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第四章 マーシャル遊撃戦1944
41 ユーラシア大陸の東西
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一九四四年初頭の世界情勢は、後世の視点から見ると誠に奇妙で複雑なものであった。
その支配領域だけを見れば、太平洋西部からインド洋、地中海、ヨーロッパのほぼ全土を手中に収めている日本、ドイツ、イタリアを中心とする枢軸国陣営が優位に立っていると見えるだろう。
しかし、工業生産量や人的資源という観点から見れば、優位に立っているのはアメリカ、イギリス、ソ連を中心とした連合国陣営であるともいえる。
特にアメリカの戦時生産体制は一九四三年末から軌道に乗り始め、枢軸国を圧倒する量の兵器を工場や造船所から吐き出し続けていた。枢軸国もまた総力戦体制を確立させ、一九四四年はドイツ、日本ともに大戦期間中最大の工業生産量を生み出すことになるのだが、それでも到底アメリカに及ぶものではなかったのである。
そして、そうした軍事面だけでなく、政治面もまた複雑なものであった。
アメリカ、イギリス、ソ連、中国(蒋介石政権)は同じ連合国であるのだが、一九四三年以降、その政治的摩擦は徐々に顕在化していた。
英米が未だ第二戦線を開かず、単独でドイツと対決することになっているソ連では、スターリンがチャーチルやルーズベルトに対する不満と不信を溜め込んでいた。北フランス上陸作戦が決定されたものの、この赤い独裁者はその作戦決行時期があまりに遅すぎると考えていた。
ソ連は一九四三年に行われたドイツ軍の夏期攻勢であるツィタデル作戦によってバクー油田を失陥しており、北部のレニングラード戦線では一部攻勢に転じて同都市の解囲を成功させてはいたものの、未だ東部戦線全体で見れば守勢を余儀なくされていた。ドイツ軍も相応に消耗しており、人的資源という意味においてはソ連側が優位に立っていたものの、依然として東部戦線は予断を許さない状況であったのだ。
一方、日本軍のインド洋進出によって、援蒋ルートをすべて塞がれた中国はアメリカからの援助物資を受けることがほぼ出来なくなり、日本陸軍による重慶攻略作戦では連敗に連敗を重ねていた。重慶を守備する蒋介石直轄の第八戦区軍も壊滅し、日本軍による攻勢開始から二ヶ月と経たない四三年十月下旬に重慶は陥落。蒋介石は成都に逃れたが、その成都も日本軍による第二期攻勢によって四三年の年末までに陥落していた。
現在、蒋介石は甘粛省蘭州に逃れている。
しかしこの時点で、抗日戦争の継続は物理的に不可能となりつつあった。
いわゆる「大後方」と名付けられた重慶を中心とする中国内陸部は、日中戦争勃発後、工場の移転などを行って工業生産量を高めようとしたものの、依然として中国全土の工業生産の八パーセント、発電量に至っては二パーセントという極めて低い水準にしか達していなかったのである。
援蒋ルートのすべてが封鎖され、「大後方」と呼ばれる地域の大半も失った現状では、軍の兵站維持すら不可能となりつつあったのである。
蒋介石政権はわずかに残された支配地域の国民生活の維持にすら苦心する有り様で、彼はいずれ中国国民の心が自分から離れていくことを予見せずにはいられなかった。
一方、彼と共闘関係にある毛沢東率いる中国共産党も、窮地に追い込まれていた。
一九四〇年には、いわゆる「百団大戦」と呼ばれる華北地域での果敢な遊撃戦を行っていた中国共産党ではあったが、一連の戦闘によって八路軍は一万七〇〇〇名以上の兵力を失っていた。その後、日本の支那派遣軍、北支方面軍が華北の治安維持を重視して抗日根拠地(辺区)の一掃に乗り出したこともあり、一九四一年から四二年にかけてその支配地域をかつての六分の一にまで大きく減ずると共に、政治的にも失策を重ねていたのである。
共産党の支持基盤は主に農村地帯であったのだが、彼らを取り込むための「減租減息・交利交息」運動が破綻しかけていたことがその原因であった。
この運動は、小作料の減額と利子の減額(減租減息)、小作料と利子の支払い(交利交息)という二本柱からなる運動であり、前者は地主や富農層に対する、後者は小作農民に対する政策であった。
つまり、地主が小作料や利子を減額する代わりに、小作人も必ず小作料を納めるべし、というのがこの運動の骨子であり、それによって地主・富農層と小作人層の双方を共産党に取り込むことを目的としていた。
しかし、こうした共産党の運動に触発された小作農民たちの中には、「退租退息」運動を起こして悪質な地主に対して余分に取り立てられた小作料や利息を返還させようとする者たちもおり、共産党の目指していた「減租減息・交利交息」運動による農村地帯の政治的統一戦線が崩壊しかけていたのである。
さらに、日本軍による掃蕩作戦による支配地域の縮小から辺区における住民の税負担が重くなり、一九四一年には日中戦争勃発当初と比してその税率は三倍から四倍にまで高まっていた。
中国共産党が築き上げた抗日戦争遂行のための地域的基盤は、一九四三年には再編成が必要なほどに各種の政治的・経済的矛盾を孕むものとなっていたのである。
そして、その再編を行う間もなく日本軍による重慶攻略作戦“五号作戦”が開始され、中国共産党は抗日根拠地の中心地であった陝甘寧辺区(陝西省、甘粛省、寧夏省にまたがる抗日根拠地。延安がある)のほとんどを失っていた。
