冬のキリギリス

かの翔吾

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第1章 終わりの始まり(遠藤祐輔)

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「……二人ともですか?」

 ヒロトの口を突いた二人に咄嗟に反応する事は出来なかった。

「二人ですか? 亨君と。ええと……」

 そう言ったもののやはりピンとくるもう一人が浮かばない。

 店内には相変わらず静かな時間が流れていた。久々にこの店に足を入れてから一時間はすでに経っていただろう。ヒロトが言っていた通りに他に客が訪れる様子もなく、電話が一度鳴っただけで、注がれるままビールを口にしていた。ヒロトも同様に自分のグラスにビールを注ぎ続けている。

「そうよ、トオルもコウキも本当真面目に働いてくれていたのよ」

「コウキって?」

 名前を聞いてもやはりもう一人にピンとくるものはなかった。

「あなたも同じ頃ここで働いていた筈なんだけど。ほら、ハーフの子で。あなたと同じ歳だったと思うんだけど。何処だったかなあ、ヨーロッパの何処かの国だったんだけど」

「ハーフの子なんですか?」

「そうよ。うーん、何処だったかなあ。あっ、そうそうユーゴスラビア。ユーゴスラビアとのハーフの子。髪の毛は黒く染めていたんだけど。どっちだったかなあ、片目だけ色が薄くてね。コウキも人気があったのよ。綺麗な顔なんだけど、ちゃんと男らしくてね。あっ、やだ。ユウスケ、あなたも凄い人気があったわね」

 ヒロトの言葉に耳を傾けていた頭に朝読んだ記事が浮かんできた。

「ああ、加藤航基」

「そうそう、思い出したかしら?」

「いいえ」

 コウキと言うそのボーイには面識はなかった。もしかしたらあったのかもしれないが、当時の自分の目には亨しか映っていなかった。

 他のボーイの記憶なんてものは何一つ残していない。それに亨の事にしろ十年間背を向けてきた。そうする事でしか前には進めなかった。それなのに他のボーイの記憶なんて残している筈がなかった。

「今朝、記事を読んだんです。亨君が容疑者になっている殺人事件の。その記事で加藤航基って人が被害者になっていました。加藤航基。ここで働いていたんですね」

「そうよ。二人ともけっこう長く働いてくれていたのよ」

 言葉を選んでいる様子のヒロトは少し目を泳がせて空になったグラスに口を付けている。

「ところで、ユウスケ。あなたトオルとはどう言う関係だったの? 付き合っていたとかなの?」

 投げられた問いに疑いはあったが、確信は持たれていなかった事を知る。

「いいえ、付き合っていたとかはないです」

 安心が生み出した答えが嘘だと言う事に何故か新たな安心が生まれる。

 咄嗟に口を突いたくだらない嘘の理由。安心が呼んだものにしろその嘘がくだらないものには変わりない。十年経った今どう言った事実があったにせよとがめられる事もないだろう。

 それでも口は事実に反した答えを吐き出していた。

「そう。それならいいのよ。トオルとコウキの話をあたしがしても、あなたが傷付く事はないのね」

 ヒロトは自分に言い聞かせるように断りを入れていた。それがマスターの人柄だと言う事が今なら解る。今更かもしれないが十年を埋めるかのような屈託のない笑顔をヒロトへ向ける。

「トオルとねコウキ。二人は付き合っていたのよね。この店にいる間はずっと。二人とも本当真面目に働いてくれていたから、あたしも何も言わず見守っていたのよ」

 ある程度は予想できる話だった。特に驚く様子も見せずヒロトの声に聞き入る。

「同郷だったからね。二人とも出身が岐阜で同じだったから気が合ったみたい。ずっと一緒に暮らしていたのよ。二人とも三、四年はここで働いてくれていたわ。本当真面目に働いてくれていたのよ。二人とも昼はどこか別のアルバイトをして。どこかはあたしも聞かなかったけど。夜は毎日ここに来てくれていたの。何年もの間ずっとね」

「ずっとここで働いていたんですね」

「そうよ。昼も夜も真面目に働いて二人でしっかりお金貯めたみたい。何人もここで色んな子を見てきたけど、あの子達みたいにしっかりお金を貯めて辞めていった子は見た事ないわ」

