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第二章 シキガミの少女と北国の姫編
22 優しさと冷徹さの狭間
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「冬花様、少しよろしいでしょうか?」
書庫にやってくると、突然、宵が口を開いた。
「なんでしょうか?」
「先ほどの、景紀様の鉄道政策についてです」
「何が疑問でも?」
「景紀様は佐薙家の顔を立てるような建設請負方式で進めるようですが、それですと短期的には佐薙家の方が利益を得ることになります。その点について、結城家家臣の一人である冬花様の存念を知りたいのです」
問われた冬花は、少しだけ考える時間を挟んだ。主君である景紀を批判するつもりはないし、家臣として目の前の少女の実家を悪く言うつもりもない。
「……政策とは、短期的な視点も必要ですが、長期的な視点も必要であると考えます」冬花は、そう答えた。「その点、景紀様の鉄道政策は長期的には結城家の利益となる政策かと」
「これは自惚れかもしれませんが、私は少し“甘い”と感じました」
「“甘い”、ですか?」
宵の言いたいことがいまいち判らず、冬花は怪訝そうな表情になる。
「よくよく考えてみれば、確かに結城家の利益となる政策でしょう。しかしそれ以上に恩恵を受けるのは、嶺州の民です。私はもともと、彼らの生活が少しでも良いものとなるよう、景紀様を利用するつもりでした」
「……」
宵の言葉に少し不穏なものを感じたが、冬花は何も言わなかった。例え自分の主君を利用しようとしたとしても、少なくともこの少女の思いは民の生活を考えた純粋なものだ。それを批判するわけにはいかない。
ただ、そこにわずかな違和感が混ざっているようにも感じるのだ。
その正体が、冬花には判らなかった。
「あの政策は、私に対する配慮の現われなのではないか、そう思ってもしまうのです」
宵の言葉には、惚気の気配は一切なかった。
「それは……景紀様が宵姫様のお覚悟を認めていらっしゃるからでは?」
北の姫君の態度に違和感を覚えつつも、冬花は応じた。一方、陰陽師の少女の言葉を受けた宵は、その口元を微かに動かした。
微笑みとも、嘲笑ともとれる、複雑な表情であった。
「景紀様はお優しい方です」
そう評する宵の声には、男性を想う女性の甘さなどまるでない、ただ現象を観察する学者のような硬質な冷たさが宿っていた。
「自らの懐の内に入れた者を傷付けようとする輩には、きっと容赦しないでしょう。しかし、その逆はどうでしょうか? あの方は、必要とあらば自らの内に入れた者に冷酷になれるでしょうか?」
「……」
冬花は即答出来なかった。
「為政者に必要なのは、百の民の命と一の親しい者の命、それを天秤にかけて百の民の命を取る冷徹さです。きっと、あの方はそれが出来ない」
断定する宵に対して、冬花は否定の言葉も肯定の言葉も出せなかった。どちらの言葉も、景紀への批難となる。
そして何よりも、十五の少女の発する冷徹な圧力に気圧されていた。
そこで、冬花は思い出した。
この少女は、佐薙家の中で唯一、自らに愛情を注いでくれたであろう母親を切り捨てる決断を下した人間なのだ。
「……ん? ああ、いえ、ちょっとした感慨です」
黙り込んでしまった冬花を見て、宵は自分の発言が白髪の少女に与えてしまった衝撃に気付いたらしい。
「あまりお気になさらないで頂けると助かります」
どこか困ったような、小さな笑みを浮かべて宵は言う。
だが、冬花は気付かざるを得なかった。
この少女は、為政者としての覚悟が自らの主君よりも遙かに上であることを。
それが誰にとって幸せで、誰にとって不幸なことなのか、今はまだ判らなかったけれども。
◇◇◇
建設請負方式の採用については、すでに景紀は内々に筆頭家老の益永忠胤に話を通していた。
「この件については、明日の朝食会議の議題として上げたいと思います」
景紀の執務室に呼び出された益永は、そう言った。
景紀の傍には、すでに書庫から戻ってきた冬花が従者然として控えている。
「ああ、俺も皆の忌憚のない意見を聞きたいところだ」景紀は筆頭家老の言葉に頷いた。「とはいえ、借款方式では将来的な禍根を残しかねないから、現状ではこれ以上の案はないと思う」
「はい、私もそう思います。しかし、若様に提案されるまで、この建設請負方式というものは盲点でした」
「まあ、こんな方式で鉄道を敷設しようってのは、うちが初めてだろうしな」
「しかし、これならば佐薙家の領政への過度な干渉とはならず、向こうからの反発も少ないでしょう。東北地方の政治的・経済的安定化と統制の強化という二面において、良案だったかと」