今や、蒋介石率いる中国国民党も、毛沢東率いる中国共産党も、日本に対する組織的な軍事行動はほとんど不可能となっていたのである。
雲南省を始めとする地方勢力が、汪兆銘の南京政府に帰順を表明したのも無理からぬことであった。
現状、国民党も共産党も、その政治的権威は完全に失墜していた。
彼らがアメリカやイギリスの支援がなければ戦えないことは誰の目にも明らかで在り、図らずも汪兆銘政権が宣伝する「英米の走狗」という重慶政府(今や蘭州政府だが)批判が真実に近いことを証明してしまったのである。
もちろん、南京政府も日本の支援を受けている政府であり、独立した政府と評することは出来なかった(実際、一九四三年一月に、南京政府は英米に宣戦布告をしている)。
しかし一方で、日本側は汪兆銘政権を中国における正統政府であることを印象づけるために、四三年十月三十日、「日華同盟条約」を結んで、日中全面和平が実現した暁には「辛丑条約」(義和団事件の戦後処理について定めた議定書のこと。一九〇一年調印)で定められた駐兵権も含めた日本軍の全面撤退、租界の返還など、不平等条約に記された内容を撤廃することを約束した(なお、日本国内では条約の締結に際して、枢密院において「もし当初よりこの心持を以て措置せば、支那問題起こらざりしやも知れず」と皮肉られている)。
さらには汪兆銘政権の正統性を示すため、蒋介石政権との和平交渉を日本は南京政府に一任して、表向き自らは関わらない姿勢をとっている。
こうしたことを受けて、汪兆銘、陳公博、周仏海ら南京政府の要人は蒋介石政権との連絡を活発化させていた。四四年に入ると、汪兆銘は暗殺未遂事件の際に受けた古傷が悪化して政務を執ることが困難になりつつあり、対蒋介石交渉の中心は周仏海が担うことになった。
◇◇◇
甘粛省蘭州に逃れて以来、蒋介石は落ち着かない日々を過ごしていた。
彼は自身の政治生命がかなり危ういことを自覚していた。
中国共産党とは表向き、対日戦において共闘関係にあるとはいえ、実質的に第二次国共合作は一九四一年一月の時点で崩壊している。この月の六日、国民党軍が紅軍を中核とする新四軍を襲撃するという皖南事変が発生したのだ。
そして蒋介石が「漢奸」と非難する汪兆銘は、傀儡政権と見なされながらも地道な努力を重ねて不平等条約の撤廃にこぎ着けている。
今や、蒋介石を支援しようとする中国国内の勢力はごくわずかであった。
「以夷制夷」という外交政策は蒋介石の対日戦争における信念であったが、現実はその信念を実現するにはあまりにも厳しいものであった。
頼みの綱であった英米はインド洋で日本軍に大敗し、その軍事的支援はほぼ途絶している。
例え太平洋方面でアメリカによる対日反攻作戦が開始されたとしても、連合軍がインド洋の制海権を回復しない限り、ビルマルートは復活しない。そして、例えそうなったとしても、英米が中国国内における権威を失墜させた蒋介石政権を支援しようとするかは疑問であった。
むしろ戦後世界を見据えれば、中国大陸における最大勢力となった南京政府を日本から離反させようと工作する方が英米にとって現実的だろう。
現在、汪兆銘政権の下には「和平建国軍」という八十万近い兵力が存在している。この中には蒋介石政権から寝返った者、雲南省で投降した米式訓練を受けた将兵も混じっていた。日本はこの南京政府軍に治安維持以上の任務を与えていなかったため、その兵力はほとんど温存されたままであった。
戦後、この手付かずの軍事力を掌握した者が中国大陸の覇権を握ることになるだろう。
蒋介石は蘭州政庁の執務室をウロウロと歩きながら、思案に暮れていた。
どうすれば、自分の政治生命を維持することが出来るのか?
最善は、南京政府との合作であろう。汪兆銘配下の周仏海は、何度もこちらに中日和平を呼びかけている。
しかしそうなると気になるのが、中国共産党の反応である。
南京政府は反共を掲げており、表向き容共を掲げている蒋介石とは相容れない。しかし現実を見ると、一九四三年には重慶政府軍、南京政府軍が安徽省において共同で新四軍を攻撃するという事件が発生しており、蒋介石と汪兆銘は敵対していながらも反共政策という点では手を組むという複雑な関係にあった。
当然、本心は反共主義者である蒋介石にしてみれば、このまま先の見えない抗日戦争で共産党と呉越同舟するよりは、南京政府と合作して自身の政治生命の延命を図りたいところではある。汪兆銘はかつての狙撃事件で受けた傷が悪化していると伝えられており、余命は幾ばくもないだろう。
上手くすれば、汪兆銘亡き後の南京政府を蒋介石が掌握することも出来るかもしれない。
ただし、蒋介石は宿敵ともいえる中国共産党との妥協を余儀なくされた一九三六年の西安事件の苦い記憶を忘れていなかった。
南京政府と手を組もうとすれば、必然的に共産党の反発を買うだろう。その時、彼らはどのような反応を示すのか?
西安事件の屈辱を二度も味わうつもりは、蒋介石には毛頭ない。
だからこそ、対日和平を行うにしても慎重を期さねばならない。
やはり和平交渉に乗り出す時期は、アメリカによる対日反攻作戦が開始された時であろう。
日本側もアメリカによる反攻作戦が開始されれば太平洋方面に注力せざるを得ず、こちらに対する講和条件を緩和してくる可能性が見込める。
それまでは、共産党の動向に注意を払いつつ、隠忍自重すべきか?
