小説芝浜

あしき×わろし

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大つごもり夫婦酒

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 財布の夢騒動から三度目の大晦日。
 十日も仕事を休んだあげくに大散財をやらかして、支払いの工面に死ぬ思いをしたその時と違い、勝五郎は火鉢にあたりながら、穏やかな年越しを迎えていた。

「ありがてえなあ――」
 そうひとりごちた勝五郎の境遇は、三年でがらりと変化している。
 懸命に働いて、年中ぴいぴい言っていた懐に少しばかり余裕ができたこともそうだが、何より違っているのは、小体ながらも店を構えたことだった。
 そんな勝五郎が煙管をくゆらせながら、除夜の鐘を聞くともなしに聞いているところへ、おせんが盆を運んできた。

「ご苦労さん。今年も世話になったなあ。こっちに寄って、ゆっくりしようか」

 そう声をかけたが返事がない。
 振り向いてみると盆の横に両指ついて、おせんが深々と頭を下げているではないか。

「なんだ、どうした」
「あんた、本当にごめんよ。あたしは、嘘をついていた」
「はは、そいつは穏やかじゃねえな。いったい何の――」

 と言いかけて、盆に乗っているものに気づいた勝五郎は、

「そ、そ、そいつは!」

 この三年、近づけもしなかった徳利が一本、頭に猪口をかぶせてあるのはともかく、その横にある黒々としたものは、まさしく三年前、芝浜で拾い上げた財布ではないか。

「お、お前、今になって、こんなものを持ち出してきやがって」

 勝五郎の顔にはびっしりと脂汗が浮かび、見開かれた目の下で、頬がぴくぴくと痙攣していた。

「怒るのも当たり前だよ。この三年、働きづめに働いたのも、あたしに騙されてのことだったんだから」

 ようやく顔を上げて、

「あの日、あたしはおっかなくなってねえ。十両を盗んだら死罪って言うじゃないか。なのに、あんな大金を届けなかったらどうなっちまうんだろうって――だからあんたを酔い潰して届けにいったんだよ」

 聞いているのかいないのか、勝五郎の血走った目は、なおも財布を凝視して離さない。

「けど、騙されてのことだったかもしれないけど、あんた、本当によく頑張ったよ。とてもえらかったよ。あたしはねえ、朝早くから仕事に出ていくあんたの背中に、なんど手を合わせたか知れないんだよ」

 すっかり心を入れかえて、商売に打ち込む勝五郎を嬉しく思いながら、うち明けられない小さな棘が、ちくちくと心に痛む毎日だった。
 そして、あれから三年という年の暮れが近づくにつれ、おせんの心には、真っ黒な雨雲のように広がってくる不安があった。
 というのも、三年たって持ち主があらわれなかったら、拾い主に払い下げられることになっていたのだ。

「長い間、しなくてもいい苦労をさせられたとお思いなら、この場で引導をしてくれても、これっぽっちも恨みやしないよ」

 おせんは鼻をすすりながら、

「けど、あんた、いや勝五郎さん。働いて苦労して、こうして立派にお店を持ったのは、みんな勝五郎さんがしてのけた本当のことだよ。だから、こうして財布を返すけど、今日までの頑張りがふいになっちまうような自棄だけは、後生だから起こさないでおくれよ。あたしは、それだけが気がかりで――」

 食い入るように財布ばかりを睨んでいた勝五郎は、ちゃぶ台の湯呑みをひっ掴み、茶をぶちまけて酒を注ぐと、そのまま一息に呑み干した。

「あ、あんた!」

 そして財布をかっさらい、戸を蹴破る勢いで長屋を飛び出していった。
 その取り憑かれたような表情の凄まじさといったら。

「待っとくれよう、 勝五郎さん。後生だから戻っておくれ。馬鹿な考えを起こさないでおくれ」

 おせんは必死に呼びかけたが、もう届くものではない。
 遠ざかる足音、晦日蕎麦の出前とはちあったか、蒸籠がひっくり返る音と罵声、遠くで犬が吠えている。

「勝五郎さん」

 遠ざかるのを聞きながら、おせんは足元を支えていた世界が崩れゆくのを感じた。
 どのくらいそうしていただろうか。
 どこか遠くで犬が鳴いた。次いで蒸籠が崩れる音とまた罵声。てめえ、うちに何の恨みがあって二度も出前をひっくり返しやがるんだ。
 おせんは濡れた顔を上げた。
 次第に大きくなる足音が家の前できて、開け放しの戸から飛び込んできたのは、

