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第3部 佐藤の試練
最終話 The cat which handles wind【風を操るもの】
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わいの名は佐藤。
S区のボス猫や。
考えてみりゃおかしなもんや。おれはただ『飼い猫』になりたかっだけやのに……まったく世の中なにが起こるかわからんっちゅうこっちゃ。
去年の夏──あのザンパノとの闘いから、はや半年が過ぎた。人間の言う『歴』で言うのなら一月も半ばに入ろうとしている。
あれからというものの皆はおれのことを『風を操るもの』と呼ぶようになった。なかなか気に入っている。ヴァンの『鳥の名前を持つもの』に匹敵するくらいのいいニック・ネームじゃないか。
ヴァンは帰還した。
一度は死の淵まで足を踏み入れたもののヴァンはイシャータの寝ずの介抱により再び目を開いた。
捨て猫だったおれを拾ってくれたのはイシャータだったが、おれは彼女がのちにこう言ってくれたことを覚えている。
「ヴァンを救ったのはあなたよ、佐藤。私が捨てられていたあなたを助けたことにはやっぱり意味があったんだわ」
そんなものなんだろうか?──
おれがもっと早く駆けつけることができていればヴァンだってあれほど負傷することはなかったんとちゃうやろか?
そんな感じのことをおれは言ったがイシャータは「それは違う」と首を横に振った。
「そうじゃないの。なんていうかあなたがヴァンを救うことは私たちが初めて出会った時から既に決まっていたんじゃないか…… みたいな。つまり私があなたを助けたあの時、あれはきっと何かに試されていて……う~んと、なんだか、そんな……」
「? ? ?」
「ダメだわ。私にはうまく説明できないや。でも、きっといつかあなたにもその意味がわかる日がやってくるよ」
イシャータはそう言うとシャム特有のブルーの瞳でおれをじっと見つめた。
おれにはなにやらさっぱりわからなかったがまあいい。イシャータの言うことはいつも正しいような気がする。いつかわかると言うのならきっといつかわかるのだろう。
おれは今、寒空の下、目の前で車が行ったり来たりするのを眺めている。
ここは初めてギリーに会った場所だ。『N区』と『S区』の境目にあるコンビニ前の交差点だ。
ギリーはろくに飲まず食わずでヴァンを看病するイシャータの姿を遠目でずっと見守り続けた。
幼い頃からヴァンに憧れていたギリーにとってその姿はどういう風に映っていたのだろう。
ヴァンとイシャータ、その二匹の姿を眺めているギリー。そしてその後ろからギリーの小さな背中を見つめているおれ。
その複雑な心のうちはどれほどか似ていたことだろう?
おれはギリーの胸の痛みをどうすればわかってやれるのだろうとずっと思っていたのだが実はそうじゃなかった。
ギリーの痛みとは、つまりおれの痛みだったのだ。そんな簡単な、単純なことに気付くとおれは急にギリーが愛しくなった。これまで以上に愛しくなってギリーの隣に腰かけた。
別段、意識したわけじゃなかったのだが、おれの前足がギリーの前足と触れ合った。
「……佐藤?……すごいね。ザンパノに勝ったんだってね」
「喧嘩する猫は嫌いやなかったん?」
おれとギリーはヴァンとイシャータの方に顔を向けたまま、そんな会話をした。
なんとなくぎこちなくはあるが、それでもその時のおれはきっと、世界中のどんな猫よりも穏やかな気持ちだったに違いないと、そうも感じた。ギリーは触れた前足を特に避けようとはしなかった。おれはもう、それだけで十分だった。
あの闇と灼熱の冷蔵庫の中、もしも、ギリーにもう一度会うことができたならいっぱいいっぱい伝えたいことがあると切望していたはずなのに、なんだかそんなこともうどうでもよくなった。
おれたちは決してまだ向き合っているわけではない。しかし今、確かに同じ方向を向いている。いや、ひょっとしたら向き合うことよりもそっちの方がずっとずっと大切なのかもしれない。
ひんやりとした冷たさが少しだけ入り混じる風が心地よかった。夏が終わろうとしていた。
▼▲▼▲▼▲
──冷たいものが鼻の頭にあたっておれの回想は遮断された。
なんだこりゃ?
