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15 アリバイ
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まだ日は沈んでいないのに、ビルの階段は薄暗かった。
その薄暗さも不衛生だと感じる要因の一つに違いなかったが、二階の廊下の窓から入る日差しに晒された一角は、口と鼻を塞ぎたくなるような乱雑さがあり、思わず息を止めていた。足早に三階へと駆け上がっても何も変わらない事は分かっている。それでも掻き立てる何かが踏み上がる足を速める。
由之の店の看板はまだ点いていなかった。それはまだ開店前だと言う事だが、躊躇う事なくドアを引き開ける。本来なら『いらっしゃいませ』と、声が響くはずだが、由之は快く迎えてくれていないようだ。
「急に申し訳ない。とりあえず掛けていいかな」
カウンターの中の由之は、「どうぞ」と、小さく首を傾けるだけだ。
「夏樹と貴久ももうすぐ来るはずだから。開店前なのに場所借りてすまない」
「ううん。それはいいんだけど、何の話かなあって」
落ち着かない様子の由之は電子タバコを咥えている。
「話は二人が来てからにしよう。まだ飲む気分じゃないから、何かソフトドリンクあるかな? 何でもいいんだけど」
「何でも言ってもらえれば、一通りはあるから」
何でもと言われはしたが、目に入ってきたのは緑茶のペットボトルだけだった。由之が口にするグラスの中もきっとその緑茶だろう。
「その緑茶で」ペットボトルを指さす。
「お茶でいいの?」由之がグラスに緑茶を注ぐ。
「……何か夕立。急にすごく降って来たぞ」
ドアが開くなり聞こえた声に振り返ると、ジャケットの肩を濡らした夏樹が立っていた。その夏樹に貴久が続いている。
「今、下で会ったんだ。眼鏡のこの顔が、何となく見覚えあったから、声掛けたら貴久だったよ。それより、俺らを集めて何しようって言うんだ? 晴人よ、刑事さんよ」
相変わらずだなと開きかけた口に構う事なく、夏樹がカウンターに腰掛ける。
「由之、冷たいビール頂戴! 貴久お前もビールだろ? 由之、ビール二つ」
店に入った途端、全てのペースを持っていく夏樹には関心するしかなかった。貴久はまだ一言も発していない。だが夏樹はすでにビールへと口を運んでいる。
「急に呼び出して悪かったな」
改まったつもりではないが、カウンターの中の由之と、隣に座る貴久、そして貴久の隣りに座る夏樹の順に目を合わせていく。
「それで? どういう用件だ?」
「いや、三人に確認したい事があって」
「何だ? 小林の事件の事か?」
貴久の向こうで夏樹がのけぞっている。貴久と由之は黙ったまま、やり取りに耳を傾けている様子だ。由之が空になった夏樹のグラスにビールを注ぎ足す。どこから話すべきかと、宙に目を向けながら、徐に口を開く。
「ああ、小林の事だ。今まだ捜査中だから言えない事もある。それに俺は担当ではないんで知らない事もある。でも、前に夏樹が言っていたように、俺ら四人が何かしら関係している事は間違いないと思う」
「そりゃ、そうだろう。俺ら四人の中の誰かが小林を殺したんだ。だってこんな偶然おかしいだろ?」
「殺したって?」貴久が驚きの声を上げる。
「おい、夏樹! 貴久、すまない。俺は関係していると言っただけで、殺したなんて言っていない。」
夏樹に向かい大きな声で制止しながら、貴久と由之の二人に目を合わせていく。珍しく大きな声を出したからか、夏樹の口は再びビールに触れている。
——そのビールでずっと口を塞いでおけ。
そんな意志を込め夏樹を睨みつける。
「俺は死ぬ前の小林に会っているんだ。……小林先生だとは気付かなかったけど、うちの署にタレコミがあって、小林憲治は一度しょっ引かれているんだ。その時、一度顔を合わせている。俺は気付かなかったけど、小林は俺の顔をじっと見ていたんだ。死んだ小林憲治と小林先生が同じ人物だったって知ったのは捜査が進んでからだけど、小林は俺に気付いていたのかも」
「……だから?」夏樹が口を挟んでくる。
「自分は小林憲治を殺していないって言う主張ですか?」
