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第3章 始まりの終わり(加藤航基)
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高校の卒業式の翌日以来の下呂駅だった。
何年ぶりだろうか。もう二度と帰らないとも、いつか帰って来るだろうとも、何一つ感情を抱く事が出来なかった下呂の駅。
生まれ育った町を思っても何の郷愁も呼ぶ事が出来なかった日を思い出す。
駅に降り立ちタクシーに乗ってしまってもよかったが、乗車拒否をされてもおかしくない距離に足を引き摺る。
生まれ育った町だ。飛騨川を越えてすぐ旅館街になるその距離は分かっていた。
それにまだ何の整理も出来ていなかった。家に帰っても何と説明すればいいのかも分からない。時間を稼ぐため。そんな考えが働いたかは分からないが、もう少しなら歩けそうな気もした。
行き交う人々の目が憐れんでいる事は見て取れた。通学の学生に何度か声を掛けられもしたが、学生たちは皆一様に駅へと向かっている。逆方向に歩く人間を深追いする事は出来ない。田舎の駅だ。一本でも乗り遅れれば大変な事になる。
もう亨は目を覚ましているだろうか。目を覚まし自分がいなくなった事に気付き、どんな感情を生ませてしまっただろうか。
頭に浮かぶのはやはり亨の姿だけだ。
駅前のロータリーから飛騨川を渡る橋へ続く歩道。そのガードレールに寄り掛かりゆっくりと足を進めていた。
それなのにそう遠くない高架にもなかなか辿り着けず、振り返っても駅前のロータリーは目の前にある。
ロータリーに向けた目を足元へと下ろした時。引き摺っていると思っていた足はぴたりと止まっていた。
ゆっくりでも動かせと指令を送っているのに足には伝わらない。
伝わらない指令に気持ちまで折れそうになる。
その時。力がすっと抜け足が気持ち同様に折れてしまった。膝から折れた足はもう立ち上がらせる事は出来ない。
一時間に数本の電車はもう発車したのだろう。朝の田舎の駅前は更に人影をまばらにしていた。
膝を地面から離す事はもう無理だった。ガードレールに腕を伸せ小さくならなかった駅舎を呆然と眺める。動かせない体勢のままどれ位の時間が過ぎただろうか。駅へ向かう急ぎ足の人影を幾つか見送った時。しゃがんだ歩道のすぐ横を一台の乗用車が走り抜けた。
視線の先。ロータリーの入口を塞ぐように慌てて停められたその乗用車から見覚えある女性が飛び出す。
——麻美だった。
「航基、何しているの。こんな所で。ああ、でも良かった。亨君から電話があって、びっくりしたのよ」
一息で言い放った麻美を見上げる。ただ麻美へ返す言葉は何も見つけられない。
呆然と小さくならなかった駅舎を眺めたように、ぼんやりと麻美の顔を眺める。ふと我を還した時には歩道を駆け足で過ぎようとしていた男の肩を借り、麻美の車の助手席に運ばれていた。
「麻美さん、ごめんね。歩いて帰ろうとして。やっぱりタクシー拾えばよかったね」
「帰るって、どこに帰るのよ」
「家にだよ。だからここまで来たんだけど、あそこで足が動かなくなっちゃって」
ガラス越しすぐそこにある歩道とガードレールに目をやる。
「帰るって、亨君は何て言っているの?」
「ダメだって。帰るって言ったらダメだって」
「ちょっと待っていて。亨君に電話するから」
麻美がロータリーの入口を塞いでいた車を駐車スペースに納める。エアコンを気にしてくれての事か、エンジンを掛けたまま麻美は車を降りていく。肩に掛けたバッグから携帯電話を取り出す麻美を再び呆然と眺める。
ほんの数分後だろうか。携帯電話をバッグに戻しながら麻美が運転席に戻る。
「亨君、もう電車の中だって。このままここで待つわよ」
「ねえ、麻美さん。俺、亨とは会わない。このまま家に連れて帰って」
亨に会ったとして何と言えばいいのか分からない。それにまた亨への負担を大きくしてしまった。
「駄目よ。帰って来るなら帰って来るで、ちゃんと亨君と話してからでしょ」
「でも。亨が来ても何て話していいか分からないし。もう疲れ過ぎて頭も回らない。また亨に迷惑掛けてしまったし」
「疲れているなら何も考えなくていいから。少し眠ってそれから考えなさい」
麻美が助手席のシートを倒す。倒されたシートで自然と体は伸ばされ瞼が下りる。その瞼の裏に一瞬亨を描きはしたが意志は体と頭の疲労に勝つ事は出来ない。数秒と待たずに深い眠りに落とされた。
疲れ切った体と頭を休めるための時間は穏やかに流れていったようだ。ほんの少しの振動で瞼を上げた時。さっきまで目の前にあった下呂の駅舎はなく、細く開いた目を更に開くと見慣れたマンションが建っていた。
——どうしてまたここに?