 そう話す丸い顔にはばかりの愛情が溢れている。

「その後、二人は?」

 嬉しそうに話してくれるヒロトの表情を変えないように、わざと明るい声を作り尋ねる。

「一緒に辞めたのよ。お金も貯まったから二人で岐阜に帰って店を開くんだって」

 何かを思い出したように急に背中を向けたヒロトが、カウンターの後ろにある棚を探り始める。

「確かここに。昨日確かここに。……あったわ。これよ」

 棚から一枚のポストカードを取り出し目の前に差し出す。そこには見た事のない古い町並みがあった。

 その古い町並みに見入っていると、写真にヒロトの指が掛かりカードが返される。

「二年ぐらい前だったかなあ。突然だったんだけど送ってきてくれたの。高山の駅前でカフェバーをやっています。高山にお越しの際はお立ち寄りください。今瀬亨、加藤航基」

 ヒロトがポストカードの宛名の下に書かれた文面をそのまま読み上げる。返されたカードに書かれた文字に目を落としたが、今瀬亨と言う名前だけが頭にこびり付くだけだ。

「グラスホッパーって名前の店なんですね。バッタかな? キリギリスかな?」

 少し間を置いてもう一度カードに書かれた文字にしっかりと目を落とした。

「えっ? そうなの? あら、やだ。キリギリスって言う意味なの? 何だかあの子達には似合わない名前だったのね」

「どうして似合わないんですか?」

 単純に疑問を投げかけてみた。

「だって、本当に真面目に働いてくれていたのよ。キリギリスと言うよりは真面目な働きアリだったのよ。二人とも」

 結局誰一人訪れる事のなかった店内を見回す。

 自分が居なくなったこの店で何年もの間、働き続けた亨と航基の姿を今は誰も掛ける事のない脚の長い椅子に思い浮かべる。

 一息に飲み干したグラスに半分残っていたビールはすでに冷たさを失っていた。

「マスター。今日は突然伺ってすみませんでした。それと十年前は本当にご迷惑かけてすみません」

 思わず頭を深く垂らす。

「何言っているのよ。こうして訪ねてくれただけで、本当に嬉しいのよ。それに昨日岐阜から刑事さんが来て、あたしもトオルとコウキの事が気になっていたのよ。こうしてあなたと話が出来た事。本当に本当に感謝しています」

「マスター、今日は本当にありがとうございました。あ、あと男の子買いに来た分けじゃなくてすみません。とりあえずお会計お願いします」

 脱がず仕舞いのコートの内ポケットから、財布を取り出しながら立ち上がる。

「何言っているのよ。お会計だなんて。こうして来てくれただけでも嬉しいのよ。お会計なんて必要ないでしょ」

 穏やかに笑うヒロトを見て、亨にもこの店にも背を向けていた十年がふと恥ずかしくなった。

 十年と言う時間の中で変わっていったものと変わらないもの。どれだけ歳を重ねてもマスターの穏やかな人柄は何も変わっていなかった。それを十年もの間思い出す事もなく、亨を消し去るために併せて背を向けていた。こうして十年前と何ら変わらず穏やかに笑うヒロトを見て自分の全てを恥じたくなる。

「マスター、すみません。さっき嘘ついていました。少しの間だけど、俺、亨君と付き合っていました」

 俯き気味でヒロトから目を逸らし放った言葉に「まっ!」と小さく驚きの声が返される。

「何も謝らなくても。悪い事していた訳じゃないんだから。あたしの方こそ余計な事言ってごめんなさいね。トオルを懐かしんでここに来てくれたんでしょ? それなのに余計な事を」

 穏やかな顔が少し困惑の色を見せ始める。それでもヒロトの穏やかな口調は変わらなかった。まるで全てを悟ったような口調にも思えた。自身ですら見えない何かをヒロトには見透かされているような気にさえなる。そこに不快さなんてものはなく逆に気を楽にさせてもくれる。

 今日この店を訪れた事で亨が自分の前から消えたのではなく消えたのは自分だったと言う事を教えられた。

 提示されたその事実に、この店で亨を待ち続けていれば今回の事件が起こる事はなかったのでは? そんな考えさえ湧いてくる。

「マスター、すみません。このポストカードお借りしていいですか? 俺、岐阜に行ってきます」

 何故そのような提案に行き着いたのかは自分でも分からなかった。

 背を向け続けたこの十年を取り戻せる筈もなく、ましてや岐阜に言ったところで何かが変わる筈がない事も分かっている。それでも何かに背中を押されている事も間違いなかった。

 重いドアを押し開け梅田の町に戻る。

 一瞬にして体を凍らせるとした冷たい空気が全身に纏う。一月の夜の空気としては当たり前の冷たさだが、ほんの数時間前。真冬なのに生温く感じたあの風はもうなかった。

 それに今こうして戻った梅田の町は、あの生温い風が吹いた梅田の町とも別の町のようにすら思える。
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