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第二章 二人の過去
四 毒
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松柏ソは村中が潮の香りに包まれていた。
小さな村だが、造船業と交易の中継地点として賑わっている。村人の大半は船大工のためか、体格が良く荒っぽい者が多い。提灯を手に道を歩く村人たちには、夜の到来を歓ぶような雰囲気がある。
浄と藤は、港に近い宿の一室にいた。
「まだ地面が揺れている気がする」
部屋に入ってから、藤は早々に布団に入って休んでいた。枕に頭を預けたまま呟く。
その言葉に、側の窓枠に凭れ、村の様子を眺めていた浄は笑った。
「安心しろ、地面は揺れてない。おかしいのはお前の頭の方だ」
「その言い方も腹立たしいな」
船に乗っていた二日の間で、藤と浄のやり取りはだいぶ気安いものになった。
「飯は食えそうか」
「ああ。二人分を宿の者に頼んでくる」
浄に問いかけられ、藤は答えると、ゆっくりと体を起こした。気分の悪さはまだ胃の奥に燻っているが、しっかり安静にしていたおかげで、もう動けないこともない。
「ならば俺が行ってくる。お前は寝ていろ」
「夜風にも当たりたいのだ。もうこうなったら、歩いた方が治る」
浄の気遣いを丁重に断り、藤はふらりと部屋を出た。通された部屋は二階だったため、階段をおりて、板張りの店の間へと顔を出す。
「おやお客さん、どういたしました。船酔いは良くなりましたかい?」
「おかげさまで。食べられそうなので、夕餉の用意を頼みたい」
帳簿をつけていた番頭に問いかけられ、藤はそう頼みながら、視線を周囲に走らせた。言葉を続ける。
「飯盛女も頼めるか。一人で良い」
「へえ、もちろん。どのような娘が良いか、ご希望はございますか?」
「見目はどうでも良いが、口が固く慣れている娘を」
飯盛女とは、宿に奉公に来ている仲居のことだ。ただの仲居とは違い、給仕をするだけではなく、宿専属の娼妓のような存在である。番頭は帳面を確認してから、頷いた。
「そうですね、では箕を向かわせましょう」
「その娘とは先に今会えるか?」
「よろしいですよ。こちらへどうぞ」
番頭は立ち上がり、通り土間の奥へと向かう。藤は案内されるまま後をついて行った。
土間の奥にある小部屋は、飯盛女たちが居住する部屋だった。客が使用する部屋とは雰囲気が違う。数人で一部屋を使用している様子が伺え、質素で手狭感がある。
「箕、今晩のお客さんだ。先にお話があるそうだよ」
開いた木戸を軽く叩き、部屋にいた飯盛女たちの注意を引いてから番頭が声をかける。
顔を上げたのは、目元にある黒子が艶っぽい、どこか影のある女性だった。長い黒髪をまとめ上げているが、多めに垂らしている後れ毛が印象的だ。
「お客さん、箕と申します」
彼女が近寄ってきて、静々と頭を下げる。藤が箕を見て嫌な顔をしていないか、様子を確認してから、番頭は藤を残して先に店へと戻っていった。
「わたしは藤だ。そして、わたしと泊まっている、もうひとりの男がいる。見目好い顔をしているので君も気に入るだろう。彼は浄と言うが、君には彼の相手をしてもらいたい。食事の間も彼にだけついてもらって構わない」
「畏まりました。その他に何かご要望ですか?」
箕は重ねて尋ねた。
藤が今言った程度のことならば、部屋に箕が着いた時に言えば良いだけの話だ。箕は、こうして前もって藤が訪ねてきたことに、何か裏を感じたのだ。
彼女の敏さに藤は目を細める。
「ああ……内密のお願いだ」
箕の耳元へと口を近づけて囁いた。懐から紙を小さく折りたたんだものを取り出すと、箕の手に握らせる。
「紙の中に白い粉が入っている。これを、部屋に食事を運ぶ前に、浄の膳のどれかに混ぜておいてほしい。その後彼に何があろうと、君に咎はない」