夏樹の声が大きくなっていく。そんな夏樹との間に挟まれた貴久も落ち着いたようで、ようやく重いその口を開いた。
「俺、全然話が見えていないんだけど。確かに、俺の息子は三鷹の塾に通わせているよ。俺にとってはそれだけ。小林先生が息子の塾で講師をしていたなんて知らなかったし、小林先生が死んだって言うのも、安原って言う刑事さんに聞かされて初めて知ったんだ。それなのに俺らの中の誰かが小林先生を殺したとか、全く意味が分からないんだけど」
「すまない、貴久。貴久からは前に聞いているからいいんだ。俺は夏樹と、それと由之に聞きたいんだ」
貴久を通り過ぎ、夏樹を捕える。
「何だよ! 俺かよ。俺は殺される前の小林に会った事あるって、前に言ったろ!」
「会った事あるんだ」貴久の目も夏樹を捕えている。
「ああ、アプリで知り合って一緒にホテルに行ったんだよ。で、あいつがシャワー浴びているうちに、財布からカードと金を盗んで、免許証見たら、小林憲治って名前があったからびっくりしたさ。もう、慌ててホテルを出て行ったさ。小林憲治なんて名前、忘れたくても忘れられないだろ!」
夏樹が吐き出した言葉に大きな嫌悪感を覚えた。それは貴久も同じだったようで、あからさまな軽蔑を夏樹へと向けている。
「死ぬ前に会っていたって事は、夏樹が殺したって言う事なんじゃないのか?」
貴久の言葉は明らかに軽蔑から生まれたものだった。だがその軽蔑は誰にでも理解できるものだ。
「俺も、俺も一度だけ会った事あるよ」
淀んだ空気に一石を投じる一言だった。自ら切り出したと言う事は殺していないと言う主張なのだろうか。由之が投じた一石に様々な思考が巡る。
「何だよ! お前も会った事あるのかよ」
夏樹がぴくぴくと鼻を膨らます。にやりと笑うその顔は前に嫌悪を示した表情と同じものだ。
「それで? どう言うことだよ?」
「えっと、一度だけこの店に飲みに来た事があって。シンちゃんって言う常連さんがいるんだけど、その常連さんに紹介されたとかで、ショウイチさんって言う人と二人で来てくれた事があるの」
「それはいつ?」
「六月の終わりか、七月の初めだったと思うけど」
「それじゃあ、小林先生が死ぬ一か月ちょっと前だな」
由之が続く事はなかった。緑茶に口を付けながら、もう一度思考を張り巡らせてみる。
児童買春でしょっ引かれた小林憲治。その件はタレコミがあった。じっとこちらを見ていた小林憲治。貴久の息子が通う塾に勤めていた小林憲治。だが貴久は何も知らなかったと言う。それに夏樹だ。アプリで知り合い一緒にホテルへ行った男が小林憲治だったと言う。忘れたくても忘れられない名前だと言った夏樹。更にこの由之の店に来ていた小林憲治。
整理しても整理しきれない情報が頭の中を行き交う。
——同級生とはこう言うものなのだろうか?
さっきまで疑心暗鬼でお互い刃を合わせていたのに、夏樹と貴久は、乾杯! と、グラスを合わせている。そんな二人の姿を由之も笑って見ている。刑事と言う立場の自分が混じらなければ、単純に再会を祝う場だ。
「お前もお茶じゃなく酒飲めば? 一応ここ飲み屋なんだし」
「一応じゃなくても、飲み屋ですけど」
開店前だと言うのに、由之は二人を相手に既に接客に入っている。そんな三人の輪に入る事は難しい。他愛もない時間を共に過ごせばいいだけだが、刑事としての使命からか、三人への嫉妬からか、場の空気を淀ませる一言が漏れる。
「……それで、小林憲治が殺された日は? それぞれ何をしていたか教えてもらいたい」
「やっぱり、小林は殺されていたんだ」
揚げ足を取る夏樹の意図は読めなかった。ただ何か間違っていたのかと、不安な顔で由之を見上げる。
「……やっぱり小林先生は殺されていたんだ」
「ああ、いや。咄嗟に突いただけで、まだ確定はしていないはずだよ」
「……はずって? どういう意味?」
「いや、だから俺はこの事件の担当じゃないから、詳しい事まで情報が下りてくる訳じゃない。ただ、前に聞いた時点ではまだ殺人か事故か確定はしていないと」
「お前さあ、担当じゃないんだろ? それなのに、なんで俺らのアリバイ探ろうとしてんだよ!」
