冬のキリギリス

かの翔吾

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第3章 始まりの終わり(加藤航基)

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 航基の母、木綿子ゆうこは下呂にある旅館かとうの長女として生まれた。そしてその七つ下に妹の麻美がいた。

 航基の知る木綿子は旅館かとうの女将だった。

 だが木綿子がまだ女将になる前。一人の仲居として働いていた当時。旅館かとうにユーゴスラビアからの教育実習生の男が下宿していた。

 岐阜の田舎町を訪れた西洋人とあって、その教育実習生は小さな町で知らない者は誰もいないと言う程の人気者になっていた。

 その当時の木綿子は町でも一番の美人と評判だった。そんな木綿子とその男が関係を持つのに時間は掛からなかった。

 そうして木綿子が身籠ったのが航基だった。だが父親に当るその男は息子の誕生を待たずに教育実習を終え、国に帰って行った。

 幼い頃に聞かされた話はそんな内容だった。

 その話に嘘がない事は幼いながらに気付いていた。右目は黒いのに左目は色素が抜け落ちたグレー。髪の色も周りの子供たちのように真っ黒ではなく赤みがかった茶色だった。それにどちらかと言うと彫りの深い目元と鼻筋。そんな顔を鏡に映せば日本人同士の間に生まれた者ではない事は明らかだった。

 その上小さな町では誰もが航基の出生を知る事になった。

 田舎の町では見た目が大事だ。小さな町の異質な子供は恰好の的となり下呂での記憶はいじめられ続けた記憶と重なる。

 異質な風貌だけではなく父親のいない子として。それに何より木綿子が気丈過ぎたため、外国から来た教育実習生をたぶらかした女の息子として。いつの間にか付いた余計な尾鰭おひれが苛めを助長させた。


「ごめん、何か嫌な事思い出させた?」

「ううん。大丈夫」

 亨は寝ていなかった。ソファの上から覗き込む顔を見上げる。

「子供の頃、よく苛められたなあって、思い出していただけ」

「お前がハーフだから苛められていたんだろ? 子供って残酷だよな」

「そうだね」

「俺、よく分からないんだけど、何でお前の母さんって、お前の事、置いて行ったんだろ? お前の父親のいる国なんだし、お前を一緒に連れて行ってもよかったんじゃないかって」

「さあ、何でだろうね。でも一緒になんか行っていたら亨に会う事なかったんだし、連れて行かれなくてよかったんだよ」

 亨が残したビールがあるだろうと、床に手を突き膝を曲げ力を入れる。

 ただビールの缶に手を伸ばしたいだけなのに、体勢が悪いのか上手く力が入らず立ち上がる事が出来ない。

 仕方なくビールは諦め足に力が入るまで横になったままの体勢を保つ。

 亨の目はソファの上で泳ぎはしているが、今足に力が入らない事も、残したビールに手を伸ばそうとしていた事も気付いたふうには見えない。そんな泳いだ亨の目に救われたような気になり床の上で突っ伏したまま固まった。


 それは高校に入ったばかりの頃だった。母、木綿子が突然外国へ行くと言い出し実行した。
 
 それは木綿子本人から聞いた話ではなく後になって麻美から聞かされた話だ。

 木綿子は教育実習生の男に国に帰られたあと結婚もせずに独り身を貫いた。国に帰った男、父親に当る男とは手紙のやり取りだけは続けていたらしい。

 木綿子は捨てられたと言う感覚を持ち合わせていなかった。男といつか添遂そいとげると言う希望を持ち続けた。だが男の国はその後酷い内戦となり手紙どころではなくなったようだ。木綿子が何度手紙を書こうが返事が届く事はなかった。

 ユーゴスラビアの中でセルビアと言う国が独立し、国がようやく落ち着いたところで男は木綿子へ手紙を送ってきた。

 たどたどしい日本語で書かれた手紙を受け取った木綿子は居ても立ってもいられなくなり、セルビアへと旅立った。

 父に当る男は教育実習を終え、国に帰り結婚をし子供を授かったが、内戦で家族を失い、十数年ぶりに心の拠り所を木綿子に求めたらしい。

 木綿子がセルビアへ立った日以来。父親に捨てられ、母親にも捨てられたと認識して生きてきた。

 母親に捨てられた時。麻美から自分が親代わりだと申し出されはした。

 だが家族などいない。一人で生きていくしかないのだと、何度も自分に言い聞かせた。

 そう考えないと、どうしてだろう? どうして自分は父親にも母親にも捨てられたのだろう? そんな答えの出ない疑問にし潰されそうになったからだ。

 もう家族などいない。もう一人で生きていくしか他にみちはない。何度も言い聞かせてきた。だから大切なものなど何一つなかった。ましてや自分自身なんて一番大切に思えない存在だった。

 そんな考えを変えてくれたのが亨だった。

 亨に出会い大切にしたいと思うものを得る事が出来た。更に自分自身さえ大切にしたいと思えるようになった。大袈裟な言い方だが、亨と出会い自分が生まれてきた意味を知る事が出来た。

 
 その日もいつものように店をオープンさせていた。

 店は毎朝十時。ランチに間に合うように開店させ、夕方からバータイムへと替えていく。はっきりとした時間を設けていた訳ではないが、朝十時から夕方六時までをカフェとして、その後閉店の夜十一時までをバーとして営業していた。

