えて問いかける。
「冬夜くんはどうかしたんでしょうか。つい先ほどまで元気そうだったのですが」
「冬夜の母親が亡くなっていることはご存知かと思いますが、彼女も亡くなる二年前に綱様になりましてね。琴乃さんの様子を見て、亡き母のことを思い出してしまったんでしょう」
「なるほど、それで……綱様になると早死にしてしまうものなのでしょうか」
「そうですね。琴乃さんを見ておわかりになったかと思いますが、ろくな日常生活が送れない上に、常時ああして動いたり奇声をあげたりという感じなので、徐々に体力がなくなって、衰弱死してしまうんですよ」
「綱様になるきっかけとか、原因とかはあるのでしょうか」
「島の言い伝えとしては、根っこ様に近づきすぎるとなると言われています。実際のところは、やはり心労や島特有の閉塞感ですかね」
川中の淡々とした言葉に俺は頷いた。川中は島の言い伝えなども了承していながら、あくまで医者の立場から物事を見ているような気配を感じる。そのことに安堵するとともに、俺は、冬夜に言われた言葉を思い出す。俺が幻覚を見ていたときに、彼は「じっと見つめないほうがいい」と言ってきた。あれは、俺が綱様にならないようにと案じていたのかもしれない。
「それで、わたしに聞きたいことがあるというのは、綱様のことではありますまい?」
川中に促され、俺は思考を切り替える。
「はい。実は大穴の中で死んだ、健くんの死因を解明したいと思っていまして。俺の体の中に、なにかの植物の種子や胞子がないかどうかを調べられないかと」
俺の言葉に、川中はどこか遠くを見るように目を細めた。
「調査隊にいた眞栄田さん、だったか。亡くなり方は大体聞いていますよ。何とも奇怪で、わたしもその死因に関しちゃとんと見当はつきませんが。浅野さんは、ご自身の体の中に人を殺すような種子や胞子があるとお考えで?」
「健くんは大穴の中に一人で入っていき、出てきたときには、全身から花が噴き出てくるような形で亡くなっていました。もしや、元から体中にあった種子や胞子が、本当に体の中から噴き出してきて亡くなったのかもしれないと思ったのです。穴の中に入ったことで何らかの環境の変化があったか、もしくはたまたまそのタイミングで発芽したのか、その理由はわかりませんが」
川中は渋い表情を浮かべる。
「それは『根っこ様に連れて行かれたのだろう』というのと同等の、なんとも荒唐無稽な仮説であると思いますよ。例えば、西瓜なんかを食べたときのことを思い出してほしいんですが。種を食べたとしても、種子が発芽する前に、人の体は種を便として排出してしまう。腹から芽が出てくるなんてことはあり得ない。肺にカビなんかの胞子が入り込んだら肺炎を引き起こすことはありますが、そこから植物が生えて、体表を突き破って出てくるなんてことはない。人の体内は植物の生育環境には適していませんし、なにより、人には免疫というものがある」
川中の言うことはすべて理解できるし、もっともなものだ。しかし、と俺は言葉を重ねる。いまのところ、考えられるものはそれしかないのだ。
「ダメもとで良いのです。健くんと俺は食べているものは同じでしたし、島外からきて、同じように社務所で生活していました。俺の体を調べてみてもらうことはできませんか。例えば、レントゲン撮影とか」
俺の必死な様子をしばらく見てから、川中は息を吐いて頷いた。
「わかりました」
それから川中は、内科医がよくやるように俺の口を開けさせて喉の中を調べ、聴診器を当てて呼吸音を聞いてから、胸部のレントゲン撮影をしてくれた。その診察の間、俺は川中にもう一つ別のことを尋ねてみる。
「川中先生がご存じの範囲で構わないのですが、この島で幻覚症状に悩む方が多いということはありませんか」
極力さりげなくした問いかけだが、川中は俺の思考を読み取ろうとするように、俺の目をじっと見つめた。
「いえ、そういった患者さんはなかなかおられませんね。先に言いましたように、綱様は勾島の風土病のようなもので、常時、島に一人か二人はいらっしゃるのですが」
川中の眼差しにはなにか含みがあるような気がしたが、返答はただそれだけだった。
診察を終えるとレントゲンの現像を待って川中に結果を聞いたが、俺の体には特に異常がないということがわかっただけだった。