藤の言葉に、箕ははっとした表情をして、何か言いかける。白い粉、と藤は言ったが、もちろん毒薬だ。その程度、言われなくとも箕にも伝わる。藤は箕が言葉を発する前に、さらに懐から出した二朱銀を握らせた。
その金額の重さを確認し、箕は唇をきゅっと結んだ。
「ことが無事終わったら、明日倍渡そう。このことは他言無用に、良いな?」
藤が伺うようなまなざしで顔を覗き込むと、箕は決意を固めたように、こくりと頷く。
他人に毒殺の手伝いを頼んだとは思えない、穏やかな微笑みを残して。藤は夜風にあたるため、宿周辺の散策へ出た。
夕飯が届けられたのは、藤が部屋に戻ってすぐのこと。
箕が膳を運んでくると、部屋に座って待つ藤と浄それぞれの前へと置いた。彼女自身は酒の入った大ぶりの徳利を持ち、浄の横へと侍る。
「何だ、飯盛女を頼んだのか」
箕の姿に、浄が藤へと視線を向ける。
「船の上では世話になった、その礼だ。俺のことは気にせず楽しむといい」
「箕と申します」
藤の言葉の後で、箕が艶やかに微笑む。
「器量良しだな」
「ありがたきお言葉です。ささ浄様、どうぞお召し上がりください」
浄は箕のことを気に入った様子で、彼女から箸を受け取って食事をはじめる。
膳の上には、白米に味噌汁、漬物。鮪と烏賊の刺し身という献立だ。新鮮そうな刺し身に、ここが島であることを実感する。白虎の町ではなかなか食べられない料理だ。
藤も一人で箸を進めながら、そっと浄と箕の方を伺った。
箕に渡した毒薬は無色で無味無臭。さらにどんなものにでもよく溶ける。米などに振りかけてもすぐに分からなくなる上、少しでも口にすれば解毒は困難で、遅効性ながら確実に死に至る。暗殺の手段として、非常に完成度の高い毒薬だ。
藤には、浄のどの料理に毒薬が盛られているかはわからない。それゆえに、彼が何かを口にするたび、胸の奥がざわつくような感覚がしていた。
「ああ、魚も酒も美味い……海の側に住むのも悪くはなさそうだな」
箕に酒を注がれ、盃を傾けて浄が機嫌よく話す。
「嵐が来ているときばかりは困りますが、海の幸は新鮮さが要ですからね」
それに応える箕も実に朗らかな様子だ。
船旅を終え、二日ぶりの陸での和やかそのものの食事がはじまろうとした、その時。味噌汁の椀を持って口元へと運んだ浄の動きが、ピタリと止まった。その縁に口をつけることなく、膳の上へ戻す。
「……浄様、どうなさいました?」
箕の表情が僅かに引きつった。何食わぬ顔で食事を続けながら、藤は自身の鼓動が大きくなっていく音を聞く。
「この味噌汁だけ、悪くなっているようだ。椀ごと替えてきてくれ」
一口も食していないというのに、浄ははっきりとした言葉で告げる。
「いえ、そのようなことはないと存じますが」
箕は硬い表情のまま無理やり笑う。が、そんな彼女に向けられた浄の視線は、先程とは打って変わって冷え切ったものになっていた。
「では、お前が飲んでみるか?」
挑発するような、浄の言葉。その、見たものを射すくめるようなまなざしに、箕の喉がヒュッと音をたてる。
「……ただ今、替えをお持ちいたします」
味噌汁の椀を持った箕の手が、微かに震えていた。箕は部屋を出ていく際、一瞬だけ藤の方をちらりと見たが、藤は食事を続けながら、一切顔を向けなかった。
「藤」
浄に名前を呼ばれ、藤の背筋に嫌な汗が伝う。
「ちょっと味噌汁を貸してみろ」
藤は平静を装ったまま「何だ」と問うたが、浄は「いいから」と、自分から側にやってくると、藤の椀を持ち上げた。自分の顔へと近づける。味噌汁の匂いを嗅いでいるような仕草を見せてから、満足したように息を漏らし、椀を膳の上へ戻す。
「問題ないようだ」
藤は「そうか」と返事をして、返された味噌汁を口に含む。出汁と味噌の良い香りがする、ごく普通の豆腐の味噌汁だ。ここにあの毒薬が混ぜ込まれていたとして、到底匂いで判別できるようなものではないことを、藤は深く理解していた。