そう考えた時、窓の外から空襲警報が響いてきた。
「またか……」
蒋介石はいささかうんざりした調子で呟き、窓の外を見た。
ここ連日、日本軍の航空機が蘭州に飛来していたが、そのどれもが偵察機のようで爆弾は一発も落とされていない。蒋介石が蘭州に逃れてきた直後は頻繁に空襲があり、市街地も大きな打撃を受けていたが、最近ではその頻度もだいぶ少なくなっていた。
ただ、連日のように響き渡る空襲警報は、確実に蘭州市民を精神的に疲弊させていた。
しかし、迎撃に上がるべき航空部隊は、最早蒋介石の手元には残されていなかった。
「主席、防空壕にお移りになられるべきかと」
空襲警報を聞きつけて執務室に入ってきた部下が、案ずるように言った。だが、蒋介石は煩わしげに手を振った。
「どうせ、今日もまた偵察だろう。倭人どもは我々の精神を疲弊させるために、このようなことをしているに違いない。まともに付き合うことはあるまい」
「しかし……」
「もうよい、下がりたまえ」
蒋介石は、そう言って部下を追い出した。
遠くで、高射砲の射撃が始まったようだ。だが、その砲声はいかにも緩慢であった。国民党軍の弾薬不足は、それほどまでに深刻であったのだ。
日本軍機が蘭州上空を跳梁跋扈しているのに、自らの軍はまともにそれに対応出来ない。
その事実に、蒋介石は苛立ちと無力感を覚える。
不意に、窓ガラスを揺らす高角砲の轟音に、別の音が混じり込んだ。
蒋介石は怪訝そうに、十字にテープの貼られた窓の外を見遣る。
何とも耳障りな音階の音であった。だが、しばらくするとその音が唐突に止む。
いったい、あの音は何だったのだろうかと国民政府主席が疑問に思った次の瞬間、市街地で爆発が起こった。
ビリビリと窓ガラスが震え、彼は慌てて窓の傍から離れる。
爆発は、連続した。
そのたびに窓ガラスが振動し、ついに四度目の爆発の時にガラスが砕け散った。執務室内に、破片が舞い散る。
今の爆発は、政庁に近かった。
「蒋主席、ご無事ですか!?」
先ほど部屋から追い出した部下が、慌てて駆け込んできた。
「う、うむ。大事ない」
蒋介石は狼狽を抑えつつ、室内に散乱するガラス片を見つめていた。
さらに五度目、六度目の爆発が起こり、八度目の爆発でようやく収まった。
「いったい、何だったのだ?」
空爆にしては、奇妙な爆発であった。それに、爆発直前に聞こえた耳障りな轟音も気になる。
「主席、ここは危険です。倭人どもの攻撃の可能性が高いでしょう。速やかに、防空壕にお移り下さい」
「……やむを得ん。判った」
蒋介石は呻くようにそう言うと、部下の進言に従うことにした。
「お前たちは直ちに今の爆発の正体について調査せよ」
「はっ、かしこまりました」
部下の反応を見届けた蒋介石は、そそくさと防空壕を目指して執務室を後にした。
一九四四年二月二十五日、この日、甘粛省蘭州に向けて日本陸軍はドイツから輸入したV1飛行爆弾を発射した。
蘭州で発生した爆発は、V1の着弾によるものだったのである。
V1飛行爆弾はドイツ高官たちの前での発射実験に失敗したために、開発国であるドイツにおいてはV2ロケットの開発に比して優先順位が下げられていた。
このため、開発元であるフィーゼーラー社は、当時、日独連絡航路の打通によって欧州を訪れていた日本の遣欧特別使節団の陸海軍随員たちに接触して熱心にこの兵器を宣伝、その結果、ヒトラーが日本への技術供与に前向きであったこともあり、ドイツ軍での正式採用に先駆けて約三〇〇基あまりが日本に向けて輸出された。
これらV1を積んだ輸送船は一九四四年一月中旬にシンガポールに到着。
研究・実験用として五〇基が本土に運ばれた他、中国戦線での実戦投入のため一五〇基を陸軍が受領、残りは海軍が取得していた。
V1を配備された支那派遣軍では、この兵器を「フ式飛行爆弾」を呼称し、二月初旬から蘭州攻撃のための準備を進めていた。
連日、蘭州方面に偵察機を飛ばし、V1発射台の設置角度を調整、そして二十五日になり、弾着観測用の一〇〇式司偵が蘭州上空に到達したのを合図に、攻撃を開始したのである。
この日、発射されたV1は二〇発。
内、八発が蘭州市街地を直撃した。
後世のミサイルのように誘導装置を持たない以上、目標地点に一定数が到達しただけでも十分な成果であっただろう。
この日以降、弾着観測機からの情報によって発射台の角度を調整しながら、V1による蘭州攻撃は継続されることになる。
そして皮肉なことに、日本陸軍による蘭州攻撃がV1の初の実戦投入であった。開発国であるドイツでの実戦投入は、四四年の五月。モスクワへ向けて発射されたV1がそれであった。
一方、蘭州への攻撃をまったく防げなかった蒋介石の政治的・軍事的威信はV1によってさらに低下することとなる。それは、彼を南京政府、そしてその背後に控える日本政府との和平交渉を推し進めようとする動機となるのであった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
一方、ユーラシア大陸の反対側ともいえるヨーロッパでは、日中戦争などよりも数倍は泥沼と化した戦争が続けられていた。
すべてが灰色に閉ざされた雪の世界の中で、一匹の獣が眠りについていた。
長大な砲身を持つ、鋼鉄の獣―――名を、Ⅵ号戦車ティーガーⅠをいう。ドイツ軍が誇る、重戦車であった。
フィンランド湾近くに存在する名も知らぬ村の隅で、この猛虎はじっと息を潜めていた。
ロシアの大地の冬の夜は長い。
十五時には日が暮れて、再び太陽が地平線の彼方から顔を出すのは翌日の九時頃であった。
