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 -9 『風呂は心の洗濯』

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 見上げた夜空は晴れ晴れとしていた。

 心がすかっとするほどの気持ちよさは、あの行商人とのやり取りの後のせいだろうか。

 獣人達に散々な悪態をついていた彼はそれから黙って部屋に戻り、旅館の獣人達は清々したように晴れやかな顔をしていたものだ。

 私としては、獣人だろうが人間だろうが関係ない。この旅館の大切な資産である従業員を馬鹿にされたのだから怒るのは当然だろうと思ったからだ。

 とはいえ、あれは些かやりすぎだっただろうか。あの男だけではなく、ジュノスや他の行商人達の目もあっただけに、彼らにイヤな印象を持たれていないかだけが心配だ。

「ついカッとなっちゃったのは反省しなくちゃね……」

 そんなことを呟きながら、私は一人、夜の露天風呂を満喫していた。

 お客様の入浴時間が終わり、今は深夜の従業員だけが使える時間だ。

 今日はいろいろなことがあった。
 森への救助もそうだし、その後の大宴会。

 私も色々と動き回って汗を掻いた。そんな直後の温泉は、今日の疲れ全てを湯に溶かしてくれるように心地よく、幸せだった。

「はあ。本当にここの温泉は最高ね」

 思わずため息が漏れる。
 ずっと浸かっていたいくらいだ。

 耳を澄ませば近くの森の木々のどこかから虫の鳴き声が響いてくる。柔らかい木々の梢の擦れる音。湯口から流れる水音。

 目を閉じれば、湯の温かさと共に心までほぐされていく。

「ほんと、良い旅館よね」
「フェスもそう思いますです」

 ふと声が聞こえて振り返ると、タオルを巻いたフェスがいた。

 いつの間に。
 すっかり心が休んでいて気づかなかった。

 タオルを巻いた少女のお尻から、垂れるようにひょこりと尻尾が出ているのはちょっと不思議な光景だ。可愛らしい。

「フェスもお風呂まだだったのね。もうみんな先に入って誰もいないと思ってたわ」
「お、おじゃま、でしたか?」
「いいえ」

 フェスは嬉しそうに微笑むと、とことこと跳ねるような駆け足で湯船にまでやって来た。

 彼女の脚が湯に浸かり、尻尾が水面に触れた途端、「ひゃうっ」と短く悲鳴を上げた。

「お湯が苦手なの?」
「昔は苦手でしたけど、今は好きですよ。でも、まだちょっと、塗れた瞬間がびっくりしちゃうんです」

 なるほど。
 尻尾にも感覚があるだろうし、人間とは少し違うというわけか。

 温泉に浸かって普段と色味や形状の違う尻尾を見て、私はふとそんなことを思う。

「気になりますか?」
「ああ、ごめんなさい」
「いいのです。フェス達は人間とは違うということはわかってますから」

 フェスの体が肩まで湯に浸かり、彼女の顔が上気したように赤くなっていく。

「でも、その違いもきっと些細なものなのだと、最近は思うようになりましたです」
「……?」

 犬のように手でお湯を掻き、フェスは私のすぐ隣へと寄ってくる。そして私にくっつくと、頭を預けるようにもたれ掛かってきた。

「シェリーさんのおかげなのです。今日のことも、宿舎とかのことも。フェスや、他の獣人のみんなが、みんな等しく『この旅館の従業員』なんだって感じるようになったんです。そうしたら、ここにいるみんながフェスの家族みたいだなって思えるような気がして」

 家族、か。
 獣人達は同じ宿舎で過ごしているが、他は違う。私もロロの家で世話になっているし、人間の従業員は他に自分の家や宿舎がある。

 けれど、この職場で朝から晩まで共にする仲間だ。生活を共にしているという意味でも、『家族』と言うのはあながち間違っていないのかもしれない。

「それにフェス、孤児なところを女将さんに拾われて来たので、本当の家族を知らないんです」
「あら、そうだったの」

「獣人はそういう人が多いです。板前のグルさんも、昔はここの近くの鉱山で働いてましたが、半ば両親から売り飛ばされる形で独り身だったそうです」
「ああ。あの料理長ね」

 獣人は低賃金でも働かせてくれる場所を探して、見つかるまで転々とするしかない。この旅館で女将さんに拾われた彼らはきっと比較的幸せ者だったろう。

 そんな恩義を感じている彼らだからこそ、もし
この旅館を救えるのなら救いたい。そう思っているのかもしれない。

「シェリーさんのおかげで、旅館で働くのが楽しいです。大変なことはたくさんあるけれど、ここがずっと続いてくれたら嬉しいなって、そう思うんです」
「そう」

 なんというか、とても純朴すぎて、ただただ私が縁談を破棄したいがために動いていることが恥ずかしくなってきそうだ。

 けれど、私の行動は彼女達の幸せにも繋がっている。そうわかるとがぜんやる気も出てきた。

「頑張ってこの旅館を盛り上げていきましょうね、フェス」
「はひっ! シェリーさんがいてくれたら、きっとこの旅館は安泰です! これからもずっとよろしくお願いしますです!」
「……そうね。これからも、ね」

 犬のようになつっこく頭をすり寄せてくる彼女を撫でながら、私はぼんやりとしたこれから先のことを思い浮かべようとした。

 途端、

「はっ、そういえば!」
「どうしたの?!」

 急にフェスが顔を持ち上げる。

 何事かと思った私の隣で、フェスがあわあわと困り顔を浮かべる。

「お客様のお部屋のお布団、用意するの忘れてました……。宴会の準備や後片づけが忙しくて……ごめんなさい、すぐ行ってきます!」
「あれ。でも、それはもうちゃんと終わったって聞いたわよ」
「ふぇ?」

 急いで湯船を出ようとしたフェスの動きが止まる。

「宴会の間に済ませたって」
「あ……そうだったんですね。誰かがやってくださったんですね」
「まあ、貴女は宴会の配膳とかで手が一杯だったものね」

 私も指示がそこまで行き届かず、できているという報告をもらっただけだが、この時間までクレームも来ていないし問題はないだろう。

「おーい。さっさと出てくんないかなー」

 ふと、急にグリッドの声がして私は咄嗟に辺りを見回した。

「貴方、また覗きなの?」
「いやいや、勝手に覗き大好き男にするなよなー」

 声はどうやら竹垣の向こうからしているようだ。一応、いきなり女風呂に入ってはこないよう学習してくれているらしい。

 まさかその垣根の隙間から覗いてないかと目を凝らしたが、そんな隙間はなさそうだ。あったらとっちめて殴っていたところだが。

 次に乙女の柔肌を見ようものならどう成敗してくれよう。

「さっさとあがってくれないと掃除できないんだけど。こんな夜中まで待たせるなんて、ブラックな仕事場だって悪評振りまくぞー」

「わ、わかったわよ」と私は渋々立ち上がり、フェスをつれて浴場を出ていったのだった。

 せっかくの夢心地だったのに。
 もう少し堪能していたかった。

 心残りはあるけれど、何はともあれ、今日は色々とあった。面倒事も多かったけれど、どうにか上手くいったのではないかと思う。

 とはいえ、今日の本来の目的だった『商工会と提携を取り付ける』という本願は達成できていない。

「それはまた明日ね……」

 根気強く毎日通えばいつかは許可をもらえるだろうか。

 そんな気長なことを考えながら、私の、そしてこの旅館の長い一日は終わっていった。
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