ふわふわと空に舞う冷たい綿毛。
雪や。
『ほんまに空から氷が降ってくるなんて!』
話では聞いたことがあったがこの目で見るのは初めてだった。そんな舞い散る雪をずっと見上げていると、このところ頭を占めている思いが顔を覗かせる。
だが、今はそんなこと考えておれへん。
今日はボスの座をかけたバトルの日や。いわゆる防衛戦というやつだが、今日の挑戦者は少しばかり手強い。
▼▲▼▲▼▲
氷川神社についた時、その挑戦者はすでにおれを待っていた。
「なんだ、ずいぶんと待たせるじゃないか」
掠れた声が問いかける。おれはその声を聞いて、ちくりと胸が痛んだ。
「ボスともなるといろいろ忙しいんやで、ヴァン」
おれは冗談めかしてそう答えた。そう、今日の対戦相手は他ならぬヴァン=ブランである。
なんとか急所は避けたもののザンパノの一撃はヴァンの魂である『声』を奪った。それでもおれはいつか、きっとまた──あのヴァンの透き通るような歌声が聞ける日が──必ずくると信じている。
喉にまだ多少ひっかかりがあるものの、ヴァンはお得意の笑い声をあげた。
「あっはっは! 俺も舐められたもんだな」
「そんなことあらへんよ。いくらヴァンいうたかて手加減する気はこれっぽちもあらへんで」
おれもニヤニヤ笑ったが、それは紛れもない本心だった。そもそもヴァンに勝てるなんて鼻っから思っちゃいないさ。だが、全力でぶつかって負けなければ俺は気持ちよく旅立つことができないんや。
▼▲▼▲▼▲
おれは今まで、ヴァンは何でも知っていて、何でもできて、そして誰にも負けないヒーローの様な存在だと勝手に思い込んでいた。
あれはそう、おれ達が『猫屋敷』からS区へ移って間もない頃──おれがたまたまヴァンとクローズの会話を聞いてしまった時のことだ。
クローズは泣いていた。彼女はヴァンの声を奪ったのはフライであり、そしてその責任は自分にあると思い込んでいたいたのだ。
「ヴァン、私は間違っていたのかな…… ?」
( 婆さん、俺は間違っていたのかな……? )
ヴァンはその時、夢の淵で出会った栗色の猫に自分がまったく同じことを言ったのを思い出していたという。ヴァンはかすれた声で途切れ途切れに語っていた。
「クローズ、俺さ。婆さんに会ったんだぜ」
「?」
「いつか、その時の話をおまえだけにはしてやれるといいなって思ってる。おまえは間違ってなんかいない。いや、そもそもこれは間違ってるとか間違ってないとかそういう問題じゃないんだと思う。俺達はいつだって──」
ヴァンはそこで口ごもった。
今、考えてみるとヴァンはひょっとしたらこう言いたかったのかもしれない。
『俺達はいつだってフライのようになってしまう可能性を秘めているんだ──』と。
だとすれば、おれにはその意味が少しだけわかるような気がした。今回はたまたまそれがフライの番であったということだけだ。
「だがなクローズ、おまえにもひとつだけ間違ってるところがある」
クローズはピクリと耳を立てた。
「以前、おまえは俺にフライを選んだことは後悔していないと言った。俺は一匹でも生きていけるからってな。だけど、それは──本当は……そうじゃない」
盗み聞きとはいえ、それは孤高かつ豪快だと思っていたヴァンの『弱さ』を俺が初めて垣間見た瞬間かもしれなかった。ヴァンは少し咳込み、声を絞り出していた。
「俺は…… いや、俺だけじゃない。一匹で生きていけるやつなんてこの世にいるわけがないんだ」
まさかヴァンの口からこんな言葉が出てくるなんて想像していなかったおれは驚いた。しばらくその場から動くことができなかった。
(──ヴァンもまた、おれと同じ、ただの一匹の猫なんや……)
おれは考えた。たまたま風が味方してザンパノに勝ったとはいえあれはただの偶然や。おれの実力なんかやない。史上最年少のボス猫だと威勢を張ってみたところで、いったいそれが何だというのだろう。
さほど遠くない未来、このままでは俺は誰かに必ず敗れる。それも、目も当てられぬくらいコテンパンにだ。
それに、考えてみると俺にはまだわからないことだらけだ。この雪のようにまだ見たことのないもんがきっと世の中にはまだいっぱいいっぱいあるんや。
