秋津皇国興亡記

三笠 陣

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幕間 北国の姫と封建制の桎梏

9 不信の末

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 佐薙家皇都屋敷に宵姫襲撃の一報が届いた時、次期当主・大寿丸の母・定子がまず気にしたのは宵姫の安否であった。
 襲撃直後は市民の間でも情報が錯綜し、皇都警視庁から正式な発表があったのは当日十五時過ぎのことであった。
 ただし襲撃事件直後から、宵姫が自ら銃をとって襲撃者を迎え撃っただの、襲撃者に対して宵姫が毅然とその非を鳴らしただの、宵姫の武勇を伝える噂は佐薙家皇都屋敷にも入ってきた。
 こうした噂は別に結城家が意図したものではなく、目撃者たちが自然発生的に広めたものであった。市民たちは襲撃事件に一抹の恐怖を感じつつも、小柄な少女が自ら襲撃者に立ち向かったという部分に面白さを感じ、無責任に噂を広げていたのである。
 警視庁からの発表によって宵姫が生きていること、そして襲撃犯が嶺州浪士であると特定されてしまったことを知った定子は、酷く動揺したという。
 彼女は興奮した口調で、家臣団たちに対し襲撃は佐薙家とは無関係であるとの声明を発表するようにと指示し、さらには次期当主・大寿丸の姉に対する襲撃は佐薙家に対する謀反に等しいとまで言い切った。
 これまで大寿丸に佐薙家を継がせるべく、宵の存在を危険視していた女性は、今度はその宵の存在を利用して佐薙家の安泰を図ろうとしたのである。
このため、襲撃犯の親族は謀反人の親族ということで、ただちに拘束・監禁されることになった。
 いざという時には彼ら親族に責任を押し付けて処断することで、佐薙家、もっと言えば彼女の息子である大寿丸に累が及ぶことを避けようとしたのだろう。
 一方、渉外担当の大堀史高は、幼少期からの友であった戸澤義基が本懐を遂げられなかったことを悼んだ。
 彼は渉外担当の一人として、内務省からの公式発表以降、今回の襲撃事件に対する佐薙家の立場を説明するために奔走していた。
 だが、一昨年の宵姫誘拐事件や佐薙成親による電信維持費横領の記憶が残っている皇都市民は、宵姫に同情的であった。
 浪士たちの斬奸趣意書や佐薙家の主張を、懐疑的に見て信じようとしない。
 佐薙家は、情報工作に失敗したのだ。
 そもそも、現状の佐薙家は自由に機密費を使うことが出来ない。
 そうした中で佐薙家に仕える忍たちは、その中の少女の一人を葦原の遊郭に身売りさせて、密かに活動資金を調達していた。しかし、やはりそれでも従来の機密費に比べればその額はわずかである。
 資金不足も、情報工作で佐薙家が不利な立場に追いやられつつある原因であった。
 ここから大寿丸待望論を形成することは、難しい。
 史高はそう自覚しつつも、本懐を遂げられずに散っていった友の願いのために、若君を守り通さねばならなかった。
 襲撃犯たちの親族を謀反人の親族として扱うことは心苦しかったが、それでも大寿丸に家督を継がせることで佐薙家を維持するという大目的のためにはやむを得ないことと自分に言い聞かせる。
 ただし、弟に累が及ばないようにとの義基との約束は、辛うじて守った。
 定子に対し、外出が制限されている兵学寮に在学中の者は今回の事件と無関係の可能性が高いと説得して、ひとまず兵学寮在学者に対する措置を保留にさせたのである。
 しかし史高のそうした奮闘も虚しく、襲撃事件翌日、義基の弟である義成が兵学寮内で割腹自殺を遂げたという報せが届いた。
 それから少しして、今度は結城家からの急使が屋敷にやって来た。
 兵学寮での生徒割腹自殺事件を受けて、結城家は襲撃事件とは無関係な襲撃犯親族の処罰を望まないこと、しかしながら結城家は今回の襲撃事件を佐薙家による家臣団統制の緩みから生じたものであると考えていること、それ故に家臣団に対して統制力を発揮出来ない大寿丸とその母・定子の責任について追及していく方針であること、などを使者は告げてきた。
 つまり結城家は、襲撃犯は“大寿丸の姉を暗殺しようとした謀反人” という主張を受け入れなかったわけである。佐薙家そのものは謀反を受けた宵姫と同じ一被害者であるという詭弁は、通用しなかったのだ。
 結城家は今回の襲撃事件を、佐薙家を取り潰す材料にしようとしている。
 史高はそう考えた。
 さらに使者は、結城家と佐薙家の今後の関係について協議するため、宵姫を景忠公の代理として遣わせると言ってきた。
 これはいよいよ、大寿丸様には皇都から脱出していただかねばならないかもしれない。史高はそう考え、自分と同じく佐薙家再興に望みを託す忍たちに指示を下すことにした。

