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○4章 守りたい場所

 -18『この旅館でいちばん怖い鬼』

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 停電と今回の騒ぎですっかり宴会どころではなくなったオカルトサークルのメンバーたちは、みんな揃って大広間で眠り転げていた。

 驚き疲れたというのもあるだろう。
 いや、もしかすると妖怪たちが何かして眠らせたのか。

 先ほどまでの騒ぎが嘘かと思えるほどの熟睡ぶりに驚いたくらいだ。

 全員が深い眠りに落ちているのを確認し、従業員たちが総出で大広間の食器などを片付け、布団を敷いてまわった。

「これでよし。あとは獏に任せれば誤魔化せるだろう」と従業員の妖怪の一人が言った。

 眠りながらうなされる彼らの枕元を、一頭のイノシシのような生き物が歩き回っている。人の悪夢を食べる獏という妖怪らしい。

 同じ名前の動物のバクにそっくりだが、毛並みは禍々しく、鋭い牙が生えている。獏が枕元を横切ると、うなされていたサークル員たちはみんな穏やかな寝息を立てて眠りについていた。

「あいつら、泣き顔浮かべながら大慌てで必死に森の中に逃げていったぞ。よっぽど心がやられたようだな」
「ああ、いい気味だ」
「森の中には俺の知り合いの妖怪もいるぜ」

 一つ目小僧、一反木綿、他にも従業員の妖怪たちが嬉々とした声で話し合う。

 どうやら強面たちは車も忘れて森に飛び出していってしまったようだ。

 作戦は大成功といったところだろう。
 これでこの旅館を恐れて近寄らなくなれば、女将さんが彼らに悩まされることもなくなる。

 仲居娘たちや従業員たちが集まった前で、俺は深々と頭を下げた。

「みんなありがとう。俺の、こんな適当な作戦に付き合ってくれて。でもおかげで思ってた以上の結果になったよ。本当にお化け屋敷のように怖かったし、妖怪のみんなの凄さを実感できた。みんなのおかげだ。本当にありがとう」

「ま、俺たちも普段頑張ってくれてる女将さんに、なにかしら恩を返したいとは思っていたからな、むしろ俺たちこそ礼を言わせてくれ」

 巨体の入道が丁寧に頭を垂れる。
 それにならって他の従業員の妖怪たちも深々と礼をした。

 なんだか気恥ずかしくなる。

 そんな感慨に浸っていると、

「誰か、誰かいないのかい」

 震えるような細々とした声が聞こえた。
 それが強面たちの一味であるボインのものだと気づき、妖怪たちは大慌てで姿を隠す。

 そういえば彼女の事をすっかり忘れていた。

 おそらく部屋に残っていたのだろう。
 強面たちに置いていかれた事も知らないのか、声を震わせながら、消灯した廊下を壁伝いに歩いてきた。

「大丈夫ですか」

 俺が声をかけると、ひゃあ、とボインが短い悲鳴をあげた。

 しかしすぐ俺だとわかったのか、安堵に息をつく。
 まだ暗闇に目が慣れていないようで、睨むような薄目で俺の方を見てくる。

「なんだアンタかい。ねえ、他の連中を知らないかい。あいつら、部屋を飛び出したまま帰ってこないんだよ。そしたら急に電気は消えるし、変な叫び声は聞こえてくるし……いったいどうなってるのさ」

 誰にも脅かされていないのにすっかり身体を震わせて怖がっている。まるで前に会った時のような迫力はない。

「お連れの人たちなら帰っちゃったみたいですよ」
「そんなことあるわけないだろ。ああわかったよ。あんた、あたしが前に意地悪言ったから仕返しってかい。そうやってあたしを怖がらせようって魂胆なんだろう」
「いやあ、本当にそんなつもりはないんですけどね」

