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28、バケモノ
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ペルグラン伯爵邸前は騒然としていた。
無理もない。白昼の往来に、突如太く長い謎の触手が出現したのだから。
紫色の触手は粘液を帯びて不気味にヌラヌラと輝き、吐き気を催す不快な臭気を放っていた。
五本の触手はまるで個別に意思があるかのように自在に動き回り、その根本には……一人の女性がいる。
レナロッテはその場に膝をつき、焦点の合わない目で虚空を眺めていた。右腕から生えた触手が蠢くたびに、内側から粘液が溢れ、彼女の指や肩までもを覆っていく。
集まっていた住民は恐怖で動けない。ただ遠巻きに彼女を取り囲むだけだ。
「バ……バケモノ……っ」
怯えた誰かの声に、レナロッテは視線を向ける。
すると、司令を受けたように一本の触手が硬く尖り、声の主めがけて打ち下ろされた!
「ひっ!」
頭を抱えて蹲る住民を、
「バカっ!」
大人サイズのノノが体当りして弾き飛ばす。間髪入れず、彼らのいた場所に紫の凶器が突き刺さった。
攻撃を始めた得体の知れない触手に、住民達は大混乱だ。
「助けて!」
「バケモノだ!」
「いやー!」
口々に叫びながら、人々は逃げ惑う。
「……ちが、う」
右半身を粘体で覆われながら、彼女はゆらりと立ち上がる。
「わ、たし、は……ばけ、ものじゃ……」
ふらふらと体を左右に揺らしながら、人の多い方へと右手を伸ばす。触手の根である二の腕からはどす黒い紫の液体が溢れ、空でうねっている触手からもびしゃびしゃと液が飛び散り紫の雨を降らせる。
「レナ! やめろ! 落ち着いて!」
ノノは必死で呼びかけるが、声は届かない。
――体が重い。息が苦しい。
「たす、けて」
ここまで必死でやってきたのに。
ようやく帰って来れたのに。
なのに、なんで……?
「く、来るな! バケモノ!」
緩慢に歩き出した彼女に、傍にいた中年男性が石を投げる。
石は彼女のまだ人間の形を保った顔の左半面に辺り、額から血が流れ出す。レナロッテはギロリと男を睨みつけた。目に入った血が、視界を朱に染める。
(もういいや)
ぼんやり諦める。
(もう、どうでもいい)
思考が溶けていく。
レナロッテの中の魔物が、血に飢えているのが判る。
狼を一瞬にして肉塊にした高揚感。あれは心地好かった。
「レナ! レナ!!」
……誰かの呼ぶ声が煩わしい。
顔を上げると、石を投げた男が見えた。その周りにも数人の住民がいる。皆、恐怖と蔑みの目でレナロッテを眺めている。
……何故、私がこんな目に……。
触手の一本が狙いを定めるように持ち上がる。
鞭のようにしなった触手は、粘液の尾を引きながら空気を切り裂き、屯している住人を根こそぎ横薙ぎに――する寸前!