  ◇◇◇

 宵は兵学寮生徒割腹自殺事件のあった当日十五時過ぎに、佐薙家皇都屋敷を訪れた。
 この屋敷を訪れるのは、景紀との婚儀のために皇都に出てきた一昨年以来であった。父・佐薙成親と嶺州鉄道建設請負契約締結のための会談を行う景紀に付き添って、屋敷を訪れたのが最後である。
 結城家家臣団の中には、宵姫自身が佐薙家を訪れることを危惧する者もいた。昨日の襲撃事件の失敗を受けて、佐薙家が屋敷内で宵を謀殺する可能性を考えていたのである。
 宵が佐薙家皇都屋敷を訪れる時刻が夕刻近くになってしまったことも、護衛として呪術師の鉄之介と八重を連れていくため、彼らが下校する時刻になるのを待っていたからである。
 もっとも、屋敷内で六家次期当主正室を暗殺するようなことをすれば、今度こそ完全に佐薙家は破滅だろう。
 襲撃事件に関わったのが佐薙家の家臣を辞した浪士であったからこそ、まだ佐薙家は首の皮一枚で将家として生き残る可能性が残されている。
 会期末に差し掛かった列侯会議でも、早速、昨日の宵姫襲撃事件が取り上げられたという。
 他の六家も賛同すれば、佐薙家を取り潰すことは容易い。ただし、結城家は佐薙家の責任は問うものの取り潰しまでは求めない方針をすでに決定している。
 とはいえ、それでもやはり結城家や宵に対する佐薙家側の反発もあるだろう。そうした不満や反発が爆発したからこそ、今回の襲撃事件に繋がったともいえる。
 だからこそ、宵が正式に佐薙家家長を務めなければならないのであれば、自ら佐薙家に乗り込んで結城家と、そして自分の意向を告げる必要があった。





 宵たちが通されたのは、佐薙家皇都屋敷の接見の間であった。
 当主が座るべき一段高くなった場所には、大寿丸が座っている。その横には、定子がいた。
 この期に及んでなお、定子は自分たちの立場が宵よりも上であると考えているようであった。

「直接お会いするのは、私が景紀様に嫁ぐために嶺州を出て以来ですか」

「よくもぬけぬけと顔を見せられたものですね」

 心底不愉快そうに、定子は言った。

「十五の歳まで佐薙家で育てられておきながら実の父たる成親様に仇なし、佐薙家の名を貶めた忘恩の小娘が」

 定子の中では、宵の評価はそうなっているらしい。宵を襲撃した嶺州浪士たちの書いた斬奸趣意書と、その内容はほとんど同じだ。
 大寿丸を擁立し、佐薙家を再興したい者にとって、宵とはそういう存在なのだろう。
 景紀に嫁ぐ前は敵対する長尾家の血を引く娘として扱われ、嫁いで後は忘恩の小娘か。結局、彼らにとって自分はどこまでも疎ましい存在であるということに違いはないのだ。