今の反応を見れば明白だが、浄は毒薬を入れさせた犯人が誰か、気づいていない。そもそも毒薬が入っていることを確信していたのか、それとも彼が言った通り、ただ悪くなっていると感じたのかも判別がつかない。
何にせよ、本能で身の危険を嗅ぎ分けた浄のことを、藤はただただ恐ろしく感じた。
藤が味噌汁を飲み干すうち、箕は替えの味噌汁を持って部屋へ戻ってきた。しかし結局、浄は箕が再び部屋に入ることを許さなかった。
味噌汁だけを受け取って締め出してしまうと、二人で食事を済ませる。廊下で待っていた彼女に、食べ終えた膳だけを渡して、宿での夕飯は終わった。食事が終われば、後は寝るだけだ。
「夜伽はさせなくて良かったのか。わたしのことは気にしなくて良かったのだぞ」
気持ちを切り替えた藤は寝間着の襦袢に着替えるため、身にまとっていた着物を脱ぎながら問う。浄の返事は「構わん」と短い。
彼は敷いた布団の上へ先に横になった。
「娼館には週五日で通っていると聞いた。もう三日も女を抱いていないことになるが」
会話を続けても、浄からの返事はない。藤が違和感を覚えて振り向くと、浄の、自身へ向けられたまなざしとかち合った。
開けたままの窓からは、潮の香りを含んだ風が時折吹き込む。ちらちらと燭台の灯が揺れるだけの、暗がりに支配された宿の一室。
肌を舐めあげるような浄の視線に、そこで藤はようやく勘付いた。娼館で見かけた、綺麗なままだった布団を思い出す。
藤ははだけていた襦袢をきゅっと胸元で合わせると、慌てて視線をそらす。帯を結び、燭台の火を消す。
「おやすみ、藤」
浄の優しい声に「おやすみ」と返し、彼の隣の布団に、背を向けるように潜り込む。いつしか眠りに落ちるまで、藤は無防備な項に、ずっと彼の視線を感じるような気がしていた。
翌日の夜。
二人は松柏ソの側にあった集落の壊滅を成功させ、浄の暗殺は失敗に終わった。
浄という男の底知れなさを悟った藤は浄を連れ、そのまま松柏の地へと逃亡する。決して殺すことのできない化け物を、己という檻に閉じ込めておくために。
小さな村だが、造船業と交易の中継地点として賑わっている。村人の大半は船大工のためか、体格が良く荒っぽい者が多い。提灯を手に道を歩く村人たちには、夜の到来を歓ぶような雰囲気がある。
浄と藤は、港に近い宿の一室にいた。
「まだ地面が揺れている気がする」
部屋に入ってから、藤は早々に布団に入って休んでいた。枕に頭を預けたまま呟く。
その言葉に、側の窓枠に凭れ、村の様子を眺めていた浄は笑った。
「安心しろ、地面は揺れてない。おかしいのはお前の頭の方だ」
「その言い方も腹立たしいな」
船に乗っていた二日の間で、藤と浄のやり取りはだいぶ気安いものになった。
「飯は食えそうか」
「ああ。二人分を宿の者に頼んでくる」
浄に問いかけられ、藤は答えると、ゆっくりと体を起こした。気分の悪さはまだ胃の奥に燻っているが、しっかり安静にしていたおかげで、もう動けないこともない。
「ならば俺が行ってくる。お前は寝ていろ」
「夜風にも当たりたいのだ。もうこうなったら、歩いた方が治る」
浄の気遣いを丁重に断り、藤はふらりと部屋を出た。通された部屋は二階だったため、階段をおりて、板張りの店の間へと顔を出す。
「おやお客さん、どういたしました。船酔いは良くなりましたかい?」
「おかげさまで。食べられそうなので、夕餉の用意を頼みたい」
帳簿をつけていた番頭に問いかけられ、藤はそう頼みながら、視線を周囲に走らせた。言葉を続ける。
「飯盛女も頼めるか。一人で良い」
「へえ、もちろん。どのような娘が良いか、ご希望はございますか?」
「見目はどうでも良いが、口が固く慣れている娘を」
飯盛女とは、宿に奉公に来ている仲居のことだ。ただの仲居とは違い、給仕をするだけではなく、宿専属の娼妓のような存在である。番頭は帳面を確認してから、頷いた。
「そうですね、では箕を向かわせましょう」
