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Chapter 1 『苺とチョコレート』

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 三月だからか十九時と言う時間でも、すっかり夜だと言う気分にさせられる。店に唯一ある小さな窓は一点の明かりを灯す事もなく真っ暗だ。

 数年前なら近隣のネオンを映していただろう小さな窓。何も考えず、ただぼんやりとそんな窓を眺めていた時、背中で勢いよくドアが開いた。訪れたのは君生だった。永井が定時に上がり、一人で聞き込みをする必要もなくなったのだろう。黒いジャケットを手にした君生は、まだ少し早いように思うが、グレーのTシャツに大きな汗染みを作っていた。

「お前、何だ? その汗。まだ三月なのに」

「まだ三月なのに今日の最高気温二十七度ですよ。二十五度以上だから夏日ですよね。すっかり日も落ちたのにまだまだ汗だらだらです。って、秀三さんめちゃくちゃ涼しい顔しているじゃないですか! 俺がこんなに汗流して働いてきたのに」

「まあな。今日はまだ一歩も外に出ていないんだ」

「えっ? もうこんな時間ですよ。飯は? どうしたんですか?」

「デリバリーだよ」

 ソファの上に投げた、バーガー屋のロゴが入った紙袋を指差す。ハンバーガー三つとポテトを店にあった緑茶で流し込んだ腹は、紙袋を放り投げてから既に六時間は経っているが、まだ充分に満たされている。

「それで、どうだった? 調べてくれたんだろ?」

「ええ、調べましたよ。ただあくまで小峰遼の転落死は事故で、今野、高橋、河野の三人の関連は実証されていませんでした。一応これ当時の記録です。あっ、勿論口外しないで下さいよ。こっそりコピーして持ってきたんだから」

「分かっているよ。お前には迷惑掛けないから。だけどお前だって、俺の助けが必要なんじゃないのか? もし今野と高橋の一件がこの十七年前の事件と何か関連性があるなら、もう一度洗い直さないといけないだろうし」

 手渡された記録に目を通す。表紙に書かれた記録者の名前。

「当時、担当していたのって、これ永井さんじゃないか」

 永井健と書かれた名前にほんの少し気持ちが昂る。全く知らない刑事が担当していた訳ではない。もしかすれば何か情報を聞き出せるかもしれない。

「そうなんですよ。今日もちらっと聞いてみようかと声掛けたんですけど、話の途中でそそくさと逃げられてしまいました。毎日毎日急いで帰るんですよ!」

「それなら時間内に話を聞けば大丈夫って事だな」

 口角を上げた顔を君生へ向け、再び記録に目を落とす。

 小峰が話したように、事故が起きた日はバレンタイン・デーだ。

 二〇〇五年二月十四日、月曜日。夜の九時二十五分。新宿一丁目。小峰遼、十九歳が歩道橋から転落。靖国通りを走行していた乗用車のフロントガラスに落下。その後、地面に叩きつけられ、後続車にかれる。その三分前、靖国通り沿いにある駐車場の防犯カメラが小峰遼と成田和弥の姿を捕えていた。カメラの前を二人が通り過ぎた直後、走り抜ける三人の少年の姿を同じカメラは捕えていた。河野太一、今野陽介、高橋潤。三人の少年は十九歳。

 読み取れる事は小峰から聞かされた話と同じだったが、それだけではない事実もあった。ただそれは大した関与がないと見做みなされたのか、たったの二行でその記録を終わらせている。

 靖国通りの新宿五丁目側、多くの野次馬と見られる人込みの中に白装束しろしょうぞくの男達の姿があった。

「白装束?」

 一体何者だ? 記録を手にしながら君生に向き直った時、店のドアが開かれた。

「今日のこの暑さ、何?」

 直樹が姿を見せたが、言葉通りグレーのTシャツには大きな汗染みを作っている。

「何でお前ら、二人揃ってTシャツがグレーなんだよ? 一番汗が目立つ色じゃないか」

 胸元に同じような汗染みを作った二人を見比べ、ぷっと噴き出す。

「だって、こんな暑くなるなんて分からなくて、君ちゃん、お願い。コーラにたっぷりの氷入れてちょうだい。今、一番体が欲しているものは炭酸なの」

 外の暑さから解放されようやく一息ついたのか、ふーっと、直樹が長い息を吐く。

「俺もコーラ貰いますけど、秀三さん、何か入れますか?」

「ああ、俺もコーラで。氷は入れなくていい」

「えっ? 氷なし? あっ、最低。あたしと君ちゃんを暑い外に放り出して、自分一人涼しい所にずっと居たんでしょ? 信じられない! ほんと秀三って最低な男だわ!」

 手でぱたぱたと顔を仰ぎながら、小峰駿が腰掛けていた臙脂色のソファに、直樹が腰を下ろす。

「君ちゃん、コーラ! 早く!」

「自分で持っていて下さい」

 君生はグラスにコーラのペットボトルまで手渡している。

 空にしたグラスに更にコーラを注ぎ、落ち着いたのか、直樹がソファに深く腰を沈める。そんな直樹の隣にコーラを口にしながら君生が座る。二人を前にし、三人でテーブルを囲む。テーブルの上にはさっきの記録だ。

