17 / 44
○3章 家族のかたち
-5 『母親』
しおりを挟む
毎度、仲居娘たちが妖怪であるという事実をすっかり忘れてしまう。
それもこれも、彼女たちを見ていると普通の女の子という印象ばかりなのだ。
妖怪とはいえ、昔から子守唄代わりに親から聞かせられるような恐い魑魅魍魎の御話とはまったく違う。ちょっと特別な力を持った少女でしかなかった。
案外、世の中に語られている他の未確認生物たちも、蓋をあければ拍子抜けするほど普通な存在だったりするのかもしれない。
厨房の一反木綿や塗り壁など、明らかに人外と思えるようなのもいるが、人を取って食べるような恐ろしいものではない。
それにクウとその両親を見て、妖怪にも家族があって、人間のそれとそう変わらないのだともわかった。
廊下を歩いているとクウのお母さんと出会った。
中庭の見える縁側に腰掛けて夜の月を見上げていた。
足音で俺に気づいた彼女はにこりと笑みを浮かべて会釈をした。
「こんばんは、おにいさん」
「こんばんは。お一人ですか」
「ええ。旦那はもう部屋に足が根付いてしまっているようで」
そう返すクウの母親の顔は小気味よく微笑んでいた。
丸く膨らんだ月の光を浴びて、その表情は青白く光って見える。
彼女はじっと夜空を眺めていて、櫛でまとめられた白髪の毛先が涼しい夜風を受けてなびいていた。
俺が立ち去ろうとしたところ、ふとクウの母親が声をかけてきた。
「おにいさんはこの旅館の常連なのかしら」
「いえ、違いますよ」
「そうなの? それにしては随分と仲居の子どもたちと仲が良さそうだったけれど。きっと子どもに好かれる良い人なのね」
「いやあ、好かれてるって訳ではないと思いますけどね」と俺は苦笑した。
サチはまったく壁を作らず親しげに接してくれるが、ナユキは回数もかけてやっと逃げられなくなったくらいだ。クウにいたっては先ほどの一件しかり、度々怒らせてしまっている。
そもそも女将さんの依頼がなければ彼女たちとこうやって接することもなかっただろう。
「少し訊きたいのだけれど、いいかしら」
「なんですか」
俺は彼女の隣に腰を下ろした。
「仲居の子たちとちょうど同じくらいの背丈をした男の子がここにいないかしら」
言われ、俺は迷うことなくクウのことを想像してしまっていた。
間違いなく合っているのだろう。
だが、います、と答えるのもはばかられた。
クウが隠そうとしている手前、俺が勝手に言うのもおかしな話だ。
「どうでしょう。ここには来たばかりなんで」と適当にお茶を濁す。
クウの母親は仰いでいた顔を下げ、短く息をついた。
「そう……ごめんなさいね。突然こんなことを訊いて」
「いえ。大丈夫ですよ」
憂いに満ちた横顔を浮かべるクウの母親に、俺は一抹の罪悪感を抱いた。
自分の息子が家出してしまったのだ。心配するのは当然だ。
おそらく探しにきたのだろう彼女の心情を察するのは簡単で、だからこそ言葉に迷った。
ヘタに踏み込むのは野暮だろう。
だが、俺はあえてそれを尋ねてみることにした。
どうしてクウがそこまで帰りたがらないのかが気になった。
「その男の子がどうかしたんですか」
尋ねると、クウの母親はまた遠くを見るような目で話し出した。
「九太郎(くうたろう)という息子がいるんです」
クウのことだろう。
本名ではなかったことに驚いたが今はそれどころではない。
「九男坊の末っ子で人一倍に甘えたがりなとても心の優しい子でした。私の一族には昔からある芸事が伝わっていて、それを生まれてからずっと練習して十歳までには体得するのが習わしでした。けれどもその子はなかなか上手くできず、いよいよ周囲から出来損ないの子だと烙印を押し付けられてしまったのです。傷ついたその子は私の引止めもきかず、家を出て行ってしまいました。それからどこかの世話になっていると風の便りで耳にしましたが、もう一年以上、何の便りもないままで。やっと噂でこの旅館にいるという話をやっと知って訪れてみたのですが――」