確かにそうだ。夏樹に言い返す言葉なんて何一つ持ってはいない。
「すまない」単に詫びの言葉しか口を突くものはない。
「知りたいなら教えてやるさ。俺はずっと新宿のネカフェにいたんだ。ネカフェだから防犯カメラもある。しっかり俺の姿が映っているはずさ。疑うなら調べてみろよ! すぐに分かるから。俺がネカフェを出たのは朝になってからだ。ちょっと走るためにな。ジョギングに出掛けた姿もカメラに残っているさ」
やけに自信のある言い方に、あっさりと引き下がるしかない。ただジョギングと言うフレーズに引っかかりもするが、その理由を思い浮かべる事など今は出来ない。
「それで? お前こそ何していたんだよ」
「俺はずっと家にいたよ。仕事が終わって、ずっと朝まで。小林の死体が発見された事で呼び出され、現場に駆け付けるまでは、普通に家で寝ていたよ」
「何が普通だよ。お前こそアリバイないんじゃないのか?」
夏樹の言う通りだ。ただ家で寝ていたと言っても、そんな事を証明するものは何もない。安原に疑われたように。小林の教え子だと言う事実があり、小林が死んだ日のアリバイも証明もできない。疑われても仕方ない事は充分に分かっている。
「それで、由之と貴久は?」
夏樹の目は既に由之と貴久へ向いていた。
由之と貴久。二人とも黙っているが、突然振られたからではない理由が見え隠れしているようだった。
「何か怪しいなあ?」
固まった貴久を覗き込みながら、いやらしい笑いを浮かべる夏樹。口を挟もうとも思ったが、ただその様子を眺める。ペースを作るのはいつも夏樹だ。例え刑事である自分が作ったペースだとしても、易々と夏樹が乗ってこない事は理解している。
夏樹同様に、貴久と由之へ交互に視線を投げる。何かを言い出そうとしているのか、由之が貴久に目配せをしている。
「ねえ、貴久、話していい?」
下を向いたままの貴久に由之が声を掛ける。返事をするように小さく頷く貴久。さっきまであれほど迫っていたくせに、夏樹の興味は削がれているようにも見えた。
「小林先生が亡くなった夜は貴久と一緒にいたの。十一時頃だったかな、お客さんも来ないし、そろそろ店を閉めようかなって考えていた時に貴久がやってきて。いつもの事だけど、貴久、すごく酔っぱらっているし、雨に濡れてびしょびしょだし、仕方ないからお店を締めて、貴久を家に連れて帰ったの。あの日は一晩貴久と一緒に過ごしたの。貴久が変な目で見られるのが嫌で、すぐには言い出せなかったけど、ごめんね」
由之が放った最後の『ごめんね』は誰に向けられたものだろうか。由之の視線の先の貴久に顔を向ける。
「貴久、本当なのか?」
貴久が小さく頷く。それ以上何も聞く必要などないのに、興味を削がれていたはずの夏樹が割り込む。
「お前ら、気持ち悪いんだよ。何? 一晩一緒に過ごした? なんか疚しい事でもあるんじゃないの? だから隠そうとしたんだろ」
挑発的な態度に、「やめろよ」と、睨みつける。だがそんな意気込んだ目も夏樹には見えないらしい。
「男同士でなんだ? 気持ち悪い」
「……由之は俺を放っておけなかっただけだよ。俺が酔っぱらって、しかも全身びしょ濡れで、この店に来てしまったから、仕方なく俺を連れて帰ったんだよ。確かに由之のベッドで朝まで寝させてもらったけど、それだけ。ただそれだけだよ。それなのに気持ち悪いって何だよ! 男とホテルに行って、盗み働くお前の方よっぽどおかしいし、気持ち悪いよ!」
貴久の反撃だった。ただ俯いて小さく頷くだけだった貴久が、夏樹へと向き直り繰り広げた反撃。だが吐き捨てた言葉は自分への弁護ではなく、由之への弁護のように見える。
和んだはずの空気を掻き乱したのは、間違いなく自分だと気落ちする。由之にビールを催促する夏樹の表情は不機嫌そのもので、ペースを作り話を進めていく姿勢はもう見えない。
「夏樹が考えるような事は何もないよ。貴久は相当酔っていたし、びしょ濡れだった服を洗濯して、朝になって貴久が目を覚ましたから。ただ、それだけ」
「分かったよ、それ以上聞く事はない。お前らがおかしな関係であったとしても、俺には関係ないし。気持ち悪いが、俺の知った事じゃない。それより……」