少しの眠りではその声を聞くまで何一つ理解できなかった。
「おい、着いたぞ。降りるぞ」
後部座席を振り返らなくてもそこに亨がいる事は分かる。ぼやけた頭の中でドアの開閉を聞きながら、助手席から引き摺り下ろされ亨の肩に腕を回される。
「それじゃあ、また明日。私はこれで」
助手席のドアを引いた麻美の表情は何故かにこやかだった。
——また明日?
眠っていた間に亨と麻美の間で何が話されていたのだろう。
「航基、ごめんな。お前が起きたの、気付けなかった。一人で下呂まで大変だっただろ?」
その声があまりにも穏やか過ぎて、何も言えず亨の頬に顔を隠した。
じわりと浮かんだ涙を見せる訳にはいかない。
「もう何も心配しなくていいから。お前は自分の体の事だけ考えてればいいから」
「でも」
鼻を啜り上げる。
「でも、俺がいたら亨に迷惑ばっかり掛けるし。亨の負担になるし。もう店に出て一緒に働く事も出来ないし」
「心配しなくても大丈夫だって。店なら明日から麻美さんが手伝ってくれる」
「麻美さん? どう言う事?」
もう一度、鼻を啜り上げる。
「麻美さんからの提案だよ。お前が家に帰るって言うのは俺への負担を考えての事だろ? だけど俺はお前を帰らせるつもりはない。何が何でも一緒にいたいんだよ。正直に麻美さんにそう言ったら、俺の負担が軽くならない限り、またお前は家に帰るって言いだすだろうって。だから俺の負担を減らすために麻美さんが店を手伝ってくれるって」
「亨はそれでいいの?」
本心から亨と離れたい訳ではなかった。ただ自分で出せなかった答え。麻美からのその提案を素直に受けていいものか答えを亨に委ねてみた。
「いいも悪いも。俺に負担が掛かるなら、お前を家に連れて帰るって。それだけは絶対に嫌だし出来ないからな。他に方法なんてないよ」
その顔はもう深刻なものでは無くなっていた。
そんな亨を見ていると自分の体の事まで忘れそうになる。
亨の肩を借りマンションのドアを抜ける。数時間前、足を引き摺りながら苦労して抜けたドアだ。それなのにこんなにも簡単に戻って来るなんて。
亨と二人では出せなかった答えがいとも簡単に導き出された事に気持ちが少し軽くなった。ただそれは同時に何か別のしこりを覚えるきっかけにもなった。
何年ぶりだろうか。もう二度と帰らないとも、いつか帰って来るだろうとも、何一つ感情を抱く事が出来なかった下呂の駅。
生まれ育った町を思っても何の郷愁も呼ぶ事が出来なかった日を思い出す。
駅に降り立ちタクシーに乗ってしまってもよかったが、乗車拒否をされてもおかしくない距離に足を引き摺る。
生まれ育った町だ。飛騨川を越えてすぐ旅館街になるその距離は分かっていた。
それにまだ何の整理も出来ていなかった。家に帰っても何と説明すればいいのかも分からない。時間を稼ぐため。そんな考えが働いたかは分からないが、もう少しなら歩けそうな気もした。
行き交う人々の目が憐れんでいる事は見て取れた。通学の学生に何度か声を掛けられもしたが、学生たちは皆一様に駅へと向かっている。逆方向に歩く人間を深追いする事は出来ない。田舎の駅だ。一本でも乗り遅れれば大変な事になる。
もう亨は目を覚ましているだろうか。目を覚まし自分がいなくなった事に気付き、どんな感情を生ませてしまっただろうか。
頭に浮かぶのはやはり亨の姿だけだ。
駅前のロータリーから飛騨川を渡る橋へ続く歩道。そのガードレールに寄り掛かりゆっくりと足を進めていた。
それなのにそう遠くない高架にもなかなか辿り着けず、振り返っても駅前のロータリーは目の前にある。
ロータリーに向けた目を足元へと下ろした時。引き摺っていると思っていた足はぴたりと止まっていた。
ゆっくりでも動かせと指令を送っているのに足には伝わらない。
伝わらない指令に気持ちまで折れそうになる。
その時。力がすっと抜け足が気持ち同様に折れてしまった。膝から折れた足はもう立ち上がらせる事は出来ない。
一時間に数本の電車はもう発車したのだろう。朝の田舎の駅前は更に人影をまばらにしていた。
膝を地面から離す事はもう無理だった。ガードレールに腕を伸せ小さくならなかった駅舎を呆然と眺める。動かせない体勢のままどれ位の時間が過ぎただろうか。駅へ向かう急ぎ足の人影を幾つか見送った時。しゃがんだ歩道のすぐ横を一台の乗用車が走り抜けた。
視線の先。ロータリーの入口を塞ぐように慌てて停められたその乗用車から見覚えある女性が飛び出す。
