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○3章 家族のかたち
-8 『出発点』
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夜の帳もすっかり下りきった頃。
多少の眠気に襲われながら、俺は外履きを履いて旅館裏の林の傍に立っていた。
目の前には背の高い竹の垣根があり、その先には女湯の露天風呂が続いている。
垣根の向こうからは湯気が立ち上り、涼しい夜風にさらわれて夜空へと霧散していった。
どうしてこんな女湯の傍らにいるのかというと、いろいろと事情があるのだ。決して覗きをしようという変質者ではない。
休憩所でクウと話した俺は、クウの手を引っ張って大浴場へと向かった。
女湯には今、クウの母親がいる。
クウを連れてくる途中でサチに出会い、頼んで呼んでもらったのだ。
理由は適当に誤魔化せと言っておいた。
何故こんな夜に呼び出されるのかと疑問に抱くことだろうが、サチならば勢いで誘えるだろうと思った。
案の定、サチはクウの母親に「一緒に入ろう」と無邪気に誘い、母親も承諾してくれたのだった。仲居と客としてその声掛けは如何なものかとは思ったが、俺も無茶な頼みをした手前なにも言えない。
そうして今は一緒に露天温泉に入り、サチだけはトイレに行くと言って外に出ている。なので屋外浴場にはクウの母親一人だ。
「よし、行って来い」
「いやいや、なに言ってるのさ。馬鹿じゃないの」
女湯の暖簾の先を指差した俺にクウが勢いよく突っ込みを入れてきた。
「大丈夫だ。清掃中の看板を立てておく」
「そういう問題じゃないでしょ。なんでボクが女湯に入らないと駄目なのさ」
「親子なんだからいいじゃないか。家族水入らずってことで」
もちろんよくないが、他に客と言えば俺かクウの父親くらいだし、妖怪の従業員たちはそもそも風呂に入らない者も多いので邪魔も入らないだろう。
なにより通りすがりに頼み込んだサチが「やろーやろー!」と乗り気だった。もし責任を問われれば、サチと一緒に怒られるとしよう。
母親と息子が一緒のお風呂に入るだけなのだから、きっと、女将さんも見逃してくれるだろう。
そうやって無理やり言い続けた末に、ようやっとクウは諦めたのだった。
だが妥協案として、前にスマホで見せた女性に変化していくことを条件付けられた。さすがにまだそのまま顔を出すのは勇気付かないらしい。
更には、ちゃんと責任を取って近くで見守っていろという条件まで加えられ、こうして露天風呂の外で聞き耳を立てているというわけだ。
内風呂からの扉の開く音が聞こえる。
おそらくクウが露天風呂に出たのだろう。
「あらサチちゃん。早かったじゃ――」
サチだと思って発したクウの母親の言葉が途切れ、数瞬の間が開いた。
「まあ、こんばんは」
「こここ、こんばんはっ」
変化して別人の姿であるとはいえ、突然に現れたクウに、しかし母親は随分と余裕綽々な穏やかな声で挨拶を投げかけた。
それに比べてクウはあからさまにぎこちなく固い。
ふふふ、と母親の微笑む声が漏れ聞こえてくる。
――クウのやつ、下手に不自然すぎると変化がバレちまうぞ。
傍から聞き耳を立てていることしかできない俺は、そのもどかしさに胃が痛くなりそうだ。自分がけしかけたとはいえ、無理やり連れて行くのは荒治療すぎただろうか。
挨拶を交わしてから足音一つ聞こえていない所をから察するに、おそらくクウは浴槽に近づけてすらいないのだろう。直立不動で緊張したまま固まっている様子が容易に目に浮かぶ。
時間が凍ったような静かな時間がしばらく続き、やがて激しい水しぶきの音が聞こた。母親が湯船から出たのだろう。
その音を皮切りに、ようやくクウが口を開いた。
「お、お背中、お流しします」
「あら。ありがとう」
ぎこちない口調で言ったクウの提案に、母親はあっさりと了承した。
露天の洗い場に腰掛ける二人。
かこん、と桶の音が心地よく響く。
しかしクウたちの会話の音はまったく聞こえてこなかった。
やっと動けたと思ったらまた緊張してしまったのだろうか。