骨の髄まで凍り付きそうな極寒の夜を、戦車兵や村に陣を敷く歩兵部隊は過ごしていた。
村の端の木立の中に車体を潜ませているオットー・カリウス少尉のティーガーもまた、その一つであった。
今年の五月でようやく二十二歳となるこの若い戦車乗りは、連日の疲労に堪えきれずに車長席で船を漕いでいた。そのたびに姿勢が崩れて砲塔の側面に頭をぶつけ、目を覚ます。
そのようなことを何度も繰り返しながら、夜は更けていった。
朝の六時を回っても、なおも村の周囲は暗かった。周囲に茂る鬱蒼とした森が、よりその暗さを増す役割を担っていた。
と、突然、村の方で爆発音が鳴り響いた。
その音に、カリウスら五名の戦車兵の意識は一気に覚醒した。
「イワンどもの迫撃砲です!」
「やはり来たか」
カリウスは砲塔のハッチを開けて、司令塔から周囲を確認した。聞こえた着弾音は二発。どちらもティーガーの遙か手前に落ちたので、車体に異常はない。
彼は照明弾拳銃を片手に用意し、森の方へと目を凝らす。
この村には、カリウス車の他に二両のティーガーが潜んでいた。第五〇二重戦車大隊(ドイツ国防軍の所属であり、後のSS第五〇二重戦車大隊とは別の部隊)に所属する彼ら三両の戦車と、村に布陣する歩兵部隊は、レニングラード方面から撤退する北方軍集団第十八軍の後衛を任されている。
付近を走る街道を扼する位置にあるこの村に布陣したのは、昨日のことであった。
そして日暮れ前にドイツ軍が布陣していると知らないソ連軍の斥候部隊が村へと侵入、これと小規模な戦闘になった後、撃退していた。
だからこそ、どこかの段階でソ連軍がこの村に攻撃を仕掛けてくるだろうことは予測していた。
迫撃砲の弾着が、村で連続する。
カリウスは照明弾を打ち上げた。
ソ連軍の砲撃目標から見て、向こうは村に戦車が潜んでいることを知らないらしい。
若い戦車長は、落下傘付き照明弾によって照らされた視界の中で双眼鏡を構えた。森の方で、チカチカと光るものがあった。
その閃光が、右へと移動している。
ソ連軍の戦車であった。
「クラーマー、森の小道に注意しろ」
キューポラから上半身を晒したまま、カリウスは喉頭式マイクを使って砲手に言う。
イワンどもの戦車が発していると思われる発砲炎は、やがて村の外れに位置する道路へと向かっていた。
「ツヴェティ、そちらにイワンの戦車が向かっている。警戒せよ」
『ヤー』
同じく村の外縁部に潜んでいるツヴェティ上級曹長のティーガーへと、警告を送る。
カリウスはさらに照明弾を追加で放った。
森に潜んでいる敵戦車の車種が判明する。どうやら、T34らしい。
やがてツヴェティ車が潜んでいる方角から、八八ミリ砲の特徴的な発砲音が聞こえてきた。少しの間を置いて、T34から爆炎が上がる。初弾にして命中させたのだ。
灰色に包まれていた村は、一気に照明弾の光と発砲の閃光、そして撃破された戦車の爆炎で照らされることになった。
「クラーマー、二時方向の森よりイワン!」
村道から飛び出してきたT34に、カリウスとその部下たちは迅速に対応した。
ティーガーの砲塔が素早く旋回し、絶大な威力を誇るKwK36五十六口径八八ミリ砲が敵戦車へと向く。
「フォイア!」
クラーマーの叫びと共に、猛虎の咆哮が轟き渡る。マズルブレーキから飛び出した炎が、カリウスの網膜を焼いた。
三九式徹甲弾が、凍てついた大気を突き破って進む。
直後、T34が爆発した。
「まだ来るぞ! 砲撃の手を緩めるな!」
カリウスは己の部下が挙げた戦果に満足を覚える暇もなく、喉頭式マイクに向けて叱咤する。
T34の装甲厚は最大で砲塔前面の九〇ミリ。ティーガーの主砲ならば、三〇〇〇メートルからでも貫通させられる。
クラーマーが放った第二射も、一撃でソ連製戦車を沈黙させた。
と、そこでカリウスは信じがたい光景を目にした。
「中隊長! 真横にイワンです!」
カリウスはフォン・シラー中隊長車のすぐ隣にT34が出現したのを見て、慌てて警告を送る。
カリウス車からの警告を受けたシラー車が、急ぎ砲塔を旋回させ始めた。一方のT34は、真横にいるドイツ軍戦車に気付いた様子もない。
カリウスに言わせれば、これは完全にソ連戦車兵の怠慢であった。どのソ連戦車もハッチを閉じており、車長がキューポラから身を乗り出して周辺を確認しようとしていないのだ(もっとも、T34は車長が砲手を兼任しているので、やむを得ない面もあった)。
ソ連兵の中で最初にシラー中隊長車の存在に気付いたのは、戦車に跨乗していた歩兵であった。慌てた様子で持っていた銃をティーガーに向けて乱射していたが、当然ながら効果はない。
そこで初めて、そのT34の車長は真横にドイツ軍戦車がいることに気付いたらしい。ようやく砲塔を旋回させ始めた。
だが、それよりもシラー中隊長車が砲塔を旋回させ終わる方が早かった。
ティーガーの八八ミリ砲から、夜目にも鮮やかなマズルフラッシュ。
瞬時にそのT34は炎上した。
タンクデザント兵たちが吹き飛ばされ、体を炎に包まれた兵士が地面を転げ回る。硝煙の臭いの中に、人肉が焼ける臭いが混ざり込んだ。
だが、それでソ連軍の進撃が止んだわけではなかった。
森の小道からは、後続のT34が次々と村へ出現していた。
家屋や納屋に潜んでいた歩兵がパンツァーファウストでソ連戦車の側面に穴を開け、ティーガーの徹甲弾がT34の装甲を穿つ。
村に布陣するドイツ軍を蹂躙すべく突進を開始した無数のT34に対して、カリウスはケストラー操縦手に対して車体を敵戦車に対して斜めに向けるよう指示を下す。
