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第十章 未完の新秩序編
198 妥協と対立
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「皇都は戦勝気分で明るくなっていると思っていたのだが、まるでもう一つの戦場だな」
九月二十四日、遼東半島において新総督府設置に向けた準備を続けていた有馬家現当主・貞朋が皇都に帰還した。
父・頼朋の不在により、彼自らが有馬家の代表としてこの混迷する政局に立ち向かわなければならなくなっていたのである。
「むしろ、遼東半島の方が穏やかだったのでは?」
早速、会見を申し込んだ景紀が皮肉げに言う。
「まあ、そうであったかもしれぬな」
貞朋も、思わず苦笑を漏らす。
「それで、貞朋公は頼朋翁とお会いしましたか?」
「いや」景紀の問いに、貞朋は首を振った。「私が皇都に出てくるのと、ちょうど入れ違いになってしまったのだ。父上の側には、典医や弓削を付けて病状の回復に努めさせているところだ」
弓削とは、有馬家家臣の呪術師・弓削慶福のことである。景紀の父・景忠が倒れた時に葛葉英市郎が治癒の術式を用いて病状を回復させようとしたように、貞朋もまた陰陽師の術によって病身の頼朋翁を回復させようとしているのだろう。
「まあ、父上の不在を嘆いても仕方あるまい」
言葉とは裏腹に嘆息しそうな調子で、貞朋は言った。
「それで、景紀殿は満洲縦断鉄道の長春以北の路線を長尾家の利権とすることで、満洲利権を巡る対立に決着をつけようとしているのだったな?」
「はい。俺の父上も巻き込んで、六家会議の調停に努めています。父上は俺と違って、伊丹公や一色公にそれほど嫌われていませんから」
現在、景紀が長尾家を説得し、父・景忠が同じ妥協案を伊丹・一色両公に提示するという役割分担を行っていた。長尾家の説得は難航しているが、伊丹・一色両公は長春の線で鉄道利権を分割する妥協案に前向きな意向を示している。
「実のところ、もう一つの問題は御家だと思いますが?」
「ああ、我が有馬家の内部に、撫順炭田や鞍山鉄山の利権を独占しようと考えている者がいないか心配しているのか」
景紀の指摘にさして不快感も見せず、貞朋はその意図を理解した。
「まあ、父上が倒れた所為で有馬家家臣団の統制が揺らぎかねないか景紀殿が心配するのももっともだが、今のところ問題なかろうよ。何せ、私は今まで遼東半島に設置する総督府に登用する人材を家臣団や領内から探していたのだ。彼らがどういう認識を抱いているかは、ある程度、把握しているつもりだ」
「それは、失礼を申しました」
景紀は軽く頭を下げた。
「結局は長尾家の面子の問題だろう。それさえ解決出来れば、戦後利権を巡る問題は一段落する」
「はい。あとの問題は、マフムート朝とルーシー帝国の対立に対する我が国の態度、そして国内の攘夷派への対処、といったところでしょう」
「私は皇都に帰還した直後、皇主陛下に拝謁したのだがな」
貞朋は周囲を憚るように少し景紀に顔を寄せながら続けた。
「先日、西洋史の学者が殺された事件があったろう? あれに陛下は随分と心を痛めておいでのようだった」
「それは、不敬な言い方になってしまうかもしれませんが、朗報です」
皇主に関する話題となったため、景紀は少し慎重な口調になった。
「伊丹・一色両公と五摂家の接近は心配していましたが、陛下が攘夷派に理解を示されるようなことはなさそうですね」
「殺された学者は残念であったが、陛下のお心を知ることが出来た。どうしても陛下を利用することにはなってしまうだろうが、陛下の口から伊丹公らを注意していただくことも可能だろう。それでなお事態が収まらぬようであれば、不逞な攘夷派浪士を一斉に取り締る口実になる」
「問題は、宮中への工作ですね」
「伊丹・一色公と五摂家が近付いていることは警戒すべきだが、貴殿にも五摂家の友人がいるだろう?」
