王女殿下の死神

三笠 陣

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過去編 王女殿下の初陣

26 渡河

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 森の中に、フクロウの鳴く声が木霊していた。
 リュシアンの赤い瞳が、ぱちりと開く。
 木々の間から降り注ぐ月と星の明かり以外に光源はなく、地上にあるものすべての輪郭は黒く曖昧だった。
 懐中時計の蓋を開けて、時刻を確認する。蛍光塗料の塗られた針は、一時四十八分を指している。
 思ったほど眠れていなかったらしい。だが、中途半端に起きてしまったというのに、眠気はまったくなかった。
 それが緊張故か、不安故かは判らない。
 エルフリードの方を見れば、〈黒の法衣ブラック・ローブ〉にくるまったまま、まだ寝息を立てていた。
 リュシアンは自動人形オートマタに潰された足の様子を確認する。昨夜の段階では、砕かれた骨までは回復させたが、足の腱は完全には回復していなかった。
 寝ている間も、体内の魔力循環を調整することで肉体の再生能力を高めていた。
 ちょっと立ち上がって、動いてみる。
 若干の違和感を覚えないでもないが、歩く分には問題なさそうだ。あと一時間ほど、大人しく治癒魔法をかけていれば、完全に回復するだろう。
 そのことに、リュシアンはほっとした。
 足を砕かれたのは、完全に自分の失態だった。
 魔力を“視る”ことの出来る魔眼、そしてその能力を最大限に活かすことの出来る破魔の魔剣〈ベガルタ〉。
 それがあれば、北ブルグンディアの宮廷魔導師にも十分に対抗出来ると思っていた。
 とんだ過信だった。
 師匠のクラリス・オズバーンに比べれば、十五になろうとする自分はまだ実戦経験の足らない未熟者なのだ。
 その未熟者が、王女を守って自国の領土まで敵地を突破して辿り着かねばならない。
 もし北ブルグンディア側に捕らえられれば、自分は恐らく殺される。エルフリードも、その政治生命は絶たれるだろう。あるいは、彼女のことだ、自身の矜持を守るために自決してしまうかもしれない。
 少女の死の可能性を考えただけで、リュシアンは背筋が震えてくる。

「……絶対に、死なせない」

 低く、呻くように、リュシアンはそう呟いた。
 もう、一睡も出来そうになかった。





 午前三時を回ろうとした頃、リュシアンはエルフリードの肩を揺り動かした。

「うっ……」

 小さな呻き声を上げて、エルフリードは目を覚ました。その直後、自分たちの置かれた立場を思い出したのか、がばりと跳ね起きる。

「今、何時だ?」

 寝起きとは思えないはっきりとした声で少女は尋ねた。

「午前二時五十分。そろそろ出発しようと思う」

「ああ、そうだな」

 そう言って、少女は己がくるまっていた大外套をリュシアンに返した。

「礼を言う。助かった」

「うん」

 リュシアンは受け取った〈黒の法衣ブラック・ローブ〉を再びまとう。その姿は、物語に出てくる森の奥に住まう魔法使いそのものだった。

「朝食は、川を渡ってからにしよう」

「そうだな」そう言って、エルフリードは何かに気付いたように窪地の斜面を登り始めた。「ちょっと……してくる」

 何がとは、当然ながらリュシアンは問わなかった。生物である以上は、必然的な生理現象だろう。
 その間に、リュシアンは野営地の痕跡をある程度消しておいた。焚き火も熾していないので、排泄物の痕跡さえ埋めておけば、ここで夜営していたことを発見される確率をかなり下げることが出来るだろう。
 しばらくすると、エルフリードが戻ってきた。

「……すまん、待たせた」

 多少の気まずさが、言葉に混じっていた。とはいえ、軍で生活していた影響か、顔を真っ赤にするほどの羞恥心には晒されていないようだった。

「いや、別に」

 リュシアンは何食わぬ顔で返事をした。

「ところで、足は大丈夫なのか?」

 いささか訊き辛そうに、エルフリードが尋ねる。自責の念は、そう簡単には消え去ってはくれない。

「走らなければ、十分動かせるよ」

「それは……よかった」

 エルフリードは素直に安堵すべきかどうか一瞬、迷ったようだった。
 リュシアンは頭上を見上げた。木々の間から見える星の位置を確認する。一応、昨夜、エルフリードが寝ている内に少し開けた場所まで行き、六分儀での現在地の測定を行っていた。
 後は、翼竜乗りとして習得した天測航法に基づく地理感覚で東に進むしかない。

「行こうか」

 そう言って、リュシアンはエルフリードに向かって手を差し出す。

「森はまだ暗い。はぐれるといけないから」

「そう、だな」

 幼い頃ならばともかく、十五になろうとしているのに手を繋いで歩こうとする行為に、エルフリードはかすかな気恥ずかしさを覚えていた。だが、背に腹は代えられない。
 リュシアンとはぐれれば、それだけでエルフリードは終わりなのだ。
 差し出された手を、エルフリードはきゅっと握った。
 お互い剣を扱っているからだろう、自分の掌もリュシアンの掌も、共に硬かった。
 その感触を互いに確かめながら、二人は夜明け前の森を歩き始めた。

