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○エピローグ
ただいまの一歩
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「うふふ。悠斗さん、大人気ですねえ」
「お、女将さんいつの間に。見てたんですか」
「ええ、しっかり」
知らぬ間に傍にやって来ていた女将さんは、二人のじゃれつきを至福そうに眺めていた。
しかしふと俺を睨むように横目で見る。
「ただ、ウチの娘たちに不用意に手を出したらどうなるか……覚悟しておいてくださいね」
たまらず冷や汗が流れるほどの凄みのある声だった。
「い、いやあ。まだまだあの子たちは子どもですし。俺は女将さんみたいな美人で優しい人の方が……」
「あら」
方便のつもりの――いや半分本気だけれど――俺の言葉に女将さんの頬が緩む。
「そんなことを言っていると、私だって本気にしてしまいますよ」
彼女は弾んだ声でそう言うと、妖艶な表情を浮かべていたずらに微笑んだ。
その色っぽさに思わず心がどきりと騒ぐ。
そんな俺の動揺を知ってか知らずか、女将さんはまた可愛らしく色めいて笑い、踵を返して去っていってしまったのだった。
入れ替わりにサチが戻ってくる。
ナユキはまだ頬を引っ張られたままで「ひはい」と声を漏らしながら涙目になっている。
「せんせー。おかーさんと何を話してたの」
「え……ああ、いや。なんでも」
「せんせーのこれからのこととか?」
「これから?」
「うん、これから」
そういえば考えてもいなかった。
ここには現実逃避でやって来たのだが、もう逃げるものもない。
今日にでも一人暮らしのアパートに帰ることだってできるし、大学だってある。
「どうするか、か」
悩んではみたものの、これといった展望は見当たらなかった。
差し詰まって焦るような人生でもない。
余生を悩むにはまだ何十年も早いだろう。
「もう少しここで、ちょっと考えてみるよ」と俺は気楽に言った。
「ここからが新しいスタート地点なんだから。どっちに進むか、どうやって進むか、もうちょっと考えてからでも遅くないかなって」
「うん、そうだね。もしせんせーがまた外に行くことになっても、イヤなことがあったらすぐ帰ってこればいいよ。サチたちはいつでも大歓迎だから。しゅう……えっと、なんだっけ。しゅうしんめいよこもん、っていうやつだから」
「なんだよ、それ」
意味のわからなさに笑えてくる。
ああ、これもサチの座敷童子の力なのか。
いや、ただ単に彼女の明るさのおかげだろう。
生まれ持った能力でもなんでもない、彼女自身の力だ。
「戻ってきた時まで俺の指導が必要なんじゃ駄目だろ。女将さんのためにも、見違えるほどに立派になってくれていないとな」
「まっかせてよ」
「うーん不安だな」
「ひどーい、不安なんてないもん! えへへ」
怒り半分、笑み半分。
どうしても笑顔は表情から抜けきらないらしい。
怒った事もすぐに笑い飛ばす彼女を見て、俺も負けないくらいの笑顔を返してやった。
ああ、そうさ。不安なんてない。
またこの先、くだらないことで落ち込むかもしれない。失敗するかもしれない。
けれども、その度にこの旅館のことを思い出すだろう。そうして新しい出発点を探すのだ。
それはきっと、気づきさえすれば簡単なこと。
自分が向いている方向が前なのだから、常に前にさえ進んでいれば、たとえどんな方向に行ってしまってもそれはもう前向きな自分なのだ。
ここは、そんな簡単なことに気付かせてくれる場所。
だから不安はない。
「よし。サチ、接客の練習だ」
「ええ、いきなりー?」
「俺を客だと思って。散歩から戻ってきた体で挨拶してみろ。ほら、起立」
俺の合図に、サチがびしっと姿勢を正して直立する。少しわざとらしすぎるがまあいいだろう。
前に出たサチが俺に深々と礼をする。
そんなサチの姿を目に焼き付けるように俺は眺める。
「お帰りなさーい、お客さまー」
どんな未来を選んでも。
たとえこの旅館を出て普通の生活に戻ることになっても。
きっとまた俺は戻ってくるだろう。
