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Chapter 1 『苺とチョコレート』

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 甘ったるい酒を飲んだだけの翌日だ。目覚めは良いはずなのに、脳に小さなインクみを付けられたような気分だ。二日酔いではないインク染みは理由の分からない痞え。

——集中豪雨。

——白いスカートの男。

 カウンターを汚すこぼれた牛乳に、聞き込みを続ける君生の姿が浮かんだが、昨日の今日だ。捜査に進展があるとは思えない。それにペアである永井への信頼の薄さは普段の口ぶりからも分かっている。君生の事だからもし何か分かればすぐにでも飛んで来るだろう。

——ジムにでも行って、一っ風呂浴びるか。

 カウンターの隅に置かれたモーツァルトリキュールの空瓶をゴミ箱に投げ入れ、タオルや着替えを詰めたジム用のリュックを肩に掛けた。刑事を辞め、新宿六丁目にある独身寮を出たあと、部屋を借りる事もなく、この二丁目の雑居ビルで寝起きしている。BAR『探偵物語』そして『辻山秀三探偵興信所』と、名前が付いていても、ここは住処すみかであり、そんな雑居ビルの一室にシャワーなんて気の利いたものはない。

 いつの間にか空にした、甘いリキュールでは深酒にもならず、心地よい朝を迎えられている。確かに小さなインク染みが滲みてはいるが、心地良い朝はジムに行ってシャワーを浴びると言う、毎朝のルーティンを促す。そんなルーティンのお陰で、刑事の頃よりさらに膨れ上がった胸筋に、何気なく手を当てた時、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。

「おい、秀三いるか?」

 鍵を掛けていないドアが開かれ、そこに黒川晶くろかわあきらの顔が現れた。六十は過ぎているはずだが、血色の良い顔は剥きたてのゆで卵のようにてかっている。ただそのてかりが前頭部から後頭部まで続いている事に、やはり六十と言う歳にあらがえない事がうかがえる。

「あ、オーナー。おはようございます。朝っぱらからどうしたんですか?」

「お前なあ、もう十時半だよ。朝じゃなく、昼前だ」

「……はあ」

 時間と言うものは人によって様々な受取り方が出来るが、十時半は間違いなく朝だ。ついさっき目覚めたばかりで、受け入れたばかりの心地良い朝。ただそんな反論をしても、無意味な事は承知している。一言漏らした頼りない返事に続き、肩に掛けたリュックを椅子の上に滑らせる。

「ジムか?」

「はい、そのつもりでしたけど」

「体造りも大事だが今日のジムは後だ。今日はまず仕事だ」

 まるで親か上司のようなその口調には逆らえない。はあ。と、もう一度、頼りない返事をするより先、オーナーの後ろに男の姿が現れた。開けっ放しのドアの向こう、昇り切った階段の踊り場に姿を見せたその男に見覚えはない。

「こっちだよ、入りなさい」

「えーっと、誰ですか?」

「誰って、お前。依頼人だよ。依頼人。それじゃあ、俺はこれで」

 顔を覗かせた男の肩を叩き、オーナーが階段へと足を向けている。

「オーナー、ちょっと待って下さい。いきなり依頼って、どんな依頼ですか? それに『それじゃあ』って無責任ですよ」

「はあ? 詳しくは彼に、この小峰こみねさんに聞けばいい」

 オーナーと入れ替わり、店に足を踏み入れた小峰は、戸惑いを隠せない様子で、目をきょろきょろと泳がせている。依頼と言うからには、探偵興信所に用があって足を運んだ事だろう。それがこんな新宿二丁目の雑居ビルのゲイバーに連れて来られたんだから、目を泳がせたくなる気持ちはよく分かる。

「すみません。黒川オーナーからどのように聞いているか分かりませんが、一応、私がこの探偵興信所の所長、辻山秀三です」

「こちらこそすみません。こんな朝っぱらから」

 軽く会釈する小峰にまだ朝っぱらだと言う共通認識が持てた。これでオーナーに反論する事が出来る。拳に少しばかりの力が入ったが、踊り場にも階段にも、てかった後頭部はもう見つけられない。

「突然こんな所に連れて来られて驚いたでしょう。御覧の通りここはゲイバーです。夜は『探偵物語』と言う名前で店を開いています。勿論、その店のマスターとして、夜はここにいますが……。あっ、一階の看板見ませんでしたか? 『探偵物語』の看板の横に、『辻山秀三探偵興信所』の看板があったと思うんですが、それもここです。とりあえずお話を伺いますから、こちらへ」