「私が今日、結城家よりここへ遣わされたのは定子殿の恨み言を聞くためではありません」

 定子の感情を歯牙にもかけない宵の態度に苛立ったのか、あるいは次期当主の実母である自分が格下と思っていた小娘から「殿」呼ばわりされたからか、定子の顔が歪む。

「貴女は私と顔を合せるのも不愉快のようですから、早速、本題に入らせて頂きます」

 だが、宵は定子の内面を完全に無視して言葉を続けた。

「今回の事件を受けて、結城家としては他の六家や列侯会議に対し、大寿丸殿の佐薙家継承権の剥奪を提議することを決定いたしました。しかし佐薙家の名誉に配慮して、我が結城家は大寿丸殿に自ら事件の責任をとって佐薙家の継承権を放棄することを望みます」

 それが、結城家から幼い大寿丸へのせめてもの温情であった。六家会議や列侯会議で佐薙家次期当主が継承権を剥奪されるという不名誉を回避させようという配慮である。

「あの事件は、牢人どもが勝手に起こしたもの!」

 だが、定子は納得出来なかったようだ。

「むしろ佐薙家に連なる姫を亡き者にしようなど、佐薙家に対する謀反に等しい! それでも我が子・大寿丸に責任を取れと言うのか!?」

 先程まで宵を悪し様に言った口で、今度は宵の血筋を理由に佐薙家もまた被害者であると主張する。そのことを、宵は内心で皮肉に感じざるを得なかった。

「違う!」

 だが、定子の言葉を否定の叫びを上げたのは、大寿丸であった。思わず、宵も定子も九歳になろうとする子供を見る。

「彼らは、僕のために命を投げ出した忠烈の士です! 僕はまだ、家臣たちから見放されたわけではない! だから、僕も忠義の家臣を見捨てるようなことはしたくない!」

 事件から一夜、大寿丸に何かを吹き込んだ家臣がいるようだ。宵はそう考えた。

「何故、姉上は僕からすべてを奪おうとするのですか!?」

 自身の異母弟は、宵の理不尽な仕打ちを糺弾する。

「以前は父上を、今度は次期当主としての地位と家臣を! 僕がいったい、何をしたというのですか!?」

「……私だって、何もしていなかったじゃないですか」

 思わず、そんな言葉が宵の口を突いて出た。
 そうだ。自分だって、何もしてない。ただ長尾の血を引くというだけで佐薙家の者たちから疎まれ、虐げられ、最後は政略結婚の道具とされた。
 もちろん、それでも零細農民とは違って飢えとは無縁の生活であったし、いずれ政略結婚の道具とするためにしっかりとした教育も受けられた。
 それに、どこかの殿方と政略で結ばれるというのは、華族の娘として生まれた者の宿命だろう。
 自らの運命を、宵は呪ったことはない。ただ、納得と共に受け入れてきただけだ。それは景紀から見れば諦観だったのだろうが、それでも自らの血や生まれによって受ける仕打ちを、宵は納得していた。
 そうした理不尽に、怒ることもしなかった。
 しかし、すべての者がそうとは限らない。特に宵と違い、生まれた時から父親や母親、そして佐薙家家臣団に望まれて育ってきた大寿丸ならば、なおさらだろう。

「これは、結城家からの最後通牒であると受け止めて下さい」

 だが、宵は異母弟の心情を斟酌することなく淡々と告げた。

「別に、私たちもあなた方の命までもを奪うつもりはありません」

 自分の命を狙ってきた佐薙家に対して皮肉になってしまうかと思ったが、それでも宵は続けた。

「大寿丸殿が佐薙家菩提寺に入り、定子殿と紅姫殿が実家に戻られるのでしたら、結城家としては御家を断絶させるつもりはありません」

「この小娘が! やはり自らの子を当主に据えようというのか!?」

 定子は依然として反発して声を荒げているが、佐薙家を取り潰さないというのは家臣団にとっては安心材料となる。
 誰も彼もが、忠誠心だけで主家に仕えているわけではないのだ。また、誰も彼もが民草のためにと思って働いているわけでもない。
 自分たちの生活の糧を得るために、家臣として仕えている者が大半だろう。
 かつて、宵は益永忠胤から言われた。それが自分たちの利益とならない限り、人は理念だけで動こうとはしない、と。
 もちろん、攘夷派などのように理念だけで動ける人間もいる。
 しかし、世の中の大多数はそうではないだろう。
 ある意味で、大寿丸の佐薙家継承権を剥奪しつつ佐薙家を存続させるというのは、主家と家臣団の分断を図る妙手であった。襲撃犯のような特に忠誠心の強い家臣を除き、自分たちの生活のために結城家に恭順する家臣も多く現れるだろう。
 結城家が嶺州の統治を代行している現在でも、そうした佐薙家家臣団は存在しているのだ。

