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第六章 極東動乱編
108 経済的半島征服論
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八月八日、この日、仁宗政権との交渉に当たっていた森田茂夫首席全権より、江蘭島での交渉経過についての報告が皇都にもたらされた(江蘭島には電信が通っていないので、交渉経過に関する情報には二日ほどの遅れがある)。それを受けて、まず昼前に六家会議が招集された。
結城家当主・景忠が華族会館で開催された六家会議から帰ってきたのは、十五時過ぎであった。
これから、六家会議の結果を受けて内閣では閣議が開催されるのだろう。
景紀は、華族会館から帰ってきた父から呼び出しを受け、冬花を伴って執務室へと赴いた。
六家会議を終えた父の顔には、明確な疲労の色が浮かんでいた。
「仁宗国王との交渉は、電信の東萊―帯城・帯城―元峯間の敷設協約を結ぶ方向でまとまりかけているそうだ。その見返りとして、仁宗政権は武器の援助と軍事顧問の派遣を求めたらしいがな」
「仁宗国王は、王世子とその背後にいる宗主国・斉との対決を決意したというわけですか」
父からの説明を受けた景紀は、そう言った。
帯城倭館へと向かう皇国海軍陸戦隊に対して、帯江遡上を許可するかどうかで揉めたらしい江蘭島の役人たちを中心に構成された臨時政権にしては、思い切った決断であった。
仁宗が陽鮮全土を奪還した暁に皇国に電信利権を与える代わりとして、武器援助を求めるというのは、皇国にとって望ましい展開である。
「うむ、仁宗国王の下には、陽鮮の独立を望む開化派の人間が集まっているらしいのだ。恐らくは、そうした者たちが江蘭島内部で影響力を持ち始めたのだろう」
景忠はそう解説した。
もともと、仁宗国王は開化派国王といえる人物であった。帯城の王宮で玉座に腰掛けていた時には太上王派の存在のために思うように開化政策を進められなかった彼であるが、太上王を始めとする旧守派から切り捨てられて江蘭島に落ち延びた結果、開化政策実行のために皇国から支援を取り付けられたというのは、何とも皮肉な話であった。
攘夷を標榜する旧守派が政変を起こしたために、逆に仁宗国王の下に開化派が集結した結果だろう。これによって、皇国との交渉に反対・妨害する勢力が仁宗政権内で少数派になってしまったのだ。
とはいえ、政変によって権力基盤をほとんど失った仁宗である。皇国の得た利権も、現時点では画餅に過ぎない。仁宗が完全に復位するまで、皇国は彼を支援し続けなければならないのだ。
そして、仁宗が玉座を取り戻したとしても、財政問題など陽鮮国内の政治的課題は依然として残されたままとなる。
「六家会議では、この方向で交渉をまとめることを決定した」
「はい、それでよろしいかと」
半島情勢へ皇国が介入するための正統性の確保という点では、この協定を妥結させることには大きな意義がある。
「だが、協定が成立し、なおかつ仁宗国王が陽鮮全土を奪還出来たとしても、その権力基盤が脆弱では皇国にとって意味がない」
そこまで言って、景忠は深く息をついた。体に残る後遺症だけでなく、体力の低下も著しいようだ。
「すまんが善光、後は頼む」
椅子の背もたれに体を預けた景忠は、自らの側用人にそう命じた。
「はい、景忠様」
頷いて、主君の側に控える里見善光は説明を引き継いだ。
「陽鮮王国には財政問題、物価高騰問題、農作物の不作問題、疫病問題と様々な課題が山積していますが、やはり国家として最大の問題といえるのは財政問題でありましょう。そこで伊丹公閣下より、皇国による仁宗政権への財政支援を行うべきとの提議がなされました。要するに、陽鮮の銀本位制を、皇国の保有する銀が保障する、というものです」
「伊丹公はその見返りに何を得るべきだと?」