それが貴通を指していることに気付き、景紀は内心で気を引き締めた。貴通が女であることを、悟られるわけにはいかなかった。
「彼が穂積通敏公と不仲であることは私も知っているが、やはり五摂家の血を引く人間が我らの側にもいることは貴重だ」
「貴通に宮中への繋ぎを作ってもらう、ということですか」
「まあ、穂積家における彼の立場上、なかなか難しいことは承知している。しかし、貴殿には別に宮内省御霊部との繋がりもある。そして内大臣には、父上が有馬閥の者を就けている。そのあたりを、上手く使うと良かろう」
「……『使うと良かろう』って、俺任せですか?」
苦笑と共に若干の恨みがましい視線を、景紀はこの有馬家現当主に向けた。
「私に父上と同じような政治能力を期待されても困るぞ?」だが、貞朋はどこか自虐の混じった声で応じる。「貴殿の方が、政治には積極的であろう? むしろ、適任だと思うがね」
「別に好きこのんで積極的になっているわけじゃありませんよ」
景紀はげんなりとして溜息をついた。
この六家当主が、政治的な積極性を持たない代わりに他者を上手く使うことに長けている点を忘れていた。遼河平原で見せた児島誠太郎参謀長の辣腕は、貞朋がこの軍人の能力を最大限引き出せるようにしていたからこそなのだ。
そして、有馬家の人間ではない自分が有馬家の指揮下でも比較的制約なく結城家次期当主として振る舞えたのも、貞朋公のお陰なのだ。
今回の件も、ある意味で貞朋公に丸投げされたように見えて、景紀が政治工作を出来るだけのお膳立てをしてくれようとしていると受け取ることも出来た。
ただそれでも、目の前の有馬家現当主に恨み言めいた愚痴を零さすにはいられなかった。
「平穏で安逸に暮らせるならば、俺はそうしたいのです。ただそのために、平穏を脅かそうとする連中をどうにかしなければならない、ただそれだけなんです」
「まあ、私も出来る限り貴殿を助けるつもりだ。私もこの状況下で政治的に孤立したくはないし、それは貴殿にとっても同じことであろう?」
「それはそうですがね」
長尾家も自らの要求を強硬に主張して六家会議では孤立気味であるが、状況次第では頼朋翁を失った貞朋や父の政治的求心力が低下している景紀も孤立する可能性はあるのだ。
そう思い、景紀は気を取り直した。
「まあ、遼河戦線を共に潜り抜けた我が結城家と御家でありますからね。もう一度、共同戦線を張るといたしましょう」
◇◇◇
「それで僕の出番、というわけですか」
有馬貞朋公との会見の後、景紀は長尾家との会見の場に貴通を同行させることにした。
妾腹の子であり、父との不仲が知られている貴通ではあったが、表向き、五摂家の血を引く“男子”であることに変わりはない。
未だ穂積公爵家の後継者が幼い現状では、現当主・通敏公の感情がどうであれ、状況次第では貴通が中継ぎの当主となる可能性もあると周囲からは考えられていたのである。
「実は景くんと一緒に政治工作するのって、これが始めてですよね?」
自分が利用される立場だというのに、貴通の声は弾んでいた。
「まあ、そう言えばそうだな」
これまで、貴通は景紀の“軍師”として主に軍事面を補佐してきた。政治面では宵が正室として、冬花が補佐官として景紀を支えているが、貴通はそうした機会に今まで恵まれてこなかった。
兵学寮卒業後、正式に景紀の幕下に加わるまでは五摂家の立場を利用して政局に関する情報を景紀に流していたが、景紀と共同して政治的に動いていたというわけではない。景紀たちが新海諸島部族長たちとの会談で内地を留守にしていた時期にも、貴通が政治的に活躍する機会は巡ってこなかった。
「ふふっ、兵学寮から一緒にやるのはずっと軍事のことばかりだったので、何だか新鮮な気分です」
だからこそ、新しい自らの役割を景紀に与えられたことが嬉しかったのである。
「悪いな、お前の能力じゃなくて、血を利用するようなことになっちまって」
「まあ、お父様やお母様は良い顔をしないでしょうけど、今さらですよ」
