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第8話『アンドロメダの涙』 Side宗也

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 静かに、月光を背にした人影に目をやる。

 暗い部室の真ん中には、ほそぼそと立ちつくしている菜摘の姿があった。

 さっき別れた時と同じ制服姿のまま、白いシャツと、それよりももっと透明感のある雪のような柔肌を、夜の闇の中に浮かべていた。陰になった顔からは上手く表情が読み取れない。

「部長、くん……」

 糸のようにか細い声が狭い部室に響いた。
 情けなく口をぽかりと開き、菜摘は伏せていた瞳を俺へと向ける。

「ちょっと驚いたよ。まさか、ここに部長くんがやってくるなんて」
「お前が呼んだんじゃないか」

 俺は飛び出そうになった声の勢いを堪えるようにして言った。目はずっと彼女から離さない。

 まるで栄養がいっていないような菜摘の華奢な両手には、智幸さんのカメラが握られていた。彼女の表情が一瞬だけ渋る。俺はそれを見逃さなかった。

「呼んだ……。そうだね、そうなのかも」

 言いながら、持っていたカメラを机の上にゆっくりと置く。

「カメラを壊したのは、実はわたしなんだよ」

 まるで軽く冗談を口にするかのように、菜摘はさらりと言った。

 それを俺は静かに聞いていた。何かを答える事もなく、心を騒ぎ立てる事もなく。ただ、彼女を見つめていた。

「驚かないのかい?」

 そう言う菜摘のほうこそが目を丸くし、呆然と俺を見つめているようだった。

 事実、驚かない自信はあった。

「知ってるから」
「…………え」
「知ってるんだ」

 そう、俺は知っている。

「今日は鍵、返してなかったんだな」

 わざとらしく、俺は部屋中を見回した。そして視線を再び菜摘へと戻す。

「さすがにそう何度も忘れ物してると、先生も怒ってくるだろうしな」
「……そっか。そういうことか。ほんとうに、みんなわかってるんだね」

 俺の言葉に菜摘は落ち着いた様子で答えた。
 見開いた目を戻し、口許は僅かに緩んでいる。すぐに見当もついたようだ。

 カメラが壊れたあの日。
 最後に部屋に入ったのは美晴ではなかった。

 もう一人、完全下校時刻が過ぎてから忘れ物をした生徒が戻ってきたらしい。

 それを宮本先生から聞いて、俺はもう、嫌な予感しかしなくなっていた。全身を駆け巡る痺れのような悪寒を否定することができなかった。

 そんなはずがない、という言葉を吐きだそうとしても、喉の奥で詰まってしまう。菜摘がカメラを壊したという事実を、俺は一度呑みこんでしまったのだ。

「なんでそんなことを。なんで、自分の夢を邪魔するような事をするんだよ」

 菜摘の手には、カメラに挿していたはずの記録媒体が抜き取られていた。わざと、俺に見えるように指先でつまんでいる。

 その中には、ここ数週間に渡る俺たちの活動の記録が入っている。それを失くせば俺たちの夢はまたリセットされてしまう。振り出しに戻るのだ。

 初めて撮った夜空の写真。
 その出来を見て楽しんだり、次はどうしようかと話し合うことを奪うことになる。

「新星を見つけるんじゃなかったのかよ!」
「見つけたいよ!」

 口を大きく開き、肩を揺さぶりながら菜摘は言った。叫ぶように荒々しく、だけど声量に微塵も凄味がない。いつものような余裕は感じられなかった。

「だけど、ようやく夢を叶えられるかもしれないって思った時、急に恐くなった。途方もない現実味がわたしをひどく冷静にさせてしまった。わたしのしようとしていることが、どうしようもなく無駄なことかもしれないって気付いてしまったから。新星を見つけたところで、何も得られないかもしれないって気付いてしまったから……」