「統制の強化、って面ではいささか疑問が残るがな」
建設請負方式の問題点は、先ほど冬花も指摘したように、その後の経営に影響力を及ぼせなくなることである。返済が滞った場合にのみ、経営権が引き渡されることになるが、恐らくその可能性はかなり低いだろうと景紀は予測している。
衆民院議員たちが地元への利益誘導のために経済的に意味があるのか判らない鉄道を誘致することはあるが、今回の嶺州鉄道についてはしっかりとした経済的意義のある鉄道である。
千代から岩森まで路線を延ばすことが出来れば、そこから北溟道への連絡船を就航させることが出来、本州と北溟道との人・モノのやり取りが活発化する。
だからこそ、景紀は岩森港の独占的使用権を得ようとしているともいえた。
「とはいえ、岩森港を確保出来れば、という前提ではあるが、経済的な意味ならば十分、嶺州に食い込める。頭の硬い一部の家臣たちも、納得してくれるだろう」
「はい、若様の指導力を家臣団に示す絶好の機会かと」益永は恭しく言った。「そのためにもまず、景紀様には佐薙成親伯との契約交渉を成功させていただかねばなりません。岩森港の件も含めて、です」
「判っている。その点に関しては、俺が直接、伯と契約交渉をするつもりだ」
「細目については土木、財務担当の執政と検討することになるかと存じます」
「ああ、そのつもりだ。執政連中の方で、細目協定の内容については十分な検討を行ってくれ」
「かしこまりました」
景紀の執務室を出た益永忠胤は、御用部屋へと向かいながらある思いに捕らわれていた。
今回の嶺州鉄道建設請負契約の交渉は、景紀が内外にその指導力を誇示する絶好の機会となるだろう。いつからこれを考えていたのかと思うと、益永は少し空恐ろしいものを覚える。
少なくとも、建設請負方式という形態は、自家の利権だけを重視する人間には絶対に思いつかない方法だ。それ故に、他家との摩擦を生みにくい方法でもある。
岩森港の独占的使用権を与えることになるだろう佐薙家としても、九十九ヶ年も土地を手放すことにはならないので、彼らの家臣団を納得させるのは容易だろう。感情的な反発はあるだろうが、それを理屈で納得させられる程度の代償である。
自分がかつて教育掛を務めた少年は、間違いなく結城家次期当主に相応しいだけの能力を持っている。
景忠公が病に倒れてからのこの半年間、家臣団の統制が乱れなかったのもその証左だ。
朝食の席に家臣を集めて議論させるなど、当主の権威の弱体化に繋がってしまいそうな統制の仕方ではあるのだが、あの若君は家臣の発言に対して適切な言葉を返し、逆に家臣たちが次期当主に相応しい力量を持つ人間だと認めてしまうほどである。あるいはあの会議は、そうした自らの能力を家臣に示す狙いがあったのかもしれない(もちろん、景紀に言わせれば違うのだが)。
彼が次代の結城家当主となるならば主家は安泰だと思う一方で、あの若君の家臣の統制方法は伝統的な将家の枠組みからはいささか外れているとも思う。
どちらかといえば、議会制度に近い部分がある。
皇国の政治体制も、ここ数十年の間に産業革命の進展や衆民院の設置とそれに伴う選挙制度の実施など、益永が幼少期の頃から比べれば大きく変化している。
最早、自身の若い頃に抱いていた価値観で、将家に仕えることは出来ないだろう。
そうした時代の変化の中で、あのような若者が生まれてきたのかもしれない。
しかし一方で、そうした国家の変化という流れの中であのような人間が生まれたと断定することも、益永には出来なかった。
確かに、あの若君は有能であることは間違いないだろう。だが、その有能さは決して時代の変化の中でもたらされたものではないことを、益永は知っていた。
若君の傍にいつも控えている、白髪の陰陽師。
あの少女が自分の傍に控えていることを家臣たちに納得させるために、あの少年は有能であろうとしているのだ。
家臣団の者たちから“不吉な子”と蔑まれ、傍にいれば若君に災いをもたらすと忌み嫌われていた少女。
幼い少女をそんな家臣たちの心ない侮蔑から守るために、同じようにまだ幼かった少年は、彼女が“不吉の子”でないことを証明しようとしたのだ。
だからあの若君は、家臣たちが葛葉冬花という少女を蔑む理由を与えないように、自らを高めようとした。少女が決して、自分に悪い影響を与えていないと示すために。
それが、将家の跡継ぎとして正しい態度であったのかどうか、益永には判らない。武門の棟梁として女に入れ込むなど軟弱であると叱り付けることも出来ただろう。