(──旅立ちたい)
ヴァンが見た海というものを見てみたい。
ヴァンが話したウミネコたちとも話してみたい。
ヴァンは決して特別な猫やあらへん。
だったら、おれだってヴァンのようになれるはずなんや。
このところ寝ても覚めてもそんな思いが頭から離れない。ボーッと日がな一日を過ごしている間にやけに街が賑わってくるのをおれは感じていた。クリスマスというものがやってくるせいだという──
▲▼▲▼▲▼
「ひでえなぁ、賭けの対象である張本人が総取りなんてあるかよ! 」
トトカルチョの一件のことだ。メタボチックは歯磨き粉数本、さらには洗剤をヴァンの前にさし出した。俺たち猫にとっては酒同様の代物だ。メタボチックはこういったいろんなものをやたらと拾ってくる収集癖がある。
「仕方ないだろ、見ての通り俺はザンパノに負けちまったんだからな。大穴総取り一匹勝ちってやつだ。さあ、みんな! 遠慮なくどんどんやってくれ」
赤と緑のカラーが街に増えてきた頃、おれたち『猫屋敷』組は久し振りに集まって宴を楽しんでいた。
深夜、場所は『N区』と『S区』の間にある公園。あの“いわく付き”の公園だ。
すっかり体力を取り戻したヴァンはイシャータとともに現れた。
「おっと、メタボこれだけじゃないだろ」
「ちぇ、こんなのヴァンには必要ないだろ」
メタボチックが取り出したもの、それは鈴のついた赤い首輪だった。
「あ……!」
「さあ、イシャータ。俺たちが初めて会った時、おまえはそれを付けてただろ?」
「どうして──?」
「へへ……ずいぶん前にドブで見つけたんだ。綺麗だし洗えばまだ使えそうだったし」
皆の視線に囲まれながらイシャータは少し困惑しているようだったが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「ありがとう……でも、これは今の私には必要ないわ。だって、私はノラよ。野良猫は首輪なんかしない。ヴァン、気持ちは嬉しいけど──」
「だったらせめて歌ってるの間だけでもつけてやっておいてくれ。あの時と同じシチュエーションでな。それを含めてのクリスマス・プレゼントってとこだ」
「歌──?」
「聞いてくれる約束だぞ」
「で、でも──?」
「ああもうめんどうくさいな──」
おれは首輪をくわえるとそのままイシャータの頭にすっぽりと被せた。チリンと鈴の音が鳴る。
「首輪が嫌ならティアラにでも王冠にでもしときいや。イシャータは今やS区のボスであるこの佐藤様の……なんやろな……おばちゃんやねんで」
「お、お姉ちゃん!」
「な~にがお姉ちゃんやねん、もう、そんなトシでもあらへんやろ」
皆がどっと沸いたのをきっかけに、おれはイシャータに向かって軽く会釈してみせた。
「では、僭越ながらヴァンの代わりに歌わせてもらうで」
「へ?」
「メリー・クリスマス、イシャータ。俺にはもう、うまく歌ってやることができないからな」
それはイシャータと約束したとても大切な曲だとヴァンは言った。そんなものをおれが代行して歌ってもいいものなのかどうか少し迷ったが、ヴァンの掠れた声でそんなことを頼まれると嫌とは言えるはずもなかった。おれはできる限りの期待に応えるべく心を込めて歌った。
それはヴァンが死の淵で歌ったものだという。
イシャータだけでなく他の連中も目を閉じて黙って聞いてくれていた。おれはイシャータのことを思い、ギリーのことを想い、ヴァンやクローズや皆、そして──
少しだけ、フライのことも思いながら歌った。
▼▲▼▲▼▲
ヴァンがおれに話しかけてきたのは宴も終わり、やがて皆が寝静まった頃だった。
「佐藤、礼を言うよ。素晴らしい出来ばえだった」
「……うん」
「どうした?」
「な、なにが?」
「最近、随分おとなしくなっちまったらしいじゃないか。らしくないぞ」
「わ、わいかて考えることがあんねん。いつまでも子猫扱いせんといてや」
「そうか……そうだな」
「……」
祭りのあとの静けさの中、それから、どれくらいそうやっていただろう。
正直な気持ちを今言うのであれば、おれは、その瞬間が永遠に続けばいいなと思っていたんや。本当に本当の気持ちを言うのであれば、みんなとこうして──気の知れた連中たちとこうして、いつまでも一緒に楽しく過ごしていたい、そう思ってたんや。
