王女殿下の死神

三笠 陣

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過去編 王女殿下の初陣

25 災厄の魔術師

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 体力が続く限り、二人はとにかく歩き続けた。
 元々体力の消耗が激しかったエルフリードは、リュシアンを支えながら歩いたことで更に体力を消耗し、疲労で顔を青白くしていた。息も完全に上がっている。
 流石に限界を感じ、二人は休止をとることにした。

「ぜえ、はぁ……」

 太い木の根元に、エルフリードはずるずると座り込む。汗で前髪が額に張り付いていた。水筒の蓋を開けて、中身を大事そうに飲み始める。
 敵魔術師からの逃走直後、リュシアンは今ならばと水系統の魔術で空気中の水分を集め、水筒の中に補充していた。そのため、今日に関しては水にまだ若干の余裕がある。

「……今、はあ、何時だ?」

 水筒から口を離したエルフリードが、疲労困憊の声で尋ねた。太陽はだいぶ傾いている。

「そろそろ、午後七時」

 エッカート銃を杖代わりにして周囲を警戒しているリュシアンが、懐中時計を確認する。彼の声にも、疲労が滲んでいた。
 五月下旬の北部ブルグンディア地域の日の入りは、午後九時頃になる。完全な日没まで、まだ二時間ほどはあった。

「……」

 リュシアンが今まで自分たちが歩いてきた方角を見る。まだ広範囲で煙が上がっていた。森林火災の消火に手間取っているらしい。それはそれで、二人には好都合ではあった。
 恐らく、今日中には追ってこられないだろう。
 問題は、明日以降だった。
 追っ手の問題だけでなく、食糧と水の問題がある。追っ手に捕まるか、森の中で野垂れ死ぬか。
 結局のところ、問題は何一つとして解決していないのだ。ただ、先延ばしにしただけだった。

「……足の具合は、どうだ?」

 水筒の水を飲んで人心地ついたのか、エルフリードはそう尋ねてきた。

「骨の方は、多分、再生した。腱の方はまだしばらくかかりそうだから、まだまともに歩くことは出来ないけど」

「そう、か……」

 沈んだ声だった。リュシアンを抱えながら歩いている最中は無我夢中だったようだが、こうして空白の時間が出来ると、途端に自責の念に駆られるらしい。

「今は、余計なことは考えないで」

「……」

 リュシアンがそう断じると、エルフリードは何かを言いたそうな表情のまま黙り込む。

「それよりも、まだ陽がある内に夜営出来そうな場所を探さないと」

「そう、だな」

 歯切れ悪く、エルフリードは頷いた。





 それから一時間ほど歩いたところで見つけた窪地で、二人は野営することにした。
 ある程度の距離から見れば、そこに窪地があって人が潜んでいるとは判りにくい場所だった。ただし、火を焚くことは出来なかった。例え窪地であっても、光は外に漏れる。
 二人は、近くから持ってきた丸太に腰掛けていた。
 リュシアンもエルフリードも、肩で息をしている状態だった。汗の染み込んだ下着が体に張り付き、ひどく気持ち悪い。今が冬場でないことだけが幸いであった。
 息を整えている内に、日は沈んでいった。

「……取りあえず、食事にしよう」

「ああ、そうだな」

 正直、二人とも空腹は覚えているのだが、疲労で食べるという気力すら湧いてこない。だが、食べなければさらに体力を消耗する。
 とにかく、何かを胃に収めることは必要であった。

「ん」

 リュシアンは、墜落直後に転移魔法陣から取り出した携行糧食の入った麻袋の一つをエルフリードに差し出した。

「うむ」

 中身は、堅く焼いたビスケットと氷砂糖。軍の携行糧食と同じだ。
 ボリボリと、リュシアンとエルフリードは無言でビスケットを噛んでいく。当たり前だが、口の中がパサついてくる。食欲が湧いてこないことに追い打ちをかけるような味と食感であった。
 時折、氷砂糖を舐めて唾液の分泌を促し、口の中のパサつきを緩和する。
 エルフリードは食事に対する一切の不満を漏らさなかった。彼女も軍隊生活の中で粗食は慣れているし、何よりも、文句を言える状況でないことを理解している。

「干し肉もあるよ、食べる?」

「ああ」

 疲労からか、言葉少なにエルフリードはリュシアンから干し肉を受け取った。
 炭水化物と蛋白質。最低限の栄養は摂っておかなければ、明日以降、体力が持たないだろう。もっとも、リュシアンの手持ちの食糧だけで必要最低限の栄養補給が出来るかどうかは甚だ疑問ではあったが。
 靴底のように硬い干し肉を、唾液で柔らかくしながら噛みしめていく。

「……食糧、どれだけ持つ?」

 干し肉を一口、胃に落とし込んだエルフリードが尋ねた。
 リュシアンの持っている食糧は、基本的には彼が単独行動をする時に備えたものだろう。二人で長期間の行動を可能とするだけの量はないに違いない。