「ダメ!」
触手の目の前に、ノノが飛び出した。
「!!」
レナロッテは大きく目を見開いた。とめようとしても、もう遅い。勢いのついた触手の鞭は、そのまま薬屋姿のノノの胴に直撃した。
紙人形のように、薬屋の体が宙を舞う。
――まるでそこだけ時間の流れが遅くなったみたいだ。
レナロッテはゆっくりと落ちてくる彼と、砕けた行李から散らばる薬を、瞬きもせずに見ていた。そして……。
ドサリ。
地面に落ちた時には、薬屋の青年は、狐の耳と尻尾を持つ子供の姿に変わっていた。
「……ノノ!」
一斉に、触手の動きが止まる。
「なに、あれ?」
見ていた者達がざわめく。
「大人が子供に変わった!?」
「あの尻尾はなんだ!?」
「バケモノ、バケモノだ!」
狐の子供は脇腹を半円に抉り取られ、俯せのまま動かない。ありえない量の血が溢れ出し、地面を赤い絨毯に変えていく。
「あぁあああぁァあアアァあァァァ!!」
レナロッテは頭を抱えて絶叫した。
ずぶずぶと体中を紫の粘体に侵食されながら、必死で子供に駆け寄る。
「ノノ! ノノ!」
揺さぶっても、瞼を閉じたノノはピクリとも動かない。口の端から、腹から逆流した血が伝っている。背骨ごと内臓の大半を削がれた体は、辛うじて残った左脇腹の肉と皮だけで上半身と下半身が繋がっている。
「ノノ、ノノ! ごめん、私、私……」
ボロボロと涙が零れる。レナロッテがノノを抱き上げ、立とうとした、瞬間。
サクッと肩に矢が刺さった。
「憲兵隊だ!」
住民の歓喜の声が響く。
隊列を組んだ憲兵がこちらに向かってきていた。
あちらこちらから警笛の音がする。囲まれるのは時間の問題だ。
「くっ」
彼女はぐったりと脱力した子供を抱え、走り出した。
「逃げるぞ! 追え!」
騎馬兵が先行し、逃走した魔物を追いかける。
レナロッテはノノの体がちぎれぬよう必死で抱きしめながら走った。行く手に街の外壁が見えてくる。
「追い詰めたぞ!」
一番乗りした憲兵隊長は驚喜した。外壁はレナロッテの身長の十倍の高さはあり、分厚くて破城槌でだって壊せない。
あとは壁を背に包囲してとどめを刺すだけ。
……という憲兵隊長の目論見は脆く崩れた。
バケモノは右腕を上げて触手を高く伸ばすと、外壁の頂上に張り付け、それを縮めて自身を壁の上まで引き上げたのだ。
そのままバケモノは街の外へと消えていく。
「どうしましょう……?」
馬を寄せて指示を仰ぐ部下に、憲兵隊長は舌打ちすると、
「討伐隊を編成する! 絶対に逃がすな!」
馬首を巡らせ、街中の憲兵に招集をかけた。
無理もない。白昼の往来に、突如太く長い謎の触手が出現したのだから。
紫色の触手は粘液を帯びて不気味にヌラヌラと輝き、吐き気を催す不快な臭気を放っていた。
五本の触手はまるで個別に意思があるかのように自在に動き回り、その根本には……一人の女性がいる。
レナロッテはその場に膝をつき、焦点の合わない目で虚空を眺めていた。右腕から生えた触手が蠢くたびに、内側から粘液が溢れ、彼女の指や肩までもを覆っていく。
集まっていた住民は恐怖で動けない。ただ遠巻きに彼女を取り囲むだけだ。
「バ……バケモノ……っ」
怯えた誰かの声に、レナロッテは視線を向ける。
すると、司令を受けたように一本の触手が硬く尖り、声の主めがけて打ち下ろされた!
「ひっ!」
頭を抱えて蹲る住民を、
「バカっ!」
大人サイズのノノが体当りして弾き飛ばす。間髪入れず、彼らのいた場所に紫の凶器が突き刺さった。
攻撃を始めた得体の知れない触手に、住民達は大混乱だ。
「助けて!」
「バケモノだ!」
「いやー!」
口々に叫びながら、人々は逃げ惑う。
「……ちが、う」
右半身を粘体で覆われながら、彼女はゆらりと立ち上がる。
「わ、たし、は……ばけ、ものじゃ……」
ふらふらと体を左右に揺らしながら、人の多い方へと右手を伸ばす。触手の根である二の腕からはどす黒い紫の液体が溢れ、空でうねっている触手からもびしゃびしゃと液が飛び散り紫の雨を降らせる。
「レナ! やめろ! 落ち着いて!」
ノノは必死で呼びかけるが、声は届かない。
――体が重い。息が苦しい。
「たす、けて」
ここまで必死でやってきたのに。
ようやく帰って来れたのに。
なのに、なんで……?
