四季子らの呪い唄

三石成

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第二章 草なき地

四 大穴 -2-

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 それから四〇分。健が穴の中に入ってからは約一時間。ただただ、彼からの合図を待つだけの時間が経過した。はじめて大穴の中へ入るということもあって、予定では、穴の中に降りて一時間程度で戻ってくることになっていた。それだけの時間があれば、写真撮影に成功した五〇〇メートル地点までは降りられるだろうという見立てだ。

「おーい、たけるー。中はどうなってんだー」

 痺れを切らしたように家茂が声をかけるが、返事はない。

「健!」

「大丈夫、順調でーす」

 再度家茂が怒号を上げると、健の声が聞こえてきた。だが、その返事に俺は違和感を覚える。手すりに捕まりながら慎重に足場へ乗り、家茂と後藤の元へと歩いていった。

「家茂さん、後藤さん、なにかおかしくないですか」

 健の返事に対する違和感は、二人も同様に感じているようだった。お互いに顔を見合わせているのが、その証拠だ。

「健、もういいから戻ってこい!」

「健、引き上げるよ!」

 家茂に続き、後藤も言葉を重ねる。

 一拍の間。

「大丈夫、順調でーす」

 穴の中から奇妙な反響を伴い聞こえてくる、健の明るい声。先ほどからしている声と一言一句、なに一つ変わらない返事にゾクリとする。声に変化がないどころか、声がしている場所さえも変化がないような気がする。彼は、穴の中を下へ下へと降りていっているはずなのに、だ。そう改めて認識すれば、大穴に架けられた足場を踏む足の裏から、骨の芯まで震わせるような恐怖がのぼってくるような気がした。

 俺たち三人が絶句したその瞬間、足場に括り付けられたロープが引かれた。ビン、ビン、ビンと三回。引き上げのサインだ。

「正治、浅野、引き上げるぞ」

 すぐさま家茂が動き出した。滑車に通していたロープを握る。同じくロープを手渡され、後藤に続いて俺も手を貸した。

 三人がかりで一斉にロープを引いていく。滑車の利用に加えて健の体重は軽いので、本来は家茂一人でも余裕で引き上げられる。だが三人の力が加わったことで、想像よりもずっと早く健を引き上げることができた。

 彼の姿が視認できるようになったのは、引き上げはじめてから、一〇分もしない頃。ロープを引きながら足場の下を覗き見て、俺は我が目を疑う。健は大穴に入る前、青色の作業着に黒いハーネスをつけていた。だがいまや、彼の姿はなにか白いほわほわとしたものに覆われていた。

 近づくにつれて、彼の姿が細部まで見てとれるようになる。健はロープに体を吊られているだけで、両手足がダラリと垂れて全身の力が抜け、仰向けになっていた。体のあちこちから飛び出している白いものの正体は花だった。まるで古びたぬいぐるみの中から白い綿が漏れ出るように、彼の体のあちこちから花が溢れている。

 喉を潰すように悲鳴を上げたのは俺ではなく、後藤だった。

「ああああっ、健、健、健」

 後藤の力が抜け、足場にしゃがみ込む。俺と家茂が抜けた後藤の分もロープを引き続け、健の体を足場の上へと引き上げた。ようやく宙吊り状態から解放され、足場に横たわる健の『死体』を改めて見る。

 そう。脈を測るまでもなく、それは死体だった。

 彼の目は潰れ、血の涙を流しながら、眼窩から白い花を咲かせている。鼻・口・耳・腹部と、身体中のありとあらゆる場所から花が咲いている。その姿は否応がなしに、春樹の死に姿を思い起こさせる。後藤の悲鳴のような泣き声を聞きながら、俺は健の横にガクリと膝をついた。

