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一月の章
雪の夜 -2-
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「おそらく皆様が気になられているのは、わたくしが養護施設に入ることになった経緯だと思いますので、そのことをお話しいたしますね」
そう言い置き、長い話を始める。
「まず、わたくしが物心ついた時から、私の認識の中に父は存在しておりませんでした。亡くなったというよりは、誰が父なのか分からなかったのか、はたまた行方不明になったのかのどちらかだと思いますが。ともかく、ずっと母と二人きりの生活でした」
語り出しから、恵まれた環境で育つマスターたちには想像もつかないような内容だ。どこか冗談めいて促していた宗一郎も、その口元から笑みを消して話を聞き始めた。
「母は夜の仕事をしておりまして、日中は眠り、夜になると香水の匂いをさせて仕事に出かけていきました。印象にある母の姿といえば、疲れ果てて眠っているものだけです。母はわたくしに暴力を振るうことはありませんでしたが、同時に言葉をかけられた記憶も、ほとんどありません。わたくしはあの小さなアパートの部屋で、いないものとして存在していたのです。わたくしが六歳になったころ、母が家に帰ってこなくなりました。母が何日間いなかったのか、詳細は記憶していないのですが、母はいつも仕事からの帰りに惣菜を買ってきて、わたくしはその残りを食べていたものですから、母がいなくなると食べるものが何もなくなり、わたくしは空腹に耐えかねて部屋の外へ出ました」
淡々とした東條の語り口調とは裏腹な過酷な内容に、全員が固唾を飲んで話を聞いている。
「部屋に居られずに家を出たのは良いものの、他人を頼ることなど教わっていないものですから、なんとなく近所をさまよいました。そのうちに気分が悪くなり、道端にしゃがみこんでいるところを、警邏中の警察官に保護されました。病院に連れて行かれて極度の栄養失調であることがわかり、そのまま調べが進んで、結局は養護施設の職員が迎えに来ることになりました。母はそれきり行方知れずです」
「こんなこと聞いていいのか分からないが、お母さんに、会いたいとは?」
白石に問いかけられ、東條は首を緩く横に振る。
「施設に入った初めのころは、いつか母が迎えに来るのではないかと、毎日窓辺で外を眺めて待っていました。人間とは、なぜか自分に都合の良い妄想をするものらしい。母の笑顔などほとんど見た記憶もないのに、母が笑顔で自分に駆け寄ってくるところを思い描いていたのです。虚しい妄想を続けた理由としては、ろくに他人と話したこともなかったわたくしは、年齢のわりにひどく言葉が遅れていて、施設にいる他の子どもたちともうまくコミュニケーションがとれなかったのもありました。けれど、数年もすれば自分が母に捨てられたのだということは理解できます。特に恨みもありませんが、今なお会いたいとも思わない、というのが正直なところです」
鍋をつつく皆の表情が沈み切った様子を見てとり、東條は困ったように眉を下げる。とても和やかな食事時のムードではなくなった。
「お耳汚しが過ぎたようです。申し訳ない」
「いや、そんな謝ることなんてないんだよ。東條のこと、もっと知りたいと思ってたからさ、辛かったことなのに、話してくれてありがとう」
明彦が述べるフォローの言葉に、東條は微笑んだ。
「いえ、こういったことを話さないのは、皆様に不快な思いをさせないようにと思っているだけですので、特別辛い記憶というわけではありません。とにかく何も考えられないくらい空腹だったことは記憶にありますが、ほとんどは実際の記憶というよりも、こういうことがあった、と、自分の歴史として認識しています。それに……施設に入ったことで、わたくしは大都様と出会うことができました。むしろわたくしにとって、それは何よりの幸福でした」
「校長って、東條から見たらどんな存在だったんだ」
宗一郎から大都のことを尋ねられ、東條の瞳が今までになく輝き出す。
「大都様と初めて出会ったのは、わたくしが九歳のクリスマスでした。大都様は施設へ寄付のために来てくださったのです。金銭面だけではなく、施設の子ども一人ひとりにプレゼントを手渡ししてくださいました。まだごくわずかな人生経験ですが、今まで会った誰よりもご立派で、光り輝いている太陽のようなお方だ、と感じたことを、強烈に覚えております。大都様が貴族だということをお聞きして、貴族の方々に強い憧れを抱きました」