聞かされて、俺は少し後悔の念に駆られそうになっていた。
こんな根深いことを容易い気持ちで耳にしてしまっていいのかという後悔だ。
きっと藁にもすがる思いでここを訪れたのだろう。
その悲壮さを思えば、クウの所在を言えない口惜しさで胸が締め付けられた。
芸事、とはおそらく変化の術のことだろう。
たしかにクウの変化は不恰好だった。
イメージさせる画像を見せてやっと最低限の変化ができるくらいだ。クウの母親の口ぶりからして、それでは化け狸としては駄目なのだろう。
「勢いよく飛び出してきてしまった手前、どんな顔をして会えばいいのかわからないんじゃないですか」
言いながら、俺は大学のサークルのことが一瞬だけ脳裏にちらついた。会長のことを。
「そうですね。そうなのかもしれませんね」
微笑を浮かべたままクウの母親は頷く。
「帰ってきて、ほしいですか」
またクウの母親は頷くかと思ったが、しかし予想に反して首を振った。
「いいえ」
「え?」
俺は思わず彼女の顔を見つめてしまった。
淀みのない意外な答えに面食らってしまった。
クウの母親の表情は穏やかで、とらえ所のない笑みを浮かべているばかりだ。
我が子が家出をしたのだ。
探しにまでやって来て、帰ってきて欲しくないはずがない。
それなのにどうして余裕綽々と笑っていられるのだろうか。
「その子を、連れ戻しに来たんじゃないんですか」
「一緒に帰ってくれるのならそれはそれで。でも、もし帰らないというのならそれも一つの選択でしょう。あの子が望んだのなら尊重するつもりです」
「でもそれじゃあ、その子がいつまでも実家のことから逃げ続けることになっちゃいませんか」
「逃げる、と言えばそうなのでしょうね。けれど、私はそれを逃げだとは思いませんよ」
月光に照らされて、クウの母親は綺麗に笑った。
クウを心配するような憂いでもなく、まるで上京した子どもが久方ぶりに帰ってくるのを待ち遠しく楽しみにしているような、そんな陽気さすら窺えた。
それもこれも、彼女たちを見ていると普通の女の子という印象ばかりなのだ。
妖怪とはいえ、昔から子守唄代わりに親から聞かせられるような恐い魑魅魍魎の御話とはまったく違う。ちょっと特別な力を持った少女でしかなかった。
案外、世の中に語られている他の未確認生物たちも、蓋をあければ拍子抜けするほど普通な存在だったりするのかもしれない。
厨房の一反木綿や塗り壁など、明らかに人外と思えるようなのもいるが、人を取って食べるような恐ろしいものではない。
それにクウとその両親を見て、妖怪にも家族があって、人間のそれとそう変わらないのだともわかった。
廊下を歩いているとクウのお母さんと出会った。
中庭の見える縁側に腰掛けて夜の月を見上げていた。
足音で俺に気づいた彼女はにこりと笑みを浮かべて会釈をした。
「こんばんは、おにいさん」
「こんばんは。お一人ですか」
「ええ。旦那はもう部屋に足が根付いてしまっているようで」
そう返すクウの母親の顔は小気味よく微笑んでいた。
丸く膨らんだ月の光を浴びて、その表情は青白く光って見える。
彼女はじっと夜空を眺めていて、櫛でまとめられた白髪の毛先が涼しい夜風を受けてなびいていた。
俺が立ち去ろうとしたところ、ふとクウの母親が声をかけてきた。
「おにいさんはこの旅館の常連なのかしら」
「いえ、違いますよ」
「そうなの? それにしては随分と仲居の子どもたちと仲が良さそうだったけれど。きっと子どもに好かれる良い人なのね」
「いやあ、好かれてるって訳ではないと思いますけどね」と俺は苦笑した。