「く、来るな! バケモノ!」
緩慢に歩き出した彼女に、傍にいた中年男性が石を投げる。
石は彼女のまだ人間の形を保った顔の左半面に辺り、額から血が流れ出す。レナロッテはギロリと男を睨みつけた。目に入った血が、視界を朱に染める。
(もういいや)
ぼんやり諦める。
(もう、どうでもいい)
思考が溶けていく。
レナロッテの中の魔物が、血に飢えているのが判る。
狼を一瞬にして肉塊にした高揚感。あれは心地好かった。
「レナ! レナ!!」
……誰かの呼ぶ声が煩わしい。
顔を上げると、石を投げた男が見えた。その周りにも数人の住民がいる。皆、恐怖と蔑みの目でレナロッテを眺めている。
……何故、私がこんな目に……。
触手の一本が狙いを定めるように持ち上がる。
鞭のようにしなった触手は、粘液の尾を引きながら空気を切り裂き、屯している住人を根こそぎ横薙ぎに――する寸前!
「ダメ!」
触手の目の前に、ノノが飛び出した。
「!!」
レナロッテは大きく目を見開いた。とめようとしても、もう遅い。勢いのついた触手の鞭は、そのまま薬屋姿のノノの胴に直撃した。
紙人形のように、薬屋の体が宙を舞う。
――まるでそこだけ時間の流れが遅くなったみたいだ。
レナロッテはゆっくりと落ちてくる彼と、砕けた行李から散らばる薬を、瞬きもせずに見ていた。そして……。
ドサリ。
地面に落ちた時には、薬屋の青年は、狐の耳と尻尾を持つ子供の姿に変わっていた。
「……ノノ!」
一斉に、触手の動きが止まる。
「なに、あれ?」
見ていた者達がざわめく。
「大人が子供に変わった!?」
「あの尻尾はなんだ!?」
「バケモノ、バケモノだ!」
狐の子供は脇腹を半円に抉り取られ、俯せのまま動かない。ありえない量の血が溢れ出し、地面を赤い絨毯に変えていく。
「あぁあああぁァあアアァあァァァ!!」
レナロッテは頭を抱えて絶叫した。
ずぶずぶと体中を紫の粘体に侵食されながら、必死で子供に駆け寄る。
「ノノ! ノノ!」
揺さぶっても、瞼を閉じたノノはピクリとも動かない。口の端から、腹から逆流した血が伝っている。背骨ごと内臓の大半を削がれた体は、辛うじて残った左脇腹の肉と皮だけで上半身と下半身が繋がっている。
「ノノ、ノノ! ごめん、私、私……」
ボロボロと涙が零れる。レナロッテがノノを抱き上げ、立とうとした、瞬間。
サクッと肩に矢が刺さった。
「憲兵隊だ!」
住民の歓喜の声が響く。
隊列を組んだ憲兵がこちらに向かってきていた。
あちらこちらから警笛の音がする。囲まれるのは時間の問題だ。
「くっ」
彼女はぐったりと脱力した子供を抱え、走り出した。
「逃げるぞ! 追え!」
騎馬兵が先行し、逃走した魔物を追いかける。
レナロッテはノノの体がちぎれぬよう必死で抱きしめながら走った。行く手に街の外壁が見えてくる。
「追い詰めたぞ!」
一番乗りした憲兵隊長は驚喜した。外壁はレナロッテの身長の十倍の高さはあり、分厚くて破城槌でだって壊せない。
あとは壁を背に包囲してとどめを刺すだけ。
……という憲兵隊長の目論見は脆く崩れた。
バケモノは右腕を上げて触手を高く伸ばすと、外壁の頂上に張り付け、それを縮めて自身を壁の上まで引き上げたのだ。
そのままバケモノは街の外へと消えていく。
「どうしましょう……?」
馬を寄せて指示を仰ぐ部下に、憲兵隊長は舌打ちすると、
「討伐隊を編成する! 絶対に逃がすな!」
馬首を巡らせ、街中の憲兵に招集をかけた。
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