「私に怒鳴られたところで、現実が変わるわけではありません。どうかこれ以上、私の故郷でもある嶺州の名を貶めることのないよう、お願いいたします」

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 宵姫襲撃事件発生以来、警視庁は皇都憲兵司令部と協力しつつ皇都の治安維持を強化していた。
 流石に夜間の外出禁止令など、戒厳令に近いような命令は発せられていなかったが、市内の至るところで警邏中の警察や憲兵の目が光っていた。
 襲撃犯以外にも斬奸趣意書をばら撒いた嶺州浪士がいると考えられ、捜索が続けられていたが、襲撃事件から一日経ってもその足取りは掴めていなかった。
 この時期の皇都には、地方からの出稼ぎ農民や仕官先を求める牢人、さらには列侯会議中ということもあって議会各党派の院外団の壮士たち、本来の皇都市民ではない者たちも大勢、紛れ込んでいた。
 こうした中から特定の人間を探し出すのは、短時間では不可能であった。
 もちろん警察としても、襲撃の共犯者が捜査の及ばない佐薙家皇都屋敷に逃げ込んでいる可能性を考えている。
 そのため警察は斬奸趣意書を散布した者に関する情報提供を呼びかけ、有力な情報をもたらした者には報奨金を与えると発表していた。情報提供者の秘密は厳守するとの注釈を付け、佐薙家の内部から密告者が出ることにも期待した。
 しかし、この明らかに密告を促そうとする警視庁の布告は、一部の者たちによって別の解釈がなされた。これが、襲撃を指示したのが定子ないし大寿丸であるとの讒言を引き出そうとするものであると考える者たちがいたのである。
 その中の一人が、大堀史高であった。
 実際、佐薙家皇都屋敷の内部では今回の宵姫襲撃事件に衝撃を受けている者たちもおり、そうした者たちは定子の普段の言動から、この事件は定子と一部の御家再興を望む急進派が共謀して引き起こしたものではないかと考えていた。
 そして、佐薙家皇都屋敷には佐薙家の家臣だけでなく、単に奉公人として屋敷で働いている平民もいる。そうした者たちが、こうした一部家臣の推測を真に受けて警察に讒言を行わないとも限らない。
 史高とその同志たちは、危機感を募らせていた。
 そうした讒言が行われてしまっては、大寿丸の身も危うい。
 結城家は現状、大寿丸に継承権を放棄させて寺に入れることを画策しているようであったが、襲撃事件が定子の陰謀であるとの見解が広まってしまえば、大寿丸も父親と同じく流罪になる可能性があった。
 もともと、彼らは最初から結城家を信用していない。
 大寿丸が寺に入ったところで、病死を装った謀殺を行ってくるのではないかと懸念していた。
 やはり、若君を皇都に留めておくわけにはいかない。
 宵姫との会見が終わった後、史高はその思いを強くした。





「このままでは、御身が危険に晒されます。若君におかれましては、ここは恥を忍んで皇都より脱出なさるべきです」

 史高は定子と大寿丸にそう進言した。

「皇都を落ち延びて、どこに行こうというのです?」

 我が子のことが心配なのだろう、定子が不安そうな口調で言った。
 彼らの領地である嶺州も、今や実質的に結城家が支配しており、安全とはいえない。

「北溟道へ」

 史高は、端的に答えた。

「北溟道は中央政府直轄地。六家の支配圏よりも、身を隠すには最適でありましょう。幸い、士族籍を返上した私の親戚がそこで農場を経営しており、我が父もその農園に身を寄せております。若君には不自由な思いをさせてしまうかと存じますが、しばらくは身分を偽り身を潜めて頂くのが安全かと」