——麻美だった。
「航基、何しているの。こんな所で。ああ、でも良かった。亨君から電話があって、びっくりしたのよ」
一息で言い放った麻美を見上げる。ただ麻美へ返す言葉は何も見つけられない。
呆然と小さくならなかった駅舎を眺めたように、ぼんやりと麻美の顔を眺める。ふと我を還した時には歩道を駆け足で過ぎようとしていた男の肩を借り、麻美の車の助手席に運ばれていた。
「麻美さん、ごめんね。歩いて帰ろうとして。やっぱりタクシー拾えばよかったね」
「帰るって、どこに帰るのよ」
「家にだよ。だからここまで来たんだけど、あそこで足が動かなくなっちゃって」
ガラス越しすぐそこにある歩道とガードレールに目をやる。
「帰るって、亨君は何て言っているの?」
「ダメだって。帰るって言ったらダメだって」
「ちょっと待っていて。亨君に電話するから」
麻美がロータリーの入口を塞いでいた車を駐車スペースに納める。エアコンを気にしてくれての事か、エンジンを掛けたまま麻美は車を降りていく。肩に掛けたバッグから携帯電話を取り出す麻美を再び呆然と眺める。
ほんの数分後だろうか。携帯電話をバッグに戻しながら麻美が運転席に戻る。
「亨君、もう電車の中だって。このままここで待つわよ」
「ねえ、麻美さん。俺、亨とは会わない。このまま家に連れて帰って」
亨に会ったとして何と言えばいいのか分からない。それにまた亨への負担を大きくしてしまった。
「駄目よ。帰って来るなら帰って来るで、ちゃんと亨君と話してからでしょ」
「でも。亨が来ても何て話していいか分からないし。もう疲れ過ぎて頭も回らない。また亨に迷惑掛けてしまったし」
「疲れているなら何も考えなくていいから。少し眠ってそれから考えなさい」
麻美が助手席のシートを倒す。倒されたシートで自然と体は伸ばされ瞼が下りる。その瞼の裏に一瞬亨を描きはしたが意志は体と頭の疲労に勝つ事は出来ない。数秒と待たずに深い眠りに落とされた。
疲れ切った体と頭を休めるための時間は穏やかに流れていったようだ。ほんの少しの振動で瞼を上げた時。さっきまで目の前にあった下呂の駅舎はなく、細く開いた目を更に開くと見慣れたマンションが建っていた。
——どうしてまたここに?
少しの眠りではその声を聞くまで何一つ理解できなかった。
「おい、着いたぞ。降りるぞ」
後部座席を振り返らなくてもそこに亨がいる事は分かる。ぼやけた頭の中でドアの開閉を聞きながら、助手席から引き摺り下ろされ亨の肩に腕を回される。
「それじゃあ、また明日。私はこれで」
助手席のドアを引いた麻美の表情は何故かにこやかだった。
——また明日?
眠っていた間に亨と麻美の間で何が話されていたのだろう。
「航基、ごめんな。お前が起きたの、気付けなかった。一人で下呂まで大変だっただろ?」
その声があまりにも穏やか過ぎて、何も言えず亨の頬に顔を隠した。
じわりと浮かんだ涙を見せる訳にはいかない。
「もう何も心配しなくていいから。お前は自分の体の事だけ考えてればいいから」
「でも」
鼻を啜り上げる。
「でも、俺がいたら亨に迷惑ばっかり掛けるし。亨の負担になるし。もう店に出て一緒に働く事も出来ないし」
「心配しなくても大丈夫だって。店なら明日から麻美さんが手伝ってくれる」
「麻美さん? どう言う事?」
もう一度、鼻を啜り上げる。
「麻美さんからの提案だよ。お前が家に帰るって言うのは俺への負担を考えての事だろ? だけど俺はお前を帰らせるつもりはない。何が何でも一緒にいたいんだよ。正直に麻美さんにそう言ったら、俺の負担が軽くならない限り、またお前は家に帰るって言いだすだろうって。だから俺の負担を減らすために麻美さんが店を手伝ってくれるって」
「亨はそれでいいの?」
本心から亨と離れたい訳ではなかった。ただ自分で出せなかった答え。麻美からのその提案を素直に受けていいものか答えを亨に委ねてみた。
「いいも悪いも。俺に負担が掛かるなら、お前を家に連れて帰るって。それだけは絶対に嫌だし出来ないからな。他に方法なんてないよ」
その顔はもう深刻なものでは無くなっていた。
そんな亨を見ていると自分の体の事まで忘れそうになる。
亨の肩を借りマンションのドアを抜ける。数時間前、足を引き摺りながら苦労して抜けたドアだ。それなのにこんなにも簡単に戻って来るなんて。
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