景紀が問う。
「陽鮮の開港です」
「なるほど、実に理に適っているな」
伊丹公の提案は、事実上、半島を皇国の経済的支配下に置こうとするものだ。銀本位制を安定させるためには、大量の銀を保有していることが絶対の条件である。陽鮮国内で出回る銀の量を皇国が調整することが出来れば、それは半島の金融を皇国が支配しているに等しい。
逆に言えば、半島経済は皇国に従属せざるを得なくなるのである。
そして陽鮮を開港させて皇国との貿易を活発化させられれば、銀の流通量を調整出来る皇国は半島市場を独占することが出来る。
もちろん、陽鮮政府自体も財政基盤を皇国に依存することになるので、その政策の自由度は大幅に狭められることになる。つまりは、最終的には経済だけでなく、政治についても皇国が半島に影響力を及ぼすことが可能となるのだ。
陽鮮側としても、自国財政を安定させるためには皇国の提案を受入れざるを得ないだろう。彼らは、自国内で十分な量の銀を確保することが困難なのだから。
もちろん、一部の経済学者が主張しているような管理通貨制度を陽鮮が選択すれば、皇国の経済的支配下に置かれるという未来は阻止出来るだろう。しかし、陽鮮にそうした新しい経済理論を理解している者がいるとは考えられず、仮に管理通貨制度を実施したとしても勢道政治や今回の政変などで王権を失墜させた陽鮮政府が金や銀の裏付けのない貨幣を民衆に信用させるのは著しく困難だろう(実際、皇国でも金や銀と紐付かない管理通貨制度という経済理論に懐疑的な者が大多数である)。
攘夷一辺倒と思われた伊丹正信にしては、中々に考えられた政策であった。
とはいえ、これが伊丹公にとって利益となる政策であることを、景紀は気付いていた。
伊丹公爵家の領地は、国内でも有数の銀の産出地である。金の産出量では結城、有馬、長尾の三家に劣っているが、銀の産出量に関しては伊丹家が六家の中でも突出していると言っていい。
つまり伊丹公の提議は、自家が陽鮮を経済的に支配するためのものであると見なすことが出来た。
武力に拠らない征鮮論というわけか……。
景紀は内心でそう結論付けた。
とはいえ、伊丹家(と、それに追従するであろう一色家)の独占的な陽鮮市場への進出について、景紀は明確に反対する気はなかった。
結城家は南洋群島や新南嶺島の植民地経営で、十分な利益を上げている。それに今、結城家は嶺州の振興政策にも責任を持つ立場である。
あえて伊丹、一色両家と競合してまで、半島に経済的進出を果たすだけの利益もない。
「景忠様は、この件について若君が反対されるのではないかと懸念されておいででしてな」
「俺が反対を? 何故?」
本気で、景紀は問いかけていた。
「お前は、昨年の六家会議で伊丹、一色両公と敵対していたそうではないか」景忠が、椅子の背もたれに寄りかかったまま答えた。「自身の面子を保つために、この政策提案に反対するのではないかと心配していてな」
「俺は両公の軍備増強案が国家財政を圧迫するものだと考えたために反対したのであって、別に面子のために反対したわけではありませんよ」
「なら良いのだがな」
今ひとつ心配そうに、結城家当主たる父親は息子を見る。
「お前は有馬、長尾両家とは相応の関係を築けておるようだが、如何せん、伊丹、一色両公との関係が上手くいっていないように見えるのだ。私の後を継いだ時に、それでは苦労するだろうて」
やはり、この父親は自分が当主を継いだ後のことを考えているらしい。
「ちなみに父上、陽鮮ヘの財政支援に関して益永らは何と?」
「いや、まだ伝えていないが?」
それが何か問題があるのかという口調で、景忠は返した。
景紀は内心で苦い表情を浮かべる。現状、結城家の政策決定過程にあまり関わっていない自分よりも、益永ら重臣への根回しの方が重要だろうに。