貴族へ対する東條の熱い思いに、宗一郎、明彦とアルバートが互いに顔を見合わせた。東條は笑む。
「平民と貴族という制度がどういうものなのか、もちろん現在では理解しております。けれど、その時に感じた貴族の方々へ対する感情は、今なお変化はしておりません。こうして日々おそばにいられ、お世話をさせていただけることが、わたくしには幸せです」
「それだけ校長に憧れてるんだったら、本当は校長の執事になりたいんじゃないの?」
今まで黙って話を聞いていたアルバートが、不意に問いをぶつけてくる。その質問は、この場にいる東條を除く全員にとって核心をついているように感じられた。一瞬、空気が張り詰める。
だが、東條の表情は変わらない。
「大都様の執事を務められていらっしゃる、村川さんをご存知ですか?」
東條が返した問いに、皆は首を振る。
「村川さんは、昔からあまり公の場には姿を見せません。ですが人知れず、しかし必ず大都様のおそばについておられます。物理的にそばに立っているというわけではなく、離れている時も多いのですが、的確に大都様をお支えしていらっしゃるのです。大都様は常に正しく、誰に対しても素晴らしい態度をお示しになりますが、村川さんにだけは、どこか頼りきっているような表情をお見せになるのです。もちろん、わたくしにとって大都様は憧れのお人ですが、そんな大都様を常にお支えする村川さんこそ、わたくしがなりたい理想の人物像、ということになりますでしょうか」
「じゃあ……東條は、村川さんと校長みたいになるために、東條にとっての校長を探しているんだ」
アルバートの言葉に、東條は小さく笑う。
「探すなどという、大それたことは考えていません。わたくしたちにとっては、選んでいただけることが何よりの幸せです。わたくしを選んでくださった方に全身全霊でお仕えすることが、わたくしの夢の実現になりますから」
当然のことと、東條は言葉を紡ぐ。だが、そんな東條の様子を見て、宗一郎は無意識のうちに口角をあげていた。宗一郎には、どこかはにかむような東條の笑顔に、明確な肯定の意味が込められているように感じられて。
そう言い置き、長い話を始める。
「まず、わたくしが物心ついた時から、私の認識の中に父は存在しておりませんでした。亡くなったというよりは、誰が父なのか分からなかったのか、はたまた行方不明になったのかのどちらかだと思いますが。ともかく、ずっと母と二人きりの生活でした」
語り出しから、恵まれた環境で育つマスターたちには想像もつかないような内容だ。どこか冗談めいて促していた宗一郎も、その口元から笑みを消して話を聞き始めた。
「母は夜の仕事をしておりまして、日中は眠り、夜になると香水の匂いをさせて仕事に出かけていきました。印象にある母の姿といえば、疲れ果てて眠っているものだけです。母はわたくしに暴力を振るうことはありませんでしたが、同時に言葉をかけられた記憶も、ほとんどありません。わたくしはあの小さなアパートの部屋で、いないものとして存在していたのです。わたくしが六歳になったころ、母が家に帰ってこなくなりました。母が何日間いなかったのか、詳細は記憶していないのですが、母はいつも仕事からの帰りに惣菜を買ってきて、わたくしはその残りを食べていたものですから、母がいなくなると食べるものが何もなくなり、わたくしは空腹に耐えかねて部屋の外へ出ました」
淡々とした東條の語り口調とは裏腹な過酷な内容に、全員が固唾を飲んで話を聞いている。
「部屋に居られずに家を出たのは良いものの、他人を頼ることなど教わっていないものですから、なんとなく近所をさまよいました。そのうちに気分が悪くなり、道端にしゃがみこんでいるところを、警邏中の警察官に保護されました。病院に連れて行かれて極度の栄養失調であることがわかり、そのまま調べが進んで、結局は養護施設の職員が迎えに来ることになりました。母はそれきり行方知れずです」
「こんなこと聞いていいのか分からないが、お母さんに、会いたいとは?」
白石に問いかけられ、東條は首を緩く横に振る。