これによって、垂直装甲で構成されるティーガーは、擬似的な傾斜装甲を得ることが出来るのだ。
敵戦車との距離は、徐々に縮まっていた。
再び、ティーガーの八八ミリ砲が火を噴く。
特徴的な砲声が木々の間で跳ね返る。恐らくは森に包まれた静かな村であったろう場所は、今や苛烈な戦火に晒される狂乱の巷と化していた。
ソ連軍による村への攻撃は夜明け前まで続けられた。
カリウスらは十両以上のT34を撃破してソ連軍の村への侵入を防ぎ、第十八軍の後衛という任務を完璧な形でこなすことに成功した。
その支配領域だけを見れば、太平洋西部からインド洋、地中海、ヨーロッパのほぼ全土を手中に収めている日本、ドイツ、イタリアを中心とする枢軸国陣営が優位に立っていると見えるだろう。
しかし、工業生産量や人的資源という観点から見れば、優位に立っているのはアメリカ、イギリス、ソ連を中心とした連合国陣営であるともいえる。
特にアメリカの戦時生産体制は一九四三年末から軌道に乗り始め、枢軸国を圧倒する量の兵器を工場や造船所から吐き出し続けていた。枢軸国もまた総力戦体制を確立させ、一九四四年はドイツ、日本ともに大戦期間中最大の工業生産量を生み出すことになるのだが、それでも到底アメリカに及ぶものではなかったのである。
そして、そうした軍事面だけでなく、政治面もまた複雑なものであった。
アメリカ、イギリス、ソ連、中国(蒋介石政権)は同じ連合国であるのだが、一九四三年以降、その政治的摩擦は徐々に顕在化していた。
英米が未だ第二戦線を開かず、単独でドイツと対決することになっているソ連では、スターリンがチャーチルやルーズベルトに対する不満と不信を溜め込んでいた。北フランス上陸作戦が決定されたものの、この赤い独裁者はその作戦決行時期があまりに遅すぎると考えていた。
ソ連は一九四三年に行われたドイツ軍の夏期攻勢であるツィタデル作戦によってバクー油田を失陥しており、北部のレニングラード戦線では一部攻勢に転じて同都市の解囲を成功させてはいたものの、未だ東部戦線全体で見れば守勢を余儀なくされていた。ドイツ軍も相応に消耗しており、人的資源という意味においてはソ連側が優位に立っていたものの、依然として東部戦線は予断を許さない状況であったのだ。
一方、日本軍のインド洋進出によって、援蒋ルートをすべて塞がれた中国はアメリカからの援助物資を受けることがほぼ出来なくなり、日本陸軍による重慶攻略作戦では連敗に連敗を重ねていた。重慶を守備する蒋介石直轄の第八戦区軍も壊滅し、日本軍による攻勢開始から二ヶ月と経たない四三年十月下旬に重慶は陥落。蒋介石は成都に逃れたが、その成都も日本軍による第二期攻勢によって四三年の年末までに陥落していた。
現在、蒋介石は甘粛省蘭州に逃れている。
しかしこの時点で、抗日戦争の継続は物理的に不可能となりつつあった。
いわゆる「大後方」と名付けられた重慶を中心とする中国内陸部は、日中戦争勃発後、工場の移転などを行って工業生産量を高めようとしたものの、依然として中国全土の工業生産の八パーセント、発電量に至っては二パーセントという極めて低い水準にしか達していなかったのである。
援蒋ルートのすべてが封鎖され、「大後方」と呼ばれる地域の大半も失った現状では、軍の兵站維持すら不可能となりつつあったのである。
蒋介石政権はわずかに残された支配地域の国民生活の維持にすら苦心する有り様で、彼はいずれ中国国民の心が自分から離れていくことを予見せずにはいられなかった。
一方、彼と共闘関係にある毛沢東率いる中国共産党も、窮地に追い込まれていた。
一九四〇年には、いわゆる「百団大戦」と呼ばれる華北地域での果敢な遊撃戦を行っていた中国共産党ではあったが、一連の戦闘によって八路軍は一万七〇〇〇名以上の兵力を失っていた。その後、日本の支那派遣軍、北支方面軍が華北の治安維持を重視して抗日根拠地(辺区)の一掃に乗り出したこともあり、一九四一年から四二年にかけてその支配地域をかつての六分の一にまで大きく減ずると共に、政治的にも失策を重ねていたのである。
共産党の支持基盤は主に農村地帯であったのだが、彼らを取り込むための「減租減息・交利交息」運動が破綻しかけていたことがその原因であった。
この運動は、小作料の減額と利子の減額(減租減息)、小作料と利子の支払い(交利交息)という二本柱からなる運動であり、前者は地主や富農層に対する、後者は小作農民に対する政策であった。
つまり、地主が小作料や利子を減額する代わりに、小作人も必ず小作料を納めるべし、というのがこの運動の骨子であり、それによって地主・富農層と小作人層の双方を共産党に取り込むことを目的としていた。
しかし、こうした共産党の運動に触発された小作農民たちの中には、「退租退息」運動を起こして悪質な地主に対して余分に取り立てられた小作料や利息を返還させようとする者たちもおり、共産党の目指していた「減租減息・交利交息」運動による農村地帯の政治的統一戦線が崩壊しかけていたのである。
さらに、日本軍による掃蕩作戦による支配地域の縮小から辺区における住民の税負担が重くなり、一九四一年には日中戦争勃発当初と比してその税率は三倍から四倍にまで高まっていた。
中国共産党が築き上げた抗日戦争遂行のための地域的基盤は、一九四三年には再編成が必要なほどに各種の政治的・経済的矛盾を孕むものとなっていたのである。