サチはまったく壁を作らず親しげに接してくれるが、ナユキは回数もかけてやっと逃げられなくなったくらいだ。クウにいたっては先ほどの一件しかり、度々怒らせてしまっている。
そもそも女将さんの依頼がなければ彼女たちとこうやって接することもなかっただろう。
「少し訊きたいのだけれど、いいかしら」
「なんですか」
俺は彼女の隣に腰を下ろした。
「仲居の子たちとちょうど同じくらいの背丈をした男の子がここにいないかしら」
言われ、俺は迷うことなくクウのことを想像してしまっていた。
間違いなく合っているのだろう。
だが、います、と答えるのもはばかられた。
クウが隠そうとしている手前、俺が勝手に言うのもおかしな話だ。
「どうでしょう。ここには来たばかりなんで」と適当にお茶を濁す。
クウの母親は仰いでいた顔を下げ、短く息をついた。
「そう……ごめんなさいね。突然こんなことを訊いて」
「いえ。大丈夫ですよ」
憂いに満ちた横顔を浮かべるクウの母親に、俺は一抹の罪悪感を抱いた。
自分の息子が家出してしまったのだ。心配するのは当然だ。
おそらく探しにきたのだろう彼女の心情を察するのは簡単で、だからこそ言葉に迷った。
ヘタに踏み込むのは野暮だろう。
だが、俺はあえてそれを尋ねてみることにした。
どうしてクウがそこまで帰りたがらないのかが気になった。
「その男の子がどうかしたんですか」
尋ねると、クウの母親はまた遠くを見るような目で話し出した。
「九太郎(くうたろう)という息子がいるんです」
クウのことだろう。
本名ではなかったことに驚いたが今はそれどころではない。
「九男坊の末っ子で人一倍に甘えたがりなとても心の優しい子でした。私の一族には昔からある芸事が伝わっていて、それを生まれてからずっと練習して十歳までには体得するのが習わしでした。けれどもその子はなかなか上手くできず、いよいよ周囲から出来損ないの子だと烙印を押し付けられてしまったのです。傷ついたその子は私の引止めもきかず、家を出て行ってしまいました。それからどこかの世話になっていると風の便りで耳にしましたが、もう一年以上、何の便りもないままで。やっと噂でこの旅館にいるという話をやっと知って訪れてみたのですが――」
聞かされて、俺は少し後悔の念に駆られそうになっていた。
こんな根深いことを容易い気持ちで耳にしてしまっていいのかという後悔だ。
きっと藁にもすがる思いでここを訪れたのだろう。
その悲壮さを思えば、クウの所在を言えない口惜しさで胸が締め付けられた。
芸事、とはおそらく変化の術のことだろう。
たしかにクウの変化は不恰好だった。
イメージさせる画像を見せてやっと最低限の変化ができるくらいだ。クウの母親の口ぶりからして、それでは化け狸としては駄目なのだろう。
「勢いよく飛び出してきてしまった手前、どんな顔をして会えばいいのかわからないんじゃないですか」
言いながら、俺は大学のサークルのことが一瞬だけ脳裏にちらついた。会長のことを。
「そうですね。そうなのかもしれませんね」
微笑を浮かべたままクウの母親は頷く。
「帰ってきて、ほしいですか」
またクウの母親は頷くかと思ったが、しかし予想に反して首を振った。
「いいえ」
「え?」
俺は思わず彼女の顔を見つめてしまった。
淀みのない意外な答えに面食らってしまった。
クウの母親の表情は穏やかで、とらえ所のない笑みを浮かべているばかりだ。
我が子が家出をしたのだ。
探しにまでやって来て、帰ってきて欲しくないはずがない。
それなのにどうして余裕綽々と笑っていられるのだろうか。
「その子を、連れ戻しに来たんじゃないんですか」
「一緒に帰ってくれるのならそれはそれで。でも、もし帰らないというのならそれも一つの選択でしょう。あの子が望んだのなら尊重するつもりです」