ヴァンがポツリと呟いたのは朝日が辺りを白々と照らし始めた頃だった。明けの明星がうっすらと輝いていた。
「知ってるか? なんでも星ってやつにはそりゃいろんな種類のものがあるらしい。『強がりの星』や『迷いの星』、『臆病の星』に『戸惑いの星』……」
「……」
「今のおまえにはあの星がどういう風に見えてるんだ?」
「そんなん……どれも同じようなもんやんけ」
「強くなったか」
「まあ、少しは強くなったんちゃうかな。前よりはな」
「俺よりもか」
「……か、かもしれへんで?」
「言うようになったな」
「いっちょモンでやってもええねんで」
ヴァンは笑った。
「よし、賭けるか?」
「賭けるったって……なんも持ってへんよ、おれ」
「だったらS区のボスの座を賭けるってのはどうだ」
「…………」
わかってる。
ヴァンはおれの気持ちを察してるんや。
『行け──』、言うとるんや。
泣きそうになったが泣かなかった。そう、強いオスは泣かない。
おれは、初めてオスに生まれてよかったと思った。おれは……おれは、やっぱりヴァンのようなオスになりたい。
▼▲▼▲▼▲
「いくで、ヴァン!」
おれは全身の毛を逆立てた。
(帰ってこい、佐藤。もっともっと強く、でかくなって俺からまたボスの座を奪ってみせてみろ──)
ヴァン=ブランもその銀色の毛並みをこれでもかと言わんばかりに逆立て返した。
おれはヴァンに、今のおれが持てる最速のスピードで飛びかかっていった。
嬉しかった。
ヴァンは──
ヴァンは今、おれのことを《一匹の男》として睨み付けてくれている。
〈 了 〉
S区のボス猫や。
考えてみりゃおかしなもんや。おれはただ『飼い猫』になりたかっだけやのに……まったく世の中なにが起こるかわからんっちゅうこっちゃ。
去年の夏──あのザンパノとの闘いから、はや半年が過ぎた。人間の言う『歴』で言うのなら一月も半ばに入ろうとしている。
あれからというものの皆はおれのことを『風を操るもの』と呼ぶようになった。なかなか気に入っている。ヴァンの『鳥の名前を持つもの』に匹敵するくらいのいいニック・ネームじゃないか。
ヴァンは帰還した。
一度は死の淵まで足を踏み入れたもののヴァンはイシャータの寝ずの介抱により再び目を開いた。
捨て猫だったおれを拾ってくれたのはイシャータだったが、おれは彼女がのちにこう言ってくれたことを覚えている。
「ヴァンを救ったのはあなたよ、佐藤。私が捨てられていたあなたを助けたことにはやっぱり意味があったんだわ」
そんなものなんだろうか?──
おれがもっと早く駆けつけることができていればヴァンだってあれほど負傷することはなかったんとちゃうやろか?
そんな感じのことをおれは言ったがイシャータは「それは違う」と首を横に振った。
「そうじゃないの。なんていうかあなたがヴァンを救うことは私たちが初めて出会った時から既に決まっていたんじゃないか…… みたいな。つまり私があなたを助けたあの時、あれはきっと何かに試されていて……う~んと、なんだか、そんな……」
「? ? ?」
「ダメだわ。私にはうまく説明できないや。でも、きっといつかあなたにもその意味がわかる日がやってくるよ」
イシャータはそう言うとシャム特有のブルーの瞳でおれをじっと見つめた。
おれにはなにやらさっぱりわからなかったがまあいい。イシャータの言うことはいつも正しいような気がする。いつかわかると言うのならきっといつかわかるのだろう。
おれは今、寒空の下、目の前で車が行ったり来たりするのを眺めている。
ここは初めてギリーに会った場所だ。『N区』と『S区』の境目にあるコンビニ前の交差点だ。
ギリーはろくに飲まず食わずでヴァンを看病するイシャータの姿を遠目でずっと見守り続けた。
幼い頃からヴァンに憧れていたギリーにとってその姿はどういう風に映っていたのだろう。
ヴァンとイシャータ、その二匹の姿を眺めているギリー。そしてその後ろからギリーの小さな背中を見つめているおれ。
その複雑な心のうちはどれほどか似ていたことだろう?
