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第九章 マタイ Matthaeus

Ⅰ・8月31日

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——Matthaeus


 マタイは人々にみ嫌われる、ローマ帝国の徴税人ちょうぜいにんであった。そんな彼は収税所でいつものように仕事をしていた。

 そんな彼の前に突然、イエス・キリストが現れた。

「私の弟子になりなさい」

 思いがけないイエスの言葉に、マタイは立ち上がり、家も金も全ての物を捨て、イエスの弟子となった。イエスが生きていた時代、特に目立った行動は取らなかったが、イエスの行動や言葉を、書き記した『マタイによる福音書』を残した。

 マタイの殉教の地は、エチオピアとも、ペルシアとも言われているが、定かではない。石打ちに遭い、火あぶりにされ、斬首ざんしゅされた。多くの記述がマタイの最期をそのように伝えている。



         ◇ ◇ ◇



 あの眼は間違いない。

 見開かれた田村周平の目を思い出していた。皮の下、赤く露出された肉よりも強い衝撃を与えられた目。目ではない。眼だ。あの眼だ。

 何度も体を甚振いたぶられたあの眼。あの眼が田村周平だったと言うのか?

 そんなはずはない。田村周平に会った事など一度もない。あの眼は自分が造り出したもの。頭の中で思い描いただけの光景。それが田村周平であるはずがない。

 こんな事、誰に話せる訳がない。あの眼が田村周平だから、蚕糸の森での事件の犯人は田村周平だなんて。話せる訳がないなら、もう忘れるしかない。あの眼は自分が造り出したもの。

 田村周平の目を見て、あの眼を思い出したが、何の関係もない。何も知らないし、何もなかった。

「晃平さん、何を難しい顔しているんですか?」

 ふと顔を上げると、そこには少し首を傾げた、山﨑の姿があった。いつも現実に戻してくれる山﨑に口には出さないが感謝の念を送る。

 山﨑といるここが現実だ。この現実の中で、のらりくらりと生きてきたし、これからもそうすればいい。

「ああ、何でもないよ。そろそろ飯か?」

 難しいと言われた顔を和らげ、いつものように昼飯に関心を示す。

「そうっすよ。飯っすよ」

 山﨑の後ろに隠れていた、松田が顔を覗かせる。この多摩川南署が捜査本部になったのだから、松田が入りびたるのは仕方ないが、日常のバランスを崩されているように思えてならない。

 立ち上がり山﨑と松田に並ぶ。

 山﨑はいつもと変わらないが、松田の様子は明らかにおかしい。飯の時間がそんなに嬉しいのか? いい歳でそれはないだろうとも思うが、にやけた顔と、小刻みに肩を揺らしているその姿は、いつもと様子が違う。

「何かいい事でもあったのか?」

「え。何がですか?」

 松田の返事はとぼけていたが、その顔はにやけたままだ。

「いつもの所でいいですか?」

「ああ」

 様子のおかしな松田など放っておいて、山﨑に肩を並べる。朝から大した事はしていないが、とりあえず飯だ。

 署を出て外の空気を吸っただけで、更にテンションを上げ、奇妙な動きまで伴ってきている。くねくねと体をよじってみたり、腕を振り上げてみたり。あまりの松田の可笑しさに、山﨑に救いを求めてみたが、呆れた顔を作っているだけで、特に何かを言う素振りは見せない。

 この松田と言う奴は、普段はこんな奴なのだろうか?

 座り慣れた高めの椅子。いつもの蕎麦屋のカウンターに座る。山﨑を挟んだ向こうで、松田のテンションはまだおかしなままだ。

 暫く観察してみたが、にやけた顔が更に不気味に思えてきた。それが誰かに示した態度であるなら、まだ納得もできるが、一人で楽しんでいるとしか思えない態度は、一見して不審者にしか見えない。

 何かを言いたいのだが、それを堪えているのだろうか?

