【完結】汚れた雨

かの翔吾

文字の大きさ
上 下
14 / 31

14 居酒屋・晴人と貴久

しおりを挟む
 九月に入ったが強い日差しは治まる事を知らなかった。連日降り続けた雨はもう降らす水分がないのか、九月に入りどんよりとした空を見上げる日もなかった。だから余計に体内の水分を奪っていく強い日差しだけが、悪目立ちしているような天候だった。そんな九月を待っていた訳ではなかったが、九月に入るのを待ち、貴久が勤める新宿東小学校に電話を掛けた。

 もしかしたらすでに安原がアプローチしているかもしれない。その可能性は高かったが、躊躇する理由はなかった。貴久は同級生である。先日の再会の日は、伏せられたその顔を見る事はなかった。だが同級生に違いはない。夏樹が拘る同級生と言う関係に、半ば呆れはしていたが、今はすがろうとしている。

「急に呼び出して申し訳ないです。新宿東署の古賀晴人です」

 新宿東小学校の門で待ち構え、貴久らしき男を見つけるや否や早急に声を掛けた。電話で同級生を名乗らなかった事に、貴久は怪訝な顔をしている。あの日カウンターに伏せたままで見る事が出来なかった顔を目の前にしても、小学生の頃の記憶を蘇らせる事は出来ない。

「それで、刑事さん。どう言った用件ですか? 先日もお話ししましたけど、何も知らないです。確かに息子は三鷹の塾に通ってはいますけど」

 貴久の対応に、安原が既に訪れていた事を知らされる。貴久に確認したい事はすでに安原が聞いているだろう、同じ質問を投げたところで貴久の対応はきっと変わらない。

「うちの安原、来たんですね。すみません」

 ここではなんだからと、小学校の門を離れ歩き出した貴久に続く。

「覚えていないかもだけど、この間、会ったんだよ。俺……。覚えていないかな? まあ、俺も覚えていなかったんで、仕方ないんだけど」

 急に言葉を崩してみた。その話し方がどんな効果を生むかは分からないが、貴久はそんな対応を受け入れたようだった。

「えっ? どこかで会いました? 覚えてないけど」

「覚えてなくても仕方ないよ。けっこう酔っていたと思う。……二丁目の、由之の店だよ」

「えっ? 由之の?」

 貴久はすっかり納得したようで、怪訝な顔はもうなくなっていた。

「由之と同級生だっただろ? 実は俺も。こないだ店で会って、あっ、貴久は酔い潰れていたけどね。その時に由之から小学校時代の同級生だって聞いたんだよ。本当びっくりしたけど」

 わざと馴れ馴れしく貴久と呼んでみた。必要以上に言葉を連ね、少しでも距離を縮める事。それが今は正解だと確信が持てる。

「夏目晴人だよ。今は古賀だけど。小学校の時、一緒だっただろ?」

 名乗ってはみたが、まだ思い出せない様子で、眼鏡の奥の目をきょとんとさせている貴久。それでも警戒心なんてものは持ち合わせていない様子だ。

「この間、由之の店で会って、そうしたらその後、捜査の中で貴久の名前が出てきて。うちの安原が訪ねたのはその件なんだけど。それで俺も貴久と話がしたくなって、こうして連絡取ったんだよ。もし良かったら少し話を聞かせてくれないか? 居酒屋かどこかでいいから、それに支払いは俺が持つし」

「少しの時間で良ければ」

 貴久の快諾に歩を速めた。気が変わる前に、どこでもいいから早く店に入ってしまおう。そんな考えが頭に浮かぶ。新宿駅まで歩くと言う貴久に合わせ、三丁目辺りの居酒屋を目指す。


 まだ早い時間にもかかわらずカウンターに並ばされる事になった。

 今日は早い時間からの予約が多くてと、言い訳する店員にビールを注文する。店内を見回しても、まだ空席が多かったが、これから時間で予約客に埋められていくのだろう。

「……それでだけど、先日、死体で発見された小林憲治。あの小林が、小林先生だって貴久は知っていた?」

 急に殺人事件を持ち出したからか、頼んだビールがまだ届かないからなのか、貴久の顔が一瞬にして不機嫌なものに変わる。

「あ、ごめん。変な意味じゃなくて。俺は小林に会っていたみたいなんだけど、全然、小林先生だって気付かなくて。でも、小林先生に気付いていたって言う同級生がいて。だから貴久はどうだろうって」

「確かに息子の航太は三鷹の塾に通わせているし、その塾で小林先生が働いていたって聞かされたけど、その話を知ったのは、この間、安原さんだっけ? 刑事さんが来て、初めて知った事だし。……それより、その同級生って? 由之?」

 貴久の問い掛けに、由之に大事な事を聞くのを忘れていた事を思い知らされる。由之は死ぬ前の小林に会っていたのだろうか。

「由之じゃないよ。夏樹、三春夏樹。夏樹にも偶然会って、その時に聞いたんだ。夏樹は死ぬ前の小林先生に会っていて、しかも気付いていたって」

「ああ、三春夏樹!」

 貴久があっさりと夏樹の名前に反応する。さっき夏目晴人だと名乗った時には見せなかった小さな驚き。少しではあるが夏樹への嫉妬を覚える。

「この間、由之の店で貴久を見掛けた時、夏樹と一緒に店に行っていたんだよ。俺と夏樹と由之。それと貴久と。何か可笑しな偶然だろ?」

「そこに俺いたんだ、酔って寝ていたから、全然覚えていないけど」

 眼鏡の奥の貴久の目は笑っていた。

「生ビール一つ!」

 威勢の良い声を店員へと投げる。目の前の貴久のジョッキがもうすぐ空になるからだ。

「ああ!」 その時だ。貴久が急に大きな声を上げた。

「どうしたんだよ、急に」

「ハル、ナッチ、タカちゃん、ヨッシーだ。そんなふうに呼び合っていたよな」

「ああ、そうだよ」

「お前、すっかり変わったな。刑事だなんてびっくりだよ」

 ようやく小学校時代の自分を思い出された事に胸を撫で下ろす。自分は覚えていなかったが、他人に覚えてもらえていない事は寂しくもある。

「それじゃあ、貴久は死ぬ前の小林先生には会っていないんだな?」

「ああ、会ってないよ」

「死んだ小林が、小林先生だったって事も、刑事の……うちの安原から知らされた」

「ああ、そうだよ。小林先生の死体が見つかったって事も、その安原さんから聞かされたんだよ。そんなに大きなニュースになったのか? 俺、知らなかったけど」

 貴久の言葉に嘘は見えない。もし嘘を付いているなら、安原が見逃す事もないだろう。今は素直に同級生との再会を喜び、貴久の二杯目のジョッキに自分のジョッキを合わせ、乾杯をすればいい。

 名刺の裏に携帯番号を書き、貴久へと差し出す。

「何かあったら、ここに連絡くれないか」

 貴久は携帯番号をスマホに入力し、名刺を財布へと差し入れた。

 その時、ポケットに入れたままスマホが震えた。

「それが、俺の番号だから」

 図らずとも貴久の連絡先を手に入れた事に何故かほっとしていた。小林憲治の事は何も知らなかった。自分と同じ感覚を持つ貴久には安心できる。自分の知らない事を知っている夏樹には、持つ事のできなかった感情であった。夏樹に同級生だと言われた時には持つ事のできなかった感情。今、貴久を目の前にし、こんな再会も悪くないと心から思える自分がいる。
しおりを挟む

処理中です...