だが、幼心に主従の契りを結んだあの二人を引き剥がすことなど、益永には出来なかった。例えそれが呪術師の主従の契りであろうとも、武人である彼にとって主従の契りとは何よりも尊いものであるように思えたのだ。
そして、若君は陸軍兵学寮に首席で入学し、在学中、その座を誰にも譲ることなく、首席のまま卒業した。
一方の少女も、自分の存在の所為で少年が家臣から侮られることを許せなかったのだろう。ただ彼の傍にいる資格のある人間だと証明するために、彼女もまた陰陽師として、補佐官として有能であろうとした。
少女の主君と同じように、彼女は女子学士院に首席で入学し、やはり首席で卒業した。
そして二人は、今も幼い頃の誓いのままに主従であり続けている。
今や表だって彼らを、特に少女の方を侮蔑する家臣はいない。そのようなことが若君の耳に入れば、文字通り“消されて”しまう。
若君の兵学寮卒業後も、公然と少女を侮蔑した一人の家臣は匪賊となった牢人集団の討伐の最中に行方不明になった。またある家臣は新南嶺島の探索の最中に行方不明になっている。
匪賊討伐にも、新南嶺島の探索にも、景紀は関わっていた。偶然というには、あまりに出来すぎていた。
だが、それに気付いているのは家臣の中でも景紀や冬花に特に近しい自分を含めた数人程度だろう。正直なところ筆頭家老である益永から見て、消された二人は家臣団内での家格はともかくとして、軍人・官僚としての能力は低く、いなくなったところで家臣団の間で問題とならないような人物たちであった。
そういう人間を選別して、あの若君は家臣を粛清している節がある。
若君は有能であろうと努力したが故に、無能で生産性のない人間たちを嫌う傾向にあるように思えるのだ。
明確に“消された”といえるのはあの二人だけであるが、あの少年が当主代理の座についたこの半年、大規模な小作争議を発生させた領国の代官など家の領国統治を混乱させた官僚系の家臣二名が更迭され、結城家の財産を横領した用人系統の家臣五名が財産没収の上放逐、他家に買収されて結城家の情報を漏らしていた家臣三名が切腹に追い込まれていた。
いずれの者もその罪状は明らかであり、景紀が当主代理を務めるに際して家臣団内の綱紀粛正を図る意図もあったのだろう。
あの若君の有能さは、時として苛烈な方向にも発揮されてしまうのだ。
有能な主君の有能な部下であることを示し続けるのは、中々に難しいものだ。そして、それが判っているからこそ、益永はあの少年の傍に控える少女のことを認めているのだが。
◇◇◇
「ねえ、景紀。ちょっと、とりとめのない質問していい?」
益永が出ていった執務室で、景紀は冬花が書庫から持ってきた資料を読み込んでいた。一息つこうと口に金平糖を放り込んだところで、彼女が声を掛けていたのだ。
「……うん? いいぞ」
景紀は金平糖を噛み砕いて呑み込んで、頷いた。
「景紀にとって、理想の為政者ってどんなもの?」
行政資料綴が納められている書棚を整理しながら、冬花が何気なさを装った口調で問うてくる。
「まぁた藪から棒な質問だな」
景紀は椅子の背もたれに体重を預けた。少し思案するように、視線が天井に向けて泳ぐ。
「……そうだなぁ、ずる賢い奴、かな?」
「なにそれ?」
「為政者は正直者には務まらないってことさ。人間は正論と合理性だけで動く生き物じゃない。そういう人間は、官僚でもやっていればいい。仕事を合理的にこなせる人間には、それが一番だ。だが、為政者は、自分の政策に反発する奴をあの手この手で黙らせなきゃならない。今回で言うと、佐薙家の連中だな」
「なるほど。つまりは景紀みたいな人間、ってことね」
納得の声で、冬花が言った。そこに茶化す響きはまるでない。
「おいおい、心外だな。俺ほど正直な人間はいないだろ? あれほど赤裸々に隠居願望を語ってるんだぜ」
「私たちだけに、ね」冬花は悪戯っぽい笑みを浮かべた。「他の家臣は騙くらかしているじゃない。さっきの益永様なんか、あなたを次の当主にする気満々よ」
「……何て迷惑な筆頭家老様だ」
本気で毒づく景紀。そんな主君に、冬花はくすりと笑いを零した。
「……でもまあ、確かに合理主義だけの為政者ってのも味気ないわよね」どこか感傷的な声で、白髪の少女は言う。「私も景紀がそんな人間だったら、仕え甲斐がないわ」
「なんかあったのか?」
「何でもないの、気にしないで」
唐突な質問の意図が気になり景紀は尋ねてみたのだが、冬花は答えてくれそうになかった。
恐らく、先ほど宵と書庫に向かった時に何かあったのだろう。しかし、言い争いをしたという雰囲気でもない。どちらかといえば、互いの価値観の相違に気付かされたといったところだろうか?