「その娘とは先に今会えるか?」
「よろしいですよ。こちらへどうぞ」
番頭は立ち上がり、通り土間の奥へと向かう。藤は案内されるまま後をついて行った。
土間の奥にある小部屋は、飯盛女たちが居住する部屋だった。客が使用する部屋とは雰囲気が違う。数人で一部屋を使用している様子が伺え、質素で手狭感がある。
「箕、今晩のお客さんだ。先にお話があるそうだよ」
開いた木戸を軽く叩き、部屋にいた飯盛女たちの注意を引いてから番頭が声をかける。
顔を上げたのは、目元にある黒子が艶っぽい、どこか影のある女性だった。長い黒髪をまとめ上げているが、多めに垂らしている後れ毛が印象的だ。
「お客さん、箕と申します」
彼女が近寄ってきて、静々と頭を下げる。藤が箕を見て嫌な顔をしていないか、様子を確認してから、番頭は藤を残して先に店へと戻っていった。
「わたしは藤だ。そして、わたしと泊まっている、もうひとりの男がいる。見目好い顔をしているので君も気に入るだろう。彼は浄と言うが、君には彼の相手をしてもらいたい。食事の間も彼にだけついてもらって構わない」
「畏まりました。その他に何かご要望ですか?」
箕は重ねて尋ねた。
藤が今言った程度のことならば、部屋に箕が着いた時に言えば良いだけの話だ。箕は、こうして前もって藤が訪ねてきたことに、何か裏を感じたのだ。
彼女の敏さに藤は目を細める。
「ああ……内密のお願いだ」
箕の耳元へと口を近づけて囁いた。懐から紙を小さく折りたたんだものを取り出すと、箕の手に握らせる。
「紙の中に白い粉が入っている。これを、部屋に食事を運ぶ前に、浄の膳のどれかに混ぜておいてほしい。その後彼に何があろうと、君に咎はない」
藤の言葉に、箕ははっとした表情をして、何か言いかける。白い粉、と藤は言ったが、もちろん毒薬だ。その程度、言われなくとも箕にも伝わる。藤は箕が言葉を発する前に、さらに懐から出した二朱銀を握らせた。
その金額の重さを確認し、箕は唇をきゅっと結んだ。
「ことが無事終わったら、明日倍渡そう。このことは他言無用に、良いな?」
藤が伺うようなまなざしで顔を覗き込むと、箕は決意を固めたように、こくりと頷く。
他人に毒殺の手伝いを頼んだとは思えない、穏やかな微笑みを残して。藤は夜風にあたるため、宿周辺の散策へ出た。
夕飯が届けられたのは、藤が部屋に戻ってすぐのこと。
箕が膳を運んでくると、部屋に座って待つ藤と浄それぞれの前へと置いた。彼女自身は酒の入った大ぶりの徳利を持ち、浄の横へと侍る。
「何だ、飯盛女を頼んだのか」
箕の姿に、浄が藤へと視線を向ける。
「船の上では世話になった、その礼だ。俺のことは気にせず楽しむといい」
「箕と申します」
藤の言葉の後で、箕が艶やかに微笑む。
「器量良しだな」
「ありがたきお言葉です。ささ浄様、どうぞお召し上がりください」
浄は箕のことを気に入った様子で、彼女から箸を受け取って食事をはじめる。
膳の上には、白米に味噌汁、漬物。鮪と烏賊の刺し身という献立だ。新鮮そうな刺し身に、ここが島であることを実感する。白虎の町ではなかなか食べられない料理だ。
藤も一人で箸を進めながら、そっと浄と箕の方を伺った。
箕に渡した毒薬は無色で無味無臭。さらにどんなものにでもよく溶ける。米などに振りかけてもすぐに分からなくなる上、少しでも口にすれば解毒は困難で、遅効性ながら確実に死に至る。暗殺の手段として、非常に完成度の高い毒薬だ。
藤には、浄のどの料理に毒薬が盛られているかはわからない。それゆえに、彼が何かを口にするたび、胸の奥がざわつくような感覚がしていた。
「ああ、魚も酒も美味い……海の側に住むのも悪くはなさそうだな」
箕に酒を注がれ、盃を傾けて浄が機嫌よく話す。
「嵐が来ているときばかりは困りますが、海の幸は新鮮さが要ですからね」
それに応える箕も実に朗らかな様子だ。