 オーナーへ反論するため準備していたからか、口が自然と軽くなっていく。長台詞をNGなしで言い終えた俳優のような気分で、ボックス席のソファの埃を手で払う。ベッド代わりに一晩、横になっていた時には気にもならなかったが、依頼主を座らせるとなると、古臭い臙脂えんじ色のソファの埃がやけに気になるものだ。

「すみません。ありがとうございます。それで、申し遅れましたが、私、小峰と言います。小峰駿しゅんです。よろしくお願い致します」

「こちらこそ。それで、黒川オーナーのお知合いなんですか?」

「はい、いや、いいえ……ですね。友人に紹介して貰ったんです。黒川さんのビルに探偵事務所があって、黒川さんなら知り合いだから紹介出来ると。……なので、黒川さんは友人の知り合いです」

 臙脂色のソファにようやく腰を落ち着けたように見えた小峰だが、その目はまだきょろきょろと泳いでいる。そんな小峰に対峙する前、まずはお茶の一つでもと思ったが、急須に湯呑なんて絵に描いたような茶器もなく、冷蔵庫から取り出したペットボトルの緑茶をグラスへと注ぐ。

「どうかお構いなく」

 ゲイバーのボックス席には馴染むが、探偵興信所には不釣り合いなテーブルの上に差し出したグラスに小峰が軽く首を振る。ここへ辿り着いた経緯は分かったが、いったいどんな依頼だろうか。数ある探偵事務所からわざわざここを選んだのだから、この新宿二丁目で起こったトラブルだろうか。友人が黒川オーナーの知り合いだと言うのだから、その可能性は高い。

「……それで、どのような依頼でしょうか?」

「あっ、すみません。そうでしたね。このソファがあまりにも座り心地が良くて、一瞬、辻山さんに依頼に来た事を忘れて、バーに来た気分になっていました」

 ベルベットなのかどうかは分からないが、それに似た臙脂色の布を小峰が掌でさすっている。その指先があまりにもしなやかすぎてつい見入ってしまう。この新宿二丁目にはすぐ馴染めるだろう人間だと、咄嗟に判断させられる。いや、もしかすれば既にこの町の住人なのかもしれない。

「あの、どこからお話すれば——」

「どこからでも構いませんよ。時間はあるんで、ゆっくりお話をお伺いします」

「あっ、はい、そうですね。それじゃあ……。先週末この近くの新宿公園で今野陽介と高橋潤と言う男。二人の死体が見つかったのはご存じでしょうか?」

「ええ、もちろん」

 昨日の今日だ。

 君生から聞かされた詳細。詳細と言っても、その身元くらいで、まだ何一つ進展はしていない事件。君生に見せられた写真の今野陽介と高橋潤の顔がぼんやりと浮かびはするが、その二人の顔を遮るように、何故か一度も観た事のない映画、『苺とチョコレート』のシーンが重なる。一度も観た事がないのだから確かなシーンが浮かぶはずもないが、苺のアイスとチョコレートのアイスを並んで食べる男二人の姿は、耳にした話からも想像は出来る。

「……それでその今野陽介と高橋潤が何か? いや、もし二人を殺した犯人を捜せと言うなら、それは警察の仕事であって、ここで相談頂いても」

「やっぱり殺されていたんですね」

 咄嗟に突いた言葉だったが、既に遅かったようだ。君生に聞かされた話が頭の中にあるだけで、二人の死が世間でどのように報じられているかまでは知らない。ただ小峰の驚きを見れば、殺人だと報じられていない事は分かる。