 高山の町は近頃、外国人観光客が多く、そんな外国人が気軽に入れる店はまだ多くなかった。

 そんな亨の分析からカフェバーのオープンに至った。亨の読み通り店が軌道に乗った頃には訪れる客の半数以上を外国人が占めていた。特に夕方以降。バータイムに入ってからの客の殆どが外国人だった。

 夜の七時を回った頃。外国人に紛れて一人の日本人が客として訪れていた。

 近いうちに様子を見に来ると言った麻美だった。

 買い出しから戻った時。八席あるカウンターの一番奥の席に座りコーヒーを飲む客がいたが、暫く会っていなかった事もあり麻美の姿に気付けなかった。

「いらっしゃいませ」

 背中に一言だけ声を投げ顔も見ずにカウンターの角に立つ。麻美も一人で店を切り盛りし忙しそうな亨には何も言っていなかったようで、他の外国人客に紛れていた。

 ただ他の外国人客はビールやら、カクテルやらを飲んでいたが、麻美の前にはコーヒーカップとチーズケーキがあった。

「航基」

 カウンターの角に立ち数秒後。麻美に呼び掛けられる。

「元気そうね」

 続けられたその声に振り向きようやく麻美に気付く。

「あ、麻美さん。来てくれたんですね。麻美さんも元気でしたか?」

 少し余所余所よそよそしい物言いだったが咄嗟にそんな言葉が口を突く。

 同じカウンターの中。少し離れた所に立つ亨も麻美に気付く。

「えっ? 知り合いだったの?」

「あ、ほら、この間話した叔母さんだよ。麻美さん」

「初めまして。航基の叔母の加藤麻美です。いつも甥がお世話になっています」

「ああ。すみません。気付かなくて。あ、初めまして。今瀬亨と申します」

 麻美の丁寧な口調を受けて亨がやけにかしこまっている姿が可笑しかった。

「何、畏まっているの? 亨」

 冷やかすように亨を笑い、麻美へ顔を合わせる。

「麻美さん、俺の彼氏。今、一緒に住んでいて、一緒にこの店もやってんの」

 そう紹介した言い方は自分でも不思議なくらいとしたものだった。

「車だから、コーヒーでごめんなさい。何だか私、このお店の雰囲気に合っていないみたいだけど。あなたの顔を見に来ただけだから」

 そう言われ困惑した顔を作ってみせる。

 麻美は確かに叔母であり、父親と母親に捨てられた身としては、麻美が唯一の肉親と言える。

 だからと言って今更家族面されてもピンとくるものはない。もう麻美の知っている自分はいない。そう伝えたかったが上手く言える自身もなかった。

 それに亨の手前あまり突き放した言い方も出来ない。そんな事を考えていたら何一つ浮かんでくる言葉はなく顔だけが歪んでいくようだった。

「お酒飲まれなくても、ゆっくりしていって下さいね。折角来て頂いたんだから」

 気を遣った訳ではなく素直にそう思っただろう亨が麻美に細めた目を向けている。

「ありがとう」

 麻美の目はすぐ目の前の自分を一瞬捕えはしたが、その端に亨を収めているように見えた。

 買い出しの袋の中の物を冷蔵庫へと移す。

 人一人がやっとの幅しかない狭いカウンターにしゃがむ。

 亨はカウンター席に座る三人の外国人客に二杯目のドリンクを勧めている。

 体の向きを変える事の出来ない狭いカウンターの中で、買い物袋を畳みながら冷蔵庫を閉める。

——まただ。

 足の力がふわっと抜け立ち上がる事が出来なくなっていた。このまま無理に立ち上がろうとすればまた転んでしまうのでは?

 不安になりしゃがんだままの姿を固まらせる事しか出来ない。

「航基、どうしたの? 大丈夫?」

 いつまで経っても立ち上がらない事を気に留めた麻美の声が飛ぶ。

 突然訪れた事に気を悪くしたのでは。そんな配慮を含んだ声に立ち上がらなければいけなくなる。だが足はまだ力が抜けたままだ。それでも入るだけの力を入れ踏ん張ってみせる。

「航基、おい、大丈夫か?」

 少し離れた所から亨の声が飛んできた時。予想通り転倒してしまい狭いカウンターの中で可笑しな体勢になってしまっていた。

「う、うん。大丈夫」

 すぐさま駆け寄った亨に手を引かれ、何とか立ち上がろうと足に力を入れてみた。それでも抜けた力を足に入れる事は出来ず亨の強い力なくして一人で立ち上がる事が出来なかった。

「大丈夫なの? どうしたの?」

 心配した麻美もカウンターを覗き込んでいる。

「大丈夫だよ。最近何かよく転んじゃって」

 カウンターの棚に凭れ掛かり照れながら答えてみせる。

「航基、お前、こっち」

 カウンター席がいっぱいになり、次の客はテーブル席へ案内しないといけなくなった時。亨が横に一歩、二歩と体をずらし始めた。

「俺、外でも大丈夫だよ」

 負担を掛けないための配慮だと分かってはいた。だが亨ばかりを動かせる訳にはいかないと平静を装ってみせる。

「いいから、お前こっち」

 狭いカウンターの中で亨に体をスライドされ奥へと追いやられる。

 自分の体が何かの異変を抱えている事は分かっている。だが不安は体の異変ではなく、亨もこの異変に気付いているのではないかと言う一点に傾いていた。
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