船旅を終え、二日ぶりの陸での和やかそのものの食事がはじまろうとした、その時。味噌汁の椀を持って口元へと運んだ浄の動きが、ピタリと止まった。その縁に口をつけることなく、膳の上へ戻す。
「……浄様、どうなさいました?」
箕の表情が僅かに引きつった。何食わぬ顔で食事を続けながら、藤は自身の鼓動が大きくなっていく音を聞く。
「この味噌汁だけ、悪くなっているようだ。椀ごと替えてきてくれ」
一口も食していないというのに、浄ははっきりとした言葉で告げる。
「いえ、そのようなことはないと存じますが」
箕は硬い表情のまま無理やり笑う。が、そんな彼女に向けられた浄の視線は、先程とは打って変わって冷え切ったものになっていた。
「では、お前が飲んでみるか?」
挑発するような、浄の言葉。その、見たものを射すくめるようなまなざしに、箕の喉がヒュッと音をたてる。
「……ただ今、替えをお持ちいたします」
味噌汁の椀を持った箕の手が、微かに震えていた。箕は部屋を出ていく際、一瞬だけ藤の方をちらりと見たが、藤は食事を続けながら、一切顔を向けなかった。
「藤」
浄に名前を呼ばれ、藤の背筋に嫌な汗が伝う。
「ちょっと味噌汁を貸してみろ」
藤は平静を装ったまま「何だ」と問うたが、浄は「いいから」と、自分から側にやってくると、藤の椀を持ち上げた。自分の顔へと近づける。味噌汁の匂いを嗅いでいるような仕草を見せてから、満足したように息を漏らし、椀を膳の上へ戻す。
「問題ないようだ」
藤は「そうか」と返事をして、返された味噌汁を口に含む。出汁と味噌の良い香りがする、ごく普通の豆腐の味噌汁だ。ここにあの毒薬が混ぜ込まれていたとして、到底匂いで判別できるようなものではないことを、藤は深く理解していた。
今の反応を見れば明白だが、浄は毒薬を入れさせた犯人が誰か、気づいていない。そもそも毒薬が入っていることを確信していたのか、それとも彼が言った通り、ただ悪くなっていると感じたのかも判別がつかない。
何にせよ、本能で身の危険を嗅ぎ分けた浄のことを、藤はただただ恐ろしく感じた。
藤が味噌汁を飲み干すうち、箕は替えの味噌汁を持って部屋へ戻ってきた。しかし結局、浄は箕が再び部屋に入ることを許さなかった。
味噌汁だけを受け取って締め出してしまうと、二人で食事を済ませる。廊下で待っていた彼女に、食べ終えた膳だけを渡して、宿での夕飯は終わった。食事が終われば、後は寝るだけだ。
「夜伽はさせなくて良かったのか。わたしのことは気にしなくて良かったのだぞ」
気持ちを切り替えた藤は寝間着の襦袢に着替えるため、身にまとっていた着物を脱ぎながら問う。浄の返事は「構わん」と短い。
彼は敷いた布団の上へ先に横になった。
「娼館には週五日で通っていると聞いた。もう三日も女を抱いていないことになるが」
会話を続けても、浄からの返事はない。藤が違和感を覚えて振り向くと、浄の、自身へ向けられたまなざしとかち合った。
開けたままの窓からは、潮の香りを含んだ風が時折吹き込む。ちらちらと燭台の灯が揺れるだけの、暗がりに支配された宿の一室。
肌を舐めあげるような浄の視線に、そこで藤はようやく勘付いた。娼館で見かけた、綺麗なままだった布団を思い出す。
藤ははだけていた襦袢をきゅっと胸元で合わせると、慌てて視線をそらす。帯を結び、燭台の火を消す。
「おやすみ、藤」
浄の優しい声に「おやすみ」と返し、彼の隣の布団に、背を向けるように潜り込む。いつしか眠りに落ちるまで、藤は無防備な項に、ずっと彼の視線を感じるような気がしていた。
翌日の夜。
二人は松柏ソの側にあった集落の壊滅を成功させ、浄の暗殺は失敗に終わった。
浄という男の底知れなさを悟った藤は浄を連れ、そのまま松柏の地へと逃亡する。決して殺すことのできない化け物を、己という檻に閉じ込めておくために。
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