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第十一章 熱心党のシモン Simon Zelotes

Ⅱ・10月28日

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 いつの間にうとうとしてしまったのだろう。薄っすらと目を開いた時には、もう夜の闇はなく、朝の光が溢れていた。隣の助手席には、松田が座っていたが、後部座席を振り返ると、そこにあるはずの山﨑の姿はなかった。

「光平ならコンビニに行っていますよ。俺がコーヒーを飲みたいって言ったら、買いに行ってくれるって」

「ああ」

 車を停車させている反対側。新宿カトリック教会の向かい側にはコンビニがある。首を回し、右手後方を見ると、横断歩道を渡ろうとする山﨑の姿があった。

「特に変わった様子はなかったか?」

「そうだといいんですけどね」

 松田が教会の門へと、目を泳がせている。

「まだちょっと電話するには早いですからね。でも、朝のお祈りに来る信者のために、七時には門を開くって言っていました。あと三十分くらいですかね。それまで待ちましょう」

「ああ」

 門の向こうで、いつも通りの朝を迎えているなら、何の問題もない。あと三十分で門が開かれ、信者が集まり、サイモンの声が教会内に響き渡る。そんな朝を迎えてくれれば、今日の日中は、ゆっくり休んでいても、誰に文句を言われる事もない。

「もうちょっとだな」

 山﨑が後部座席に乗り込む。手渡された紙コップの色を不思議に思い、鼻をそのふちに近付ける。夜中に手渡されたコーヒーとは少し匂いが違うような気がする。

「あ、ちょっと高い豆のコーヒーですよ。普通のコーヒーが準備中でなかったんで」

 朝のぼやけた頭に、高めのコーヒーの匂いが染みていく。そんな匂いを楽しむ事もなく、松田がサンドイッチをコーヒーで流し込んでいる。

「門が開いて、何の問題もなかったら、いったん帰るんだよな?」

「そうですね。白昼堂々殺害って事にはならないでしょうから。また夕方ですね。夕方から今日が終わるまでの間に、何も起こらなければ。今までがそうだったように、聖名祝日を外しての殺害はなかったですから」

「そうか。それなら俺は、サンドイッチはいいや。後で何か食うし」

「あ、じゃあ、俺がもう一個食べちゃいますよ」

 コンビニ袋に残ったサンドイッチに、松田が手を伸ばしている。

 ちらりと門へ目をやると、信者なのだろうか。一組の老夫婦が立っていた。門が開く事を催促する訳でもなく、ただ門の前、歩道を行き交う人の、邪魔にならないように、門の前に立つ二人を、これから教会で祈りを捧げようとしているなんて、誰も思わないだろう。教会としては似つかわしくない建物だが、やはりここはサイモンが言う神の家なのだ。

 最初に訪れていた、老夫婦に話しかけるように、一人、二人と人が集まりだす。新宿の飲み屋で朝を迎える事はあったが、同じ新宿にこんな朝があるなんて事は知らなかった。

 門の前の人集ひとだかりはすでに十人は超えている。間もなく門が開かれる時間なのだろう。

「ちょっとおかしいですね」

 同じように門へと目を向けていた山﨑が、時間を気にしている。

「そうだな。もう七時を回ったな。ちょっと行って確認してみるか」

 車を飛び出した松田に続く。

 一、二分の遅れがあったとしても、何の問題もないだろう。車を飛び出し信者達に駆け寄った頃には、門が開いているかもしれない。そんな考えを持ちはしたが一向に門が開かれる気配はない。

「すみません。警視庁の者ですが、七時には門が開くんですよね?」

 人集りを分け、松田が声を掛けたのは、最初に訪れていた老夫婦だった。

「そうですよ。いつもなら神父さん達が、出迎えてくれる時間なんですけど。何かあったのかしら」

——まさか。

 老夫婦の答えに嫌な気配が纏わる。ふと目をやった山﨑は、何とかよじ登れないものかと、何度も飛び跳ね、高い壁に手を掛けようとしている。

「松田警部。とりあえず警備会社に連絡して、門を開けてもらいましょう」

「えっ? 警備会社?」

「門のそこ、その上のカメラの所に、警備会社のシールが貼っています。これだけの規模の施設ですから、セキュリティはその会社が管理しているはずです」

 門の上のカメラを指差し、貼られたシールを確認するよう促す。

 何とかよじ登れないものかと、山﨑はまだ飛び跳ねてはいるが、身長の割に体力はなく、ジャンプ力も、それに比例しているようだった。

「おい、山﨑。何をぴょんぴょん跳ねているんだ? そんなんで、届くはずがないだろう。俺が持ち上げてやるから、俺の肩を使って壁に登るんだ」

「え、どうやって」

 返事を聞き終わるより先、その股の間に首を突っ込む。とりあえず肩車の要領で山﨑を持ち上げ、あとは山﨑の体力を祈るしかない。

「いいか。ここから俺の肩の上に立て。片足ずつでいいから、俺の肩に足を置いて、そこから立つんだ。そうすれば壁の一番上に充分手が届くから」

 言われた通りに片足を上げる山﨑だが、体力がないだけではなく、バランス感覚も悪いらしい。肩の上で大きく揺れるたび、こっちの体まで振られてしまう。それでも何とか踏ん張っていると、ようやく肩の上に山﨑の両足が乗った。

「そのまま一気に立ち上がれ!」

「あ、はい」

 高い所が苦手だと聞いた事はなかったが、その返事には少しの震えがあった。

 肩に力が入る。

 足の震えが肩にまで伝わるが、支えられている事に安心して、何とか立ち上がってくれ。そう念を飛ばした時、肩に入る力がふっと抜けた。壁の一番高い所に山﨑の手が届いたらしい。

「後は何とか自分でよじ登るんだ」

 壁にぶら下がる山﨑に、可笑しな目を向けながら、松田が近付いてきた。

「あれ? あいつ何しているんですか? あ、電話しました。すぐに警備会社の人が、駆け付けてくれます」

「おお、そうか。よかった。それで門はまだ開かないんだな」

「そうですね、まだ開かないです。おい、光平、何か見えるか?」

 ぶら下がっていた山﨑の体は、すでに半分、壁の一番上に到達していた。まだ左足は落ちているが、右足はすでに壁を越えている。左足さえ上げれば、壁を越えられるだろうが、山﨑の動きは止まっている。すでに体力の限界が訪れ、動けなくなったのだろうか。

「おい、山﨑。何を固まっているんだ? もうその体勢なら、壁を越えて向こう側に行けるだろ? この位の高さなら飛び降りたって大した事ないから」

 声を掛けてみたが、やはり山﨑はぴくりとも動かない。

 まさか。壁の向こうに何かを見つけてしまったと言う事なのか。

「おい、光平」

 松田が山﨑を見上げ叫ぶ。

「オキザリスが——」

「オキザリス? それが何だ?」

「オキザリスが荒らされています。白い花が赤く。誰かが——。オキザリスが——」

 オキザリス? 山﨑は何を見ているのだろう。

 庭に倒れた黒いキャソックのサイモンの姿が頭を過る。
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