「今日、杉並方面の配達に当らなかったけど、秀三のお願いだから、頑張って自転車漕いで来たのよ。もう、あの暑さの中、干からびて死ぬかと思ったわよ」

 口を尖らせてもやはり可愛いと言える歳ではないが、とりあえず申し訳なさそうな顔を作ってみせる。勿論、申し訳ないなんて気持ちは毛頭ないが、その程度の事で気が鎮まるなら、どんな表情だって作ってやる。

「まあ、直樹はうちの調査員だからな。それくらい頑張って貰わないと。とりあえずお疲れさん。まあ、好きなだけコーラ飲めよ」

「えっ? あたしここの調査員だったの?」

 気を鎮めるための一言だったが、調査員と言うその言葉に引っ掛かったようで、結果、地雷を踏んだようだ。調査員なんて言葉を口にした事。後悔は先に立たない。直樹が捲し立てるように、尖らせた口で攻撃を始める。

「調査員って、あたし秀三に雇われてなんかないわよ。それにお給料なんて貰っていないし。あたしの事を調査員だってコキ使うなら、お給金頂くわよ!」

「いやいや、給料の代わりに毎晩、タダ酒飲んでいるだろ? 毎晩好きなだけ飲ませてやっているんだから。それよりどうだった? 頼んだ件は?」

「言われてみれば、そうね。毎晩タダ酒戴いているし、これからもずっと戴く事になるし。まあ、調査員って響きも悪くないわよね。で、例の件よね。ちゃんと出されていたわよ。二〇〇五年の二月十五日。成田裕次郎、ああ、成田和弥の父さんね。成田裕次郎によって、成田和弥の失踪届がちゃんと出されていたわ。ただ届が出されていただけで、それ以外の情報は何もなし。って、言うか、警察が何か調べていた形跡なんてなかったような——」

「いや、充分だ。これで依頼人の、小峰駿の話の裏は取れた訳だし」

「えっ? 依頼人って? それに失踪届って?」

 直樹が持ち帰った情報に君生が目を丸くする。そう言えば、君生にも直樹にもまだ全てを話してはいなかった。

 ただそれぞれにメッセージを送り、要は使いを頼んだだけだ。二人を巻き込む必要はないが、今野陽介と高橋潤の事件が関係しているのなら、新宿東署の刑事と言う君生の立場は利用したい。それに直樹のフットワークの軽さも、調査員としては充分役に立つ。タダ酒が給料代わりだと言う事に異論はないようだし。

 首を突き合わす君生と直樹に今朝受けた依頼の詳細を説明する。

 黒川オーナーに連れられてきた小峰駿が依頼人である事。駿の双子の兄、遼が十七年前、歩道橋から転落死した事。遼が転落死する前、三人の男にホモ狩りに遭い、その三人のうちの二人が今野陽介と高橋潤である事。そして遼と共にホモ狩りに遭った成田和弥が失踪した事。その成田を探して欲しいと言う依頼である事。

「——ホモ狩り!?」

 大きな反応を示したのは君生だった。確かに二十代の君生にとっては、リアルタイムで耳にした事がない話だろう。

「——そんな時代もあったわね」

君生の大きな反応に対し、直樹の反応は静かだった。

「新木場の事件はもう二十年以上前の話よね。でも十七年前ならまだあたし達も地位を確立出来ていなかった頃よ」

 直樹が言わんとする事を君生は理解できないようで、大きな反応を示しはしないが、救いを求めるような目をこちらに向けている。

「俺達ゲイが虐げられていた時代があったって事だよ」

「昨日、『苺とチョコレート』の話したわよね? あの映画は三十年近く前のキューバの映画だけど、映画の中で主人公は同性愛者だって言うだけで国を追われるの。勿論、十七年前の日本で国を追われるなんて事はなかったけど、それに似たようなバッシングはまだ残っていたわ」

「そうなんですか?」

 君生が生きてきた現実にはなかった話だろう。十七年前の日本の事件も、三十年前のキューバの映画も、どちらも遠い次元の話にしか捉えられないようだ。

「あら、やだ。なんかしみじみさせちゃったわね。ごめん、ごめん。それで転落死した小峰遼の弟さんの小峰駿が依頼人で、小峰遼の恋人だった、成田和弥を探せって言う話ね」

「ああ、そうだ」

「双子の兄の恋人だった人を探してくれって、何で自分の恋人でもないのに、何かおかしな依頼ですね」

 君生は恋愛経験も乏しいのだろう。確かにペアを組んでいた去年まで、側に居ながら浮いた話など一度も聞いた事はなかった。

「若い君ちゃんには分からないだろうけど、きっと大人の事情があるのよ。それよりさっき白装束って言っていなかった? 店の外に秀三の大きな声が響いてきたんだけど」

 白装束? 