「一応、俺基準で一週間分ある。だから、二人で分けて三日ってところ。切り詰めれば、四日はいけるだろうけど」

「どこかで、食糧を調達出来ればよいが……」

「でも、下手に森の草やキノコに手を出すと腹を下す危険がある。下痢便の臭いで発見されるってのは、ちょっと洒落にならない」

「うむ、そうだな」

 実際、夜営するにあたって、リュシアンとエルフリードは用を足すための穴を近くに掘っておいた。特に大便は人間が存在していたことの明確な証拠となってしまうので、隠密行動時におけるその処理は死活問題であった。

「この森も完全に無人ってわけじゃないから、村なんかの集落があったら、そこで食糧を調達しよう」

「つまり、盗むのか?」

 少しだけ反感の籠もった声で、エルフリードは言う。だが、リュシアンは気にした素振りを見せなかった。

「別に、殺してまで奪おうとは思わないよ。でも、赤の他人に配慮していられるような状況でもないしね」

「……そうだな」

 自分が益体もない矜持に拘っていたことを自覚して、エルフリードは同意した。

「明日は、夜明け前に出発しようと思う。出来れば空が明るくなる前に、ムーズ川を越えたい」

「ああ」

 俯いたままエルフリードは頷いた。
 リュシアンとしては、今日中に川を越えたかった。だが足の負傷のために歩く速度が極端に落ち、結局、川を越えることは出来なかった。
 川は森と違い、遮蔽物が何もない場所である。特に上空から竜兵に見張られていれば、最悪、夜間に渡河しなければならなくなる。そうなれば、明日は丸一日、川の西岸に留まることになる。
 それは、あまりに危険であった。
 だからこそ、リュシアンは出発時刻を早めて、夜明け前に川を渡ろうと考えているのだ。

「……」

 月明かりが木々の間から降り注ぐ森の中で、エルフリードは何かを言いたそうな顔をしていた。
 恐らく、川を今日中に渡ろうとしていたリュシアンの計画を自分の勝手な行動の所為で狂わせてしまったことに責任を感じているのだろう。
 だが、責任の所在を云々したところで、結局はエルフリードの自己満足にしかならない。
 リュシアンとしては彼女を無事にロンダリア領内に連れて帰らなければならない以上、余計なことに精神を割きたくなかった。
 エルフリードの方も、リュシアンのそうした切羽詰まった精神状態を理解しているのだろう。だから、口には何も出さない。

「明日は早く起きたいから、もう寝よう。今は午後九時を回ったところだから、午前三時に発つとしても、最低でも六時間は睡眠が取れる」

 懐中時計を確認したリュシアンは、そう言った。

「交代で見張りをした方がいいのではないか?」

 不安そうに、エルフリードは言った。二人とも眠っている状態で敵に発見されれば、簡単に捕らえられてしまう。

「野営地の周囲に、警戒用の結界と侵入者撃退用の術式を木の幹にでも刻んでおけばいい」

「今からやるのか?」

「ああ」

 エルフリードは未だ片足に不自由を抱えているリュシアンを心配しているようだった。

「そんなに時間はかからないよ」

そう言って、リュシアンはエルフリードに己のまとうフード付き大外套―――〈黒の法衣ブラック・ローブ〉を脱いで渡す。

「布団や毛布なんかはないけど、何もないよりはマシでしょ?」

「……すまん、な」

 受け取ることに一瞬だけ躊躇を見せたエルフリードだったが、結局は受け取った。一度身勝手な行動をとった所為で、リュシアンの言うことには従っておかないといけないと思っているのかもしれない。
 その感情が、リュシアンには少し哀れに思えた。
 そんなに思い詰めなくてもいいのだ。自分はただ、彼女を守りたくてやっているだけなのだから。
 だが、今のエルフリードの精神状態でそれを言ったところで、逆に彼女を追い詰めてしまうだけだろう。

「お前も、無理せず早く寝ろ」

 大外套にくるまりながら、最後にエルフリードはそう言った。ごろりと、平らにならして枯れ葉や枯れ草を敷いておいた地面に横になる。

「……お休み、エル」

 よほど疲れていたのだろう。エルフリードは横になってしばらくすると、静かな寝息を立て始めた。
 それを見届けたリュシアンは小銃を杖代わりに立ち上がると、彼女に言った通り、森の中に魔術的な仕掛けを施し始めた。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 夜半、アルデュイナの森の火災はようやく下火になり始めた。
 水系統魔術の使い手であるオリヴィエ・ベルトランは、煤で黒くした顔面のまま、白い煙の立ち上る黒焦げの木々を見つめていた。
 森林火災の消火は、ほとんど彼の功績といってもよかった。
 この場に彼がいなければ、火災はもっと広範囲にまで広がり、天然の要害としてのアルデュイナの森の価値を大きく損じていたことであろう。