冬花が為政者云々と言い出したということは、冬花と宵で自分に何を求めているのかが違ったのだろう。
景紀としては、見ず知らずの人間に勝手な為政者像を押し付けられることは不愉快であったが、自分を知る二人ならば仕方ないと思う。
もっとも、その程度のことで冬花と宵が仲違いして欲しくはないのだが。
「……なによ」
「いや、ただ綺麗な髪だなあと思っただけだ」
書棚のところにいる冬花に近寄った景紀は、そっと彼女の髪を撫でるように梳いた。さらさらと、癖のない艶のある白髪が景紀の指の間を滑り抜けていく。
「……」
「……」
冬花は拒絶するでもなく、ただ景紀が髪を梳くのに任せていた。二人の間に、無言の時間が流れていく。
「……ほんと、嫌な女ね、私」やがて、自嘲気味に冬花は言った。「あんなこと訊いて、『構って構って』って言ってるようなものじゃない」
「何があったのかは冬花が嫌なら訊かないが、あんまり自分を卑下するな。俺は、冬花を嫌な女だなんて思ってないから」
「……ありがとう、景紀」
シキガミの少女は少しの間だけ少年の肩に頭を預け、甘えるようにもたれ掛かった。
書庫にやってくると、突然、宵が口を開いた。
「なんでしょうか?」
「先ほどの、景紀様の鉄道政策についてです」
「何が疑問でも?」
「景紀様は佐薙家の顔を立てるような建設請負方式で進めるようですが、それですと短期的には佐薙家の方が利益を得ることになります。その点について、結城家家臣の一人である冬花様の存念を知りたいのです」
問われた冬花は、少しだけ考える時間を挟んだ。主君である景紀を批判するつもりはないし、家臣として目の前の少女の実家を悪く言うつもりもない。
「……政策とは、短期的な視点も必要ですが、長期的な視点も必要であると考えます」冬花は、そう答えた。「その点、景紀様の鉄道政策は長期的には結城家の利益となる政策かと」
「これは自惚れかもしれませんが、私は少し“甘い”と感じました」
「“甘い”、ですか?」
宵の言いたいことがいまいち判らず、冬花は怪訝そうな表情になる。
「よくよく考えてみれば、確かに結城家の利益となる政策でしょう。しかしそれ以上に恩恵を受けるのは、嶺州の民です。私はもともと、彼らの生活が少しでも良いものとなるよう、景紀様を利用するつもりでした」
「……」
宵の言葉に少し不穏なものを感じたが、冬花は何も言わなかった。例え自分の主君を利用しようとしたとしても、少なくともこの少女の思いは民の生活を考えた純粋なものだ。それを批判するわけにはいかない。
ただ、そこにわずかな違和感が混ざっているようにも感じるのだ。
その正体が、冬花には判らなかった。
「あの政策は、私に対する配慮の現われなのではないか、そう思ってもしまうのです」
宵の言葉には、惚気の気配は一切なかった。
「それは……景紀様が宵姫様のお覚悟を認めていらっしゃるからでは?」
北の姫君の態度に違和感を覚えつつも、冬花は応じた。一方、陰陽師の少女の言葉を受けた宵は、その口元を微かに動かした。
微笑みとも、嘲笑ともとれる、複雑な表情であった。
「景紀様はお優しい方です」
そう評する宵の声には、男性を想う女性の甘さなどまるでない、ただ現象を観察する学者のような硬質な冷たさが宿っていた。
「自らの懐の内に入れた者を傷付けようとする輩には、きっと容赦しないでしょう。しかし、その逆はどうでしょうか? あの方は、必要とあらば自らの内に入れた者に冷酷になれるでしょうか?」
「……」
冬花は即答出来なかった。
「為政者に必要なのは、百の民の命と一の親しい者の命、それを天秤にかけて百の民の命を取る冷徹さです。きっと、あの方はそれが出来ない」
断定する宵に対して、冬花は否定の言葉も肯定の言葉も出せなかった。どちらの言葉も、景紀への批難となる。
そして何よりも、十五の少女の発する冷徹な圧力に気圧されていた。
そこで、冬花は思い出した。
この少女は、佐薙家の中で唯一、自らに愛情を注いでくれたであろう母親を切り捨てる決断を下した人間なのだ。