景紀は伊丹家主導の陽鮮ヘの財政支援に関して納得しているが、重臣の中にこそ、伊丹家主導の政策に結城家の面子を潰されたと思う者もいるだろう。陽鮮ヘの経済的進出を結城家が果たすべきかどうかは置いておくにしても、陽鮮を開国させた功績が伊丹家のものとなることに納得し難い思いを抱く家臣もいるはずだ。
そうした者たちを納得させなければ、景忠が六家会議に無為無策で臨んでいるという印象を家臣団に与えかねない。
「左様ですか」内心の苦々しさを覆い隠して、景紀は続けた。「父上、今回の六家会議を受けまして、結城家として陽鮮半島に対してとるべき態度を家臣団に明示すべき必要があるかと思います」
どうにも最近の父は、結城家当主の地位を円滑に息子に引き継がせようとすることに腐心するあまり、方向違いの心配をしているような気がする。
未だ十八の息子が心配になる気持ちは景紀としても判らなくはないが、息子の立場からすれば父からの過度な心配は逆に鬱陶しくも感じるのだ。
「善光は半島に対して結城家が過度に関わるべきではないとの意見のようだが、お前としてはどう思う?」
「里見殿に全然同意であります」
結城家内ので権力基盤を確固たるものにしようと目論んでいるであろう里見善光であるが、流石に長年、結城家の領国統治などいくつもの政務に深く関わってきただけあり、そうした判断は適切であった。
「皇国が陽鮮王国に流通する貨幣価値を保障するにしても、それで半島を経済的支配下に置くことが出来ると確定したわけではありません。むしろ、陽鮮政府の負債を皇国が背負い込む可能性もあります。我が家は、これまで通り南洋植民地の振興に力を入れ、南海興発のさらなる事業発展を図るべきでしょう」
「まあ、陽鮮への財政支援の件はまだ交渉にも上っていない事案であるからな」
景忠は、息子の意見に納得したようであった。
とはいえ、景忠が側用人である里見の意見を尊重し過ぎているきらいが見られることは問題であった。病を経て自分一人では十全に政務を執り行うことが困難になったとはいえ、ごく一部の側近との間でだけ政策決定を行うのは如何なものだろうか?
景紀は、漠然とそんな懸念を抱いていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌日、皇都における六家や政府の政治的動向は気になりつつも、景紀は澄之浦の教導兵団の視察に出掛けることにした。
いつまでも、自分が指揮することになるであろう部隊を放り出しておくことは出来なかった。
視察とはいえ、恐らく皇都に帰ってくるのは十日に一度程度の割合になるだろうと思っている。訓練総監を務めている百武将軍との引き継ぎや、景紀の運用方針に将兵を慣れさせる必要があるのだ。
「皇都のことは頼んだ」
軍装に身を包んで屋敷を出発しようとする朝、景紀は宵にそう言った。
「何かあれば、電報か鉄之介や八重の呪術通信を使え」
「はい」
景紀は冬花と貴通を連れて行くので、屋敷には宵だけが残されることになる。
「新八さんには、一応、お前の身辺にも気を配ってもらうよう言いつけておいた。何か皇都で気になることがあったら、宵の判断で新八さんを使え」
「判りました。ご配慮、ありがとうございます。景紀様不在中のことはお任せ下さい」
使命感の籠った声で、宵は景紀を送り出そうとする。後顧の憂いなく夫を送り出すのが、将家の妻の務めと思っているのだろう。
「ああ、頼んだ」
宵の覚悟に微笑みで応じて、景紀は冬花と貴通を連れて皇都屋敷を後にした。
宵にとっては、一人残されるという経験は景紀に嫁いでから二度目であった。
一度目は、鷹前で景紀に電報にて登城命令が届いた時。あの時は、自分も残された政務を処理し、引き継ぎを行ってから彼の後を追いかけることが出来た。
だが、二度目の今は景紀不在の結城家を任されている。
そのことに一抹の不安と寂しさを覚えないでもなかったが、これも将家に生まれた者の宿命と思って納得する。