おれはギリーの胸の痛みをどうすればわかってやれるのだろうとずっと思っていたのだが実はそうじゃなかった。
ギリーの痛みとは、つまりおれの痛みだったのだ。そんな簡単な、単純なことに気付くとおれは急にギリーが愛しくなった。これまで以上に愛しくなってギリーの隣に腰かけた。
別段、意識したわけじゃなかったのだが、おれの前足がギリーの前足と触れ合った。
「……佐藤?……すごいね。ザンパノに勝ったんだってね」
「喧嘩する猫は嫌いやなかったん?」
おれとギリーはヴァンとイシャータの方に顔を向けたまま、そんな会話をした。
なんとなくぎこちなくはあるが、それでもその時のおれはきっと、世界中のどんな猫よりも穏やかな気持ちだったに違いないと、そうも感じた。ギリーは触れた前足を特に避けようとはしなかった。おれはもう、それだけで十分だった。
あの闇と灼熱の冷蔵庫の中、もしも、ギリーにもう一度会うことができたならいっぱいいっぱい伝えたいことがあると切望していたはずなのに、なんだかそんなこともうどうでもよくなった。
おれたちは決してまだ向き合っているわけではない。しかし今、確かに同じ方向を向いている。いや、ひょっとしたら向き合うことよりもそっちの方がずっとずっと大切なのかもしれない。
ひんやりとした冷たさが少しだけ入り混じる風が心地よかった。夏が終わろうとしていた。
▼▲▼▲▼▲
──冷たいものが鼻の頭にあたっておれの回想は遮断された。
なんだこりゃ?
ふわふわと空に舞う冷たい綿毛。
雪や。
『ほんまに空から氷が降ってくるなんて!』
話では聞いたことがあったがこの目で見るのは初めてだった。そんな舞い散る雪をずっと見上げていると、このところ頭を占めている思いが顔を覗かせる。
だが、今はそんなこと考えておれへん。
今日はボスの座をかけたバトルの日や。いわゆる防衛戦というやつだが、今日の挑戦者は少しばかり手強い。
▼▲▼▲▼▲
氷川神社についた時、その挑戦者はすでにおれを待っていた。
「なんだ、ずいぶんと待たせるじゃないか」
掠れた声が問いかける。おれはその声を聞いて、ちくりと胸が痛んだ。
「ボスともなるといろいろ忙しいんやで、ヴァン」
おれは冗談めかしてそう答えた。そう、今日の対戦相手は他ならぬヴァン=ブランである。
なんとか急所は避けたもののザンパノの一撃はヴァンの魂である『声』を奪った。それでもおれはいつか、きっとまた──あのヴァンの透き通るような歌声が聞ける日が──必ずくると信じている。
喉にまだ多少ひっかかりがあるものの、ヴァンはお得意の笑い声をあげた。
「あっはっは! 俺も舐められたもんだな」
「そんなことあらへんよ。いくらヴァンいうたかて手加減する気はこれっぽちもあらへんで」
おれもニヤニヤ笑ったが、それは紛れもない本心だった。そもそもヴァンに勝てるなんて鼻っから思っちゃいないさ。だが、全力でぶつかって負けなければ俺は気持ちよく旅立つことができないんや。
▼▲▼▲▼▲
おれは今まで、ヴァンは何でも知っていて、何でもできて、そして誰にも負けないヒーローの様な存在だと勝手に思い込んでいた。
あれはそう、おれ達が『猫屋敷』からS区へ移って間もない頃──おれがたまたまヴァンとクローズの会話を聞いてしまった時のことだ。
クローズは泣いていた。彼女はヴァンの声を奪ったのはフライであり、そしてその責任は自分にあると思い込んでいたいたのだ。
「ヴァン、私は間違っていたのかな…… ?」
( 婆さん、俺は間違っていたのかな……? )
ヴァンはその時、夢の淵で出会った栗色の猫に自分がまったく同じことを言ったのを思い出していたという。ヴァンはかすれた声で途切れ途切れに語っていた。
「クローズ、俺さ。婆さんに会ったんだぜ」
「?」
「いつか、その時の話をおまえだけにはしてやれるといいなって思ってる。おまえは間違ってなんかいない。いや、そもそもこれは間違ってるとか間違ってないとかそういう問題じゃないんだと思う。俺達はいつだって──」