ガラス張りのドアを押して中へ入ると、暑くなり始めた外気温との差でひんやりと感じられた。島の他の場所に比べると、滞在している神社のあたりも不思議と気温が低く感じるのだが、診療所の中はまた違う空気感を覚える。出入り口付近からすぐ目に入るのは、ビニール張りのソファが置かれた、どことなくレトロな佇まいを感じる小さな待合室。照明が消されていて薄暗い。
待合室に面してカウンターがあるが、いまは誰もおらず人の気配がない。一瞬、診療所に誰もいないのかと思ったが、奥から人の話し声が聞こえてきていた。話しているのは、両者ともに男の声だ。
「何か話されましたか」
「いえ、特に言葉らしい言葉はなにも。ただ、日に日に唸り声が激しくなるばかりで」
「食事は食べられていますか」
「口元まで運んで無理やりといった感じですが、一応は嚥下してくれます」
「食べられているなら、それで構いません。脱水症状になりやすいので、気にしてあげてくださいね。体の動きはいかがですか」
「唸り声と一緒で、激しくなっているようです」
「怪我などはしていませんか?」
「危ないものには近づけないようにしていますから、大丈夫です」
「幸隆さんは噛まれたりしていませんか」
「え? ええ、もちろん」
なされている会話の受け答えは、小さいながらも明瞭に聞こえてくる。だがその間中、獣めいた呻き声のようなものが響いている。
「誰かを診察中みたいだ。少し待とうか」
隣の冬夜へと声をかけると、彼は表情を曇らせていた。診療所の中が薄暗いというのを差し引いても、顔色が悪く見える。俺は慌てて冬夜の腕をひいて共にソファに座り、その顔を覗き込む。
「冬夜くん、どうかしたかい? 血の気がひいているようだが」
「いえ……大丈夫です」
冬夜は体をこわばらせたまま答えるが、顔を上げようとはしない。どうも様子がおかしい。
「おや、珍しい患者さんだ。冬夜に、たしかあなたは浅野さんでしたか」
冬夜の表情を伺うように見ていると、診療所の奥から声がかかった。視線を向けると、奥の診察室から川中が出てきていた。その後ろに続くように、春樹の父である池田と、妻の琴乃の姿もある。つまり、いましがた奥で話をしていたのは、川中と池田の二人ということになる。
なによりも目を引いたのは、池田に手を引かれている琴乃の異様さだ。ボサボサの髪を振り乱し、まるで首の座っていない赤子のように頭をガクンガクンと前後に揺らしている。彼女の半開きになった唇からは、先ほどからしていた奇妙な唸り声が漏れていた。どう見てもまともではない。顔立ちは先日見かけた彼女のものと変わりないのに、まるで別人のようだ。
隣に座る冬夜が、俺の服の裾を掴んだ。彼はいっそう俯いて、視線を床の上へと落としている。
池田は俺に軽く会釈をすると、琴乃を連れてなにも言わず足早に待合室を抜けて診療所から出て行った。
「琴乃さんは、どうかなさったのですが」
「普通は、他の患者さんのことはお話しできませんが……まあ、その……この島にはよくあることなんですよ。綱様と言いましてね」
はじめて聞く名称だ。内容を伺うように視線を向けていると、川中は言葉を続ける。
「根っこ様に近づき見染められると、根っこ様からの託宣を伝えられるようになると言われています。そこで、我々はそんな根っこ様の使者となった者のことを崇拝し、根っこ様と我らを繋ぐものとして、特別に綱様と呼ぶんです。なぜだか女性がなりやすい。綱様になることは、島の風習としては喜ばしいことなんですが……要は、精神を病んでいる状態ですからね。こうして診察もさせていただく。あいにく効く薬もありませんし、経過を観察する以外、治療という治療もできませんが」
琴乃が精神を病んでしまったという事実には衝撃を感じた。だが同時に、亡くなった春樹に縋って身も世もなく泣いていた琴乃の姿を思い出すと、あり得ないことではないような気がした。
川中はこちらに近寄ってくると、俯いたままの冬夜の顔を覗き込んだ。
「顔色が悪いね。今日は冬夜の診察かな?」
「僕はなんともないんです。浅野さんが、川中先生にお伺いしたいことがあると」
首を振りながらの冬夜の答えに、川中は姿勢を戻しながらふむと息を漏らした。
「じゃあ、冬夜は落ち着くまでここでまっていなさい。浅野さんは、よければ診察室へどうぞ」
冬夜の様子が気にかかりながらも、俺は呼ばれるまま川中のあとに続いて診察室へ移動した。診察室での会話はかなり待合室まで漏れ聞こえることを理解しているので、声を抑えて問いかける。