さっきまで由之へと向いていた視線が真っ直ぐこっちを向いている。いる。思わずびくっと肩を竦め、夏樹へと聞き返す。
「それより……何だ?」
「ああ、由之と貴久はアリバイがある分けだろ? 俺にもある。晴人、お前が探ろうとしたアリバイ、そのアリバイがないのは、やっぱりお前だけなんじゃないのか? まさかだけど刑事のお前が小林を殺したのか?」
「……おいっ! 何でそうなんだよ」
夏樹の下らない勘繰りに苛立ちが募る。アリバイがないと言うだけならまだしも、どうして刑事でもない夏樹に犯人呼ばわりされないといけないのか。夏樹の胸ぐらを掴みそうになった右手をカウンターの上に振り下ろす。その音に驚いた由之が夏樹を制止する。
「晴人、大丈夫? 夏樹、晴人に謝ってよ。晴人を犯人扱いするなんて酷いよ。晴人は刑事なんだし。だから今回の事件調べているだけで、何の権利があってそこまで晴人に言うのよ!」
由之の手が、振り下ろした手を包んでいる。温かい手に覆われた事で、噴出した苛立ちを鎮めるよう努めてみる。
「お前らさあ、折角の機会なんだし揉めるなよ」
ビールをちびちびと飲んでいた貴久が口を挟む。
「俺たち四人の中に犯人がいるとか、おかしいだろ? 夏樹はアリバイがあるって言っているんだし、晴人は刑事だろ? 俺はその日、酔っぱらってずっと由之の家にいたし、俺ら四人以外の誰かが小林先生を殺したんだ。折角なんだ、楽しく飲もうぜ」
貴久の言う通りだった。偶然が重なっただけ。こうして四人が再会したのも偶然。たまたまそんな偶然に、小学校時代の恩師である小林の死体が発見されると言う偶然が重なっただけ。由之にビールを催促する貴久にいとも簡単に苛立ちを鎮められる。
その薄暗さも不衛生だと感じる要因の一つに違いなかったが、二階の廊下の窓から入る日差しに晒された一角は、口と鼻を塞ぎたくなるような乱雑さがあり、思わず息を止めていた。足早に三階へと駆け上がっても何も変わらない事は分かっている。それでも掻き立てる何かが踏み上がる足を速める。
由之の店の看板はまだ点いていなかった。それはまだ開店前だと言う事だが、躊躇う事なくドアを引き開ける。本来なら『いらっしゃいませ』と、声が響くはずだが、由之は快く迎えてくれていないようだ。
「急に申し訳ない。とりあえず掛けていいかな」
カウンターの中の由之は、「どうぞ」と、小さく首を傾けるだけだ。
「夏樹と貴久ももうすぐ来るはずだから。開店前なのに場所借りてすまない」
「ううん。それはいいんだけど、何の話かなあって」
落ち着かない様子の由之は電子タバコを咥えている。
「話は二人が来てからにしよう。まだ飲む気分じゃないから、何かソフトドリンクあるかな? 何でもいいんだけど」
「何でも言ってもらえれば、一通りはあるから」
何でもと言われはしたが、目に入ってきたのは緑茶のペットボトルだけだった。由之が口にするグラスの中もきっとその緑茶だろう。
「その緑茶で」ペットボトルを指さす。
「お茶でいいの?」由之がグラスに緑茶を注ぐ。
「……何か夕立。急にすごく降って来たぞ」
ドアが開くなり聞こえた声に振り返ると、ジャケットの肩を濡らした夏樹が立っていた。その夏樹に貴久が続いている。
「今、下で会ったんだ。眼鏡のこの顔が、何となく見覚えあったから、声掛けたら貴久だったよ。それより、俺らを集めて何しようって言うんだ? 晴人よ、刑事さんよ」
相変わらずだなと開きかけた口に構う事なく、夏樹がカウンターに腰掛ける。
「由之、冷たいビール頂戴! 貴久お前もビールだろ? 由之、ビール二つ」
店に入った途端、全てのペースを持っていく夏樹には関心するしかなかった。貴久はまだ一言も発していない。だが夏樹はすでにビールへと口を運んでいる。
「急に呼び出して悪かったな」
改まったつもりではないが、カウンターの中の由之と、隣に座る貴久、そして貴久の隣りに座る夏樹の順に目を合わせていく。
「それで? どういう用件だ?」
「いや、三人に確認したい事があって」
「何だ? 小林の事件の事か?」
貴久の向こうで夏樹がのけぞっている。貴久と由之は黙ったまま、やり取りに耳を傾けている様子だ。由之が空になった夏樹のグラスにビールを注ぎ足す。どこから話すべきかと、宙に目を向けながら、徐に口を開く。