 もう強面たちは逃げ帰ったし、あの様子ならもう二度と来ることもないだろう。

 さすがに彼らの仲間とはいえ女性を本気で怖がらせるのも申し訳ない気がする。
 彼女のおかげで今回の作戦を思いついたわけだし、ここは大人しく帰ってもらうのが一番だろう。

 そういった心ばかりの善意のつもりなのだが、しかし少しも信用するつもりはないようだ。

「そうだ。そうに決まってる。あたしを怖がらせようって腹なんだ。じゃなきゃあこんなに停電が起こるわけ。ああ、そう。そうだよ。だから怖くない。怖くないに決まってるさ」

 まるで自己暗示のようだ。

「安心してください」

 と、俺が彼女の肩に手をかけた瞬間だった。

 照明が戻った。
 作戦が終わったため、誰かが落としていたブレーカーを戻したのだ。

 廊下の蛍光灯がいっせいに点き、朝日のような明るさに視界が眩む。

 目を瞬かせると、そんな俺を見たボインの表情がひどく青白くなっていることに気づいた。限界にまで目を見開き、全身を大袈裟に震わせて俺を指差す。

 途端、

「ぎゃああああああああああああああああ」

 猿のような叫び声。
 まるで女性のものとは思えない凄惨な悲鳴が廊下に響き、ボインは魂が抜けたようにその場にへたり込んだ。

 アヒル座りで顔に両手をつけ、しまいには大声を出して泣き喚いてしまった。

 数秒前の強がっていた彼女の姿などもはや欠片も残ってはいない。

「ええっ! どうして急に」と思ったが、ふと自分の顔を思い出す。触ると指先にケチャップがついた。

 そういえば顔中を真っ赤に塗りたくっていることを忘れてしまっていた。

「まさかそれだけで……」

「そうみたいだね」と、俺の隣でクウが呆れ顔を浮かべた。

「せんせーがおねーさん泣かせたー。おんなったらしだー」と面白おかしくげらげらとサチが笑う。

「おんな……たらし……。先生、さん。おんな……たらし……だったの?」

 それを聞いて何故かナユキが目尻に涙を浮かべている。

 いや、ちょっと待って欲しい。

「これはいったいなんの騒ぎですか!」

 笑いと涙の入り混じった廊下に、怒声のような大声が飛び込む。その声の方を全員が揃って見やる。

「おかーさん!」
「お、女将さん!?」と全員の驚く声が一斉に被った。

 眉間にしわを寄せた女将さんがそこにいた。

「急にブレーカーが落ちて何事かと裏に見に行ってみれば、板長さんにいきなり行く手を阻まれるし。一緒にブレーカーの様子を見てみれば、理由もわからず、直すのにはまだ時間がかかるとしか教えてもらえないし。それならお客様に一言お伝えしなきゃと出向こうとすれば、どうでもいいことで引き止められるし。おかしいと思ったんです。サチたちがちゃんと応対してるって言っていたけれどそれも不安だし、冷蔵庫とかが止まっているなら大変だろうと言っても『大丈夫だ』の一点張り。そうやって私がいない間に、こんなことをしていたんですね、あなたたち」

 かつてないほどの女将さんの早口に割って入るタイミングが見出せない。
 俺も、仲居娘たちも、バツが悪そうに肩をすくめることしかできなかった。

「みなさん……」

 数瞬の沈黙。凍ったように空気は冷たい。
 女将さんの肩が震え、そして鬼のように鋭くなった目を光らせた。

「そこに正座です!」

 顔に似合わない怒鳴り声だった。
 その声は心臓を揺らしてくるほどに重く、ここにいるどんな妖怪よりも恐ろしいものだった。

 鬼人を前にしたような威圧に恐れおののき、俺や仲居娘三人組、隠れていた他の妖怪たちまでがこぞって大急ぎで正座をした。

 俺たちお化けよりも遥かに怖い物を見た、と後にこの旅館で伝説として語られるほど、従業員一同の胸に深く刻まれる思い出となるのだった。
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