「その間、我が子・大寿丸のものであるべき次期当主の座に他の者が座るのを許せというのか?」

「佐薙家の正統なる後継者が大寿丸様であることに変わりはありません。故に、僭主がその座に長く居座ることを、嶺州の家臣団も民も許すことはないでしょうし、また許すべきではありません。それでは、我が国の統治の根本が脅かされます」

 正統な血筋の者による領主の継承。それによる封建制の維持こそが皇国の伝統であり、国家の安定に繋がると史高は考えている。

「絶対に、あの小娘の子などに我が子のあるべき場所を奪わせはせぬ」

 定子は強い目で、息子たる大寿丸を見た。

「しかし、事ここに至っては、やむを得ません。お前は皇都を脱し、家臣と共に再起の刻を待ちなさい」

「しかし、それでは母上とお紅が……」

「母と紅のことは、心配することではありません。お前は、佐薙家を継ぐべき者。家を保ち、それを支える家臣のことを、これからは考えなさい」

 ようやく九歳になろうとする男子の顔に、逡巡が浮かぶ。
 しかし、自分のために命を投げ出した家臣がいることを、この少年は知っている。だからこそ、彼は決意した。

「……判りました。母上、どうかお達者で」

「お前の息災を、この母はいつでも祈っています」

  ◇◇◇

 その日の夜の内に、大寿丸の皇都脱出のための準備は整えられた。
 もともと史高や同志の忍によって、万が一の場合に備えて皇都を脱出する計画は練られていた。
 身分を偽って北溟道まで落ち延びるための資金は、芦原に身売りした忍の少女が稼いだ金を充てる。
 まずは皇都にほど近い港湾都市・横浦港へ陸路で向かい、そこから船で北溟道へと向かう。結城家領を通過しない経路を選んだのである。

「若君。若君は皇都に出稼ぎに来て、春が近いから故郷に戻る労働者を偽ります。ここからは、平民の“隼平じゅんぺい”という名を名乗って下さい。我々と志を同じくする忍の者に、隼吉じゅんきちという者がおります。その弟という設定です」

「あ、ああ」

 史高の言葉に、少し戸惑いと緊張を覚えつつも大寿丸は頷いた。史高は、偽名の入った皇都での労働許可証を大寿丸に渡す。
 出稼ぎに来た者たちは、本来の居住地の役所が発給した労働許可証があると、皇都での就職が容易になるのである。また、警察から誰何すいかされた際も、この労働許可証を提示出来れば怪しまれずに済む。

「歳も、義務教育年齢である十歳未満ですと怪しまれます。少し小柄な十歳、今年十一歳になる男子だということにします。そして、不肖ながらこの大堀史高めは、“隼平”を兄・隼吉の下に送り届ける奉公先の手代ということにさせて頂きます。すなわち、若君の上司という設定です」

 史高もまた、偽名の入った自らの労働許可証を大寿丸に示す。

「判りました、“堀川”殿」

 少したどたどしく、大寿丸は史高の偽造身分証に書かれた名前を言う。

「口調も少し改めましょう。“殿”ではなく、“様”や“さん”などとお呼び頂いた方が、周囲の者から怪しまれずに済むかと」

「判った。其方の言う通りにしよう」

「ひとまず、港に向かう途中でその忍の者たちと落ち合うことを目的にします。港までの御身の安全は、私とその忍の者たちで守り抜く所存です。ただ、私も御身と共に姿を消せば北溟道の農場が嗅ぎつけられる恐れがあります。私が御身に同行出来るのは、港までとお思い下さい」

「そうか」

 大寿丸は、若い重臣の青年の言葉を噛みしめるように頷いた。

「では、よろしく頼む」

「はっ!」

 大寿丸は用意された平民風の衣服に着替えながら、部屋の中を見回した。
 本来、自分がいるべき屋敷。故郷の城も、自分がいるべき場所だ。そこを捨てて、あの異母姉と結城家の毒牙から逃れるために落人のように逃げ出さなければならない。
 そのことを、子供ながらに悔しく感じていた。
 いずれ立派な当主となって、この皇都に戻ってくる。
 少年は、そう決意していた。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