お湯の流れる音と木々の葉擦れの音ばかりが聞こえてくる。
その中で微かに、背中をタオルで摩るような微かな音が聞こえてきて、俺は少し安堵した。
姿は違うが、ちゃんと母親と接せられているようだ。
実際には見ることはできないが、きっと今の二人の光景は、子どもが親の背中を流すとても和やかで尊いものになっていることだろう。本当の顔は見せられないけれど、クウの精一杯の親孝行だ。
まるで思い出の中のひと時のような時間は、ただ黙々と過ぎていった。
「ねえ、お嬢さん」
静間を断ったのは母親の方だった。
「お嬢さんはこの旅館が好きかしら」
「……はい。好きです」
「どういうところが?」
「ここは、ボク……ワタシがワタシのままでいられるから」
「ここではないところでは、そうではなかったの?」
「前にいたとこは…………そうじゃなかったわけじゃない。たぶん。でも、そうなれなかったから」
「その場所はイヤだった?」
クウは言葉を返さなかった。
「逃げ出したかった?」
母親が言葉を続ける。
それでもクウの次の言葉はすぐに出てこない。
それ以上、母親も急かすことはなく静かに待ち続けていた。
その僅かの空白は、逃げ出した臆病な自分を隠したい心と、全てをさらけ出したい願望が複雑にない混じっているようだった。
親元から家出をしたとはいえ、クウはまだ子どもだ。
一人で背負い込み続けるには荷が重すぎる。
母親を前にしてつい本音を言いたくなる気持ちもわかる。
しばらくして、ようやくクウが口を開いた。
「イヤじゃなかった。逃げ出したくなかった。でも、そこにいたらワタシがワタシじゃなくなっちゃいそうだったから。必死になって、でも失敗して、その度に怒られて。それがどうしても辛かったから」
「そう、大変なことがあったのね」
それがどんなことなのか、わかっているのか、わかっていないのか。
クウの母親の言葉はとても穏やかで、そして親身だった。
まさしく母親が子どもをあやすような、そんな優しい音色だった。
「ねえ、お嬢さん」
また優しく語りかける声。
「あなたにとって、この旅館はどんなところなの?」
クウがまた黙り込む。
考えているのだろうか、それとも躊躇っているのだろうか。
やがてクウの出した答えは、短く端的なものだった。
「出発点、です」
「出発点?」
はい、とクウが答える。
「ここは、余所者だったワタシを受け入れて、居場所までつくってくれました。女将さんは優しくて、でもたまに恐くて、それでもちゃんとワタシを気遣ってくれるのがわかって。仲居仲間の二人も、うるさいのと静か過ぎるのが極端だけど、一緒にいて気負わなくて済むから楽しいし。ここなら、きっと今までの雁字搦めだった自分とは違う新しい道を進める、って思わせてくれるような場所、なんです……」
途端に気恥ずかしくなったのか、最後は萎んだように声が小さくなっていた。
「ふふっ、そんなに楽しそうに言うだなんて。本当にいい人たちばかりなのでしょうね、ここは」
「あ……はい」
クウが照れくさそうな声を出した。
「私はね、思うの」
「何をですか」
「ずっと思ってた。一年前、大切な息子がいなくなってからずっと」
クウが母親の背中を摩っていた音が止まる。
「責めてばかりであの子の気持ちを考えてやることができなかった。親として失格なことをしてしまったわ。仕方がないことね。あの子が家を出て行ってしまうのも、それで帰ってこないことも」
「それは……そんなこと……」
「でもね、私はそれでいいと思っているの。ふふっ、こう言ったら親として最低だなんて言われてしまうかしら。それでも、あの子が私たちのところからいなくなったことをただ偏に『逃げた』とだとは言いたくないの。人は誰だって自分の居場所を見つけるものよ。それがたまたま、あの子にとっては私たちの傍ではなかっただけ。あの子にとって、今いる場所が居場所なのだとしたら、それを私たちが奪うというのはおかしな話だわ。あなたの言った通りね。帰ることができなくても、今いるそこが新しい出発点になる。第二のふるさととして、第二の出発点として。まったく別の道でもいい。正反対の方向でもいい。ただくじけずに、ひたむきに、自分らしく前に進んで生きてくれていれば、私はそれでいい。顔を見せるなんて、その後に気が向いたらでもいいのです。そう、私は思います」
前に進むことだけが人生じゃない。紆余曲折があっての人生なのだ。
後悔や、挫折や、いろんな逃げたいことが生きていたら必ず起こる。
けれども、それに立ち向かわなければいけない道理なんてないのかもしれない。
逃げることが許されることだってある。
大事なのは、その逃げた先で、新しいスタートを切れるかどうか。
クウの母親は、きっとクウがこの旅館で新しい自分を見つけられていると信じているのだろう。
それは母親特有の直感めいたものなのか、なにか確信があるのか。それはわからないが、その信頼は、愛慕に満ちた優しいものに違いない。
「……お客様は、その子に怒っていないんですか」
「怒っていますよ。何の断りもなく家を飛び出してしまうなんて。そうなるまで弱音を打ち明けられないほど母が頼りなかったのかと。問い詰めてやりたいわね」
「……すみません」
「ふふっ、どうしてあなたが謝るのかしら」
「あ、いえっ」
「おかしな子ね」
「す、すみません」
慌てるクウの声と、くすくすと母親の笑い声が漏れ聞こえてくる。
母親の口ぶりは決して怒っている風ではなく、どこまでも柔和で穏やかだった。
親は子を心配し、子は親から巣立っていく。
当たり前の家族の光景がそこにはあった。
それはいたって自然なことなのだろう。
妖怪も、人間も。なんだってきっと同じことだ。
「だからあなたも、今の道を思うとおりに進んでみればいいんじゃないかしら。あなたが選んだんだもの。きっと誰も文句なんて言わない。そして自分の道を進み続けて、ちょっと疲れたならまたいつでも帰ってこればいい。我が家に帰ることを咎める人なんているはずがないのだから」
その我が家とは、この旅館のことなのか。それとも、クウの故郷のことなのか。
あくまでその言葉は『変化したクウ』へのものなのだろう。
クウの正体に気づいているのかはわからないが、その言葉にはとても上辺だけではない温かみがあった。
まるで親から子への、心からの激励のようだった。
「……はい」と、クウも少し震えたような声で返していた。
多少の眠気に襲われながら、俺は外履きを履いて旅館裏の林の傍に立っていた。
目の前には背の高い竹の垣根があり、その先には女湯の露天風呂が続いている。
垣根の向こうからは湯気が立ち上り、涼しい夜風にさらわれて夜空へと霧散していった。
どうしてこんな女湯の傍らにいるのかというと、いろいろと事情があるのだ。決して覗きをしようという変質者ではない。
休憩所でクウと話した俺は、クウの手を引っ張って大浴場へと向かった。
女湯には今、クウの母親がいる。
クウを連れてくる途中でサチに出会い、頼んで呼んでもらったのだ。
理由は適当に誤魔化せと言っておいた。
何故こんな夜に呼び出されるのかと疑問に抱くことだろうが、サチならば勢いで誘えるだろうと思った。
案の定、サチはクウの母親に「一緒に入ろう」と無邪気に誘い、母親も承諾してくれたのだった。仲居と客としてその声掛けは如何なものかとは思ったが、俺も無茶な頼みをした手前なにも言えない。
そうして今は一緒に露天温泉に入り、サチだけはトイレに行くと言って外に出ている。なので屋外浴場にはクウの母親一人だ。
「よし、行って来い」
「いやいや、なに言ってるのさ。馬鹿じゃないの」
女湯の暖簾の先を指差した俺にクウが勢いよく突っ込みを入れてきた。
「大丈夫だ。清掃中の看板を立てておく」
「そういう問題じゃないでしょ。なんでボクが女湯に入らないと駄目なのさ」
「親子なんだからいいじゃないか。家族水入らずってことで」
もちろんよくないが、他に客と言えば俺かクウの父親くらいだし、妖怪の従業員たちはそもそも風呂に入らない者も多いので邪魔も入らないだろう。
なにより通りすがりに頼み込んだサチが「やろーやろー!」と乗り気だった。もし責任を問われれば、サチと一緒に怒られるとしよう。
母親と息子が一緒のお風呂に入るだけなのだから、きっと、女将さんも見逃してくれるだろう。
そうやって無理やり言い続けた末に、ようやっとクウは諦めたのだった。
だが妥協案として、前にスマホで見せた女性に変化していくことを条件付けられた。さすがにまだそのまま顔を出すのは勇気付かないらしい。
更には、ちゃんと責任を取って近くで見守っていろという条件まで加えられ、こうして露天風呂の外で聞き耳を立てているというわけだ。
内風呂からの扉の開く音が聞こえる。
おそらくクウが露天風呂に出たのだろう。
「あらサチちゃん。早かったじゃ――」
サチだと思って発したクウの母親の言葉が途切れ、数瞬の間が開いた。
「まあ、こんばんは」
「こここ、こんばんはっ」
変化して別人の姿であるとはいえ、突然に現れたクウに、しかし母親は随分と余裕綽々な穏やかな声で挨拶を投げかけた。
それに比べてクウはあからさまにぎこちなく固い。
ふふふ、と母親の微笑む声が漏れ聞こえてくる。
――クウのやつ、下手に不自然すぎると変化がバレちまうぞ。
傍から聞き耳を立てていることしかできない俺は、そのもどかしさに胃が痛くなりそうだ。自分がけしかけたとはいえ、無理やり連れて行くのは荒治療すぎただろうか。
挨拶を交わしてから足音一つ聞こえていない所をから察するに、おそらくクウは浴槽に近づけてすらいないのだろう。直立不動で緊張したまま固まっている様子が容易に目に浮かぶ。
時間が凍ったような静かな時間がしばらく続き、やがて激しい水しぶきの音が聞こた。母親が湯船から出たのだろう。
その音を皮切りに、ようやくクウが口を開いた。
「お、お背中、お流しします」
「あら。ありがとう」
ぎこちない口調で言ったクウの提案に、母親はあっさりと了承した。
露天の洗い場に腰掛ける二人。
かこん、と桶の音が心地よく響く。
しかしクウたちの会話の音はまったく聞こえてこなかった。
やっと動けたと思ったらまた緊張してしまったのだろうか。
お湯の流れる音と木々の葉擦れの音ばかりが聞こえてくる。
その中で微かに、背中をタオルで摩るような微かな音が聞こえてきて、俺は少し安堵した。
姿は違うが、ちゃんと母親と接せられているようだ。
実際には見ることはできないが、きっと今の二人の光景は、子どもが親の背中を流すとても和やかで尊いものになっていることだろう。本当の顔は見せられないけれど、クウの精一杯の親孝行だ。
まるで思い出の中のひと時のような時間は、ただ黙々と過ぎていった。
「ねえ、お嬢さん」
静間を断ったのは母親の方だった。
「お嬢さんはこの旅館が好きかしら」
「……はい。好きです」
「どういうところが?」
「ここは、ボク……ワタシがワタシのままでいられるから」
「ここではないところでは、そうではなかったの?」
「前にいたとこは…………そうじゃなかったわけじゃない。たぶん。でも、そうなれなかったから」
「その場所はイヤだった?」
クウは言葉を返さなかった。
「逃げ出したかった?」
母親が言葉を続ける。
それでもクウの次の言葉はすぐに出てこない。
それ以上、母親も急かすことはなく静かに待ち続けていた。
その僅かの空白は、逃げ出した臆病な自分を隠したい心と、全てをさらけ出したい願望が複雑にない混じっているようだった。
親元から家出をしたとはいえ、クウはまだ子どもだ。
一人で背負い込み続けるには荷が重すぎる。
母親を前にしてつい本音を言いたくなる気持ちもわかる。
しばらくして、ようやくクウが口を開いた。
「イヤじゃなかった。逃げ出したくなかった。でも、そこにいたらワタシがワタシじゃなくなっちゃいそうだったから。必死になって、でも失敗して、その度に怒られて。それがどうしても辛かったから」
「そう、大変なことがあったのね」
それがどんなことなのか、わかっているのか、わかっていないのか。
クウの母親の言葉はとても穏やかで、そして親身だった。
まさしく母親が子どもをあやすような、そんな優しい音色だった。
「ねえ、お嬢さん」
また優しく語りかける声。
「あなたにとって、この旅館はどんなところなの?」
クウがまた黙り込む。
考えているのだろうか、それとも躊躇っているのだろうか。
やがてクウの出した答えは、短く端的なものだった。
「出発点、です」
「出発点?」
はい、とクウが答える。