「ベルトラン様、こちらも消火が終わりましたわ」

 魔剣士の少女にして同僚である宮廷魔導師のリリアーヌ・ド・ロタリンギアが駆け寄ってきた。彼女もまた、顔や服を煤で汚していた。

「それにしても、ロンダリアの魔術師は卑劣に過ぎますわ。アルベール様を不意打ちで刺し殺し、アルデュイナの森に火を放つなど、蛮人のすることです」

 そもそも自分たちの軍隊がロンダリアの使節団を襲撃したことは卑劣ではないのか。
 そう問いかけたいベルトランではあったが、何も言わないことにした。この少女はあの白髪の少年への敵愾心と憎しみで心が埋まっている。
 余計なことを言って、不毛な口論になることは避けたい。というよりも、面倒くさい。
 どうも自分は疲れているようだ、とベルトランは思った。
 彼は森林火災の消火のために水系統魔術を多用し、魔力・体力共に消耗していた。流石に、以前のロタリンギア魔導師のように、自身の限界まで魔力を使って気を失うような醜態は晒していない。
 本当にこのままあの王女と少年魔術師を追跡すべきなのだろうか。
 ベルトランは深刻な疑問を覚えていた。
 王女を捕らえて停戦交渉を有利にしようという目論見は、現在のところ、完全に失敗に終わっている。それどころか、その過程で宮廷魔導師エルネスト・フランソワ・ド・アルベールを殺害され、アルデュイナの森に火を放たれた。
 それに、ロンダリア政府の態度が硬化することも避けられないだろう。
 どう考えても、犠牲に対して成果が見合っていない。
 もちろん、このままあの二人を逃がせば、政治的・外交的に北王国に大きな傷を残したまま終わることになるだろう。それは、ベルトランにも判っている。
 しかし、この先、王女を捕らえられたとしても、我が国には政治的・外交的汚点が残ることになるだろう。いかにロンダリアとの間に正式な国交がないとはいえ、外交使節を襲撃するとはそういうことなのだ。
 あるいは、ロンダリア側が対北ブルグンディア開戦を決意しないと見越した上での瀬戸際外交なのか。
 どちらにせよ、あの王女を捕らえるにはさらなる犠牲を覚悟しなければならないだろう。
 いっそ、第五軍司令官ピエール・ド・ジョルジュ中将に襲撃事件の全責任を押し付け、王女の追跡を諦めてロンダリアとの停戦交渉に臨めばいいものを、とベルトランは考える。事件の首謀者をロンダリアに引き渡すなどすれば、彼らも強硬な姿勢を引っ込めざるを得ないだろう。
 森の中を逃走中の王女と少年に関しては、捕虜とせず帰国の便宜を図るという趣旨の伝単ビラを森中に撒き、これ以上の追跡を諦める。王女を丁重に送り返せば、ロンダリア側も北ブルグンディア政府全体の責任を追及することは難しいに違いない。
 いや、駄目か。
 ベルトランは思い直した。
 一度、騙し討ちをした相手が、そう簡単にこちらを信用するはずがない。逃走中の王女と少年魔術師に対して、帰国の便宜を図ると言ったところで二人に新たな謀略と疑われるだけだろう。
 それに、宮廷魔導師を殺され、アルデュイナの森を焼かれた。
 我が国政府や軍部、それに宮廷魔導団は、国家としての面子に賭けて、王女と少年を捕らえようとするだろう。
 王女に付き従う少年魔術師の危険性を考えれば、王女は捕虜として少年は殺すべきだろう。あの少年は王女とそう変わらぬ年齢のように見えたので、まだ十五かそこらのはずだ。
 それであれだけの判断能力と魔術師としての技量があるのならば、成長してさらなる脅威となる前に殺した方が北ブルグンディアにとって利益となるだろう。
 だが問題は、それによって王女が自決する可能性があるということだ。
 自らに銃口を突きつけた王女がどこまで本気で自決しようとしていたのかは判らないが、少年が殺されて自身が囚われの身となるくらいならば死を選ぶような人間なのかもしれない。
 それは、北ブルグンディア側としては厄介であった。
 だが、自分は宮廷魔導団に所属しているとはいえ、一介の魔導師に過ぎない。国家としてエルフリード王女の捕縛が命じられているのであれば、それに従うまでのことである。

「明日には、周辺の陸軍部隊や憲兵隊、周辺地域の警察を動員して森の中を捜索する。ロタリンギア魔導師、くれぐれも先走るような真似はするなよ」

わたくしが討つべきは、あの白髪の少年です。かの者を野放しにすれば、捜索される方々にも被害が及びますわ。それを阻止するために必要な行為であるならば、私は躊躇いたしません」

 相変わらず、この少女魔剣士はあの少年を目の敵にしているようだ。
 この少女を前線に向かわせるべきではなかったか、と今さらながらにベルトランは後悔する。戦場で心を病む人間がいると聞いているが、リリアーヌ・ド・ロタリンギアという少女もその一人なのだろうか。
 ロンダリアの少年魔術師を討ち果たせれば、彼女の妄執ともいえる感情を和らげられるのだろうか。
 第五軍の作戦計画を狂わし、宮廷魔導師の一人を殺し、もう一人の心を病ませる。
 リュシアン・エスタークスという名であろうあの白髪の少年魔術師は、北ブルグンディアにとって災厄そのものなのかもしれない。
 そう、ベルトランは思った。
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