「あ、あんた!」

 湯気のたつ身体から滝の汗が流れ、鬢は崩れて着物の裾はからげ、畳にばったりと両手をついたまま、息が切れて喋れもしない。

「どうしたんだい。何があったんだね」

 苦しそうな勝五郎が身振りで喉の渇きを訴えた。
 湯飲みを拾って呑ませると、呼吸も次第に落ち着いてきて何やら、

「さ、さ、さ」
「財布はどうしたんだね」
「さ、さい、さい、さ――」
「落ち着いて。ゆっくりでいいんだよ」
「さ、財布はな、西応寺の賽銭箱に叩っこんできねやった」
「何だってえ?」
「みんな目ェ白黒させてやがったぜ。ははは、はは―――」

 笑い声もかすれていたが、ひとつ仕事を終えてきた充足感が顔にある。

「なんで」
「あれはな、おせん。夢だったのよ」
「だからそれは、あたしが嘘を」
「そうじゃねえ」

 勝五郎は猪口を拾い上げ、袂で拭って手渡した。

「一杯やろうぜ。それで今度こそ本当に夢にしちまおう」

 おせんには、まだよくわからない。

「俺はな。三年前のあの時に、こいつを夢にして、性根を入れかえようと決めたのよ」
「それじゃあ、あんた何もかも気づいていたのかい?」

 勝五郎はにやりとした。

「お前、大判なんかが七枚もうちにありゃどんなにいいか、と言ったろう」
「そうだったかねえ」
「俺は目が覚めてから、大判が何枚と言ったおぼえはねえよ」
「あっ」
「お前も嘘がつけねえな」
「そうだったのかい」

 うまく騙したつもりでも、やっぱりぼろが出るんだねえ。

「けど、じゃあ何で」
「そこよ」

 ようやく呼吸の整った勝五郎は姿勢をあらためて、

「こっちこそすまなかった。いや、礼を言わせてくれ。本当にありがとうよ」
「そんな───」
「俺がだらしねえばっかりに、いつも苦労をかけた。そこへあの財布だ。お前だって金が欲しかったはずなんだよ。けどお前はそれを堪えに堪え、そんな金はどこにもねえとシラを切って泣いたんだ。そんとき俺は財布なんか較べものにもならねえ、とんだ拾いものをしてたってことに、遅ればせながら気づいちまった。それをお前、今さら目の前に持ち出してきやがるもんだから、こっちもつい取り乱しちまったじゃねえか」

 海千山千のようで泣き虫のおせんは、また違う涙をこぼしていた。

「すまなかったねえ。あたし、見る目がなかったねえ」
「ま、いいやな。固めの杯ならぬ忘れの杯だ。一杯やって寝ちまおう。それで、すっぱりあれは夢。おせん、あれはな――」

 たがいを映す眼差しが頷きあって、

「あれは、夢にしなきゃいけねえ」

 ふたつの杯を交わすひと組の夫婦。わだかたまりは綺麗に解けて、絆はしっかと固まった。
 これこそ明治大正昭和と暖簾をつなぎ今や世界を股にかける水産商社『魚勝』の黎明期、三百年の礎を築いた初代勝五郎、その若かりし日の物語。
 さて、ようやく筆が乗ってきたところで、いよいよ勝五郎が大店へのきっかけを掴む寛延年間、勝五郎勃興編のはじまり、はじまり。
 といきたいところが、著作権がないのをいいことにやりたい放題好き放題。てめえ、いい加減にしやがれとお叱りも聞こえてきたので、そろそろ「小説柴又」おあとがよろしいようで。
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