「施設に入った初めのころは、いつか母が迎えに来るのではないかと、毎日窓辺で外を眺めて待っていました。人間とは、なぜか自分に都合の良い妄想をするものらしい。母の笑顔などほとんど見た記憶もないのに、母が笑顔で自分に駆け寄ってくるところを思い描いていたのです。虚しい妄想を続けた理由としては、ろくに他人と話したこともなかったわたくしは、年齢のわりにひどく言葉が遅れていて、施設にいる他の子どもたちともうまくコミュニケーションがとれなかったのもありました。けれど、数年もすれば自分が母に捨てられたのだということは理解できます。特に恨みもありませんが、今なお会いたいとも思わない、というのが正直なところです」
鍋をつつく皆の表情が沈み切った様子を見てとり、東條は困ったように眉を下げる。とても和やかな食事時のムードではなくなった。
「お耳汚しが過ぎたようです。申し訳ない」
「いや、そんな謝ることなんてないんだよ。東條のこと、もっと知りたいと思ってたからさ、辛かったことなのに、話してくれてありがとう」
明彦が述べるフォローの言葉に、東條は微笑んだ。
「いえ、こういったことを話さないのは、皆様に不快な思いをさせないようにと思っているだけですので、特別辛い記憶というわけではありません。とにかく何も考えられないくらい空腹だったことは記憶にありますが、ほとんどは実際の記憶というよりも、こういうことがあった、と、自分の歴史として認識しています。それに……施設に入ったことで、わたくしは大都様と出会うことができました。むしろわたくしにとって、それは何よりの幸福でした」
「校長って、東條から見たらどんな存在だったんだ」
宗一郎から大都のことを尋ねられ、東條の瞳が今までになく輝き出す。
「大都様と初めて出会ったのは、わたくしが九歳のクリスマスでした。大都様は施設へ寄付のために来てくださったのです。金銭面だけではなく、施設の子ども一人ひとりにプレゼントを手渡ししてくださいました。まだごくわずかな人生経験ですが、今まで会った誰よりもご立派で、光り輝いている太陽のようなお方だ、と感じたことを、強烈に覚えております。大都様が貴族だということをお聞きして、貴族の方々に強い憧れを抱きました」
貴族へ対する東條の熱い思いに、宗一郎、明彦とアルバートが互いに顔を見合わせた。東條は笑む。
「平民と貴族という制度がどういうものなのか、もちろん現在では理解しております。けれど、その時に感じた貴族の方々へ対する感情は、今なお変化はしておりません。こうして日々おそばにいられ、お世話をさせていただけることが、わたくしには幸せです」
「それだけ校長に憧れてるんだったら、本当は校長の執事になりたいんじゃないの?」
今まで黙って話を聞いていたアルバートが、不意に問いをぶつけてくる。その質問は、この場にいる東條を除く全員にとって核心をついているように感じられた。一瞬、空気が張り詰める。
だが、東條の表情は変わらない。
「大都様の執事を務められていらっしゃる、村川さんをご存知ですか?」
東條が返した問いに、皆は首を振る。
「村川さんは、昔からあまり公の場には姿を見せません。ですが人知れず、しかし必ず大都様のおそばについておられます。物理的にそばに立っているというわけではなく、離れている時も多いのですが、的確に大都様をお支えしていらっしゃるのです。大都様は常に正しく、誰に対しても素晴らしい態度をお示しになりますが、村川さんにだけは、どこか頼りきっているような表情をお見せになるのです。もちろん、わたくしにとって大都様は憧れのお人ですが、そんな大都様を常にお支えする村川さんこそ、わたくしがなりたい理想の人物像、ということになりますでしょうか」
「じゃあ……東條は、村川さんと校長みたいになるために、東條にとっての校長を探しているんだ」
アルバートの言葉に、東條は小さく笑う。
「探すなどという、大それたことは考えていません。わたくしたちにとっては、選んでいただけることが何よりの幸せです。わたくしを選んでくださった方に全身全霊でお仕えすることが、わたくしの夢の実現になりますから」
当然のことと、東條は言葉を紡ぐ。だが、そんな東條の様子を見て、宗一郎は無意識のうちに口角をあげていた。宗一郎には、どこかはにかむような東條の笑顔に、明確な肯定の意味が込められているように感じられて。
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