もともと自身の能力を以て景紀の幕下に加わった貴通にとって、露骨な血筋を利用する策はその矜持を傷付けてしまうのではないかと景紀は内心で不安を抱いていたが、当の貴通自身は気にした様子もない。
「それに、僕の血が景くんの役に立てるのならば、別に悪い気分ではないですから。お父様たちが伊丹・一色両公に接近している今、五摂家の血を引く僕が景くんの側にいることは大きいはずですよ」
性別を偽り、名前を偽っている貴通にとって、自らの存在意義を実感出来るのならば、景紀に血筋を利用されることなど大した問題ではなかった。むしろこの状況下で、景紀の側にいる自分に五摂家の血が流れていることに感謝したいくらいであった。
その血筋もまた、景紀を支えることに繋げられるのだから。
「そう言ってくれると助かる」
「ええ、ですから景くんが後ろめたさを感じることなんて何もないんですよ」
同期生の内心を見透かしたように貴通は微笑んだ。
「じゃあ、頼むぜ」
「ええ、お任せ下さい」
二人は互いに不敵な笑みを浮かべ合うと、長尾家皇都屋敷の門を潜ったのであった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
結果として、長尾家は景紀による粘り強い説得の末に妥協案を受け入れた。
長尾家現当主・憲隆は、景紀の妥協案ならば自家が河川航行権を得る松花江流域に他の六家勢力が進出することを阻止出来ると判断したのである。
また、伊丹・一色両公に五摂家勢力が接近しつつあったことが、長尾公をして妥協案を受け入れる決定打となった。
現状、長尾家には五摂家との直接的な接点はない。憲隆の嫡男で次期当主の憲実の正室・勤子が、五摂家から分かれた徳英寺侯爵家の出身である程度であった。
頼朋翁が政治の表舞台から姿を消した今、伊丹・一色両公が宮中に影響力を伸ばし自らの利権を脅かすことを憲隆は警戒したのである。
長尾家としては、ルーシー帝国脅威論に便乗して氷州に他の六家勢力が進出してくることを望んではない。特に攘夷論を唱えている伊丹・一色両公は警戒の対象であった。
そうした状況下で、伊丹・一色両公が宮中に影響力を伸せば、長尾家の利権を縮小する形での和衷協同の詔勅が出されかねない。
だからこそ、長尾家としては伊丹・一色両公が宮中への影響力を拡大し、皇主に働きかけを行う前に妥協に持ち込む必要性があったのである。
また、景紀の側に五摂家の人間がいることも長尾憲隆の妥協を後押しした。穂積貴通という少年は穂積家現当主・通敏から疎まれてはいるものの、それでも五摂家の男子である。
五摂家の当主たちが伊丹・一色両公への接近を強めている中、穂積家現当主・通敏との不仲が知られている穂積貴通には政治的な利用価値があった。
長尾憲隆は、結城景紀も将来的に穂積通敏を失脚させ穂積貴通を次期当主として据えることで五摂家への影響力を強めようとしているのだろうと考えていたのである。そこに長尾家も便乗しようというわけであった。
◇◇◇
一方、六家間において戦後利権を巡る合意が形成されつつある中でも、急進攘夷派による事件は続いていた。
今度は、攘夷派政党・蓬莱倶楽部の党幹部が暗殺されたのである。
理由は、党内資金の横領疑惑が持ち上がっていたことであった。これに憤激した院外団の青年が、拳銃でこの党幹部を殺害したのである。
これまで攘夷派の暗殺者たちは西洋列強との繋がりが強いと見なされた人間を暗殺の対象としてきたのだが、ここに来て、その凶刃・凶弾は志を同じくしているはずの攘夷派にも向けられ始めたのである。
この党内資金横領疑惑の真相は不明のままであったが、蓬莱倶楽部内部での派閥対立によって、敵対する派閥の者が流した讒言ではないかとの噂もあった。
いずれにせよ、攘夷派による騒擾事件は皇都の空気をますます不穏なものとしていた。
そして、皇主がこの状況を憂慮する言葉を側近に漏らしたことが、一部の者たちの主張をさらに尖鋭化させることとなった。
皇主が攘夷論に理解を示して下さらないのは、皇主の側にいる者たちが自分たち攘夷派の言葉をねじ曲げて伝えているからだというのである。