「でもそれじゃあ、その子がいつまでも実家のことから逃げ続けることになっちゃいませんか」
「逃げる、と言えばそうなのでしょうね。けれど、私はそれを逃げだとは思いませんよ」
月光に照らされて、クウの母親は綺麗に笑った。
クウを心配するような憂いでもなく、まるで上京した子どもが久方ぶりに帰ってくるのを待ち遠しく楽しみにしているような、そんな陽気さすら窺えた。
0
お気に入りに追加
35
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる
フルーツパフェ
大衆娯楽
転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。
一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
社畜の俺の部屋にダンジョンの入り口が現れた!? ダンジョン配信で稼ぐのでブラック企業は辞めさせていただきます
さかいおさむ
ファンタジー
ダンジョンが出現し【冒険者】という職業が出来た日本。
冒険者は探索だけではなく、【配信者】としてダンジョンでの冒険を配信するようになる。
底辺サラリーマンのアキラもダンジョン配信者の大ファンだ。
そんなある日、彼の部屋にダンジョンの入り口が現れた。
部屋にダンジョンの入り口が出来るという奇跡のおかげで、アキラも配信者になる。
ダンジョン配信オタクの美人がプロデューサーになり、アキラのダンジョン配信は人気が出てくる。
『アキラちゃんねる』は配信収益で一攫千金を狙う!
ゲームのモブに転生したと思ったら、チートスキルガン積みのバグキャラに!? 最強の勇者? 最凶の魔王? こっちは最驚の裸族だ、道を開けろ
阿弥陀乃トンマージ
ファンタジー
どこにでもいる平凡なサラリーマン「俺」は、長年勤めていたブラック企業をある日突然辞めた。
心は晴れやかだ。なんといってもその日は、昔から遊んでいる本格的ファンタジーRPGシリーズの新作、『レジェンドオブインフィニティ』の発売日であるからだ。
「俺」はゲームをプレイしようとするが、急に頭がふらついてゲーミングチェアから転げ落ちてしまう。目覚めた「俺」は驚く。自室の床ではなく、ゲームの世界の砂浜に倒れ込んでいたからである、全裸で。
「俺」のゲームの世界での快進撃が始まる……のだろうか⁉
うちの冷蔵庫がダンジョンになった
空志戸レミ
ファンタジー
一二三大賞3:コミカライズ賞受賞
ある日の事、突然世界中にモンスターの跋扈するダンジョンが現れたことで人々は戦慄。
そんななかしがないサラリーマンの住むアパートに置かれた古びた2ドア冷蔵庫もまた、なぜかダンジョンと繋がってしまう。部屋の借主である男は酷く困惑しつつもその魔性に惹かれ、このひとりしか知らないダンジョンの攻略に乗り出すのだった…。
動物に好かれまくる体質の少年、ダンジョンを探索する 配信中にレッドドラゴンを手懐けたら大バズりしました!
海夏世もみじ
ファンタジー
旧題:動物に好かれまくる体質の少年、ダンジョン配信中にレッドドラゴン手懐けたら大バズりしました
動物に好かれまくる体質を持つ主人公、藍堂咲太《あいどう・さくた》は、友人にダンジョンカメラというものをもらった。
そのカメラで暇つぶしにダンジョン配信をしようということでダンジョンに向かったのだが、イレギュラーのレッドドラゴンが現れてしまう。
しかし主人公に攻撃は一切せず、喉を鳴らして好意的な様子。その様子が全て配信されており、拡散され、大バズりしてしまった!
戦闘力ミジンコ主人公が魔物や幻獣を手懐けながらダンジョンを進む配信のスタート!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる