上 下
20 / 44
○3章 家族のかたち

 -8 『出発点』

しおりを挟む
 夜の帳もすっかり下りきった頃。
 多少の眠気に襲われながら、俺は外履きを履いて旅館裏の林の傍に立っていた。

 目の前には背の高い竹の垣根があり、その先には女湯の露天風呂が続いている。
 垣根の向こうからは湯気が立ち上り、涼しい夜風にさらわれて夜空へと霧散していった。

 どうしてこんな女湯の傍らにいるのかというと、いろいろと事情があるのだ。決して覗きをしようという変質者ではない。

 休憩所でクウと話した俺は、クウの手を引っ張って大浴場へと向かった。

 女湯には今、クウの母親がいる。
 クウを連れてくる途中でサチに出会い、頼んで呼んでもらったのだ。

 理由は適当に誤魔化せと言っておいた。
 何故こんな夜に呼び出されるのかと疑問に抱くことだろうが、サチならば勢いで誘えるだろうと思った。

 案の定、サチはクウの母親に「一緒に入ろう」と無邪気に誘い、母親も承諾してくれたのだった。仲居と客としてその声掛けは如何なものかとは思ったが、俺も無茶な頼みをした手前なにも言えない。

 そうして今は一緒に露天温泉に入り、サチだけはトイレに行くと言って外に出ている。なので屋外浴場にはクウの母親一人だ。

「よし、行って来い」
「いやいや、なに言ってるのさ。馬鹿じゃないの」

 女湯の暖簾の先を指差した俺にクウが勢いよく突っ込みを入れてきた。

「大丈夫だ。清掃中の看板を立てておく」
「そういう問題じゃないでしょ。なんでボクが女湯に入らないと駄目なのさ」
「親子なんだからいいじゃないか。家族水入らずってことで」

 もちろんよくないが、他に客と言えば俺かクウの父親くらいだし、妖怪の従業員たちはそもそも風呂に入らない者も多いので邪魔も入らないだろう。

 なにより通りすがりに頼み込んだサチが「やろーやろー!」と乗り気だった。もし責任を問われれば、サチと一緒に怒られるとしよう。

 母親と息子が一緒のお風呂に入るだけなのだから、きっと、女将さんも見逃してくれるだろう。

 そうやって無理やり言い続けた末に、ようやっとクウは諦めたのだった。

 だが妥協案として、前にスマホで見せた女性に変化していくことを条件付けられた。さすがにまだそのまま顔を出すのは勇気付かないらしい。

 更には、ちゃんと責任を取って近くで見守っていろという条件まで加えられ、こうして露天風呂の外で聞き耳を立てているというわけだ。

 内風呂からの扉の開く音が聞こえる。
 おそらくクウが露天風呂に出たのだろう。

「あらサチちゃん。早かったじゃ――」

 サチだと思って発したクウの母親の言葉が途切れ、数瞬の間が開いた。

「まあ、こんばんは」
「こここ、こんばんはっ」

 変化して別人の姿であるとはいえ、突然に現れたクウに、しかし母親は随分と余裕綽々な穏やかな声で挨拶を投げかけた。

 それに比べてクウはあからさまにぎこちなく固い。

 ふふふ、と母親の微笑む声が漏れ聞こえてくる。

 ――クウのやつ、下手に不自然すぎると変化がバレちまうぞ。

 傍から聞き耳を立てていることしかできない俺は、そのもどかしさに胃が痛くなりそうだ。自分がけしかけたとはいえ、無理やり連れて行くのは荒治療すぎただろうか。

 挨拶を交わしてから足音一つ聞こえていない所をから察するに、おそらくクウは浴槽に近づけてすらいないのだろう。直立不動で緊張したまま固まっている様子が容易に目に浮かぶ。

 時間が凍ったような静かな時間がしばらく続き、やがて激しい水しぶきの音が聞こた。母親が湯船から出たのだろう。

 その音を皮切りに、ようやくクウが口を開いた。

「お、お背中、お流しします」
「あら。ありがとう」

 ぎこちない口調で言ったクウの提案に、母親はあっさりと了承した。

 露天の洗い場に腰掛ける二人。
 かこん、と桶の音が心地よく響く。
 しかしクウたちの会話の音はまったく聞こえてこなかった。

 やっと動けたと思ったらまた緊張してしまったのだろうか。
 お湯の流れる音と木々の葉擦れの音ばかりが聞こえてくる。

 その中で微かに、背中をタオルで摩るような微かな音が聞こえてきて、俺は少し安堵した。

 姿は違うが、ちゃんと母親と接せられているようだ。

 実際には見ることはできないが、きっと今の二人の光景は、子どもが親の背中を流すとても和やかで尊いものになっていることだろう。本当の顔は見せられないけれど、クウの精一杯の親孝行だ。

 まるで思い出の中のひと時のような時間は、ただ黙々と過ぎていった。

「ねえ、お嬢さん」

 静間を断ったのは母親の方だった。

「お嬢さんはこの旅館が好きかしら」
「……はい。好きです」
「どういうところが?」
「ここは、ボク……ワタシがワタシのままでいられるから」

「ここではないところでは、そうではなかったの?」
「前にいたとこは…………そうじゃなかったわけじゃない。たぶん。でも、そうなれなかったから」
「その場所はイヤだった?」

 クウは言葉を返さなかった。

「逃げ出したかった?」

 母親が言葉を続ける。
 それでもクウの次の言葉はすぐに出てこない。

 それ以上、母親も急かすことはなく静かに待ち続けていた。

 その僅かの空白は、逃げ出した臆病な自分を隠したい心と、全てをさらけ出したい願望が複雑にない混じっているようだった。

 親元から家出をしたとはいえ、クウはまだ子どもだ。

 一人で背負い込み続けるには荷が重すぎる。
 母親を前にしてつい本音を言いたくなる気持ちもわかる。

 しばらくして、ようやくクウが口を開いた。

「イヤじゃなかった。逃げ出したくなかった。でも、そこにいたらワタシがワタシじゃなくなっちゃいそうだったから。必死になって、でも失敗して、その度に怒られて。それがどうしても辛かったから」
「そう、大変なことがあったのね」

 それがどんなことなのか、わかっているのか、わかっていないのか。

 クウの母親の言葉はとても穏やかで、そして親身だった。
 まさしく母親が子どもをあやすような、そんな優しい音色だった。

「ねえ、お嬢さん」

 また優しく語りかける声。

「あなたにとって、この旅館はどんなところなの?」

 クウがまた黙り込む。
 考えているのだろうか、それとも躊躇っているのだろうか。

 やがてクウの出した答えは、短く端的なものだった。

「出発点、です」
「出発点?」

 はい、とクウが答える。

「ここは、余所者だったワタシを受け入れて、居場所までつくってくれました。女将さんは優しくて、でもたまに恐くて、それでもちゃんとワタシを気遣ってくれるのがわかって。仲居仲間の二人も、うるさいのと静か過ぎるのが極端だけど、一緒にいて気負わなくて済むから楽しいし。ここなら、きっと今までの雁字搦めだった自分とは違う新しい道を進める、って思わせてくれるような場所、なんです……」

 途端に気恥ずかしくなったのか、最後は萎んだように声が小さくなっていた。

「ふふっ、そんなに楽しそうに言うだなんて。本当にいい人たちばかりなのでしょうね、ここは」
「あ……はい」

 クウが照れくさそうな声を出した。

「私はね、思うの」
「何をですか」
「ずっと思ってた。一年前、大切な息子がいなくなってからずっと」

 クウが母親の背中を摩っていた音が止まる。

「責めてばかりであの子の気持ちを考えてやることができなかった。親として失格なことをしてしまったわ。仕方がないことね。あの子が家を出て行ってしまうのも、それで帰ってこないことも」
「それは……そんなこと……」

「でもね、私はそれでいいと思っているの。ふふっ、こう言ったら親として最低だなんて言われてしまうかしら。それでも、あの子が私たちのところからいなくなったことをただ偏に『逃げた』とだとは言いたくないの。人は誰だって自分の居場所を見つけるものよ。それがたまたま、あの子にとっては私たちの傍ではなかっただけ。あの子にとって、今いる場所が居場所なのだとしたら、それを私たちが奪うというのはおかしな話だわ。あなたの言った通りね。帰ることができなくても、今いるそこが新しい出発点になる。第二のふるさととして、第二の出発点として。まったく別の道でもいい。正反対の方向でもいい。ただくじけずに、ひたむきに、自分らしく前に進んで生きてくれていれば、私はそれでいい。顔を見せるなんて、その後に気が向いたらでもいいのです。そう、私は思います」

 前に進むことだけが人生じゃない。紆余曲折があっての人生なのだ。

 後悔や、挫折や、いろんな逃げたいことが生きていたら必ず起こる。
 けれども、それに立ち向かわなければいけない道理なんてないのかもしれない。

 逃げることが許されることだってある。
 大事なのは、その逃げた先で、新しいスタートを切れるかどうか。

 クウの母親は、きっとクウがこの旅館で新しい自分を見つけられていると信じているのだろう。

 それは母親特有の直感めいたものなのか、なにか確信があるのか。それはわからないが、その信頼は、愛慕に満ちた優しいものに違いない。

「……お客様は、その子に怒っていないんですか」
「怒っていますよ。何の断りもなく家を飛び出してしまうなんて。そうなるまで弱音を打ち明けられないほど母が頼りなかったのかと。問い詰めてやりたいわね」
「……すみません」

「ふふっ、どうしてあなたが謝るのかしら」
「あ、いえっ」
「おかしな子ね」
「す、すみません」

 慌てるクウの声と、くすくすと母親の笑い声が漏れ聞こえてくる。
 母親の口ぶりは決して怒っている風ではなく、どこまでも柔和で穏やかだった。

 親は子を心配し、子は親から巣立っていく。

 当たり前の家族の光景がそこにはあった。

 それはいたって自然なことなのだろう。
 妖怪も、人間も。なんだってきっと同じことだ。

「だからあなたも、今の道を思うとおりに進んでみればいいんじゃないかしら。あなたが選んだんだもの。きっと誰も文句なんて言わない。そして自分の道を進み続けて、ちょっと疲れたならまたいつでも帰ってこればいい。我が家に帰ることを咎める人なんているはずがないのだから」

 その我が家とは、この旅館のことなのか。それとも、クウの故郷のことなのか。

 あくまでその言葉は『変化したクウ』へのものなのだろう。

 クウの正体に気づいているのかはわからないが、その言葉にはとても上辺だけではない温かみがあった。

 まるで親から子への、心からの激励のようだった。

「……はい」と、クウも少し震えたような声で返していた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

[完結済み]男女比1対99の貞操観念が逆転した世界での日常が狂いまくっている件

森 拓也
キャラ文芸
俺、緒方 悟(おがた さとる)は意識を取り戻したら男女比1対99の貞操観念が逆転した世界にいた。そこでは男が稀少であり、何よりも尊重されていて、俺も例外ではなかった。 学校の中も、男子生徒が数人しかいないからまるで雰囲気が違う。廊下を歩いてても、女子たちの声だけが聞こえてくる。まるで別の世界みたいに。 そんな中でも俺の周りには優しいな女子たちがたくさんいる。特に、幼馴染の美羽はずっと俺のことを気にかけてくれているみたいで……

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

ヒューマンテイム ~人間を奴隷化するスキルを使って、俺は王妃の体を手に入れる~

三浦裕
ファンタジー
【ヒューマンテイム】 人間を洗脳し、意のままに操るスキル。 非常に希少なスキルで、使い手は史上3人程度しか存在しない。 「ヒューマンテイムの力を使えば、俺はどんな人間だって意のままに操れる。あの美しい王妃に、ベッドで腰を振らせる事だって」 禁断のスキル【ヒューマンテイム】の力に目覚めた少年リュートは、その力を立身出世のために悪用する。 商人を操って富を得たり、 領主を操って権力を手にしたり、 貴族の女を操って、次々子を産ませたり。 リュートの最終目標は『王妃の胎に子種を仕込み、自らの子孫を王にする事』 王家に近づくためには、出世を重ねて国の英雄にまで上り詰める必要がある。 邪悪なスキルで王家乗っ取りを目指すリュートの、ダーク成り上がり譚!

処理中です...