つまり、君側の奸を排除して皇主に自分たちの言葉を直接届けるべき、という主張が一部の攘夷派たちの間から沸き起こるようになったのである。
九月二十四日、遼東半島において新総督府設置に向けた準備を続けていた有馬家現当主・貞朋が皇都に帰還した。
父・頼朋の不在により、彼自らが有馬家の代表としてこの混迷する政局に立ち向かわなければならなくなっていたのである。
「むしろ、遼東半島の方が穏やかだったのでは?」
早速、会見を申し込んだ景紀が皮肉げに言う。
「まあ、そうであったかもしれぬな」
貞朋も、思わず苦笑を漏らす。
「それで、貞朋公は頼朋翁とお会いしましたか?」
「いや」景紀の問いに、貞朋は首を振った。「私が皇都に出てくるのと、ちょうど入れ違いになってしまったのだ。父上の側には、典医や弓削を付けて病状の回復に努めさせているところだ」
弓削とは、有馬家家臣の呪術師・弓削慶福のことである。景紀の父・景忠が倒れた時に葛葉英市郎が治癒の術式を用いて病状を回復させようとしたように、貞朋もまた陰陽師の術によって病身の頼朋翁を回復させようとしているのだろう。
「まあ、父上の不在を嘆いても仕方あるまい」
言葉とは裏腹に嘆息しそうな調子で、貞朋は言った。
「それで、景紀殿は満洲縦断鉄道の長春以北の路線を長尾家の利権とすることで、満洲利権を巡る対立に決着をつけようとしているのだったな?」
「はい。俺の父上も巻き込んで、六家会議の調停に努めています。父上は俺と違って、伊丹公や一色公にそれほど嫌われていませんから」
現在、景紀が長尾家を説得し、父・景忠が同じ妥協案を伊丹・一色両公に提示するという役割分担を行っていた。長尾家の説得は難航しているが、伊丹・一色両公は長春の線で鉄道利権を分割する妥協案に前向きな意向を示している。
「実のところ、もう一つの問題は御家だと思いますが?」
「ああ、我が有馬家の内部に、撫順炭田や鞍山鉄山の利権を独占しようと考えている者がいないか心配しているのか」
景紀の指摘にさして不快感も見せず、貞朋はその意図を理解した。
「まあ、父上が倒れた所為で有馬家家臣団の統制が揺らぎかねないか景紀殿が心配するのももっともだが、今のところ問題なかろうよ。何せ、私は今まで遼東半島に設置する総督府に登用する人材を家臣団や領内から探していたのだ。彼らがどういう認識を抱いているかは、ある程度、把握しているつもりだ」
「それは、失礼を申しました」
景紀は軽く頭を下げた。
「結局は長尾家の面子の問題だろう。それさえ解決出来れば、戦後利権を巡る問題は一段落する」
「はい。あとの問題は、マフムート朝とルーシー帝国の対立に対する我が国の態度、そして国内の攘夷派への対処、といったところでしょう」
「私は皇都に帰還した直後、皇主陛下に拝謁したのだがな」
貞朋は周囲を憚るように少し景紀に顔を寄せながら続けた。
「先日、西洋史の学者が殺された事件があったろう? あれに陛下は随分と心を痛めておいでのようだった」
「それは、不敬な言い方になってしまうかもしれませんが、朗報です」
皇主に関する話題となったため、景紀は少し慎重な口調になった。
「伊丹・一色両公と五摂家の接近は心配していましたが、陛下が攘夷派に理解を示されるようなことはなさそうですね」
「殺された学者は残念であったが、陛下のお心を知ることが出来た。どうしても陛下を利用することにはなってしまうだろうが、陛下の口から伊丹公らを注意していただくことも可能だろう。それでなお事態が収まらぬようであれば、不逞な攘夷派浪士を一斉に取り締る口実になる」
「問題は、宮中への工作ですね」
「伊丹・一色公と五摂家が近付いていることは警戒すべきだが、貴殿にも五摂家の友人がいるだろう?」
それが貴通を指していることに気付き、景紀は内心で気を引き締めた。貴通が女であることを、悟られるわけにはいかなかった。
「彼が穂積通敏公と不仲であることは私も知っているが、やはり五摂家の血を引く人間が我らの側にもいることは貴重だ」