「あのお兄ちゃんも刑事さんなの?」

 女将さんが松田に目を向けている。その目は明白地あからさまに不審者を見る呆れた目で、声には怯えが含まれているようにも取れる。

「一応そうっすね。あれでも刑事です。あ、俺、盛り蕎麦大盛りで」

「あ、俺はカツ丼で」

 間髪を入れずに山﨑がカツ丼を頼む。そこまではいつもの流れであるが、若干引き気味の女将さんが松田へとお茶を出す。

「お兄ちゃんは何?」

「えっと、あ、ああ、光平は何頼んだ?」

「カツ丼だけど」

「じゃあ、俺もカツ丼で」

 そのやり取りの間、女将さんがずっと、舐めるように松田を見ていたのが、可笑しかった。やはり誰の目から見ても、今日の松田の様子は気味が悪い。

「そう言えば、この人、またずっとテレビに出ずっぱりよ」

 女将さんの目が、松田からテレビへと移ったが、その呆れた色は変わらなかった。女将さんは松田にもテレビにも、同じ感情を抱いているようだ。

 テレビが大きく映し出しているのは、タレントのタムシン。田村慎一だった。

 いつになったら"TAMTAM"の話題を、放送しなくなるのだろうか?

 "TAMTAM"さえ捕まれば、次の話題に塗り替えられるのだろうか?

 うんざりする程、見せられたテレビに、早く"TAMTAM"を捕まえなければ。そんな気すら湧いてくる。

「ああ、やだ。ほら、見て。男なのにあんな大きな宝石。見て、あの指輪」

 呆れた声が嫌悪に変わる。女将さんのそんな声につられ、テレビへと目をやる。画面の下の方、見せびらかすような青い光が放たれていた。

「あ、あれ、サファイアですよ。最近テレビにずっと出ているから、よっぽど稼いでいるんでしょうね」

 松田が答えた事に、女将さんの顔が一瞬曇った。昔からの馴染なじみ客のように答える、松田を受け入れるには、まだ時間が掛かるようだ。

「あの指輪の土台きっとプラチナですね」

「あら、山﨑ちゃん。宝石とか詳しいの?」

「いや、そんな事はないですけど。あんな大きなサファイア支えるのに、シルバーじゃ厳しいんじゃないかなあって」

 山﨑の受け応えに、女将さんの表情はいつもの明るいものに戻っている。その姿に改めての可笑しさが湧いてくる。松田に対する女将さんの態度が分かり易くついほころんでしまう。

「晃平さん。何をニヤニヤしているんですか? 葉佑もさっきからずっとニヤニヤしているし、二人とも気味悪いですよ」

「おいおい、松田警部と一緒にしないでくれよ。俺はお前と女将さんのやり取りが微笑ましくて、つい笑っただけだ。松田警部の気味悪さと一緒にしないでくれ」

「ちょっと。誰が気味悪いんですか? 田村!」

 巡査部長だけ、大きな声で強調した言い方は、間違いなく見下したものだ。

「晃平ちゃんの巡査部長って偉いんでしょ?」

 刑事ドラマなんかを、好んで見ているはずの女将さんだが、間違った認識でフォローされても、気持ちが拗ねていくばかりだ。そんな拗ねた気持ちを、松田が増長させる。

「警部の二つ下の階級が巡査部長ですよ。なんで田村巡査部長より光平の方が、この山﨑警部の方が階級は二つ上ですよ。まあ、俺も同じ警部ですけど」

 松田が山﨑の背中を叩く。その姿に女将さんが目を丸くしている。

「えっ? 晃平ちゃんより、山﨑ちゃんの方が偉いの?」

 女将さんの素朴な疑問は無視する事にしよう。

 今は何も口を挟まず、目の前に届いた蕎麦をすするのが得策だ。山﨑もその疑問に答える意思はないようだ。それに松田が余計な事を言ったとしても、女将さんの目に松田は映っていない。

「はい、カツ丼お待たせ」

 横目で山﨑と松田の前に届いたカツ丼を盗み見る。山﨑のカツ丼はいつも通り、大盛りになっているが、松田のカツ丼は大盛りになっていない。あまりにも小気味いいので自然と口角が上がる。