「……ん? ああ、いえ、ちょっとした感慨です」
黙り込んでしまった冬花を見て、宵は自分の発言が白髪の少女に与えてしまった衝撃に気付いたらしい。
「あまりお気になさらないで頂けると助かります」
どこか困ったような、小さな笑みを浮かべて宵は言う。
だが、冬花は気付かざるを得なかった。
この少女は、為政者としての覚悟が自らの主君よりも遙かに上であることを。
それが誰にとって幸せで、誰にとって不幸なことなのか、今はまだ判らなかったけれども。
◇◇◇
建設請負方式の採用については、すでに景紀は内々に筆頭家老の益永忠胤に話を通していた。
「この件については、明日の朝食会議の議題として上げたいと思います」
景紀の執務室に呼び出された益永は、そう言った。
景紀の傍には、すでに書庫から戻ってきた冬花が従者然として控えている。
「ああ、俺も皆の忌憚のない意見を聞きたいところだ」景紀は筆頭家老の言葉に頷いた。「とはいえ、借款方式では将来的な禍根を残しかねないから、現状ではこれ以上の案はないと思う」
「はい、私もそう思います。しかし、若様に提案されるまで、この建設請負方式というものは盲点でした」
「まあ、こんな方式で鉄道を敷設しようってのは、うちが初めてだろうしな」
「しかし、これならば佐薙家の領政への過度な干渉とはならず、向こうからの反発も少ないでしょう。東北地方の政治的・経済的安定化と統制の強化という二面において、良案だったかと」
「統制の強化、って面ではいささか疑問が残るがな」
建設請負方式の問題点は、先ほど冬花も指摘したように、その後の経営に影響力を及ぼせなくなることである。返済が滞った場合にのみ、経営権が引き渡されることになるが、恐らくその可能性はかなり低いだろうと景紀は予測している。
衆民院議員たちが地元への利益誘導のために経済的に意味があるのか判らない鉄道を誘致することはあるが、今回の嶺州鉄道についてはしっかりとした経済的意義のある鉄道である。
千代から岩森まで路線を延ばすことが出来れば、そこから北溟道への連絡船を就航させることが出来、本州と北溟道との人・モノのやり取りが活発化する。
だからこそ、景紀は岩森港の独占的使用権を得ようとしているともいえた。
「とはいえ、岩森港を確保出来れば、という前提ではあるが、経済的な意味ならば十分、嶺州に食い込める。頭の硬い一部の家臣たちも、納得してくれるだろう」
「はい、若様の指導力を家臣団に示す絶好の機会かと」益永は恭しく言った。「そのためにもまず、景紀様には佐薙成親伯との契約交渉を成功させていただかねばなりません。岩森港の件も含めて、です」
「判っている。その点に関しては、俺が直接、伯と契約交渉をするつもりだ」
「細目については土木、財務担当の執政と検討することになるかと存じます」
「ああ、そのつもりだ。執政連中の方で、細目協定の内容については十分な検討を行ってくれ」
「かしこまりました」
景紀の執務室を出た益永忠胤は、御用部屋へと向かいながらある思いに捕らわれていた。
今回の嶺州鉄道建設請負契約の交渉は、景紀が内外にその指導力を誇示する絶好の機会となるだろう。いつからこれを考えていたのかと思うと、益永は少し空恐ろしいものを覚える。
少なくとも、建設請負方式という形態は、自家の利権だけを重視する人間には絶対に思いつかない方法だ。それ故に、他家との摩擦を生みにくい方法でもある。
岩森港の独占的使用権を与えることになるだろう佐薙家としても、九十九ヶ年も土地を手放すことにはならないので、彼らの家臣団を納得させるのは容易だろう。感情的な反発はあるだろうが、それを理屈で納得させられる程度の代償である。
自分がかつて教育掛を務めた少年は、間違いなく結城家次期当主に相応しいだけの能力を持っている。
景忠公が病に倒れてからのこの半年間、家臣団の統制が乱れなかったのもその証左だ。