「貴通に宮中への繋ぎを作ってもらう、ということですか」
「まあ、穂積家における彼の立場上、なかなか難しいことは承知している。しかし、貴殿には別に宮内省御霊部との繋がりもある。そして内大臣には、父上が有馬閥の者を就けている。そのあたりを、上手く使うと良かろう」
「……『使うと良かろう』って、俺任せですか?」
苦笑と共に若干の恨みがましい視線を、景紀はこの有馬家現当主に向けた。
「私に父上と同じような政治能力を期待されても困るぞ?」だが、貞朋はどこか自虐の混じった声で応じる。「貴殿の方が、政治には積極的であろう? むしろ、適任だと思うがね」
「別に好きこのんで積極的になっているわけじゃありませんよ」
景紀はげんなりとして溜息をついた。
この六家当主が、政治的な積極性を持たない代わりに他者を上手く使うことに長けている点を忘れていた。遼河平原で見せた児島誠太郎参謀長の辣腕は、貞朋がこの軍人の能力を最大限引き出せるようにしていたからこそなのだ。
そして、有馬家の人間ではない自分が有馬家の指揮下でも比較的制約なく結城家次期当主として振る舞えたのも、貞朋公のお陰なのだ。
今回の件も、ある意味で貞朋公に丸投げされたように見えて、景紀が政治工作を出来るだけのお膳立てをしてくれようとしていると受け取ることも出来た。
ただそれでも、目の前の有馬家現当主に恨み言めいた愚痴を零さすにはいられなかった。
「平穏で安逸に暮らせるならば、俺はそうしたいのです。ただそのために、平穏を脅かそうとする連中をどうにかしなければならない、ただそれだけなんです」
「まあ、私も出来る限り貴殿を助けるつもりだ。私もこの状況下で政治的に孤立したくはないし、それは貴殿にとっても同じことであろう?」
「それはそうですがね」
長尾家も自らの要求を強硬に主張して六家会議では孤立気味であるが、状況次第では頼朋翁を失った貞朋や父の政治的求心力が低下している景紀も孤立する可能性はあるのだ。
そう思い、景紀は気を取り直した。
「まあ、遼河戦線を共に潜り抜けた我が結城家と御家でありますからね。もう一度、共同戦線を張るといたしましょう」
◇◇◇
「それで僕の出番、というわけですか」
有馬貞朋公との会見の後、景紀は長尾家との会見の場に貴通を同行させることにした。
妾腹の子であり、父との不仲が知られている貴通ではあったが、表向き、五摂家の血を引く“男子”であることに変わりはない。
未だ穂積公爵家の後継者が幼い現状では、現当主・通敏公の感情がどうであれ、状況次第では貴通が中継ぎの当主となる可能性もあると周囲からは考えられていたのである。
「実は景くんと一緒に政治工作するのって、これが始めてですよね?」
自分が利用される立場だというのに、貴通の声は弾んでいた。
「まあ、そう言えばそうだな」
これまで、貴通は景紀の“軍師”として主に軍事面を補佐してきた。政治面では宵が正室として、冬花が補佐官として景紀を支えているが、貴通はそうした機会に今まで恵まれてこなかった。
兵学寮卒業後、正式に景紀の幕下に加わるまでは五摂家の立場を利用して政局に関する情報を景紀に流していたが、景紀と共同して政治的に動いていたというわけではない。景紀たちが新海諸島部族長たちとの会談で内地を留守にしていた時期にも、貴通が政治的に活躍する機会は巡ってこなかった。
「ふふっ、兵学寮から一緒にやるのはずっと軍事のことばかりだったので、何だか新鮮な気分です」
だからこそ、新しい自らの役割を景紀に与えられたことが嬉しかったのである。
「悪いな、お前の能力じゃなくて、血を利用するようなことになっちまって」
「まあ、お父様やお母様は良い顔をしないでしょうけど、今さらですよ」
もともと自身の能力を以て景紀の幕下に加わった貴通にとって、露骨な血筋を利用する策はその矜持を傷付けてしまうのではないかと景紀は内心で不安を抱いていたが、当の貴通自身は気にした様子もない。