「ああ、小林の事だ。今まだ捜査中だから言えない事もある。それに俺は担当ではないんで知らない事もある。でも、前に夏樹が言っていたように、俺ら四人が何かしら関係している事は間違いないと思う」
「そりゃ、そうだろう。俺ら四人の中の誰かが小林を殺したんだ。だってこんな偶然おかしいだろ?」
「殺したって?」貴久が驚きの声を上げる。
「おい、夏樹! 貴久、すまない。俺は関係していると言っただけで、殺したなんて言っていない。」
夏樹に向かい大きな声で制止しながら、貴久と由之の二人に目を合わせていく。珍しく大きな声を出したからか、夏樹の口は再びビールに触れている。
——そのビールでずっと口を塞いでおけ。
そんな意志を込め夏樹を睨みつける。
「俺は死ぬ前の小林に会っているんだ。……小林先生だとは気付かなかったけど、うちの署にタレコミがあって、小林憲治は一度しょっ引かれているんだ。その時、一度顔を合わせている。俺は気付かなかったけど、小林は俺の顔をじっと見ていたんだ。死んだ小林憲治と小林先生が同じ人物だったって知ったのは捜査が進んでからだけど、小林は俺に気付いていたのかも」
「……だから?」夏樹が口を挟んでくる。
「自分は小林憲治を殺していないって言う主張ですか?」
夏樹の声が大きくなっていく。そんな夏樹との間に挟まれた貴久も落ち着いたようで、ようやく重いその口を開いた。
「俺、全然話が見えていないんだけど。確かに、俺の息子は三鷹の塾に通わせているよ。俺にとってはそれだけ。小林先生が息子の塾で講師をしていたなんて知らなかったし、小林先生が死んだって言うのも、安原って言う刑事さんに聞かされて初めて知ったんだ。それなのに俺らの中の誰かが小林先生を殺したとか、全く意味が分からないんだけど」
「すまない、貴久。貴久からは前に聞いているからいいんだ。俺は夏樹と、それと由之に聞きたいんだ」
貴久を通り過ぎ、夏樹を捕える。
「何だよ! 俺かよ。俺は殺される前の小林に会った事あるって、前に言ったろ!」
「会った事あるんだ」貴久の目も夏樹を捕えている。
「ああ、アプリで知り合って一緒にホテルに行ったんだよ。で、あいつがシャワー浴びているうちに、財布からカードと金を盗んで、免許証見たら、小林憲治って名前があったからびっくりしたさ。もう、慌ててホテルを出て行ったさ。小林憲治なんて名前、忘れたくても忘れられないだろ!」
夏樹が吐き出した言葉に大きな嫌悪感を覚えた。それは貴久も同じだったようで、あからさまな軽蔑を夏樹へと向けている。
「死ぬ前に会っていたって事は、夏樹が殺したって言う事なんじゃないのか?」
貴久の言葉は明らかに軽蔑から生まれたものだった。だがその軽蔑は誰にでも理解できるものだ。
「俺も、俺も一度だけ会った事あるよ」
淀んだ空気に一石を投じる一言だった。自ら切り出したと言う事は殺していないと言う主張なのだろうか。由之が投じた一石に様々な思考が巡る。
「何だよ! お前も会った事あるのかよ」
夏樹がぴくぴくと鼻を膨らます。にやりと笑うその顔は前に嫌悪を示した表情と同じものだ。
「それで? どう言うことだよ?」
「えっと、一度だけこの店に飲みに来た事があって。シンちゃんって言う常連さんがいるんだけど、その常連さんに紹介されたとかで、ショウイチさんって言う人と二人で来てくれた事があるの」
「それはいつ?」
「六月の終わりか、七月の初めだったと思うけど」
「それじゃあ、小林先生が死ぬ一か月ちょっと前だな」
由之が続く事はなかった。緑茶に口を付けながら、もう一度思考を張り巡らせてみる。
児童買春でしょっ引かれた小林憲治。その件はタレコミがあった。じっとこちらを見ていた小林憲治。貴久の息子が通う塾に勤めていた小林憲治。だが貴久は何も知らなかったと言う。それに夏樹だ。アプリで知り合い一緒にホテルへ行った男が小林憲治だったと言う。忘れたくても忘れられない名前だと言った夏樹。更にこの由之の店に来ていた小林憲治。
整理しても整理しきれない情報が頭の中を行き交う。
——同級生とはこう言うものなのだろうか?