ヴァンはそこで口ごもった。
今、考えてみるとヴァンはひょっとしたらこう言いたかったのかもしれない。
『俺達はいつだってフライのようになってしまう可能性を秘めているんだ──』と。
だとすれば、おれにはその意味が少しだけわかるような気がした。今回はたまたまそれがフライの番であったということだけだ。
「だがなクローズ、おまえにもひとつだけ間違ってるところがある」
クローズはピクリと耳を立てた。
「以前、おまえは俺にフライを選んだことは後悔していないと言った。俺は一匹でも生きていけるからってな。だけど、それは──本当は……そうじゃない」
盗み聞きとはいえ、それは孤高かつ豪快だと思っていたヴァンの『弱さ』を俺が初めて垣間見た瞬間かもしれなかった。ヴァンは少し咳込み、声を絞り出していた。
「俺は…… いや、俺だけじゃない。一匹で生きていけるやつなんてこの世にいるわけがないんだ」
まさかヴァンの口からこんな言葉が出てくるなんて想像していなかったおれは驚いた。しばらくその場から動くことができなかった。
(──ヴァンもまた、おれと同じ、ただの一匹の猫なんや……)
おれは考えた。たまたま風が味方してザンパノに勝ったとはいえあれはただの偶然や。おれの実力なんかやない。史上最年少のボス猫だと威勢を張ってみたところで、いったいそれが何だというのだろう。
さほど遠くない未来、このままでは俺は誰かに必ず敗れる。それも、目も当てられぬくらいコテンパンにだ。
それに、考えてみると俺にはまだわからないことだらけだ。この雪のようにまだ見たことのないもんがきっと世の中にはまだいっぱいいっぱいあるんや。
(──旅立ちたい)
ヴァンが見た海というものを見てみたい。
ヴァンが話したウミネコたちとも話してみたい。
ヴァンは決して特別な猫やあらへん。
だったら、おれだってヴァンのようになれるはずなんや。
このところ寝ても覚めてもそんな思いが頭から離れない。ボーッと日がな一日を過ごしている間にやけに街が賑わってくるのをおれは感じていた。クリスマスというものがやってくるせいだという──
▲▼▲▼▲▼
「ひでえなぁ、賭けの対象である張本人が総取りなんてあるかよ! 」
トトカルチョの一件のことだ。メタボチックは歯磨き粉数本、さらには洗剤をヴァンの前にさし出した。俺たち猫にとっては酒同様の代物だ。メタボチックはこういったいろんなものをやたらと拾ってくる収集癖がある。
「仕方ないだろ、見ての通り俺はザンパノに負けちまったんだからな。大穴総取り一匹勝ちってやつだ。さあ、みんな! 遠慮なくどんどんやってくれ」
赤と緑のカラーが街に増えてきた頃、おれたち『猫屋敷』組は久し振りに集まって宴を楽しんでいた。
深夜、場所は『N区』と『S区』の間にある公園。あの“いわく付き”の公園だ。
すっかり体力を取り戻したヴァンはイシャータとともに現れた。
「おっと、メタボこれだけじゃないだろ」
「ちぇ、こんなのヴァンには必要ないだろ」
メタボチックが取り出したもの、それは鈴のついた赤い首輪だった。
「あ……!」
「さあ、イシャータ。俺たちが初めて会った時、おまえはそれを付けてただろ?」
「どうして──?」
「へへ……ずいぶん前にドブで見つけたんだ。綺麗だし洗えばまだ使えそうだったし」
皆の視線に囲まれながらイシャータは少し困惑しているようだったが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「ありがとう……でも、これは今の私には必要ないわ。だって、私はノラよ。野良猫は首輪なんかしない。ヴァン、気持ちは嬉しいけど──」
「だったらせめて歌ってるの間だけでもつけてやっておいてくれ。あの時と同じシチュエーションでな。それを含めてのクリスマス・プレゼントってとこだ」