対斉開戦が現実的になってきているとはいえ、屋敷の中はそれほど騒がしくはなかった。未だ正式な動員令は下っていないため、結城家の管轄する師団は平時編制のままであった。戦時編制になっているのは、演習の名目で動員令を下した南嶺鎮台麾下の部隊程度だろう。
とはいえ、執政や参与といった重臣たちの業務に、領内を迅速に戦時体制に移行させるための準備、機関車や機関士、石炭の手配計画の作成などが加わったことは確かだろう。
宵はいつも通りに書庫に籠り、皇国が一番最後に経験した対外戦争ともいえる広南出兵当時の結城家の行政資料を読み漁ることにした。
午後になると女子学士院の補習が終わったのか、八重が屋敷に突撃を仕掛けてきたが、冬花がいないことに落胆していた。その代わりに鉄之介がいつも以上に彼女の相手をすることになり、夕食の頃には汗まみれでくたくたになっていた。
宵はそうした屋敷の喧噪から一歩離れた位置にいて、行政資料を読み漁りつつ屋敷で働く者たち、屋敷に出入りする者たちを観察していた。
そして景紀たちが屋敷を発った翌十日。
宵は里見善光に接見を求められた。早速何か仕掛けてくるのかと身構えて、彼女は世話役の済を同席させて里見の求めに応じることにした。
「―――私に身辺警護の者を付ける、ですか?」
里見が宵へと申入れたのは、彼女に身辺警護の者を付けることについてであった。
「はい、今後、長尾多喜子様と茶会などを催すこともありましょう。若君に従って葛葉冬花殿が不在となった以上、宵姫様には専属の護衛が必要かと」
言っていることはもっともであったが、わざわざ長尾多喜子の名を出してくるあたり、里見の目的が身辺警護の名を借りた宵の監視であることは明らかだろう。
里見としては冬花を景紀から遠ざけるために宵を利用したいが、かといって宵に自由に動かれるのも防ぎたいのだ。
監視役の侍女などを付けてくる可能性は景紀からも指摘されており、宵自身も覚悟はしていた。
「鉄之介殿や八重殿は未だ学生の身でありますので、当家の忍の者から適任者を選びたいと思います」
結城家の隠密にも、特殊技能を持った密偵である忍が存在していることを宵は知っている。忍は密偵としてだけでなく、要人警護の任を請け負うこともある。
なお、将家独自の情報組織である隠密衆には、忍以外にも収集した情報を分析する者、情報を評価する者、新聞操縦など情報操作を担当する者など、様々な者たちが所属している。また、領内の代官など領内行政や家臣団の不正を監察する者は、監察局という執政が所轄する行政機関として整備されているが、当主の特命を受けた隠密がそれに代わって行うこともある。
「この件について、宵姫様のご承諾を得たく」
少なくとも、冬花が不在である以上、専属の護衛が必要という点に関しては宵自身も納得する。今は夏休みのため、鉄之介や八重を護衛にすることは出来るが、新学期が始まればそれも難しいだろう。
新八に関しても、宵の護衛だけに専念させるわけにはいかない立場である。
「すでに人員の選定は済んでいるのですか?」
「いえ、宵姫様からのご希望があれば、それに従いましょう」
「そうですか」
宵はしばし考えた。自分に対する監視役とはいえ、上手くいけば自分直属の家臣を得ることも出来る。
「……では、同年代の女性の忍、それも技量が確かな者、そして華族の茶会に護衛として連れて行っても無作法にならない程度の教養を持った者、これらの条件に当てはまる者をお願いいたします」
あえて女性に限定したのは、景紀不在中に不貞の噂などを流されないようにするためである。身辺に男性を近付けることについては慎重になるべきだと宵は考えていた。
「かしこまりました」
さらさらと、里見は筆記帳に宵の希望を書き付けた。宵がちらりとその筆記帳を見ると、帳面にはびっしりと文字が書き込まれていた。
こうした点に関しては、この側用人はかなり几帳面な性格らしい。