「すみません。殺されたかどうかは。ただ見つかった二人の様子から、殺されたと判断するのが正しいかと」

「ああ。そうでした。辻山さん、元々刑事さんだったんですよね。さっき黒川さんから伺いました」

「そうなんですよ。つい、刑事の頃の癖で」

 何となくではあるが誤魔化ごまかせたようにも思う。新宿東署の刑事から聞き得た情報を、軽々しく口外する訳にはいかない。それは可愛い後輩の立場を危うくする事に繋がる。

「それで? 今野陽介と高橋潤の件なら、今、警察が捜査をしている事でしょう。私が出る幕はないかと思うんですが」

「いえ、違います。辻山さんにお願いしたいのは人探しです」

「人探し? 二人を死に追いやった人物を探せ、と?」

「いえ、すみません。話がまとまらなくて。辻山さんに探して頂きたいのは、この……」

 小峰が脇に置いた鞄からA4サイズの封筒を取り出す。封筒の中のクリアファイルに、薄っすらと二人の人物が映って見える。

「写真ですね」

 取り出された写真はA4に拡大され、粒子が荒くなってはいたが、二人の人物の顔は確認できる。夕焼けの海を背に並んだ二人の男。えらく若く見える二人の姿は十代か、上に見ても二十代前半だろう。ただ二人が着る揃いのTシャツのブランドは、この令和の時代には見掛けなくなったものだ。時代を感じる二人の青年。その右の青年の顔にぴんと何かがひらめいたが、その答えは単純なものだった。

「この右の人物は小峰さんですか?」

 まだ歳は聞いていなかったが、小峰の歳を三十代半ばと見立てれば、右の人物が十五年程前の小峰だと言い当てる事が出来る。

「えっ、いや。違うんです。いや、そうですね」

 歯切れの悪い小峰の返しに、ん? と、疑問の息が詰まる。朝っぱらからゲイバーに連れて来られ、落ち着きがないのは仕方ないが、それだけではない何かが、歯切れの悪さを誘発しているように思えてならない。

「ゆっくりでいいですから、説明して下さい。人探しと言う事は、この左の人物を探せと言う事ですね? この人物の事、それと何故今野陽介と高橋潤の名前を出したかを教えて下さい。ゆっくりで構いません。私も、写真だけですが今野陽介と高橋潤の顔は確認しました。ですがこの写真の二人との接点は分かりません」

「そうですね。考えながらになりますが、人探しを依頼するからには、ちゃんと説明しないといけませんよね。……まず、仰ったとおり、私が探して欲しい人物はこの左の男性です。成田和弥なりたかずや。十七年前に突然姿を消しました」

「成田和弥さんですね。十七年前に失踪……」

 そう口にしながら、カウンターの上に散乱させたメモ書きとペンに手を伸ばす。走り書きの文字はあまりにもバランスが悪かったが、ペンが止まった事を目の端に納めた小峰が再び口を開く。

「この、もう一人の人物は、私に見えるかもしれませんが、私ではなく、私の兄です。小峰りょうです。双子の兄ですが、十七年前に亡くなりました」

「双子のお兄さんなんですね。納得しました。それで、十七年前。お兄さん、小峰遼さんが亡くなり、この成田和弥さんが失踪した。ところでお兄さんはどうして亡くなられたのですか? 差し支えなければお話頂けませんか?」

「あの、——ホモ狩りなんです」

「——ホモ狩り?」

 久しぶりに聞いただろうその言葉に思考が追い付かない。

 ゲイ、LGBT。ホモと言う言葉に代わって、今ではそんな言葉で呼ばれるようになった。どうしても負のイメージを拭えないホモと言う言葉。だから正義だと勘違いし、ホモ狩りなんて事が横行した時代もあった。暴行、窃盗、脅迫。そんな犯罪もホモ狩りと言う言葉一つで、罪を薄められた時代。久しぶりに聞いた言葉に忘れかけていた憎悪が膨らんでいく。

「兄と和弥はその日、この新宿二丁目に遊びに来ていたんです。そこでホモ狩りに遭って、兄は転落死し、和弥はその後の行方が分かりません。警察から聞かされた話ですけど」

「転落死?」

「はい。兄と和弥は逃げ出したんですけど、兄はその途中、靖国通りの歩道橋から転落して。一緒にいたはずの和弥の行方はそこから分からないんです」

「お兄さんはホモ狩りに遭って、殺された訳ではないんですね?」

「はい。納得はいきませんけど。警察が言うには、逃げる途中で歩道橋から転落したと」

「では、そのホモ狩り犯は? もしかして……」

「そうです。何の罪にも問われていません。兄も和弥も当時十九歳だったんですが、その犯人達も同じ十九歳、未成年で」

——十七年前。

——十九歳。

——犯人達。

 ぼんやりとしたイメージでしかないが、この依頼人の言わんとする事が形に成り始めた。だがそれならばどうして今頃になって、成田和弥の行方を探そうとするのだろうか。

「……犯人達。もしかしてその犯人達が」

「そうです。今野と高橋です」
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