そして、その再編を行う間もなく日本軍による重慶攻略作戦“五号作戦”が開始され、中国共産党は抗日根拠地の中心地であった陝甘寧辺区(陝西省、甘粛省、寧夏省にまたがる抗日根拠地。延安がある)のほとんどを失っていた。
今や、蒋介石率いる中国国民党も、毛沢東率いる中国共産党も、日本に対する組織的な軍事行動はほとんど不可能となっていたのである。
雲南省を始めとする地方勢力が、汪兆銘の南京政府に帰順を表明したのも無理からぬことであった。
現状、国民党も共産党も、その政治的権威は完全に失墜していた。
彼らがアメリカやイギリスの支援がなければ戦えないことは誰の目にも明らかで在り、図らずも汪兆銘政権が宣伝する「英米の走狗」という重慶政府(今や蘭州政府だが)批判が真実に近いことを証明してしまったのである。
もちろん、南京政府も日本の支援を受けている政府であり、独立した政府と評することは出来なかった(実際、一九四三年一月に、南京政府は英米に宣戦布告をしている)。
しかし一方で、日本側は汪兆銘政権を中国における正統政府であることを印象づけるために、四三年十月三十日、「日華同盟条約」を結んで、日中全面和平が実現した暁には「辛丑条約」(義和団事件の戦後処理について定めた議定書のこと。一九〇一年調印)で定められた駐兵権も含めた日本軍の全面撤退、租界の返還など、不平等条約に記された内容を撤廃することを約束した(なお、日本国内では条約の締結に際して、枢密院において「もし当初よりこの心持を以て措置せば、支那問題起こらざりしやも知れず」と皮肉られている)。
さらには汪兆銘政権の正統性を示すため、蒋介石政権との和平交渉を日本は南京政府に一任して、表向き自らは関わらない姿勢をとっている。
こうしたことを受けて、汪兆銘、陳公博、周仏海ら南京政府の要人は蒋介石政権との連絡を活発化させていた。四四年に入ると、汪兆銘は暗殺未遂事件の際に受けた古傷が悪化して政務を執ることが困難になりつつあり、対蒋介石交渉の中心は周仏海が担うことになった。
◇◇◇
甘粛省蘭州に逃れて以来、蒋介石は落ち着かない日々を過ごしていた。
彼は自身の政治生命がかなり危ういことを自覚していた。
中国共産党とは表向き、対日戦において共闘関係にあるとはいえ、実質的に第二次国共合作は一九四一年一月の時点で崩壊している。この月の六日、国民党軍が紅軍を中核とする新四軍を襲撃するという皖南事変が発生したのだ。
そして蒋介石が「漢奸」と非難する汪兆銘は、傀儡政権と見なされながらも地道な努力を重ねて不平等条約の撤廃にこぎ着けている。
今や、蒋介石を支援しようとする中国国内の勢力はごくわずかであった。
「以夷制夷」という外交政策は蒋介石の対日戦争における信念であったが、現実はその信念を実現するにはあまりにも厳しいものであった。
頼みの綱であった英米はインド洋で日本軍に大敗し、その軍事的支援はほぼ途絶している。
例え太平洋方面でアメリカによる対日反攻作戦が開始されたとしても、連合軍がインド洋の制海権を回復しない限り、ビルマルートは復活しない。そして、例えそうなったとしても、英米が中国国内における権威を失墜させた蒋介石政権を支援しようとするかは疑問であった。
むしろ戦後世界を見据えれば、中国大陸における最大勢力となった南京政府を日本から離反させようと工作する方が英米にとって現実的だろう。
現在、汪兆銘政権の下には「和平建国軍」という八十万近い兵力が存在している。この中には蒋介石政権から寝返った者、雲南省で投降した米式訓練を受けた将兵も混じっていた。日本はこの南京政府軍に治安維持以上の任務を与えていなかったため、その兵力はほとんど温存されたままであった。
戦後、この手付かずの軍事力を掌握した者が中国大陸の覇権を握ることになるだろう。
蒋介石は蘭州政庁の執務室をウロウロと歩きながら、思案に暮れていた。
どうすれば、自分の政治生命を維持することが出来るのか?
最善は、南京政府との合作であろう。汪兆銘配下の周仏海は、何度もこちらに中日和平を呼びかけている。
しかしそうなると気になるのが、中国共産党の反応である。
南京政府は反共を掲げており、表向き容共を掲げている蒋介石とは相容れない。しかし現実を見ると、一九四三年には重慶政府軍、南京政府軍が安徽省において共同で新四軍を攻撃するという事件が発生しており、蒋介石と汪兆銘は敵対していながらも反共政策という点では手を組むという複雑な関係にあった。
当然、本心は反共主義者である蒋介石にしてみれば、このまま先の見えない抗日戦争で共産党と呉越同舟するよりは、南京政府と合作して自身の政治生命の延命を図りたいところではある。汪兆銘はかつての狙撃事件で受けた傷が悪化していると伝えられており、余命は幾ばくもないだろう。
上手くすれば、汪兆銘亡き後の南京政府を蒋介石が掌握することも出来るかもしれない。
ただし、蒋介石は宿敵ともいえる中国共産党との妥協を余儀なくされた一九三六年の西安事件の苦い記憶を忘れていなかった。
南京政府と手を組もうとすれば、必然的に共産党の反発を買うだろう。その時、彼らはどのような反応を示すのか?
西安事件の屈辱を二度も味わうつもりは、蒋介石には毛頭ない。
だからこそ、対日和平を行うにしても慎重を期さねばならない。
やはり和平交渉に乗り出す時期は、アメリカによる対日反攻作戦が開始された時であろう。
日本側もアメリカによる反攻作戦が開始されれば太平洋方面に注力せざるを得ず、こちらに対する講和条件を緩和してくる可能性が見込める。
それまでは、共産党の動向に注意を払いつつ、隠忍自重すべきか?