 目の前にある目標にとらわれ過ぎて、その先のことを考えられなかったのだろう。すぐに気付きそうだけれど、案外見失っていたりする。
 その夢を叶えたところで自分にどんな利益があるのか、どんな影響があるのかを。

 恋は盲目というが、理想を見る時だってそうだ。良いところしか見ようとしない。いやなところは本能的に目を逸らしてしまう。

「だから、逃げてしまったんだ。夢がいつまでも叶わなければ、それが真実かどうかわからないままでいられるから」

 肩を縮こまらせながら言う菜摘からは、まるで普段のような生気が感じられなかった。ただ弱々しくそこに居るだけだ。

 菜摘という少女はこんなだっただろうか。
 俺の知っている彼女と、それはあまりにも違いすぎた。

 なんとももろく、ガラス細工のよう。
 あまりに儚くて、強い衝撃を与えるだけで簡単に砕けてしまいそうだった。

 いや、単に俺が知らなかっただけなのかもしれない。毅然とした仮面を付けた彼女の心に気付かなかっただけだ。

 それがただもどかしい。

 俺はそっと、一歩だけ彼女に近づいた。

「それこそ、子どもの発想だろ」
「部長、くん?」
「ごめん。俺、智幸さんから聞いたんだ。天乃がなんで新星を見つけようとしてるのかってこと」

 ほんの数時間前のことだ。最後まで悩みながらも、智幸さんは俺に話してくれた。きっとそれが必要だと判断したのだろう。実際、俺はそれを知って何ひとつ後悔はしなかった。むしろ知れて嬉しかったくらいだ。

 菜摘の夢の、行動の根源。
 彼女の心の中を、ほんの僅かだけど垣間見れたような気がした。

 そして、ずっと前に彼女が俺へと授けたその問いの意味も。

 ――自分が大人なのか、子どもなのか。

「そういう風に考えることこそ、やっぱり子どもなんだと俺は思う」

 新星を見つけて、自分は事を成せる大人なのだと考えるようになった菜摘。だがおそらくその考え方自体が、そもそも幼稚でしかないのだ。

「でも俺は、子どもでもいいと思うんだ」

 また、菜摘に近づく。
 ゆっくりと、一歩、また一歩と歩み寄っていく。

「子どもだとか大人だとか、そういうのって誰かが勝手に決めるもんだろ。大人になって何か変わるってのか。賢くなるか? 偉くなるか? そんなことない」

 実際に何かが変わったのならば、それはおそらく、人として成長したのだろう。子どもか大人かなんてそこにはまったく関係ない。子供だって成長するし、大人だって停滞もする。

「人の価値ってのは、きっとそんなので決まるもんじゃないんだよ」

 ついには菜摘の真正面にまでたどり着いた。
 悲愴に歪んだ彼女の顔がすぐ傍に近づく。その表情を俺はじっと見つめた。

「天乃はちゃんと自分の夢を持ってる。俺からしてみればそれだけで凄いことだよ。子どもだとか大人だとか関係なしに。最初は何を言いだすのかとも思ったけど、そんなことを大声で言えるお前がなにより羨ましかった。新星を見つけるだなんて馬鹿げたことを言えるお前が」

 立ち止まっていた俺のずっと前を歩いていくようだった。

 みんなの期待に応えられず、ただ驕っていただけだった過去。それから俺はずっと、俺は夢を持つことを諦めていた。

 どうせ無理だ。
 俺がどうこうしたところで、何も変わらない。

 そう思っていた。

 だけど菜摘と出会って何かが変わった気がした。

 大きく、俺の前で夢を掲げる一人の少女の姿を見て。
 そしてそれを手伝って、俺でも何かできるのではないかと思うようになっていた。

 俺を必要としてくれる。
 立ち止まってしまった俺のはるか前方から、こっちにおいで、と俺に声をかけてくれる。そんな感覚。菜摘は、俺に手を差し出してくれているようだった。