「冬夜くんはどうかしたんでしょうか。つい先ほどまで元気そうだったのですが」
「冬夜の母親が亡くなっていることはご存知かと思いますが、彼女も亡くなる二年前に綱様になりましてね。琴乃さんの様子を見て、亡き母のことを思い出してしまったんでしょう」
「なるほど、それで……綱様になると早死にしてしまうものなのでしょうか」
「そうですね。琴乃さんを見ておわかりになったかと思いますが、ろくな日常生活が送れない上に、常時ああして動いたり奇声をあげたりという感じなので、徐々に体力がなくなって、衰弱死してしまうんですよ」
「綱様になるきっかけとか、原因とかはあるのでしょうか」
「島の言い伝えとしては、根っこ様に近づきすぎるとなると言われています。実際のところは、やはり心労や島特有の閉塞感ですかね」
川中の淡々とした言葉に俺は頷いた。川中は島の言い伝えなども了承していながら、あくまで医者の立場から物事を見ているような気配を感じる。そのことに安堵するとともに、俺は、冬夜に言われた言葉を思い出す。俺が幻覚を見ていたときに、彼は「じっと見つめないほうがいい」と言ってきた。あれは、俺が綱様にならないようにと案じていたのかもしれない。
「それで、わたしに聞きたいことがあるというのは、綱様のことではありますまい?」
川中に促され、俺は思考を切り替える。
「はい。実は大穴の中で死んだ、健くんの死因を解明したいと思っていまして。俺の体の中に、なにかの植物の種子や胞子がないかどうかを調べられないかと」
俺の言葉に、川中はどこか遠くを見るように目を細めた。
「調査隊にいた眞栄田さん、だったか。亡くなり方は大体聞いていますよ。何とも奇怪で、わたしもその死因に関しちゃとんと見当はつきませんが。浅野さんは、ご自身の体の中に人を殺すような種子や胞子があるとお考えで?」
「健くんは大穴の中に一人で入っていき、出てきたときには、全身から花が噴き出てくるような形で亡くなっていました。もしや、元から体中にあった種子や胞子が、本当に体の中から噴き出してきて亡くなったのかもしれないと思ったのです。穴の中に入ったことで何らかの環境の変化があったか、もしくはたまたまそのタイミングで発芽したのか、その理由はわかりませんが」
川中は渋い表情を浮かべる。
「それは『根っこ様に連れて行かれたのだろう』というのと同等の、なんとも荒唐無稽な仮説であると思いますよ。例えば、西瓜なんかを食べたときのことを思い出してほしいんですが。種を食べたとしても、種子が発芽する前に、人の体は種を便として排出してしまう。腹から芽が出てくるなんてことはあり得ない。肺にカビなんかの胞子が入り込んだら肺炎を引き起こすことはありますが、そこから植物が生えて、体表を突き破って出てくるなんてことはない。人の体内は植物の生育環境には適していませんし、なにより、人には免疫というものがある」
川中の言うことはすべて理解できるし、もっともなものだ。しかし、と俺は言葉を重ねる。いまのところ、考えられるものはそれしかないのだ。
「ダメもとで良いのです。健くんと俺は食べているものは同じでしたし、島外からきて、同じように社務所で生活していました。俺の体を調べてみてもらうことはできませんか。例えば、レントゲン撮影とか」
俺の必死な様子をしばらく見てから、川中は息を吐いて頷いた。
「わかりました」
それから川中は、内科医がよくやるように俺の口を開けさせて喉の中を調べ、聴診器を当てて呼吸音を聞いてから、胸部のレントゲン撮影をしてくれた。その診察の間、俺は川中にもう一つ別のことを尋ねてみる。
「川中先生がご存じの範囲で構わないのですが、この島で幻覚症状に悩む方が多いということはありませんか」
極力さりげなくした問いかけだが、川中は俺の思考を読み取ろうとするように、俺の目をじっと見つめた。
「いえ、そういった患者さんはなかなかおられませんね。先に言いましたように、綱様は勾島の風土病のようなもので、常時、島に一人か二人はいらっしゃるのですが」
川中の眼差しにはなにか含みがあるような気がしたが、返答はただそれだけだった。
診察を終えるとレントゲンの現像を待って川中に結果を聞いたが、俺の体には特に異常がないということがわかっただけだった。
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