「では、数日の内に人選を行いましょう」
「お願いいたします」
さて、どんな人物が自分の下にやってくるのか。
例え自分に対する監視役であろうと、人生で初めての直属の家臣を得られる可能性に、宵は少しだけ興奮するのだった。
結城家当主・景忠が華族会館で開催された六家会議から帰ってきたのは、十五時過ぎであった。
これから、六家会議の結果を受けて内閣では閣議が開催されるのだろう。
景紀は、華族会館から帰ってきた父から呼び出しを受け、冬花を伴って執務室へと赴いた。
六家会議を終えた父の顔には、明確な疲労の色が浮かんでいた。
「仁宗国王との交渉は、電信の東萊―帯城・帯城―元峯間の敷設協約を結ぶ方向でまとまりかけているそうだ。その見返りとして、仁宗政権は武器の援助と軍事顧問の派遣を求めたらしいがな」
「仁宗国王は、王世子とその背後にいる宗主国・斉との対決を決意したというわけですか」
父からの説明を受けた景紀は、そう言った。
帯城倭館へと向かう皇国海軍陸戦隊に対して、帯江遡上を許可するかどうかで揉めたらしい江蘭島の役人たちを中心に構成された臨時政権にしては、思い切った決断であった。
仁宗が陽鮮全土を奪還した暁に皇国に電信利権を与える代わりとして、武器援助を求めるというのは、皇国にとって望ましい展開である。
「うむ、仁宗国王の下には、陽鮮の独立を望む開化派の人間が集まっているらしいのだ。恐らくは、そうした者たちが江蘭島内部で影響力を持ち始めたのだろう」
景忠はそう解説した。
もともと、仁宗国王は開化派国王といえる人物であった。帯城の王宮で玉座に腰掛けていた時には太上王派の存在のために思うように開化政策を進められなかった彼であるが、太上王を始めとする旧守派から切り捨てられて江蘭島に落ち延びた結果、開化政策実行のために皇国から支援を取り付けられたというのは、何とも皮肉な話であった。
攘夷を標榜する旧守派が政変を起こしたために、逆に仁宗国王の下に開化派が集結した結果だろう。これによって、皇国との交渉に反対・妨害する勢力が仁宗政権内で少数派になってしまったのだ。
とはいえ、政変によって権力基盤をほとんど失った仁宗である。皇国の得た利権も、現時点では画餅に過ぎない。仁宗が完全に復位するまで、皇国は彼を支援し続けなければならないのだ。
そして、仁宗が玉座を取り戻したとしても、財政問題など陽鮮国内の政治的課題は依然として残されたままとなる。
「六家会議では、この方向で交渉をまとめることを決定した」
「はい、それでよろしいかと」
半島情勢へ皇国が介入するための正統性の確保という点では、この協定を妥結させることには大きな意義がある。
「だが、協定が成立し、なおかつ仁宗国王が陽鮮全土を奪還出来たとしても、その権力基盤が脆弱では皇国にとって意味がない」
そこまで言って、景忠は深く息をついた。体に残る後遺症だけでなく、体力の低下も著しいようだ。
「すまんが善光、後は頼む」
椅子の背もたれに体を預けた景忠は、自らの側用人にそう命じた。
「はい、景忠様」
頷いて、主君の側に控える里見善光は説明を引き継いだ。
「陽鮮王国には財政問題、物価高騰問題、農作物の不作問題、疫病問題と様々な課題が山積していますが、やはり国家として最大の問題といえるのは財政問題でありましょう。そこで伊丹公閣下より、皇国による仁宗政権への財政支援を行うべきとの提議がなされました。要するに、陽鮮の銀本位制を、皇国の保有する銀が保障する、というものです」
「伊丹公はその見返りに何を得るべきだと?」
景紀が問う。
「陽鮮の開港です」
「なるほど、実に理に適っているな」
伊丹公の提案は、事実上、半島を皇国の経済的支配下に置こうとするものだ。銀本位制を安定させるためには、大量の銀を保有していることが絶対の条件である。陽鮮国内で出回る銀の量を皇国が調整することが出来れば、それは半島の金融を皇国が支配しているに等しい。
