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第一章 フィリポ Philippus
Ⅲ・5月5日
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ソファの上で充分寝ていた事もあって、少しの眠気も襲ってはこなかった。それに缶コーヒーと、山﨑が淹れたコーヒーとで、腹も充分に満たされていた。いつもなら何か食って、部屋に帰って寝るか。そんな気になるところだが、今日は食欲も睡眠欲も沸いてこない。
署を出て蒲田駅へ向かう途中、飲食店は何軒も目に入ってきたが、足を踏み入れる気にはやはりなれなかった。山﨑に宣言したように、部屋に帰って頭でも洗うか。
山﨑の顔と締まった尻を浮かべながら歩いていると、マンションが目に入ってきた。マンションを通り過ぎ、駅まで行く必要もない。とりあえずシャワーを浴び、頭を洗ってから、コンビニにでも行けばいい。コンビニにビールを買いに行く頃には、腹も減り、食欲が沸いているかもしれない。それにビールで酔いが回れば眠気もくるだろう。
そんな事を頭に描き、マンションのエントランスに入ろうとした時。
「晃平さん」
突然名前を呼ばれ、足が止まる。
マンションのエントランスは目に入っていたが、その周辺は目に入っていなかった。エントランスの左右には垣根があり、外側には一メートル程のブロック塀がある。そのブロック塀に腰掛け、垣根に凭れた若い男がこちらを窺っている。
「えーっと」
若い男の顔を覗き込んでみるが、言葉が続かない。
「覚えていないですよね」
名前を呼ばれたのだから、間違いなく知っているはずの男だ。それでもどれだけ記憶を探ろうが、思い出す事が出来ない。
「確か半年くらい前です。コート着ていたから、冬なんですけど、新宿で会って、ここに連れてきてもらったんだけど」
若い男が寂しそうな表情で続ける。
「ああ」
思い出したような素振りで相槌を打ってみたが、やはり思い出す事は出来なかった。ただ男の話から、酔っ払って部屋に連れ込んだ事は想像できる。
「突然来て迷惑でしたよね。でも連絡先も知らないし。会いたくなっちゃって」
「いつから? いつから待っていたんだ?」
「えっ? 夜からですよ。確か五〇八でしたよね? 呼んでみたけど返事なくて、部屋にいないのかなって、だからここで待っていました」
「夜から? ずっと?」
「はい」
「宿直で、夜勤だったんだ。今帰ったところで、すまない」
何故か急に申し訳ない気持ちになり、口が勝手に言い訳を並べる。
「すみません、知らなかったんで」
「とりあえず中へ。ここじゃなんだし」
申し訳ない気持ちが、男を部屋へ招き入れる。オートロックのドアを開け、エレベーターへ乗り込む。一晩待っていたと言う男は、待ちくたびれたのか、それとも安堵なのか、複雑な表情をしている。
「俺シャワー浴びるから、とりあえず座っていて。ベッドの上なら座れると思う」
散らかった部屋を頭に浮かべながら、男を奥の部屋へと促す。疲れて言葉も出ないのか、男は小さく頷いて、靴を脱いでいる。
バスタオルを手に取り、バスルームの戸を開けた時、奥の部屋で座る場所を見つけ、落ち着いたのか、男が小さく息を漏らした声が聞こえた。
五〇八と言い当てたのだから、間違いなく連れ込んだ事があったのだろう。いったい幾つくらいだろうか。自分より十は若そうな男。そんな男に、会いたくなったと言わせる程、魅力があるのだろうか。自問しながらバスルームの鏡を覗いたが、そこには疲れた顔があるだけだ。
下らない自問をシャワーで流し、シャンプーを手に取る。まずは頭を洗わないと。山﨑とのやり取りを思い出しながら、頭に泡を立てていく。
いつもなら裸でバスルームを後にするが、一人ではないのだから、そうはいかない。脱いだシャツや下着を洗濯機に放り投げ、バスタオルを腰に巻く。奥の部屋に行かない限り、新しい下着も服も手にする事は出来ない。
バスタオル一枚で短い廊下を進み、奥の部屋の扉を開ける。さっき想像した通りの、散らかった部屋に肩を落としながら、ベッドに目をやると、倒れこんだ男の姿があった。待ちくたびれ、余程疲れただろうその姿に、再び申し訳ない気持ちが沸いてくる。
「おい、大丈夫か?」
「えっ? あ、ごめんなさい。ちょっと寝ていたみたい」
「いいよ。そのまま寝ていれば。俺もちょっと横になるから」
「本当、すいません」
男が体を返し、ベッドのスペースを半分空ける。そのスペースにバスタオルを巻いただけの体を横たえる。簡単にバスタオルは剥がれたが、気にも留めず男の背中に腕を回した。
男の小さな寝息を聞きながらも、つい頭に浮かべてしまうのは、朝の新聞の記事だ。
自分の名前に似た男が殺された。——田村晃。その名前と共に、朝、瞼の裏に描いた光景を思い出しそうになる。ここで目を閉じれば、再びあの赤い世界が浮かんでくるのでは?