その言葉を聞きに、この旅館へ。
そして目一杯こう言ってやるんだ。
「ただいま」と――。
完
「お、女将さんいつの間に。見てたんですか」
「ええ、しっかり」
知らぬ間に傍にやって来ていた女将さんは、二人のじゃれつきを至福そうに眺めていた。
しかしふと俺を睨むように横目で見る。
「ただ、ウチの娘たちに不用意に手を出したらどうなるか……覚悟しておいてくださいね」
たまらず冷や汗が流れるほどの凄みのある声だった。
「い、いやあ。まだまだあの子たちは子どもですし。俺は女将さんみたいな美人で優しい人の方が……」
「あら」
方便のつもりの――いや半分本気だけれど――俺の言葉に女将さんの頬が緩む。
「そんなことを言っていると、私だって本気にしてしまいますよ」
彼女は弾んだ声でそう言うと、妖艶な表情を浮かべていたずらに微笑んだ。
その色っぽさに思わず心がどきりと騒ぐ。
そんな俺の動揺を知ってか知らずか、女将さんはまた可愛らしく色めいて笑い、踵を返して去っていってしまったのだった。
入れ替わりにサチが戻ってくる。
ナユキはまだ頬を引っ張られたままで「ひはい」と声を漏らしながら涙目になっている。
「せんせー。おかーさんと何を話してたの」
「え……ああ、いや。なんでも」
「せんせーのこれからのこととか?」
「これから?」
「うん、これから」
そういえば考えてもいなかった。
ここには現実逃避でやって来たのだが、もう逃げるものもない。
今日にでも一人暮らしのアパートに帰ることだってできるし、大学だってある。
「どうするか、か」
悩んではみたものの、これといった展望は見当たらなかった。
差し詰まって焦るような人生でもない。
余生を悩むにはまだ何十年も早いだろう。
「もう少しここで、ちょっと考えてみるよ」と俺は気楽に言った。
「ここからが新しいスタート地点なんだから。どっちに進むか、どうやって進むか、もうちょっと考えてからでも遅くないかなって」
「うん、そうだね。もしせんせーがまた外に行くことになっても、イヤなことがあったらすぐ帰ってこればいいよ。サチたちはいつでも大歓迎だから。しゅう……えっと、なんだっけ。しゅうしんめいよこもん、っていうやつだから」
「なんだよ、それ」
意味のわからなさに笑えてくる。
ああ、これもサチの座敷童子の力なのか。
いや、ただ単に彼女の明るさのおかげだろう。
生まれ持った能力でもなんでもない、彼女自身の力だ。
「戻ってきた時まで俺の指導が必要なんじゃ駄目だろ。女将さんのためにも、見違えるほどに立派になってくれていないとな」
「まっかせてよ」
「うーん不安だな」
「ひどーい、不安なんてないもん! えへへ」
怒り半分、笑み半分。
どうしても笑顔は表情から抜けきらないらしい。
怒った事もすぐに笑い飛ばす彼女を見て、俺も負けないくらいの笑顔を返してやった。
ああ、そうさ。不安なんてない。
またこの先、くだらないことで落ち込むかもしれない。失敗するかもしれない。
けれども、その度にこの旅館のことを思い出すだろう。そうして新しい出発点を探すのだ。
それはきっと、気づきさえすれば簡単なこと。
自分が向いている方向が前なのだから、常に前にさえ進んでいれば、たとえどんな方向に行ってしまってもそれはもう前向きな自分なのだ。
ここは、そんな簡単なことに気付かせてくれる場所。
だから不安はない。
「よし。サチ、接客の練習だ」
「ええ、いきなりー?」
「俺を客だと思って。散歩から戻ってきた体で挨拶してみろ。ほら、起立」
俺の合図に、サチがびしっと姿勢を正して直立する。少しわざとらしすぎるがまあいいだろう。
前に出たサチが俺に深々と礼をする。
そんなサチの姿を目に焼き付けるように俺は眺める。
「お帰りなさーい、お客さまー」
どんな未来を選んでも。
たとえこの旅館を出て普通の生活に戻ることになっても。
きっとまた俺は戻ってくるだろう。
その言葉を聞きに、この旅館へ。
そして目一杯こう言ってやるんだ。
「ただいま」と――。
完
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