「なんで光平のカツ丼だけ量が多いんだ? お前いつの間に大盛りで頼んだんだよ」

「いや、大盛りでは頼んでないけど」

「サービスよ、サービス。山﨑ちゃんは常連さんだから。サービスなの」

 間を割った女将さんの顔が勝ち誇り、松田を見下ろしている事が面白く、思わず蕎麦のつゆで咽そうになる。

「じゃあ、常連になれば大盛りサービスして貰えるんですね」

 松田が鼻を膨らませる。

 つまらない事に意気込まず"TAMTAM"逮捕に向け、意気込めよと、山﨑越しに松田を睨んでみたが、気にも留めずカツを頬張っている。

 だが常連になれば大盛り。繰り返してみると、何かが引っ掛かる。

「あれ? えっ? 女将さん! 俺も常連ですよね? 山﨑よりはここに来ていますよ。まあ、俺がいつも大盛りで頼んでいるんでなんですけど、俺にはサービスないんですか?」

「えっ? 晃平さん気付いていないんですか?」

 山﨑がカツを口に運び、箸の先で、カウンターの上に置かれたメニューを指す。

「何がだ?」

「メニュー見て下さいよ。盛り蕎麦は五百五十円。盛り蕎麦大盛りは六百五十円。晃平さんいつも幾ら払っていますか?」

「えっ? 五百五十円」

「んっもう、晃平ちゃん、気付いていなかったの? 晃平ちゃんから大盛りの六百五十円なんて、一度も取った事ないわよ。晃平ちゃんも山﨑ちゃんも大事な常連さんだから」

 小さな事を疑った自分を恥じたくもなったが、女将さんは気にする事なく、またテレビへと目を向けている。田村慎一を映し出したテレビは、青い宝石を嫌味なほど光らせている。"TAMTAM"にフォローされた事で、引っ張りだこになり、あんな高価な物を買えるようになるなんて。

「そう言えば。……晃平さんのアカウントで、"TAMTAM"にフォロー申請したやつって」

 山﨑は人の心の内を読めるようだ。しかも先回りの考えである。あともう少しで至る、その寸前の考えを山﨑が口にする。

「それがだな、それが、なんと!」

 松田の顔が再びニヤニヤと、気持ちの悪いものに戻る。もしかしてずっと様子が可笑しかった理由はこれなのか。

「まさか?」

 箸をカウンターに叩きつけた山﨑が、似合わない大きな声を上げる。

「ああ、そのまさかだよ。なんと! なんと! なんと田村さんのアカウントが"TAMTAM"にフォローされました」

 何をそんなに大騒ぎをする必要があるのか? 女将さんが不審な目を向ける程、気味の悪さを放っていたのは、そのネタを抱えていたからだったのか。

「おい、晃平さんを巻き込むなって言っただろ! 田村慎一やサイモン神父は、自らフォロー申請しているが、晃平さんはそうじゃない」

「おい、山﨑。いいよ、そんなに怒らなくても。俺の名前を使っているだけで、俺のアカウントではないし、俺には関係ない事だから」

 箸を叩きつけた音がまだ頭の中に残っている。

 温厚で冷静な山﨑が、自分のためにムキになってくれているだけで充分だ。

「すみません。あくまで捜査の一環です。田村さんのアカウントがフォローされた事で、"TAMTAM"は五人フォローした事になります。残りの十二使徒は四人です。田村さんがフォローされるまでは、フォローされた四人が、残りのターゲットなのかって、思っていましたけど。そうではないみたいなんで、田村さんも安心してください。迷惑は掛けませんから」

 捜査一課の刑事に戻った顔が、真っ直ぐとこっちを向いている。

 松田のその言葉に救われる訳ではないが、"TAMTAM"にフォローされた事には不安がある。間違いなく近付けられていると言う不安。それを拭えるなら誰の言葉だって構わない。

 千円札を一枚取り出し、財布にお釣りの四百五十円を戻す。その小銭五枚は持ち慣れた重さで、女将さんが今まで何も言わずに、サービスをしてくれていた事が実感できた。もうこの店以外では蕎麦は食わないし、昼飯も他所よそでは食わない。そんな誓いを立ててみる。
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