朝食の席に家臣を集めて議論させるなど、当主の権威の弱体化に繋がってしまいそうな統制の仕方ではあるのだが、あの若君は家臣の発言に対して適切な言葉を返し、逆に家臣たちが次期当主に相応しい力量を持つ人間だと認めてしまうほどである。あるいはあの会議は、そうした自らの能力を家臣に示す狙いがあったのかもしれない(もちろん、景紀に言わせれば違うのだが)。
彼が次代の結城家当主となるならば主家は安泰だと思う一方で、あの若君の家臣の統制方法は伝統的な将家の枠組みからはいささか外れているとも思う。
どちらかといえば、議会制度に近い部分がある。
皇国の政治体制も、ここ数十年の間に産業革命の進展や衆民院の設置とそれに伴う選挙制度の実施など、益永が幼少期の頃から比べれば大きく変化している。
最早、自身の若い頃に抱いていた価値観で、将家に仕えることは出来ないだろう。
そうした時代の変化の中で、あのような若者が生まれてきたのかもしれない。
しかし一方で、そうした国家の変化という流れの中であのような人間が生まれたと断定することも、益永には出来なかった。
確かに、あの若君は有能であることは間違いないだろう。だが、その有能さは決して時代の変化の中でもたらされたものではないことを、益永は知っていた。
若君の傍にいつも控えている、白髪の陰陽師。
あの少女が自分の傍に控えていることを家臣たちに納得させるために、あの少年は有能であろうとしているのだ。
家臣団の者たちから“不吉な子”と蔑まれ、傍にいれば若君に災いをもたらすと忌み嫌われていた少女。
幼い少女をそんな家臣たちの心ない侮蔑から守るために、同じようにまだ幼かった少年は、彼女が“不吉の子”でないことを証明しようとしたのだ。
だからあの若君は、家臣たちが葛葉冬花という少女を蔑む理由を与えないように、自らを高めようとした。少女が決して、自分に悪い影響を与えていないと示すために。
それが、将家の跡継ぎとして正しい態度であったのかどうか、益永には判らない。武門の棟梁として女に入れ込むなど軟弱であると叱り付けることも出来ただろう。
だが、幼心に主従の契りを結んだあの二人を引き剥がすことなど、益永には出来なかった。例えそれが呪術師の主従の契りであろうとも、武人である彼にとって主従の契りとは何よりも尊いものであるように思えたのだ。
そして、若君は陸軍兵学寮に首席で入学し、在学中、その座を誰にも譲ることなく、首席のまま卒業した。
一方の少女も、自分の存在の所為で少年が家臣から侮られることを許せなかったのだろう。ただ彼の傍にいる資格のある人間だと証明するために、彼女もまた陰陽師として、補佐官として有能であろうとした。
少女の主君と同じように、彼女は女子学士院に首席で入学し、やはり首席で卒業した。
そして二人は、今も幼い頃の誓いのままに主従であり続けている。
今や表だって彼らを、特に少女の方を侮蔑する家臣はいない。そのようなことが若君の耳に入れば、文字通り“消されて”しまう。
若君の兵学寮卒業後も、公然と少女を侮蔑した一人の家臣は匪賊となった牢人集団の討伐の最中に行方不明になった。またある家臣は新南嶺島の探索の最中に行方不明になっている。
匪賊討伐にも、新南嶺島の探索にも、景紀は関わっていた。偶然というには、あまりに出来すぎていた。
だが、それに気付いているのは家臣の中でも景紀や冬花に特に近しい自分を含めた数人程度だろう。正直なところ筆頭家老である益永から見て、消された二人は家臣団内での家格はともかくとして、軍人・官僚としての能力は低く、いなくなったところで家臣団の間で問題とならないような人物たちであった。
そういう人間を選別して、あの若君は家臣を粛清している節がある。
若君は有能であろうと努力したが故に、無能で生産性のない人間たちを嫌う傾向にあるように思えるのだ。
明確に“消された”といえるのはあの二人だけであるが、あの少年が当主代理の座についたこの半年、大規模な小作争議を発生させた領国の代官など家の領国統治を混乱させた官僚系の家臣二名が更迭され、結城家の財産を横領した用人系統の家臣五名が財産没収の上放逐、他家に買収されて結城家の情報を漏らしていた家臣三名が切腹に追い込まれていた。
