イシャータの受難

ペイザンヌ

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第2部 ヴァン=ブランの帰還

第19話 99 come over【99(前編)】

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 夢の中でイシャータは地球を守る戦士だった。

 エイリアンたちは夜になると必ず襲ってくる。あの手この手で攻撃を仕掛けてくる敵に対しこちらも迎え撃つ策を練らねばならない。

 今夜こそは必ずやしとめてみせる!

 隊員たちに指示を出し、戦闘準備を整えるとイシャータの血はたぎった。だが──どうしたことか今日はいつまで待っても敵が襲ってくる気配がない。次の日も、また次の日も……。

 かくして世界に平和は戻るのだったがイシャータはどうにもしっくりこなかった。

『──ひょっとして私は毎晩彼らがやってくるのを待ち望んでいた……のだろうか?』

 夢はそこで途切れた。

 イシャータは目を覚ますと寝ぼけまなこできょろきょろと辺りを見回す。一瞬ここがどこかわからなくなってしまったのだ。

 けれども自分の体がフカフカなベッドの上に横たわっているのを確認するとイシャータはホッと安堵の息をもらした。

 どういうわけだか自分が『野良猫ノラ』になってしまった気がしたのだ。私は『猫屋敷』に住んでいて、そこのお婆さんが亡くなり、数十匹の猫たちと行き場もなく佇んでいる──

 やけにリアルなその感覚に少なからずぞっとしたが御主人様の匂いがする布団に頭を擦り付けると安心が込み上げてきた。

「フフ、私が野良猫ノラだなんて、ハハ……」

 イシャータは大声で笑い転げた。

 そしてその夢もそこで途切れた。

 イシャータは寝ぼけまなこできょろきょろと周りを見回す。一瞬ここが何処かわからなくなってしまったのだ。

 今度はフカフカのベッドも御主人様の匂いも存在しなかった。ぼんやりした頭をなんとか回転させ、自分は今『猫屋敷』にいていつのまにかえんの下で眠ってしまっていただけなのだとイシャータは気づく。

「違うわ! こっちのほうが夢よ!」

 イシャータは再び目を瞑った。
 たとえそうだとしてももう一度だけあの夢に戻りたかった。

 だが一度目覚めてしまった夢の扉はすでに固く閉ざされてしまってイシャータの侵入を簡単に許そうとしない。

 そのドアと格闘しているうち、イシャータの脳裏にはあの頃の──『飼い猫』だった頃の記憶が、鮮明に甦ってきた。



「ねぇ、イシャータさん。またあいつ、こっちを見てますよ」

 後輩格のナナが言った。ナナはアメリカンカール種でありイシャータと同じ『飼い猫』である。

 イシャータはナナの視線の先を見ずともそれが誰なのかをすでに感じ取っていた。今日という今日はハッキリ言ってやらねばならない。

「ヴァン=ブラン!」

 イシャータの口調は卒業証書の名前を読み上げる教師のごとくしっかりとした滑舌ではあったがその半面口からどじょうでも吐き捨てるかのようでもあった。

「こいつは嬉しいね。俺の名前を知っているのか?」
「知ってるか? そりゃ知ってるわよ! あなたはこの辺じゃ有名よ。毎日フラフラしては歌って遊んでまわってる最低のニート猫ってね」
「んぁ? なんだよ。就職でもしろってのかよ?」
「あんたが遊んでようと野垂れ死のうと知ったこっちゃないわよ! ただ私たちには近づかないでって言ってるの」
「そうはいかない。俺はおまえに惚れたんだ」

 イシャータは溜め息をついた。

「話にならないわね……。いい? 私とあなたじゃ住む世界が違うの。ハッキリ言って迷惑なの」
「住む世界? 俺は猫でおまえも猫だ。どこがどう違う?」

『猫』という大雑把なくくりにイラッときたが、ふとイシャータは御主人様と一緒に見ていた映画のワンエピソードを思い出した。タイトルは『ニュー・シネマ……』なんとかだ。

 少し意地悪してやれ。

「わかったわヴァン=ブラン。あなたがもしも100日間休まずに私の庭の前で私の聞いたことのない歌を100曲歌ってくれるんだったらその時は考えてやってもいいわ」
「イシャータさん!」
「大丈夫よ、ナナ。このチンピラにそんな忍耐力があるわけがないんだから。さあ、どうする? 大サービスじゃないの、あなたの得意分野なんでしょ? 道化の歌うたいのヴァン=ブランさん……」「やろう」

 イシャータの言葉を噛み、ヴァン=ブランはきっぱりと即答した。

「へ?」
「メスがオスをためすのは当然のことだ。おもしろい。やろう」
「イシャータさんってば、やめようってば。こんなバカなこと」
「フ、フン……大丈夫だってば、ナナ。続くわけ……ないんだから」
「今夜からだ」

 そう言うとヴァン=ブランはきびすを返しその場を後にした。


 ヴァンにとって曲を作ることなど『閉じた目を開く』ようなものだった。目を開けばそこに景色は悠然と広がる。ただ、それだけのことだ。

──俺が歌えばどんなやつだって喜んでくれる。

 そんな感じで最初の10日間、ヴァン=ブランは自信満々にベランダの下で歌い続けたがイシャータが顔を出すことはその間一度もなかった。だが、そのじつ──

 当のイシャータといえば、部屋の中で必死に抵抗していた。噂に違わず美しい声だ。本当にこれがあの荒くれ者のヴァン=ブランの声なのか? 最初の夜などは雷が鳴った時のようにヒゲがピリピリと震え、思わずうっすらと鳥肌がたったくらいだ。

「……なによ、これくらい。世の中にはもっともっと歌のうまい猫なんて山ほどいるんだから、きっと、たぶんだけど……」


 20日を越えてイシャータは初めてちらりと顔をのぞかせた。それが陰りを見せ始めたヴァンの自信に小さな芽を紡いだ。

『そうさ、俺の歌が胸に響かないわけがないんだ! ──』


 30日を過ぎてもヴァン=ブランの声は衰えをみせない。それどころか日に日に精度を増し、イシャータの心の門番を次々となぎ倒していく。

──まだたったの一ヶ月じゃない。すぐに飽きるに決まってるわ……。

 そう思い込もうとはしてみたが、雨の日も風の日も一日たりとも間を空けることなく訪れるヴァンの姿にイシャータは自分の中の大きな柱がどこか揺らぎ始めているのを感じずにはいられなかった。
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