 そうだ白装束の男達だ。たった二行で片付けられていた、その記録にもう一度目を落とす。

「野次馬の中に白装束の男達の姿があったって。これについて何か調べていないのか?」

 記録が直樹の手の中へ奪われる。その記録を横目にしながら、君生がしたり顔を向けてくる。何かを言う訳でもない。何かを勿体ぶっているのは分かるが、その顔は追い駆けたフリスビーを咥えた犬と大差ない。犬をしつけるようにまずは褒めてくれと言う事だろう。

「ちゃんと調べているようだな。さすが俺の後輩だっただけはある。それで優秀な刑事は何を調べてきてくれたんだ?」

「はい。この白装束の男達って言うのが、俺も気になったんで、永井さんに何か知らないかって聞いたんです」

「それで?」

「その日、区の文化センターのホールでイベントがあったらしいです。白装束の男達はそのイベントの関係者です。イベントの後、大型バスに乗り込むために靖国通りにいたらしいです」

「ああ、確かに文化センターの前じゃ、大型バスは入っていけないからな。それでそのイベントって何だったんだ?」

「イベントですか? それは、えーっと、確か、セ、セ……」

「セ、何だ?」

「だから、セ、セ、セ、セ……」

 優秀な刑事と言ったのは撤回だ。馬鹿の一つ覚えのように、と言う一文字だけを繰り返す君生の眉がハの字に下がっていく。

「もう、は分かったから。何なんだそのイベント」

「だから、何とかって言うイベントで、トルコの伝統的な舞踊のショーだって、永井さんが」

「トルコ? 何だ、セマーの事だったのね?」

「そうです! そのセマーってやつです」

 君生の眉がハの字から戻り、追い駆け続けた尻尾が自分のものだと気付いた犬のような表情に変わる。

「直樹知っているのか? そのセマーって」

「ええ、勿論。トルコも何回も行ったもの」

「ええ、いいなあ。直樹さん。トルコとか行った事あるんですね」

「仕事だけどね。これでもツアコンとして、世界中を旅していたのよ。九十七か国。あと三か国で百か国制覇だったのに、アゼルバイジャンとジョージアとアルメニアのツアーが消えて、百か国制覇の夢は無残に散ったわ。こんな事態じゃなければ、フーデリで駆け回るんじゃなく、世界を駆け回っていたのに。本当、感染症クソだわ」

 突然口が悪くなった直樹の悔しさは分からなくもないが、口にした三か国はどうでもよく、今欲しいのは、セマー。そのトルコの情報だ。

「それでそのセマーって」

「ああ。ショーだって君ちゃんは言ったけど、元は宗教的な儀式だったはずよ。確かにあたしがイスタンブールで観た時もショーの形だったけど。トルコの内陸部にコンヤって町があって、そこにメヴラーナ博物館ってあるの。メヴラーナさん? まあ、いいや。そのコンヤって町がメヴラーナさんを中心とするメヴレヴィー教の拠点だったの。そのメヴレヴィー教の宗教儀式がセマーなの」

「やけに詳しいな」

「当たり前じゃないの! あたしこれでも九十七か国を観光案内して歩いて来たのよ!」

 また悔しさを思い出して、話を逸らされないうちに畳みかける。

「そのセマーってやつは白装束で行われるのか?」

「そうよ。全身真っ白の衣装よ。あれ、ワンピースなのかな? くるくる回ると、白いスカートがふわっと。やだ! 白いスカート!」

 直樹の知識に感謝だ。自分で口にしておきながら、驚きを封じ込めるように、両手でその口を塞いでいる。その驚きは間違いなく同じ考えに導かれてのものだ。

「これって、繋がったんですかね?」

 驚きは君生にも伝染していた。

 今野陽介と高橋潤殺害の夜の目撃証言。

——白いスカートの男。

 白いスカートの男は女装の男ではなく、このセマーに関係がある。小さな痞えではあったが、脳に作られたインク染みが綺麗に漂白され消えていった。見慣れた女装ではないスカートの男だったから、それが目撃証言となったのだ。

 今野陽介、高橋潤殺害の夜と、十七年前の小峰遼転落死の夜。白いスカートの男の目撃証言が、偶然となる確率はどれ位だろうか。そんな偶然あるはずがないと言う自信に思わず笑みが零れる。顔を見合わす君生と直樹にも同じような笑みが零れている。
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