さっきまで疑心暗鬼でお互い刃を合わせていたのに、夏樹と貴久は、乾杯! と、グラスを合わせている。そんな二人の姿を由之も笑って見ている。刑事と言う立場の自分が混じらなければ、単純に再会を祝う場だ。
「お前もお茶じゃなく酒飲めば? 一応ここ飲み屋なんだし」
「一応じゃなくても、飲み屋ですけど」
開店前だと言うのに、由之は二人を相手に既に接客に入っている。そんな三人の輪に入る事は難しい。他愛もない時間を共に過ごせばいいだけだが、刑事としての使命からか、三人への嫉妬からか、場の空気を淀ませる一言が漏れる。
「……それで、小林憲治が殺された日は? それぞれ何をしていたか教えてもらいたい」
「やっぱり、小林は殺されていたんだ」
揚げ足を取る夏樹の意図は読めなかった。ただ何か間違っていたのかと、不安な顔で由之を見上げる。
「……やっぱり小林先生は殺されていたんだ」
「ああ、いや。咄嗟に突いただけで、まだ確定はしていないはずだよ」
「……はずって? どういう意味?」
「いや、だから俺はこの事件の担当じゃないから、詳しい事まで情報が下りてくる訳じゃない。ただ、前に聞いた時点ではまだ殺人か事故か確定はしていないと」
「お前さあ、担当じゃないんだろ? それなのに、なんで俺らのアリバイ探ろうとしてんだよ!」
確かにそうだ。夏樹に言い返す言葉なんて何一つ持ってはいない。
「すまない」単に詫びの言葉しか口を突くものはない。
「知りたいなら教えてやるさ。俺はずっと新宿のネカフェにいたんだ。ネカフェだから防犯カメラもある。しっかり俺の姿が映っているはずさ。疑うなら調べてみろよ! すぐに分かるから。俺がネカフェを出たのは朝になってからだ。ちょっと走るためにな。ジョギングに出掛けた姿もカメラに残っているさ」
やけに自信のある言い方に、あっさりと引き下がるしかない。ただジョギングと言うフレーズに引っかかりもするが、その理由を思い浮かべる事など今は出来ない。
「それで? お前こそ何していたんだよ」
「俺はずっと家にいたよ。仕事が終わって、ずっと朝まで。小林の死体が発見された事で呼び出され、現場に駆け付けるまでは、普通に家で寝ていたよ」
「何が普通だよ。お前こそアリバイないんじゃないのか?」
夏樹の言う通りだ。ただ家で寝ていたと言っても、そんな事を証明するものは何もない。安原に疑われたように。小林の教え子だと言う事実があり、小林が死んだ日のアリバイも証明もできない。疑われても仕方ない事は充分に分かっている。
「それで、由之と貴久は?」
夏樹の目は既に由之と貴久へ向いていた。
由之と貴久。二人とも黙っているが、突然振られたからではない理由が見え隠れしているようだった。
「何か怪しいなあ?」
固まった貴久を覗き込みながら、いやらしい笑いを浮かべる夏樹。口を挟もうとも思ったが、ただその様子を眺める。ペースを作るのはいつも夏樹だ。例え刑事である自分が作ったペースだとしても、易々と夏樹が乗ってこない事は理解している。
夏樹同様に、貴久と由之へ交互に視線を投げる。何かを言い出そうとしているのか、由之が貴久に目配せをしている。
「ねえ、貴久、話していい?」
下を向いたままの貴久に由之が声を掛ける。返事をするように小さく頷く貴久。さっきまであれほど迫っていたくせに、夏樹の興味は削がれているようにも見えた。
「小林先生が亡くなった夜は貴久と一緒にいたの。十一時頃だったかな、お客さんも来ないし、そろそろ店を閉めようかなって考えていた時に貴久がやってきて。いつもの事だけど、貴久、すごく酔っぱらっているし、雨に濡れてびしょびしょだし、仕方ないからお店を締めて、貴久を家に連れて帰ったの。あの日は一晩貴久と一緒に過ごしたの。貴久が変な目で見られるのが嫌で、すぐには言い出せなかったけど、ごめんね」
由之が放った最後の『ごめんね』は誰に向けられたものだろうか。由之の視線の先の貴久に顔を向ける。