「ここは、余所者だったワタシを受け入れて、居場所までつくってくれました。女将さんは優しくて、でもたまに恐くて、それでもちゃんとワタシを気遣ってくれるのがわかって。仲居仲間の二人も、うるさいのと静か過ぎるのが極端だけど、一緒にいて気負わなくて済むから楽しいし。ここなら、きっと今までの雁字搦めだった自分とは違う新しい道を進める、って思わせてくれるような場所、なんです……」
途端に気恥ずかしくなったのか、最後は萎んだように声が小さくなっていた。
「ふふっ、そんなに楽しそうに言うだなんて。本当にいい人たちばかりなのでしょうね、ここは」
「あ……はい」
クウが照れくさそうな声を出した。
「私はね、思うの」
「何をですか」
「ずっと思ってた。一年前、大切な息子がいなくなってからずっと」
クウが母親の背中を摩っていた音が止まる。
「責めてばかりであの子の気持ちを考えてやることができなかった。親として失格なことをしてしまったわ。仕方がないことね。あの子が家を出て行ってしまうのも、それで帰ってこないことも」
「それは……そんなこと……」
「でもね、私はそれでいいと思っているの。ふふっ、こう言ったら親として最低だなんて言われてしまうかしら。それでも、あの子が私たちのところからいなくなったことをただ偏に『逃げた』とだとは言いたくないの。人は誰だって自分の居場所を見つけるものよ。それがたまたま、あの子にとっては私たちの傍ではなかっただけ。あの子にとって、今いる場所が居場所なのだとしたら、それを私たちが奪うというのはおかしな話だわ。あなたの言った通りね。帰ることができなくても、今いるそこが新しい出発点になる。第二のふるさととして、第二の出発点として。まったく別の道でもいい。正反対の方向でもいい。ただくじけずに、ひたむきに、自分らしく前に進んで生きてくれていれば、私はそれでいい。顔を見せるなんて、その後に気が向いたらでもいいのです。そう、私は思います」
前に進むことだけが人生じゃない。紆余曲折があっての人生なのだ。
後悔や、挫折や、いろんな逃げたいことが生きていたら必ず起こる。
けれども、それに立ち向かわなければいけない道理なんてないのかもしれない。
逃げることが許されることだってある。
大事なのは、その逃げた先で、新しいスタートを切れるかどうか。
クウの母親は、きっとクウがこの旅館で新しい自分を見つけられていると信じているのだろう。
それは母親特有の直感めいたものなのか、なにか確信があるのか。それはわからないが、その信頼は、愛慕に満ちた優しいものに違いない。
「……お客様は、その子に怒っていないんですか」
「怒っていますよ。何の断りもなく家を飛び出してしまうなんて。そうなるまで弱音を打ち明けられないほど母が頼りなかったのかと。問い詰めてやりたいわね」
「……すみません」
「ふふっ、どうしてあなたが謝るのかしら」
「あ、いえっ」
「おかしな子ね」
「す、すみません」
慌てるクウの声と、くすくすと母親の笑い声が漏れ聞こえてくる。
母親の口ぶりは決して怒っている風ではなく、どこまでも柔和で穏やかだった。
親は子を心配し、子は親から巣立っていく。
当たり前の家族の光景がそこにはあった。
それはいたって自然なことなのだろう。
妖怪も、人間も。なんだってきっと同じことだ。
「だからあなたも、今の道を思うとおりに進んでみればいいんじゃないかしら。あなたが選んだんだもの。きっと誰も文句なんて言わない。そして自分の道を進み続けて、ちょっと疲れたならまたいつでも帰ってこればいい。我が家に帰ることを咎める人なんているはずがないのだから」
その我が家とは、この旅館のことなのか。それとも、クウの故郷のことなのか。
あくまでその言葉は『変化したクウ』へのものなのだろう。
クウの正体に気づいているのかはわからないが、その言葉にはとても上辺だけではない温かみがあった。
まるで親から子への、心からの激励のようだった。
「……はい」と、クウも少し震えたような声で返していた。
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