逆に言えば、半島経済は皇国に従属せざるを得なくなるのである。
そして陽鮮を開港させて皇国との貿易を活発化させられれば、銀の流通量を調整出来る皇国は半島市場を独占することが出来る。
もちろん、陽鮮政府自体も財政基盤を皇国に依存することになるので、その政策の自由度は大幅に狭められることになる。つまりは、最終的には経済だけでなく、政治についても皇国が半島に影響力を及ぼすことが可能となるのだ。
陽鮮側としても、自国財政を安定させるためには皇国の提案を受入れざるを得ないだろう。彼らは、自国内で十分な量の銀を確保することが困難なのだから。
もちろん、一部の経済学者が主張しているような管理通貨制度を陽鮮が選択すれば、皇国の経済的支配下に置かれるという未来は阻止出来るだろう。しかし、陽鮮にそうした新しい経済理論を理解している者がいるとは考えられず、仮に管理通貨制度を実施したとしても勢道政治や今回の政変などで王権を失墜させた陽鮮政府が金や銀の裏付けのない貨幣を民衆に信用させるのは著しく困難だろう(実際、皇国でも金や銀と紐付かない管理通貨制度という経済理論に懐疑的な者が大多数である)。
攘夷一辺倒と思われた伊丹正信にしては、中々に考えられた政策であった。
とはいえ、これが伊丹公にとって利益となる政策であることを、景紀は気付いていた。
伊丹公爵家の領地は、国内でも有数の銀の産出地である。金の産出量では結城、有馬、長尾の三家に劣っているが、銀の産出量に関しては伊丹家が六家の中でも突出していると言っていい。
つまり伊丹公の提議は、自家が陽鮮を経済的に支配するためのものであると見なすことが出来た。
武力に拠らない征鮮論というわけか……。
景紀は内心でそう結論付けた。
とはいえ、伊丹家(と、それに追従するであろう一色家)の独占的な陽鮮市場への進出について、景紀は明確に反対する気はなかった。
結城家は南洋群島や新南嶺島の植民地経営で、十分な利益を上げている。それに今、結城家は嶺州の振興政策にも責任を持つ立場である。
あえて伊丹、一色両家と競合してまで、半島に経済的進出を果たすだけの利益もない。
「景忠様は、この件について若君が反対されるのではないかと懸念されておいででしてな」
「俺が反対を? 何故?」
本気で、景紀は問いかけていた。
「お前は、昨年の六家会議で伊丹、一色両公と敵対していたそうではないか」景忠が、椅子の背もたれに寄りかかったまま答えた。「自身の面子を保つために、この政策提案に反対するのではないかと心配していてな」
「俺は両公の軍備増強案が国家財政を圧迫するものだと考えたために反対したのであって、別に面子のために反対したわけではありませんよ」
「なら良いのだがな」
今ひとつ心配そうに、結城家当主たる父親は息子を見る。
「お前は有馬、長尾両家とは相応の関係を築けておるようだが、如何せん、伊丹、一色両公との関係が上手くいっていないように見えるのだ。私の後を継いだ時に、それでは苦労するだろうて」
やはり、この父親は自分が当主を継いだ後のことを考えているらしい。
「ちなみに父上、陽鮮ヘの財政支援に関して益永らは何と?」
「いや、まだ伝えていないが?」
それが何か問題があるのかという口調で、景忠は返した。
景紀は内心で苦い表情を浮かべる。現状、結城家の政策決定過程にあまり関わっていない自分よりも、益永ら重臣への根回しの方が重要だろうに。
景紀は伊丹家主導の陽鮮ヘの財政支援に関して納得しているが、重臣の中にこそ、伊丹家主導の政策に結城家の面子を潰されたと思う者もいるだろう。陽鮮ヘの経済的進出を結城家が果たすべきかどうかは置いておくにしても、陽鮮を開国させた功績が伊丹家のものとなることに納得し難い思いを抱く家臣もいるはずだ。
そうした者たちを納得させなければ、景忠が六家会議に無為無策で臨んでいるという印象を家臣団に与えかねない。