「何か、すっげぇ拗らせてるな、あいつら」

 夜、寝る前に一応、監視用の式から届けられる映像を確認しておこうと思った鉄之介は、思わず呻いてしまった。
 宵や結城家を始めとする六家に対して不信感を抱いている家臣がいることは把握していたが、まさかここまでとは。
 もっとも、彼は帯城の倭館で陽鮮の武官たちが自分勝手な危機感から宵姫を人質にし、両足の腱を切ったことを知っている。その前には、宵姫誘拐事件にも関わった。
 変な方向に敏感になった危機意識が、人間に冷静さをまったく欠いた行動を引き起こさせる事例を、すでに見ていたのだ。

「取りあえず、姫様に相談だな」

 何となく気が重いものを感じながら、鉄之介は宵へ報告すべく部屋を出た。





「大寿丸が皇都脱出を企てている、ですか」

 一日の終わりに日記を付けていた宵は、鉄之介からの報告を聞いて即座に景忠公にも情報を伝達する。

「ふぅむ、彼らはそこまで思い詰めているのか」

 以前は景紀も使っていた当主の執務室で、景忠公は唸った。彼の傍らにはいつものように側用人の里見善光がおり、部屋には宵と鉄之介、そして菖蒲、その父である葛葉英市郎と風間卯太郎もいた。

「警視庁に連絡し、捕えて屋敷に連れ戻すのは簡単であろうが、どうすべきか……」

「このまま見逃してもよろしいのではないでしょうか?」

 そう言ったのは、結城家に直接仕える忍の家の長・風間卯太郎であった。

「今さら、八つか九つになる子供に、嶺州の情勢を覆せるとは思えません。内務省と協力し、要監視対象とする程度に留めてもよろしいかと」

 密偵らしい主張であった。

「しかし、佐薙家宗家の男系男子だ。いずれ、姫様のお子なり何なりに佐薙家を継がせようとする際、騒動の種にもなりかねん。ここは屋敷に連れ戻し、無理矢理にでも寺に入れてしまうべきだ」

 卯太郎の意見に反論したのは、里見であった。

「元服も済ませていない子供に、少々、酷なことを背負い込ませてしまったやもしれぬなぁ……」

 嘆ずるように、景忠公が言う。自らも親として、大寿丸の置かれた状況に思うところがあるのだろう。
 しかし、それは結城家当主としての態度ではないと宵は思う。景紀に対してもそうだが、景忠公の対応はどこか父親としての感情を優先させ過ぎているような気がするのだ。
 病に倒れたことで後継者問題を真剣に考えざるを得なかったことと、子供が景紀ただ一人ということが影響しているのだろうが、もう少し当主としての毅然とした対応が必要なのではないかと宵は思う。

「北溟道の農場で身分を偽って暮らすというのならば、むしろその方が幸せかもしれぬな」

「では、ひとまず見逃すことにいたしましょう」

 主君に忠実である側用人・里見善光は、先ほどまでの自説を即座に撤回し、景忠公の意向を汲むことにしたようであった。

「ここで襲撃事件の責任を問われるべき佐薙家次期当主が皇都を逃げ出したとすれば、それはそれで佐薙家にやましいところがあり、故に大寿丸に次期当主たるの資格なしと喧伝することも出来ましょう。あるいは逃亡を許した警察を糾問することで、皇都の治安維持に関して六家の意向をより反映させる口実を得られるやもしれません」

 そして里見は、主君の意向を汲みつつも、それを政治的に利用することを怠らない。

「そうだな」

 景忠公は、側近の意見に頷いた。

「善光、大寿丸殿に対し結城家がとるべき態度については、お前にその対応を任せよう。そして宵姫殿、貴殿もこれ以上、この問題で悩むことはなかろう。今夜はもう寝られるが良い」

「はい、ご配慮、感謝いたします」

 宵はそう言いつつも、このような形で結城家として事件の幕を引くことに、一抹の不安があった。
 本当にこれで、嶺州の安寧は維持出来るのだろうか……?
 そんな漠然とした不安が、胸の内に横たわっていた。
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