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蜻蛉
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後日談になる。
命からがら逃げ帰った孟嘗君は、やがて祖国・斉の宰相に迎えられた。
その屋敷には以前にもまして食客が賑わい、しかもその数は日々増えていった。食客も相手を見定めて身を寄せるのだ。
もう影武者をたてる意味もないので、孟嘗君は自ら上座に座り、彼らの相手をした。
あどけなかった彼女もやや背丈が伸びて、居住まいに多少の風格を漂わせていた。
「よく戻ってきてくださいました」
下座には秦の地で逃げ散った、かつての食客たちが畏まっていた。
それぞれの胸に抱えてきたであろう釈明を聞きもせず、孟嘗君は開口一番、許すばかりか礼まで言ってのけたである。
食客たちは戸惑った。
強気にでようとしていた者。平身低頭でしのぐ戦術だった者。忘れたフリを貫こうとした者。踊って誤魔化すつもりのだった者。
彼らは一様にモゴモゴと呟いた。いや、その、こちらこそ。そんな風に頭を下げられてしまうと、なあ。
「昔話はよしましょう。あれからも秦は日々勢力を増しています。我が斉も国富につとめ、これに備えねばなりません。それにはどうしても先生方が必要です。どうか皆様のご見識でお助けください」
食客たちの顔に安堵が広がり、むくむくと自信が蘇っていく。
背筋が伸びて、すぼめていた肩が張り、顎が突き出る。
ある者がずれた冠をなおして、ゴホンと咳払いをした。そ、そうですな。いや我らとて故郷は違えど一度は斉に身を寄せた者共、雌伏の間も絶えずその行く末を憂慮しておったのです。こうして再び叡智が結集したからには、いかなる危難も顧みず、粉骨砕身、力を尽くす覚悟でございますぞ。ゴホンエヘン。
孟嘗君はぶんむくれて帰って来た。
馮驩はといえば、窓辺に長々と寝そべって、所在なげに空を見やっていた。
することがないと大概こうしているのだが、それにしても、よく寝ている男ではある。
その姿を認めるや、孟嘗君はずしんずしんと足音をたてて、傍らにどすんと正座した。
「やあ、皆さん、お元気でしたか」
「ちゃんと帰ってきてくれたお礼まで言いましたからね。誰かさんのご指示通りに!」
「これはどうも、おかんむりですナ」
「当たり前でしょ。いちばん大変だった時に、さっさと逃げちゃった人たちなんて。大っ嫌い」
「まあまあ」
馮驩は苦笑いをして、
「彼らは知識を切り売りして世を渡るのです。買い手のピンチは失職の危機ですから、さっさと離れていくのは道理でしてね」
「だからって」
「例えるなら、そう、蝶や蜂。花が摘み取られれば別の花畑を探しにいくでしょう。今回、摘まれたと思った花がまた咲いたんで、舞い戻ってきたわけですナ」
「あたし、花?」
「そう。花」
わかったような、わからないような。
何だかどうでもよくなった。
「ねえ、馮驩」
「はあ」
「なんで馮驩は逃げなかったの?」
さっきまでのぶんむくれはどこへやら、疑問符をいくつも頭上に浮かべて、のぞき込む邪気のない顔が、息のかかるほどに近い。
馮驩は眩しそうに目を細めて、
「私、ですか」
「そ。なんで?」
「なんででしょうなア」
「なんで?」
「なんで、でしょうなア──」
夏が過ぎゆく高い空を、蜻蛉のつがいが風に乗って、のんびり横切っていった。
命からがら逃げ帰った孟嘗君は、やがて祖国・斉の宰相に迎えられた。
その屋敷には以前にもまして食客が賑わい、しかもその数は日々増えていった。食客も相手を見定めて身を寄せるのだ。
もう影武者をたてる意味もないので、孟嘗君は自ら上座に座り、彼らの相手をした。
あどけなかった彼女もやや背丈が伸びて、居住まいに多少の風格を漂わせていた。
「よく戻ってきてくださいました」
下座には秦の地で逃げ散った、かつての食客たちが畏まっていた。
それぞれの胸に抱えてきたであろう釈明を聞きもせず、孟嘗君は開口一番、許すばかりか礼まで言ってのけたである。
食客たちは戸惑った。
強気にでようとしていた者。平身低頭でしのぐ戦術だった者。忘れたフリを貫こうとした者。踊って誤魔化すつもりのだった者。
彼らは一様にモゴモゴと呟いた。いや、その、こちらこそ。そんな風に頭を下げられてしまうと、なあ。
「昔話はよしましょう。あれからも秦は日々勢力を増しています。我が斉も国富につとめ、これに備えねばなりません。それにはどうしても先生方が必要です。どうか皆様のご見識でお助けください」
食客たちの顔に安堵が広がり、むくむくと自信が蘇っていく。
背筋が伸びて、すぼめていた肩が張り、顎が突き出る。
ある者がずれた冠をなおして、ゴホンと咳払いをした。そ、そうですな。いや我らとて故郷は違えど一度は斉に身を寄せた者共、雌伏の間も絶えずその行く末を憂慮しておったのです。こうして再び叡智が結集したからには、いかなる危難も顧みず、粉骨砕身、力を尽くす覚悟でございますぞ。ゴホンエヘン。
孟嘗君はぶんむくれて帰って来た。
馮驩はといえば、窓辺に長々と寝そべって、所在なげに空を見やっていた。
することがないと大概こうしているのだが、それにしても、よく寝ている男ではある。
その姿を認めるや、孟嘗君はずしんずしんと足音をたてて、傍らにどすんと正座した。
「やあ、皆さん、お元気でしたか」
「ちゃんと帰ってきてくれたお礼まで言いましたからね。誰かさんのご指示通りに!」
「これはどうも、おかんむりですナ」
「当たり前でしょ。いちばん大変だった時に、さっさと逃げちゃった人たちなんて。大っ嫌い」
「まあまあ」
馮驩は苦笑いをして、
「彼らは知識を切り売りして世を渡るのです。買い手のピンチは失職の危機ですから、さっさと離れていくのは道理でしてね」
「だからって」
「例えるなら、そう、蝶や蜂。花が摘み取られれば別の花畑を探しにいくでしょう。今回、摘まれたと思った花がまた咲いたんで、舞い戻ってきたわけですナ」
「あたし、花?」
「そう。花」
わかったような、わからないような。
何だかどうでもよくなった。
「ねえ、馮驩」
「はあ」
「なんで馮驩は逃げなかったの?」
さっきまでのぶんむくれはどこへやら、疑問符をいくつも頭上に浮かべて、のぞき込む邪気のない顔が、息のかかるほどに近い。
馮驩は眩しそうに目を細めて、
「私、ですか」
「そ。なんで?」
「なんででしょうなア」
「なんで?」
「なんで、でしょうなア──」
夏が過ぎゆく高い空を、蜻蛉のつがいが風に乗って、のんびり横切っていった。
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