そう考えた時、窓の外から空襲警報が響いてきた。
「またか……」
蒋介石はいささかうんざりした調子で呟き、窓の外を見た。
ここ連日、日本軍の航空機が蘭州に飛来していたが、そのどれもが偵察機のようで爆弾は一発も落とされていない。蒋介石が蘭州に逃れてきた直後は頻繁に空襲があり、市街地も大きな打撃を受けていたが、最近ではその頻度もだいぶ少なくなっていた。
ただ、連日のように響き渡る空襲警報は、確実に蘭州市民を精神的に疲弊させていた。
しかし、迎撃に上がるべき航空部隊は、最早蒋介石の手元には残されていなかった。
「主席、防空壕にお移りになられるべきかと」
空襲警報を聞きつけて執務室に入ってきた部下が、案ずるように言った。だが、蒋介石は煩わしげに手を振った。
「どうせ、今日もまた偵察だろう。倭人どもは我々の精神を疲弊させるために、このようなことをしているに違いない。まともに付き合うことはあるまい」
「しかし……」
「もうよい、下がりたまえ」
蒋介石は、そう言って部下を追い出した。
遠くで、高射砲の射撃が始まったようだ。だが、その砲声はいかにも緩慢であった。国民党軍の弾薬不足は、それほどまでに深刻であったのだ。
日本軍機が蘭州上空を跳梁跋扈しているのに、自らの軍はまともにそれに対応出来ない。
その事実に、蒋介石は苛立ちと無力感を覚える。
不意に、窓ガラスを揺らす高角砲の轟音に、別の音が混じり込んだ。
蒋介石は怪訝そうに、十字にテープの貼られた窓の外を見遣る。
何とも耳障りな音階の音であった。だが、しばらくするとその音が唐突に止む。
いったい、あの音は何だったのだろうかと国民政府主席が疑問に思った次の瞬間、市街地で爆発が起こった。
ビリビリと窓ガラスが震え、彼は慌てて窓の傍から離れる。
爆発は、連続した。
そのたびに窓ガラスが振動し、ついに四度目の爆発の時にガラスが砕け散った。執務室内に、破片が舞い散る。
今の爆発は、政庁に近かった。
「蒋主席、ご無事ですか!?」
先ほど部屋から追い出した部下が、慌てて駆け込んできた。
「う、うむ。大事ない」
蒋介石は狼狽を抑えつつ、室内に散乱するガラス片を見つめていた。
さらに五度目、六度目の爆発が起こり、八度目の爆発でようやく収まった。
「いったい、何だったのだ?」
空爆にしては、奇妙な爆発であった。それに、爆発直前に聞こえた耳障りな轟音も気になる。
「主席、ここは危険です。倭人どもの攻撃の可能性が高いでしょう。速やかに、防空壕にお移り下さい」
「……やむを得ん。判った」
蒋介石は呻くようにそう言うと、部下の進言に従うことにした。
「お前たちは直ちに今の爆発の正体について調査せよ」
「はっ、かしこまりました」
部下の反応を見届けた蒋介石は、そそくさと防空壕を目指して執務室を後にした。
一九四四年二月二十五日、この日、甘粛省蘭州に向けて日本陸軍はドイツから輸入したV1飛行爆弾を発射した。
蘭州で発生した爆発は、V1の着弾によるものだったのである。
V1飛行爆弾はドイツ高官たちの前での発射実験に失敗したために、開発国であるドイツにおいてはV2ロケットの開発に比して優先順位が下げられていた。
このため、開発元であるフィーゼーラー社は、当時、日独連絡航路の打通によって欧州を訪れていた日本の遣欧特別使節団の陸海軍随員たちに接触して熱心にこの兵器を宣伝、その結果、ヒトラーが日本への技術供与に前向きであったこともあり、ドイツ軍での正式採用に先駆けて約三〇〇基あまりが日本に向けて輸出された。
これらV1を積んだ輸送船は一九四四年一月中旬にシンガポールに到着。
研究・実験用として五〇基が本土に運ばれた他、中国戦線での実戦投入のため一五〇基を陸軍が受領、残りは海軍が取得していた。
V1を配備された支那派遣軍では、この兵器を「フ式飛行爆弾」を呼称し、二月初旬から蘭州攻撃のための準備を進めていた。
連日、蘭州方面に偵察機を飛ばし、V1発射台の設置角度を調整、そして二十五日になり、弾着観測用の一〇〇式司偵が蘭州上空に到達したのを合図に、攻撃を開始したのである。
この日、発射されたV1は二〇発。
内、八発が蘭州市街地を直撃した。
後世のミサイルのように誘導装置を持たない以上、目標地点に一定数が到達しただけでも十分な成果であっただろう。
この日以降、弾着観測機からの情報によって発射台の角度を調整しながら、V1による蘭州攻撃は継続されることになる。
そして皮肉なことに、日本陸軍による蘭州攻撃がV1の初の実戦投入であった。開発国であるドイツでの実戦投入は、四四年の五月。モスクワへ向けて発射されたV1がそれであった。
一方、蘭州への攻撃をまったく防げなかった蒋介石の政治的・軍事的威信はV1によってさらに低下することとなる。それは、彼を南京政府、そしてその背後に控える日本政府との和平交渉を推し進めようとする動機となるのであった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
一方、ユーラシア大陸の反対側ともいえるヨーロッパでは、日中戦争などよりも数倍は泥沼と化した戦争が続けられていた。
すべてが灰色に閉ざされた雪の世界の中で、一匹の獣が眠りについていた。
長大な砲身を持つ、鋼鉄の獣―――名を、Ⅵ号戦車ティーガーⅠをいう。ドイツ軍が誇る、重戦車であった。
フィンランド湾近くに存在する名も知らぬ村の隅で、この猛虎はじっと息を潜めていた。
ロシアの大地の冬の夜は長い。
十五時には日が暮れて、再び太陽が地平線の彼方から顔を出すのは翌日の九時頃であった。
骨の髄まで凍り付きそうな極寒の夜を、戦車兵や村に陣を敷く歩兵部隊は過ごしていた。
村の端の木立の中に車体を潜ませているオットー・カリウス少尉のティーガーもまた、その一つであった。
今年の五月でようやく二十二歳となるこの若い戦車乗りは、連日の疲労に堪えきれずに車長席で船を漕いでいた。そのたびに姿勢が崩れて砲塔の側面に頭をぶつけ、目を覚ます。