 その伸べられた手を握り返すことで、俺は新しい夢を持てた気がした。

「自分が子どもか大人かなんて悩むだけ無駄だろ。そんなことをうじうじ悩むぐらいだったら、一歩でも前に進むべきだ」

 言っている事が急に照れくさくなり、俺は思わず顔を背けてしまう。

「俺は今でも新星を見つけたい。だから、一緒に夢を叶えようぜ!」

 強く言い放った。肺の奥から、出せる空気をすべて出し切るように叫んだ。

 これが、俺の想いだ。

 狭い部屋に声が響き渡り、それもやがて静間に呑まれていく。薄暗い闇の中、伏せていた菜摘の口許が僅かに緩んだ気がした。

「……わたしは本当に最低だね」
「え?」
「それでいて、幸せ者だ。取り返しのつかないことをしたのに。それでも、こうやって優しい言葉を投げかけてくれる人がいる」

 菜摘の口角が物憂げに持ち上がる。

「これはわたしの我侭だ。わたしはたぶん、きみにその一言を言ってほしかっただけなんだ。でも意気地なくて、不安で、子供のように喚いて物に当たり散らかすことしかできなかった」

 囁くように菜摘は言ってそう俺に身体を寄せ、体重を預けてきた。

 俺は彼女の肩を掴んで受け止めた。
 菜摘の身体は小さく、簡単に支える事ができた。

 彼女が微かに身を震わせる。

「とっくに気付いてたんだ。自分がどうしようもなく子どもだってことは。だけどそれを認める勇気がなかった」

 俺の胸に菜摘は顔を押し付ける。ひんやり、冷たい感触が服越しに伝わってきた。

「だから、わたしは待ってたんだ。立ち止まっているわたしの背中をそっと押してくれる一言を。お前は間違っていないって、一緒に子供になってくれる誰かを」

 菜摘の腕が俺の背中に回りがっしりと身体を掴んだ。胸元に埋めた顔を持ち上げ、俺を見上げてくる。その顔はすっかり涙で濡れたくっていた。

「私は最低だ」
「……ああ」

「みんなの親切を無碍にする馬鹿者だ」
「……ああ」

「どうしようもなく子供で、迷惑ばかりかける大馬鹿者だ」
「……ああ」

「でも、わたしはみんなが大好きだ」
「……知ってるよ」

 だからこそ、俺の胸の中でこんなにも弱々しく涙を流しているのだと。

 それから菜摘はずっと、俺の腕の中でひたすらに泣き続けた。

 子供のように、わんわんと泣きじゃくっていた。濡れた髪がくしゃくしゃで、目許も赤く、普段の端正さはどこにもなかったけれど、初めて菜摘の素顔を見たような気がした。

 きっと他人が見れば菜摘のことをひどく哂うだろう。けれど俺は彼女のことがひどく愛しく思った。親近感というか、馴れ合いというか、友情と呼ぶにはひどく不恰好なものだけど、俺は彼女の未完成さが好きになった。

 完璧じゃなくていい。
 失敗を恐れなくていい。

 俺たちは不完全だからこそ、夢を見て、進み続ける。
 いつか歩き続けた先で振り返って、大人に、成長したな、と思えるように。

 しばらくして涙の勢いがようやく弱まった菜摘が、俺の胸元から顔を離した。

「ありがとう。わたしはもう大丈夫。ちゃんと自分で箱を開ける事ができる。きみが、居てくれるから」

 それは彼女なりの決意表明。向き合う、という覚悟。

 俺はもう一度、ぐっと強く彼女を引き寄せた。
 その感触を確かめるように。精一杯、彼女の言葉に応えようと思った。

 うれしくて、うれしくて、たまらない。
 そんな俺に、菜摘は目一杯に背伸びをして、

「ごめんね。そして――」

 俺の耳元で、そっと言葉をこぼした。

「ありがと、宗也くん」

 柔らかい彼女の唇が、頬にそっと触れた気がした。
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