そんな不安が過りそうになったが、腕に抱いた男の寝息が、不安を打ち消してくれる。このままこの男を抱いていれば、酒を飲まなくても、深い眠りにつけるだろう。名前も覚えていない若い男ではあるが、今はこの男に安らぎを与えてもらおう。
署を出て蒲田駅へ向かう途中、飲食店は何軒も目に入ってきたが、足を踏み入れる気にはやはりなれなかった。山﨑に宣言したように、部屋に帰って頭でも洗うか。
山﨑の顔と締まった尻を浮かべながら歩いていると、マンションが目に入ってきた。マンションを通り過ぎ、駅まで行く必要もない。とりあえずシャワーを浴び、頭を洗ってから、コンビニにでも行けばいい。コンビニにビールを買いに行く頃には、腹も減り、食欲が沸いているかもしれない。それにビールで酔いが回れば眠気もくるだろう。
そんな事を頭に描き、マンションのエントランスに入ろうとした時。
「晃平さん」
突然名前を呼ばれ、足が止まる。
マンションのエントランスは目に入っていたが、その周辺は目に入っていなかった。エントランスの左右には垣根があり、外側には一メートル程のブロック塀がある。そのブロック塀に腰掛け、垣根に凭れた若い男がこちらを窺っている。
「えーっと」
若い男の顔を覗き込んでみるが、言葉が続かない。
「覚えていないですよね」
名前を呼ばれたのだから、間違いなく知っているはずの男だ。それでもどれだけ記憶を探ろうが、思い出す事が出来ない。
「確か半年くらい前です。コート着ていたから、冬なんですけど、新宿で会って、ここに連れてきてもらったんだけど」
若い男が寂しそうな表情で続ける。
「ああ」
思い出したような素振りで相槌を打ってみたが、やはり思い出す事は出来なかった。ただ男の話から、酔っ払って部屋に連れ込んだ事は想像できる。
「突然来て迷惑でしたよね。でも連絡先も知らないし。会いたくなっちゃって」
「いつから? いつから待っていたんだ?」
「えっ? 夜からですよ。確か五〇八でしたよね? 呼んでみたけど返事なくて、部屋にいないのかなって、だからここで待っていました」
「夜から? ずっと?」
「はい」
「宿直で、夜勤だったんだ。今帰ったところで、すまない」
何故か急に申し訳ない気持ちになり、口が勝手に言い訳を並べる。
「すみません、知らなかったんで」
「とりあえず中へ。ここじゃなんだし」
申し訳ない気持ちが、男を部屋へ招き入れる。オートロックのドアを開け、エレベーターへ乗り込む。一晩待っていたと言う男は、待ちくたびれたのか、それとも安堵なのか、複雑な表情をしている。
「俺シャワー浴びるから、とりあえず座っていて。ベッドの上なら座れると思う」
散らかった部屋を頭に浮かべながら、男を奥の部屋へと促す。疲れて言葉も出ないのか、男は小さく頷いて、靴を脱いでいる。
バスタオルを手に取り、バスルームの戸を開けた時、奥の部屋で座る場所を見つけ、落ち着いたのか、男が小さく息を漏らした声が聞こえた。
五〇八と言い当てたのだから、間違いなく連れ込んだ事があったのだろう。いったい幾つくらいだろうか。自分より十は若そうな男。そんな男に、会いたくなったと言わせる程、魅力があるのだろうか。自問しながらバスルームの鏡を覗いたが、そこには疲れた顔があるだけだ。
下らない自問をシャワーで流し、シャンプーを手に取る。まずは頭を洗わないと。山﨑とのやり取りを思い出しながら、頭に泡を立てていく。
いつもなら裸でバスルームを後にするが、一人ではないのだから、そうはいかない。脱いだシャツや下着を洗濯機に放り投げ、バスタオルを腰に巻く。奥の部屋に行かない限り、新しい下着も服も手にする事は出来ない。
バスタオル一枚で短い廊下を進み、奥の部屋の扉を開ける。さっき想像した通りの、散らかった部屋に肩を落としながら、ベッドに目をやると、倒れこんだ男の姿があった。待ちくたびれ、余程疲れただろうその姿に、再び申し訳ない気持ちが沸いてくる。
「おい、大丈夫か?」
「えっ? あ、ごめんなさい。ちょっと寝ていたみたい」
「いいよ。そのまま寝ていれば。俺もちょっと横になるから」
「本当、すいません」
男が体を返し、ベッドのスペースを半分空ける。そのスペースにバスタオルを巻いただけの体を横たえる。簡単にバスタオルは剥がれたが、気にも留めず男の背中に腕を回した。
男の小さな寝息を聞きながらも、つい頭に浮かべてしまうのは、朝の新聞の記事だ。
自分の名前に似た男が殺された。——田村晃。その名前と共に、朝、瞼の裏に描いた光景を思い出しそうになる。ここで目を閉じれば、再びあの赤い世界が浮かんでくるのでは?
そんな不安が過りそうになったが、腕に抱いた男の寝息が、不安を打ち消してくれる。このままこの男を抱いていれば、酒を飲まなくても、深い眠りにつけるだろう。名前も覚えていない若い男ではあるが、今はこの男に安らぎを与えてもらおう。
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