いずれの者もその罪状は明らかであり、景紀が当主代理を務めるに際して家臣団内の綱紀粛正を図る意図もあったのだろう。
あの若君の有能さは、時として苛烈な方向にも発揮されてしまうのだ。
有能な主君の有能な部下であることを示し続けるのは、中々に難しいものだ。そして、それが判っているからこそ、益永はあの少年の傍に控える少女のことを認めているのだが。
◇◇◇
「ねえ、景紀。ちょっと、とりとめのない質問していい?」
益永が出ていった執務室で、景紀は冬花が書庫から持ってきた資料を読み込んでいた。一息つこうと口に金平糖を放り込んだところで、彼女が声を掛けていたのだ。
「……うん? いいぞ」
景紀は金平糖を噛み砕いて呑み込んで、頷いた。
「景紀にとって、理想の為政者ってどんなもの?」
行政資料綴が納められている書棚を整理しながら、冬花が何気なさを装った口調で問うてくる。
「まぁた藪から棒な質問だな」
景紀は椅子の背もたれに体重を預けた。少し思案するように、視線が天井に向けて泳ぐ。
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「なにそれ?」
「為政者は正直者には務まらないってことさ。人間は正論と合理性だけで動く生き物じゃない。そういう人間は、官僚でもやっていればいい。仕事を合理的にこなせる人間には、それが一番だ。だが、為政者は、自分の政策に反発する奴をあの手この手で黙らせなきゃならない。今回で言うと、佐薙家の連中だな」
「なるほど。つまりは景紀みたいな人間、ってことね」
納得の声で、冬花が言った。そこに茶化す響きはまるでない。
「おいおい、心外だな。俺ほど正直な人間はいないだろ? あれほど赤裸々に隠居願望を語ってるんだぜ」
「私たちだけに、ね」冬花は悪戯っぽい笑みを浮かべた。「他の家臣は騙くらかしているじゃない。さっきの益永様なんか、あなたを次の当主にする気満々よ」
「……何て迷惑な筆頭家老様だ」
本気で毒づく景紀。そんな主君に、冬花はくすりと笑いを零した。
「……でもまあ、確かに合理主義だけの為政者ってのも味気ないわよね」どこか感傷的な声で、白髪の少女は言う。「私も景紀がそんな人間だったら、仕え甲斐がないわ」
「なんかあったのか?」
「何でもないの、気にしないで」
唐突な質問の意図が気になり景紀は尋ねてみたのだが、冬花は答えてくれそうになかった。
恐らく、先ほど宵と書庫に向かった時に何かあったのだろう。しかし、言い争いをしたという雰囲気でもない。どちらかといえば、互いの価値観の相違に気付かされたといったところだろうか?
冬花が為政者云々と言い出したということは、冬花と宵で自分に何を求めているのかが違ったのだろう。
景紀としては、見ず知らずの人間に勝手な為政者像を押し付けられることは不愉快であったが、自分を知る二人ならば仕方ないと思う。
もっとも、その程度のことで冬花と宵が仲違いして欲しくはないのだが。
「……なによ」
「いや、ただ綺麗な髪だなあと思っただけだ」
書棚のところにいる冬花に近寄った景紀は、そっと彼女の髪を撫でるように梳いた。さらさらと、癖のない艶のある白髪が景紀の指の間を滑り抜けていく。
「……」
「……」
冬花は拒絶するでもなく、ただ景紀が髪を梳くのに任せていた。二人の間に、無言の時間が流れていく。
「……ほんと、嫌な女ね、私」やがて、自嘲気味に冬花は言った。「あんなこと訊いて、『構って構って』って言ってるようなものじゃない」
「何があったのかは冬花が嫌なら訊かないが、あんまり自分を卑下するな。俺は、冬花を嫌な女だなんて思ってないから」
「……ありがとう、景紀」
シキガミの少女は少しの間だけ少年の肩に頭を預け、甘えるようにもたれ掛かった。
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