「それに、僕の血が景くんの役に立てるのならば、別に悪い気分ではないですから。お父様たちが伊丹・一色両公に接近している今、五摂家の血を引く僕が景くんの側にいることは大きいはずですよ」
性別を偽り、名前を偽っている貴通にとって、自らの存在意義を実感出来るのならば、景紀に血筋を利用されることなど大した問題ではなかった。むしろこの状況下で、景紀の側にいる自分に五摂家の血が流れていることに感謝したいくらいであった。
その血筋もまた、景紀を支えることに繋げられるのだから。
「そう言ってくれると助かる」
「ええ、ですから景くんが後ろめたさを感じることなんて何もないんですよ」
同期生の内心を見透かしたように貴通は微笑んだ。
「じゃあ、頼むぜ」
「ええ、お任せ下さい」
二人は互いに不敵な笑みを浮かべ合うと、長尾家皇都屋敷の門を潜ったのであった。
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結果として、長尾家は景紀による粘り強い説得の末に妥協案を受け入れた。
長尾家現当主・憲隆は、景紀の妥協案ならば自家が河川航行権を得る松花江流域に他の六家勢力が進出することを阻止出来ると判断したのである。
また、伊丹・一色両公に五摂家勢力が接近しつつあったことが、長尾公をして妥協案を受け入れる決定打となった。
現状、長尾家には五摂家との直接的な接点はない。憲隆の嫡男で次期当主の憲実の正室・勤子が、五摂家から分かれた徳英寺侯爵家の出身である程度であった。
頼朋翁が政治の表舞台から姿を消した今、伊丹・一色両公が宮中に影響力を伸ばし自らの利権を脅かすことを憲隆は警戒したのである。
長尾家としては、ルーシー帝国脅威論に便乗して氷州に他の六家勢力が進出してくることを望んではない。特に攘夷論を唱えている伊丹・一色両公は警戒の対象であった。
そうした状況下で、伊丹・一色両公が宮中に影響力を伸せば、長尾家の利権を縮小する形での和衷協同の詔勅が出されかねない。
だからこそ、長尾家としては伊丹・一色両公が宮中への影響力を拡大し、皇主に働きかけを行う前に妥協に持ち込む必要性があったのである。
また、景紀の側に五摂家の人間がいることも長尾憲隆の妥協を後押しした。穂積貴通という少年は穂積家現当主・通敏から疎まれてはいるものの、それでも五摂家の男子である。
五摂家の当主たちが伊丹・一色両公への接近を強めている中、穂積家現当主・通敏との不仲が知られている穂積貴通には政治的な利用価値があった。
長尾憲隆は、結城景紀も将来的に穂積通敏を失脚させ穂積貴通を次期当主として据えることで五摂家への影響力を強めようとしているのだろうと考えていたのである。そこに長尾家も便乗しようというわけであった。
◇◇◇
一方、六家間において戦後利権を巡る合意が形成されつつある中でも、急進攘夷派による事件は続いていた。
今度は、攘夷派政党・蓬莱倶楽部の党幹部が暗殺されたのである。
理由は、党内資金の横領疑惑が持ち上がっていたことであった。これに憤激した院外団の青年が、拳銃でこの党幹部を殺害したのである。
これまで攘夷派の暗殺者たちは西洋列強との繋がりが強いと見なされた人間を暗殺の対象としてきたのだが、ここに来て、その凶刃・凶弾は志を同じくしているはずの攘夷派にも向けられ始めたのである。
この党内資金横領疑惑の真相は不明のままであったが、蓬莱倶楽部内部での派閥対立によって、敵対する派閥の者が流した讒言ではないかとの噂もあった。
いずれにせよ、攘夷派による騒擾事件は皇都の空気をますます不穏なものとしていた。
そして、皇主がこの状況を憂慮する言葉を側近に漏らしたことが、一部の者たちの主張をさらに尖鋭化させることとなった。
皇主が攘夷論に理解を示して下さらないのは、皇主の側にいる者たちが自分たち攘夷派の言葉をねじ曲げて伝えているからだというのである。
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