そのようなことを何度も繰り返しながら、夜は更けていった。
朝の六時を回っても、なおも村の周囲は暗かった。周囲に茂る鬱蒼とした森が、よりその暗さを増す役割を担っていた。
と、突然、村の方で爆発音が鳴り響いた。
その音に、カリウスら五名の戦車兵の意識は一気に覚醒した。
「イワンどもの迫撃砲です!」
「やはり来たか」
カリウスは砲塔のハッチを開けて、司令塔から周囲を確認した。聞こえた着弾音は二発。どちらもティーガーの遙か手前に落ちたので、車体に異常はない。
彼は照明弾拳銃を片手に用意し、森の方へと目を凝らす。
この村には、カリウス車の他に二両のティーガーが潜んでいた。第五〇二重戦車大隊(ドイツ国防軍の所属であり、後のSS第五〇二重戦車大隊とは別の部隊)に所属する彼ら三両の戦車と、村に布陣する歩兵部隊は、レニングラード方面から撤退する北方軍集団第十八軍の後衛を任されている。
付近を走る街道を扼する位置にあるこの村に布陣したのは、昨日のことであった。
そして日暮れ前にドイツ軍が布陣していると知らないソ連軍の斥候部隊が村へと侵入、これと小規模な戦闘になった後、撃退していた。
だからこそ、どこかの段階でソ連軍がこの村に攻撃を仕掛けてくるだろうことは予測していた。
迫撃砲の弾着が、村で連続する。
カリウスは照明弾を打ち上げた。
ソ連軍の砲撃目標から見て、向こうは村に戦車が潜んでいることを知らないらしい。
若い戦車長は、落下傘付き照明弾によって照らされた視界の中で双眼鏡を構えた。森の方で、チカチカと光るものがあった。
その閃光が、右へと移動している。
ソ連軍の戦車であった。
「クラーマー、森の小道に注意しろ」
キューポラから上半身を晒したまま、カリウスは喉頭式マイクを使って砲手に言う。
イワンどもの戦車が発していると思われる発砲炎は、やがて村の外れに位置する道路へと向かっていた。
「ツヴェティ、そちらにイワンの戦車が向かっている。警戒せよ」
『ヤー』
同じく村の外縁部に潜んでいるツヴェティ上級曹長のティーガーへと、警告を送る。
カリウスはさらに照明弾を追加で放った。
森に潜んでいる敵戦車の車種が判明する。どうやら、T34らしい。
やがてツヴェティ車が潜んでいる方角から、八八ミリ砲の特徴的な発砲音が聞こえてきた。少しの間を置いて、T34から爆炎が上がる。初弾にして命中させたのだ。
灰色に包まれていた村は、一気に照明弾の光と発砲の閃光、そして撃破された戦車の爆炎で照らされることになった。
「クラーマー、二時方向の森よりイワン!」
村道から飛び出してきたT34に、カリウスとその部下たちは迅速に対応した。
ティーガーの砲塔が素早く旋回し、絶大な威力を誇るKwK36五十六口径八八ミリ砲が敵戦車へと向く。
「フォイア!」
クラーマーの叫びと共に、猛虎の咆哮が轟き渡る。マズルブレーキから飛び出した炎が、カリウスの網膜を焼いた。
三九式徹甲弾が、凍てついた大気を突き破って進む。
直後、T34が爆発した。
「まだ来るぞ! 砲撃の手を緩めるな!」
カリウスは己の部下が挙げた戦果に満足を覚える暇もなく、喉頭式マイクに向けて叱咤する。
T34の装甲厚は最大で砲塔前面の九〇ミリ。ティーガーの主砲ならば、三〇〇〇メートルからでも貫通させられる。
クラーマーが放った第二射も、一撃でソ連製戦車を沈黙させた。
と、そこでカリウスは信じがたい光景を目にした。
「中隊長! 真横にイワンです!」
カリウスはフォン・シラー中隊長車のすぐ隣にT34が出現したのを見て、慌てて警告を送る。
カリウス車からの警告を受けたシラー車が、急ぎ砲塔を旋回させ始めた。一方のT34は、真横にいるドイツ軍戦車に気付いた様子もない。
カリウスに言わせれば、これは完全にソ連戦車兵の怠慢であった。どのソ連戦車もハッチを閉じており、車長がキューポラから身を乗り出して周辺を確認しようとしていないのだ(もっとも、T34は車長が砲手を兼任しているので、やむを得ない面もあった)。
ソ連兵の中で最初にシラー中隊長車の存在に気付いたのは、戦車に跨乗していた歩兵であった。慌てた様子で持っていた銃をティーガーに向けて乱射していたが、当然ながら効果はない。
そこで初めて、そのT34の車長は真横にドイツ軍戦車がいることに気付いたらしい。ようやく砲塔を旋回させ始めた。
だが、それよりもシラー中隊長車が砲塔を旋回させ終わる方が早かった。
ティーガーの八八ミリ砲から、夜目にも鮮やかなマズルフラッシュ。
瞬時にそのT34は炎上した。
タンクデザント兵たちが吹き飛ばされ、体を炎に包まれた兵士が地面を転げ回る。硝煙の臭いの中に、人肉が焼ける臭いが混ざり込んだ。
だが、それでソ連軍の進撃が止んだわけではなかった。
森の小道からは、後続のT34が次々と村へ出現していた。
家屋や納屋に潜んでいた歩兵がパンツァーファウストでソ連戦車の側面に穴を開け、ティーガーの徹甲弾がT34の装甲を穿つ。
村に布陣するドイツ軍を蹂躙すべく突進を開始した無数のT34に対して、カリウスはケストラー操縦手に対して車体を敵戦車に対して斜めに向けるよう指示を下す。
これによって、垂直装甲で構成されるティーガーは、擬似的な傾斜装甲を得ることが出来るのだ。
敵戦車との距離は、徐々に縮まっていた。
再び、ティーガーの八八ミリ砲が火を噴く。
特徴的な砲声が木々の間で跳ね返る。恐らくは森に包まれた静かな村であったろう場所は、今や苛烈な戦火に晒される狂乱の巷と化していた。
ソ連軍による村への攻撃は夜明け前まで続けられた。
カリウスらは十両以上のT34を撃破してソ連軍の村への侵入を防ぎ、第十八軍の後衛という任務を完璧な形でこなすことに成功した。
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