「左様ですか」内心の苦々しさを覆い隠して、景紀は続けた。「父上、今回の六家会議を受けまして、結城家として陽鮮半島に対してとるべき態度を家臣団に明示すべき必要があるかと思います」
どうにも最近の父は、結城家当主の地位を円滑に息子に引き継がせようとすることに腐心するあまり、方向違いの心配をしているような気がする。
未だ十八の息子が心配になる気持ちは景紀としても判らなくはないが、息子の立場からすれば父からの過度な心配は逆に鬱陶しくも感じるのだ。
「善光は半島に対して結城家が過度に関わるべきではないとの意見のようだが、お前としてはどう思う?」
「里見殿に全然同意であります」
結城家内ので権力基盤を確固たるものにしようと目論んでいるであろう里見善光であるが、流石に長年、結城家の領国統治などいくつもの政務に深く関わってきただけあり、そうした判断は適切であった。
「皇国が陽鮮王国に流通する貨幣価値を保障するにしても、それで半島を経済的支配下に置くことが出来ると確定したわけではありません。むしろ、陽鮮政府の負債を皇国が背負い込む可能性もあります。我が家は、これまで通り南洋植民地の振興に力を入れ、南海興発のさらなる事業発展を図るべきでしょう」
「まあ、陽鮮への財政支援の件はまだ交渉にも上っていない事案であるからな」
景忠は、息子の意見に納得したようであった。
とはいえ、景忠が側用人である里見の意見を尊重し過ぎているきらいが見られることは問題であった。病を経て自分一人では十全に政務を執り行うことが困難になったとはいえ、ごく一部の側近との間でだけ政策決定を行うのは如何なものだろうか?
景紀は、漠然とそんな懸念を抱いていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌日、皇都における六家や政府の政治的動向は気になりつつも、景紀は澄之浦の教導兵団の視察に出掛けることにした。
いつまでも、自分が指揮することになるであろう部隊を放り出しておくことは出来なかった。
視察とはいえ、恐らく皇都に帰ってくるのは十日に一度程度の割合になるだろうと思っている。訓練総監を務めている百武将軍との引き継ぎや、景紀の運用方針に将兵を慣れさせる必要があるのだ。
「皇都のことは頼んだ」
軍装に身を包んで屋敷を出発しようとする朝、景紀は宵にそう言った。
「何かあれば、電報か鉄之介や八重の呪術通信を使え」
「はい」
景紀は冬花と貴通を連れて行くので、屋敷には宵だけが残されることになる。
「新八さんには、一応、お前の身辺にも気を配ってもらうよう言いつけておいた。何か皇都で気になることがあったら、宵の判断で新八さんを使え」
「判りました。ご配慮、ありがとうございます。景紀様不在中のことはお任せ下さい」
使命感の籠った声で、宵は景紀を送り出そうとする。後顧の憂いなく夫を送り出すのが、将家の妻の務めと思っているのだろう。
「ああ、頼んだ」
宵の覚悟に微笑みで応じて、景紀は冬花と貴通を連れて皇都屋敷を後にした。
宵にとっては、一人残されるという経験は景紀に嫁いでから二度目であった。
一度目は、鷹前で景紀に電報にて登城命令が届いた時。あの時は、自分も残された政務を処理し、引き継ぎを行ってから彼の後を追いかけることが出来た。
だが、二度目の今は景紀不在の結城家を任されている。
そのことに一抹の不安と寂しさを覚えないでもなかったが、これも将家に生まれた者の宿命と思って納得する。
対斉開戦が現実的になってきているとはいえ、屋敷の中はそれほど騒がしくはなかった。未だ正式な動員令は下っていないため、結城家の管轄する師団は平時編制のままであった。戦時編制になっているのは、演習の名目で動員令を下した南嶺鎮台麾下の部隊程度だろう。
とはいえ、執政や参与といった重臣たちの業務に、領内を迅速に戦時体制に移行させるための準備、機関車や機関士、石炭の手配計画の作成などが加わったことは確かだろう。