  ◇◇◇

 穏やかに水の流れる音が聞こえた。
 アルデュイナの森西部を南北に横切るムーズ川の流れだった。上流の山岳地帯から澄んだ雪解け水が流れているらしく、川面には夜空が鏡のように映し出されていた。
 幻想的な森の光景であったが、それに感動するだけの精神的余裕は二人にはなかった。
 晩春であるためか、水の流量はそれなりにありそうだった。
 リュシアンは周囲を確認する。都合良く、石が連なってその上を渡れそうな箇所はなかった。あるいは上流に行けば見つかる可能性もあるのだろうが、今は時間が惜しい。それに、石の上で足を滑らせて川に転落するというのも避けたい。
 川底を覗いてみれば、砂底のようだった。これが泥ならば、足が沈んでしまう危険性があった。
 念のため、森を抜ける最中に見繕ってきた長い枝を川底に刺してみる。ある程度、硬い感触が返ってきた。水深も、泳いで渡らなければならないほどではないらしい。膝上か、腰のあたりまで濡らす程度で済むだろう。
 水面に手を入れると、かなり冷たい。雪解け水なのだから当たり前なのだが、対岸に渡った後に足を乾かさねばならないだろう。冬場ほど凍傷の危険性はないだろうが、体を冷やしたまま体調不良にでもなっては堪らない。
 リュシアンは川を渡るときに邪魔になる大外套を一旦脱ぎ、上手く折りたたんで首に巻き付けた。

「……じゃあ、行くよ」

「うむ」

 手を繋いだまま、リュシアンとエルフリードは川へと足を踏み入れる。リュシアンは枝で川底と水深を確認しつつ、エルフリードはエッカート銃を濡らさないよう肩に担ぎながら、慎重に一歩一歩、川を進んでいく。
 水の温度は刺すような冷たさではなかったが、それなりに体温を奪っていく温度であった。

「……」

「……」

 二人とも、黙々と川を渡っていく。
 幸いというべきが、足を滑らせることもなく、五分ほどかけて対岸に辿り着くことが出来た。
 ばじゃり、と濡れた足で川岸に上陸する。神経を使うという意味では、たった五分程度のことであったが、ひどく疲労を覚えた。

「森の中に入ったら、焚き火を熾そう」

「大丈夫なのか?」

 追っ手に発見される危険性から、昨夜は焚き火を熾さなかった。

「下半身を濡らしたままで、体を壊す方が怖い。仕方ないよ」

「ああ、そうだな」

 流石に寒さを感じていたのか、エルフリードはどこかほっとしたように頷いた。

「ただ、川岸で焚き火するわけにもいかないから、ある程度、森の奥に入るよ」

「ああ、構わん」

 リュシアンは大外套を元のように纏い、エルフリードもエッカート銃を肩にかけ直すと、再び手を繋いで森の中へと入っていった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 停戦交渉のため特派使節として北ブルグンディアに派遣される予定であったリチャード・クライヴ子爵以下、三名の使節団は昨日の内に無事にロンダリアの支配領域に帰還していた。
 北ブルグンディアは、明らかにエルフリード王女を標的としていたようであった。