「貴久、本当なのか?」
貴久が小さく頷く。それ以上何も聞く必要などないのに、興味を削がれていたはずの夏樹が割り込む。
「お前ら、気持ち悪いんだよ。何? 一晩一緒に過ごした? なんか疚しい事でもあるんじゃないの? だから隠そうとしたんだろ」
挑発的な態度に、「やめろよ」と、睨みつける。だがそんな意気込んだ目も夏樹には見えないらしい。
「男同士でなんだ? 気持ち悪い」
「……由之は俺を放っておけなかっただけだよ。俺が酔っぱらって、しかも全身びしょ濡れで、この店に来てしまったから、仕方なく俺を連れて帰ったんだよ。確かに由之のベッドで朝まで寝させてもらったけど、それだけ。ただそれだけだよ。それなのに気持ち悪いって何だよ! 男とホテルに行って、盗み働くお前の方よっぽどおかしいし、気持ち悪いよ!」
貴久の反撃だった。ただ俯いて小さく頷くだけだった貴久が、夏樹へと向き直り繰り広げた反撃。だが吐き捨てた言葉は自分への弁護ではなく、由之への弁護のように見える。
和んだはずの空気を掻き乱したのは、間違いなく自分だと気落ちする。由之にビールを催促する夏樹の表情は不機嫌そのもので、ペースを作り話を進めていく姿勢はもう見えない。
「夏樹が考えるような事は何もないよ。貴久は相当酔っていたし、びしょ濡れだった服を洗濯して、朝になって貴久が目を覚ましたから。ただ、それだけ」
「分かったよ、それ以上聞く事はない。お前らがおかしな関係であったとしても、俺には関係ないし。気持ち悪いが、俺の知った事じゃない。それより……」
さっきまで由之へと向いていた視線が真っ直ぐこっちを向いている。いる。思わずびくっと肩を竦め、夏樹へと聞き返す。
「それより……何だ?」
「ああ、由之と貴久はアリバイがある分けだろ? 俺にもある。晴人、お前が探ろうとしたアリバイ、そのアリバイがないのは、やっぱりお前だけなんじゃないのか? まさかだけど刑事のお前が小林を殺したのか?」
「……おいっ! 何でそうなんだよ」
夏樹の下らない勘繰りに苛立ちが募る。アリバイがないと言うだけならまだしも、どうして刑事でもない夏樹に犯人呼ばわりされないといけないのか。夏樹の胸ぐらを掴みそうになった右手をカウンターの上に振り下ろす。その音に驚いた由之が夏樹を制止する。
「晴人、大丈夫? 夏樹、晴人に謝ってよ。晴人を犯人扱いするなんて酷いよ。晴人は刑事なんだし。だから今回の事件調べているだけで、何の権利があってそこまで晴人に言うのよ!」
由之の手が、振り下ろした手を包んでいる。温かい手に覆われた事で、噴出した苛立ちを鎮めるよう努めてみる。
「お前らさあ、折角の機会なんだし揉めるなよ」
ビールをちびちびと飲んでいた貴久が口を挟む。
「俺たち四人の中に犯人がいるとか、おかしいだろ? 夏樹はアリバイがあるって言っているんだし、晴人は刑事だろ? 俺はその日、酔っぱらってずっと由之の家にいたし、俺ら四人以外の誰かが小林先生を殺したんだ。折角なんだ、楽しく飲もうぜ」
貴久の言う通りだった。偶然が重なっただけ。こうして四人が再会したのも偶然。たまたまそんな偶然に、小学校時代の恩師である小林の死体が発見されると言う偶然が重なっただけ。由之にビールを催促する貴久にいとも簡単に苛立ちを鎮められる。
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サイエンスホラーミステリー! 身体を改造された少女は事件を解決し冤罪を晴らして元の生活に戻れるのだろうか?
*追加加筆していく予定です。そのため時期によって内容は違っているかもしれません、よろしくお願いしますね!
*他の投稿小説サイトでも公開しておりますが、基本的に内容は同じです。
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