宵はいつも通りに書庫に籠り、皇国が一番最後に経験した対外戦争ともいえる広南出兵当時の結城家の行政資料を読み漁ることにした。
午後になると女子学士院の補習が終わったのか、八重が屋敷に突撃を仕掛けてきたが、冬花がいないことに落胆していた。その代わりに鉄之介がいつも以上に彼女の相手をすることになり、夕食の頃には汗まみれでくたくたになっていた。
宵はそうした屋敷の喧噪から一歩離れた位置にいて、行政資料を読み漁りつつ屋敷で働く者たち、屋敷に出入りする者たちを観察していた。
そして景紀たちが屋敷を発った翌十日。
宵は里見善光に接見を求められた。早速何か仕掛けてくるのかと身構えて、彼女は世話役の済を同席させて里見の求めに応じることにした。
「―――私に身辺警護の者を付ける、ですか?」
里見が宵へと申入れたのは、彼女に身辺警護の者を付けることについてであった。
「はい、今後、長尾多喜子様と茶会などを催すこともありましょう。若君に従って葛葉冬花殿が不在となった以上、宵姫様には専属の護衛が必要かと」
言っていることはもっともであったが、わざわざ長尾多喜子の名を出してくるあたり、里見の目的が身辺警護の名を借りた宵の監視であることは明らかだろう。
里見としては冬花を景紀から遠ざけるために宵を利用したいが、かといって宵に自由に動かれるのも防ぎたいのだ。
監視役の侍女などを付けてくる可能性は景紀からも指摘されており、宵自身も覚悟はしていた。
「鉄之介殿や八重殿は未だ学生の身でありますので、当家の忍の者から適任者を選びたいと思います」
結城家の隠密にも、特殊技能を持った密偵である忍が存在していることを宵は知っている。忍は密偵としてだけでなく、要人警護の任を請け負うこともある。
なお、将家独自の情報組織である隠密衆には、忍以外にも収集した情報を分析する者、情報を評価する者、新聞操縦など情報操作を担当する者など、様々な者たちが所属している。また、領内の代官など領内行政や家臣団の不正を監察する者は、監察局という執政が所轄する行政機関として整備されているが、当主の特命を受けた隠密がそれに代わって行うこともある。
「この件について、宵姫様のご承諾を得たく」
少なくとも、冬花が不在である以上、専属の護衛が必要という点に関しては宵自身も納得する。今は夏休みのため、鉄之介や八重を護衛にすることは出来るが、新学期が始まればそれも難しいだろう。
新八に関しても、宵の護衛だけに専念させるわけにはいかない立場である。
「すでに人員の選定は済んでいるのですか?」
「いえ、宵姫様からのご希望があれば、それに従いましょう」
「そうですか」
宵はしばし考えた。自分に対する監視役とはいえ、上手くいけば自分直属の家臣を得ることも出来る。
「……では、同年代の女性の忍、それも技量が確かな者、そして華族の茶会に護衛として連れて行っても無作法にならない程度の教養を持った者、これらの条件に当てはまる者をお願いいたします」
あえて女性に限定したのは、景紀不在中に不貞の噂などを流されないようにするためである。身辺に男性を近付けることについては慎重になるべきだと宵は考えていた。
「かしこまりました」
さらさらと、里見は筆記帳に宵の希望を書き付けた。宵がちらりとその筆記帳を見ると、帳面にはびっしりと文字が書き込まれていた。
こうした点に関しては、この側用人はかなり几帳面な性格らしい。
「では、数日の内に人選を行いましょう」
「お願いいたします」
さて、どんな人物が自分の下にやってくるのか。
例え自分に対する監視役であろうと、人生で初めての直属の家臣を得られる可能性に、宵は少しだけ興奮するのだった。
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