「敵の動向について、何かないか?」

 西部方面軍司令部には、未だ参謀本部作戦課長アラン・オークウッド大佐が留まり、情報の収集と方面軍部隊の統制維持に当たっていた。

「傍受した魔導通信では、それなりの規模の捜索隊を森に入れるようです。それ以外の詳細は、残念ながら不明です」

「ふむ」

 通信用魔導兵は、交代で途切れることなく敵魔導通信の傍受や魔力反応の探知を行っていた。
 リュシアン・エスタークスの大規模な魔力反応も、昨日の午後に確認されている。恐らく、追撃してきた北ブルグンディアの連中と交戦状態になったのだろう。
 その後は、リュシアンの魔導反応はパタリと止んでいる。
 オークウッドに彼が言った通り魔導封鎖に入ったのか、それとも死亡、あるいは捕虜となったのか。
 北ブルグンディアの通信を傍受した限り、エルフリード王女を捕虜としたという内容のものはない。
 であるならば、エスタークス勅任魔導官とエルフリード王女はなおも逃亡を続けていると見ていいだろう。
 捜索隊を森に入れるという敵の通信が、それを物語っている。
 オークウッドはそう判断していた。
 しかし、これで状況は彼らにとってより厳しいものとなるだろう。北王国は、エスタークス魔導官と王女がどこへ向かおうとしているのかを把握している。
 国境付近を封鎖されてしまえば、彼らの進退は極まってしまう。
 だからこそ、オークウッドはそうさせないように策を講じた。それは、西部国境付近への部隊の集中である。
 北ブルグンディアが国境付近で大規模な部隊移動を行う兆候があれば、それを停戦協定違反としてただちに軍事行動を開始すると、西部方面軍司令部は北王国の第五軍司令部に申し入れている。
 実際問題、ロンダリア側の部隊展開も厳密には停戦協定違反なのであるが、最初にそれを破ったのは向こう側である。
 これ以上の停戦協定違反は実力を以て排除するという、ロンダリア側からの警告であった。
 とはいえ、政府からは国境線を越える許可が下りていない以上、西部国境への部隊展開に警告以上の価値はない。
 しかし、それでも十分に北ブルグンディア側に圧力を加えることが出来るだろう。彼らはこちらがどこまで本気であるかを知らないのだ。示威行為であっても、一定の意味はある。
 問題は、この王女襲撃事件に対してどのような収拾をつけるのかということであった。
 オークウッドは軍人であり、参謀本部作戦課長であった。マルカム三世や連合王国政府が軍事的解決を目指すのであれば、必勝の作戦を立案するまでである。
 だが、外交問題によって解決するのであれば、軍人たる自分に出番はない。
 王都の参謀本部からの通信では、政府(外務省)は北ブルグンディア通商代表部に対して今回の事件に対して厳重に抗議すると共に、事件の首謀者の引き渡しと公式な謝罪、賠償を要求したとのことである。
 また、事件により中断してしまった停戦交渉に関しては、北ブルグンディアの使節団をロンダリアに派遣するよう求めたという。
 また新たな使節団を派遣して、エルフリード王女の二の舞になることを避けようとしたのだろう。
 それに対して北の通商代表部は、事件の詳細について本国から知らされておらず、停戦交渉の件については本国に照会するとして、返答を引き延ばしているとのことであった。
 恐らく、それによって二、三日は時間稼ぎをするつもりなのだろう。その間に、逃走中のエルフリード王女を捕らえるつもりか。
 もっとも、あまり返答までに間があっては、こちらが本気で軍事行動を起こしかねないと判断するであろうから、どれほど遅くとも一週間以内には何かしらの外交的動きがあるだろう。
 それまで、軍は隠忍自重をしなければならない。
 一部の将兵の中には政府の弱腰を批難する声も上がっているようだが、オークウッドとしては動員がなされていない状況での開戦など論外だと思っている。
 軍としては、ロンダリアの主張する国境線の確保と、それに伴う敵野戦軍の撃滅を果たせたので、一応の面子は立っている。
 ここで停戦交渉が結ばれたところで、王室陸軍の武威をけがされたことにはならない。
 とはいえ、それに納得していない人間が軍内部にいることも確かである。
 西部方面軍内部の統制と北ブルグンディアへの示威行為の継続。
 しばらくは肉体的・精神的に疲れそうだな、とオークウッドは思った。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 パチパチと、枝の爆ぜる音が小さく響く。
 リュシアンとエルフリードの前では、火が熾されていた。
 二人とも靴を脱ぎ、濡れたズボンと共に足を火で温めていた。
 まだ、夜は明けていない。時刻はまだ午前五時前だった。この地域の日の出時刻は午前六時前後であるから、あと一時間ほどで日が昇る計算になる。
 二人は火に当たりながら、リュシアンの麻袋に詰められた食糧を食べていた。昨夜と同じく、堅焼きビスケットに干し肉の献立である。
 ただ、朝食ということで、リュシアンはさらに干し果ドライフルーツの麻袋も開けていた。朝食はある程度食べておかないと、日中、体力が続かない。

「……ここまでで、どれくらい進めたのだ?」

 エルフリードは尋ねずにはいられなかったようだ。

「多分、墜落地点から東に二十キロいくかいかないくらい。昨日の夜、大まかな位置の確認をしておいた」

「私が眠っている間に、か?」

 言ってから、リュシアンは己の失言に気付いた。今のは、エルフリードの精神を追い詰める発言だった。
 自分は寝ていたのに、リュシアンは起きて位置の測量をしていた。例え、彼女が天測航法に熟知していないとはいえ、負い目を作ってしまったことになる。

「別に、大した手間じゃなかったし」

 だからリュシアンは、何でもないことのように言った。

「そう、か」

 エルフリードは俯いてしまった。リュシアンがそう言っているのならば、自分もそれに合わせなければならない。そう思っているのだろう。

「……っ……うっ……」

 だがしばらくして、エルフリードの口から嗚咽のような呻きが漏れ出してきた。

「エル……」

「耳を、塞いでいてくれ……。後生だ、頼む……」

 案ずるようなリュシアンの声に被せるように、少女は懇願した。
 人は、慰められて安心する時と、慰められてかえって落ち込んだり、屈辱に感じる時がある。今のエルフリードの場合は、後者だろう。それがリュシアンであるならば、なおさらに。

「ああ……」

 結局、リュシアンとしてはそう言うしかなかった。
 堪えようとしても口の間からどうしようもなく漏れ出す少女の嗚咽が、焚き火の爆ぜる音にしばらく混じっていた。
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