「歌──?」
「聞いてくれる約束だぞ」
「で、でも──?」
「ああもうめんどうくさいな──」
おれは首輪をくわえるとそのままイシャータの頭にすっぽりと被せた。チリンと鈴の音が鳴る。
「首輪が嫌ならティアラにでも王冠にでもしときいや。イシャータは今やS区のボスであるこの佐藤様の……なんやろな……おばちゃんやねんで」
「お、お姉ちゃん!」
「な~にがお姉ちゃんやねん、もう、そんなトシでもあらへんやろ」
皆がどっと沸いたのをきっかけに、おれはイシャータに向かって軽く会釈してみせた。
「では、僭越ながらヴァンの代わりに歌わせてもらうで」
「へ?」
「メリー・クリスマス、イシャータ。俺にはもう、うまく歌ってやることができないからな」
それはイシャータと約束したとても大切な曲だとヴァンは言った。そんなものをおれが代行して歌ってもいいものなのかどうか少し迷ったが、ヴァンの掠れた声でそんなことを頼まれると嫌とは言えるはずもなかった。おれはできる限りの期待に応えるべく心を込めて歌った。
それはヴァンが死の淵で歌ったものだという。
イシャータだけでなく他の連中も目を閉じて黙って聞いてくれていた。おれはイシャータのことを思い、ギリーのことを想い、ヴァンやクローズや皆、そして──
少しだけ、フライのことも思いながら歌った。
▼▲▼▲▼▲
ヴァンがおれに話しかけてきたのは宴も終わり、やがて皆が寝静まった頃だった。
「佐藤、礼を言うよ。素晴らしい出来ばえだった」
「……うん」
「どうした?」
「な、なにが?」
「最近、随分おとなしくなっちまったらしいじゃないか。らしくないぞ」
「わ、わいかて考えることがあんねん。いつまでも子猫扱いせんといてや」
「そうか……そうだな」
「……」
祭りのあとの静けさの中、それから、どれくらいそうやっていただろう。
正直な気持ちを今言うのであれば、おれは、その瞬間が永遠に続けばいいなと思っていたんや。本当に本当の気持ちを言うのであれば、みんなとこうして──気の知れた連中たちとこうして、いつまでも一緒に楽しく過ごしていたい、そう思ってたんや。
ヴァンがポツリと呟いたのは朝日が辺りを白々と照らし始めた頃だった。明けの明星がうっすらと輝いていた。
「知ってるか? なんでも星ってやつにはそりゃいろんな種類のものがあるらしい。『強がりの星』や『迷いの星』、『臆病の星』に『戸惑いの星』……」
「……」
「今のおまえにはあの星がどういう風に見えてるんだ?」
「そんなん……どれも同じようなもんやんけ」
「強くなったか」
「まあ、少しは強くなったんちゃうかな。前よりはな」
「俺よりもか」
「……か、かもしれへんで?」
「言うようになったな」
「いっちょモンでやってもええねんで」
ヴァンは笑った。
「よし、賭けるか?」
「賭けるったって……なんも持ってへんよ、おれ」
「だったらS区のボスの座を賭けるってのはどうだ」
「…………」
わかってる。
ヴァンはおれの気持ちを察してるんや。
『行け──』、言うとるんや。
泣きそうになったが泣かなかった。そう、強いオスは泣かない。
おれは、初めてオスに生まれてよかったと思った。おれは……おれは、やっぱりヴァンのようなオスになりたい。
▼▲▼▲▼▲
「いくで、ヴァン!」
おれは全身の毛を逆立てた。
(帰ってこい、佐藤。もっともっと強く、でかくなって俺からまたボスの座を奪ってみせてみろ──)
ヴァン=ブランもその銀色の毛並みをこれでもかと言わんばかりに逆立て返した。
おれはヴァンに、今のおれが持てる最速のスピードで飛びかかっていった。
嬉しかった。
ヴァンは──
ヴァンは今、おれのことを《一匹の男》として睨み付けてくれている。
〈 了 〉
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