 そのとき、背後から聞こえてきたのは、独特の節回しに乗った歌声。

「願いませ 願いませ ねっこさま 草なき地が 夏や 花あふるると」

 歌声の主は、足場の淵に立つ千秋だ。感情を失ったように、無表情のまま歌を唇にのせる彼の姿を見て、俺はただただ呆然とする。

 しかし俺の横にいた家茂は、歌声に触発されて火がついたように興奮しだした。彼はポケットからナイフを取り出す。

「来るな化け物が! お前らだろ、お前らが健を殺したんだろ、そうなんだろ! 俺ぁ知ってんだ、おれぁなぁ!」

 絶叫してナイフを振り回しながら、しかし千秋から逃げるように、足場の反対側から大穴の淵へと家茂が移動する。

 歌い終えた千秋は無言だった。全員がその場に硬直し、誰も言葉を発することのできない時間が続いた。家茂は、千秋の背後へふと視線を向ける。それから、彼の顔が徐々に上向きになっていく。まるで、何か大きなものを見上げているかのような仕草だった。

「うあぁあああっ」

 家茂が叫び声を上げた。錯乱したように踵を返し、足をもつれさせながら走り出す。

「家茂さん!」

 俺と後藤は同時に叫び、家茂のあとを追った。家茂の目つき、足取り、そのすべての様子に覚えがあった。あれはまさに、ドラッグ中毒に陥って錯乱状態にある者の言動だ。

 森の中を走り、視界が開けると、眼前には青い海と空がどこまでも広がった。ここが島の端だ。先日、俺が船から見上げた断崖絶壁の上である。

「家茂さん、落ち着いてください」

 必死に声をかけると、家茂は崖際に立ったまま振り向いた。俺たちのあとを追って、少し遅れて冬夜と千秋がやってくる。

「化け物、来るなぁ!」

 家茂がナイフを振り回しながら絶叫し、全員がその場で立ち止まる。

「そこは危険です。俺たちは近寄りませんから、こちらに戻ってきてください」

「ねぇ、家茂さん。家茂さんがしっかりしてくれないと、俺、もうどうしたらいいか……」

 俺の言葉に続き、涙を流しながら後藤が呼びかけを重ねる。そんな後藤の姿を瞳に映し、恐怖に引き攣っていた家茂の表情が僅かに緩む。

「すまない、正治、すまない、健……俺の、俺のせいだ……健が死んだのは俺の……」

「健くんの死は家茂さんのせいなどではありません。いまはまだ、いったいなにが、どうなったのかはわかりません。しかし、穴の中であのようなことが起こるだなどと、誰にも予測はできなかった」

「違う! 俺は、俺は知ってた……おれは、春樹を殺した」

 震える声を発しながら、家茂はゆっくりと、自身の握っているナイフへと視線を向けた。そのまま、しばし刃を見つめる。錯乱の最中になされたのは、衝撃的な告白だった。家茂の言葉はさらに続く。

「わからない。春樹を殺したのは俺なのか? 違うのか、わからない……健を殺したのは、誰だ。知ってる、知ってたんだ、ずっと。俺だけが知ってた。言えなかった。健、健……すまない」

 支離滅裂な言葉を繰り返し、家茂は握っていたナイフを手放した。ナイフは、その場にポトリと落ちる。

 背後で、千秋が僅かに身じろいだ気配がした。

「逃げろ」

 後藤に向けられた、家茂の明確な一言。それが最期だった。

 波が岸壁に当たり、砕ける音が聞こえている。ゆっくりと、家茂の体から力が抜け、背後へと傾いていく。

「家茂さん——!」

 後藤が叫び、走り出す。俺も同時に地面を蹴った。天を仰いだ家茂の体が宙に浮き、そして重力に従って落ちていく姿が、スローモーションになっているように見えている。

 皮肉に感じるほどの晴天。太陽に照らされて、家茂は微笑んでいた。

 俺は、あとを追っていきそうな後藤の体を抱き留める。

「ああああああああああ!」

 後藤の言葉にならない絶叫。家茂の体が海面に叩きつけられる水音が響き、次第に波音に紛れていった。
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