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○1章 おいでませ! 美少女妖怪旅館
1-1 『山奥の不思議な旅館』
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「いってえええええ!」
鋭い小枝が手首をかすめ、痛みに歯を食いしばる。
軽装で出かけたのは失敗だっただろうか。Tシャツとジーンズという格好で、俺――冴島悠斗(さえじまゆうと)は夜の山道を一人歩いていた。
地図もなく、スマホも圏外。荷物といえば背中に担いだ中サイズのバックパックだけで、中には着替えや財布などといった最低限のものしかない。
そんな準備もままならない状態で舗装されていない暗がりの山道を歩けば、遭難するのも時間の問題だった。
案の定、いつの間にか進むべき方向すら見失ってしまった俺は、どこに続くかもわからない獣道だけを頼りに、ただがむしゃらに前へと進んでいた。
「ああもう。こんな予定じゃなかったのに。はあ、ついてない」
溜め息が漏れる。涙も溢れそうだ。
きかっけは、インターネットで行きつけのとあるオカルト掲示板の書き込みだった。大学でオカルト研究会に所属していることもあって、話題探しのために度々訪れている場所だ。
流し見ていると、ふと、あるスレッドに目が留まってしまった。
『あなたの探しているものが見つかります ご宿泊は、古旅館・古こんへ――』
オカルト掲示板で話すにはあまりに場違いだし具体性に欠けていた。それなのに、よく見れば住所だけはしっかりと書かれている。
「探してるものってなんだよ。オカルト掲示板だし心霊現象とかか?」
見るからに怪しい。
どうせ適当なことを書いた釣り記事なのだろう。
常識的な判断ならば無視が安定だ。
しかしこの時の俺は、もう何もかもがどうでもいい気分になっていた。
その日、俺は生まれてはじめての失恋を経験したのだ。
それはもうショックだった。酒をあおって部屋に引きこもるくらいには。
そして、どうせ落ち込んでいるのならば、馬鹿みたいなことをしてガッカリを上塗りしよう。なんて、きっと酔っ払いながらに考えてしまったのだ。
「……行ってみるか」
そう思ってからは早かった。
傷心旅行だと銘打って、次の日には書き込みにあった場所を目指して家を飛び出した。
――そして結果、迷子になった。
がさり、と前方の茂みで物音が立つ。
暗くて様子はわからないが何かがいるのだろうか。
鹿か猪か、まさか熊なんてこともあるだろうか。
もし出会いでもすればそれこそ本当に死ぬかもしれない。
「……ったく、勘弁してくれよぉ」
朦朧と意識が浮ついていた俺も、さすがに緊張が走って我に帰る。恐怖心がこみ上げてきて、足が竦みそうになった。
また物音が鳴った。
今度は目の前の茂みからだった。
目を凝らして見つめると、突然に何かが飛び出してきた。
小さく、真っ暗で輪郭しかわからないが、それはまさしく人影だった。
――どうしてこんな山奥に。
疑問に思ったが、その人影はすぐに茂みの奥へと走り去ってしまう。
「あ、ちょっと待ってくれ」
俺は慌てて追いかけた。
道のない道を、茂みを掻き分けて進んだ。
枝が腕に引っかかって痛い。
足場が凸凹していて、踏み外しそうになるのを堪える。
ただとにかく、あの暗闇に消えた人影だけを頼りに走り続けた。
まるで夜中に誘蛾灯を見つけて引き寄せられる虫のように――。
しばらくすると開けた場所にたどり着いた。
脇には古めかしい灯篭が立っていて、まっすぐ続く砂利道に沿って並んでいる。その明かりが伸びる先――俺が頭を持ち上げて見上げたその向こうに、木造の古旅館が佇んでいた。
「……本当にあったんだ」
近くの灯篭の傍に掲げられていた木板の看板を見て確信する。
温泉旅館『古こん』
闇夜にぽつりと佇むその建物は木の柱や庇が見るからに傷んでいて、何十年も昔に建てられたのだろうと思われる風貌だった。
二階建ての純和風建築だ。
立派な鬼の顔をした屋根瓦が独特の威圧感を放っている。
山奥にひっそりと一軒だけ存在するというだけでも異質な雰囲気なのに、建物の古さや山の中の鬱蒼とした暗さも相まって、さながら幽霊屋敷のようだ。
もしかすると、あの書き込みで見た通り、本当に何か特別なことが起こるいわくつきの旅館なのだろうか。
ずっと眉唾に思っていた手前、途端に怖くなってしまう。
だがせっかくここまで来たのだし、帰ろうにも道がわからない。
俺は意を決して旅館の扉を開いた。
すべり悪い引き戸を開けると、中はごく普通の旅館のフロントだった。非常灯の明かりだけが館内を照らしている。
「ごめんください」と俺が叫ぶと、しばらくして照明がついた。
眩しい光に眼が潰れそうになる。
やがてフロントの奥から人影が現れた。
寂れた山奥の古旅館だ。
雰囲気からして幽霊か何かが出てくるかと身構えたが、しかし現れたその人を見て俺は拍子抜けした顔を浮かべてしまった。
現れたのは妙齢の女性だった。
綺麗な着物を身につけ、腰まで伸びた艶やかな黒髪が揺れる。
まるで日本人形のように綺麗で整った佇まいだ。やや幼げだが鼻の高い美人な顔立ちで、体つきは細身だが、丁寧に着付けされた着物の下からこれでもかと膨らんだ二つの大きな胸が存在感を示していた。
その女性は俺に気づくと、そそくさと小走りにやって来て、丁寧に膝をついて頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました。お泊りでしょうか」
あまりに唐突だったため、俺は面食らってたじろいでしまった。
「い、いや。ここにはたまたまたどり着いて……」
「まあ。こんな時間にですか?」
「ええ、まあ」
まさか普通の旅館の応対をされるとは。
よもやネットの怪しい書き込みを見て、尋ねてきたとは言い難い空気だ。出迎えてくれたこの女性の笑顔を曇らせる真似はさすがにできない。
着物姿の女性は終始丁寧な受け答えで俺を中へと招き入れてくれた。
旅館は特に珍しくもない内装だった。
赤いカーペットが敷かれたロビーには、裏山に面した庭を見渡せる壁一面のガラス張り。小さなリクライニングチェアがぽつりと置かれていて景観を楽しめる造りになっている。
傍には小さな売店コーナーがある。自動販売機も設置されていた。山奥という立地だが、旅館自体はごく普通のもののようだ。
昔に家族で温泉旅行に行ったときの事を思い出す。
木造の古い旅館の雰囲気はどこも同じで、建物中から溢れる独特な木の香りに心を落ち着かせた。
気がつけば夜の八時を過ぎており、俺はその旅館で一泊することにした。
女性の案内で部屋へと通される。十畳ほどの和室で、座椅子に腰掛けるとい草の香りが鼻腔をくすぐった。
脇息に肘をかけて疲れた身体を座布団に沈ませる。
すると傍に正座をした女性がおしぼりを差し出してくれた。
彼女はこの旅館の女将らしい。
女将といえばもっと年配の女性を想像するが、若々しい外見にしては、随分と落ち着いた佇まいで堂に入っている。
おそらく俺と同い年か、それよりも下なのではないだろうか。
「見ての通りあまり豪華な宿ではありませんが、どうぞゆっくりとごくつろぎください」
「いえいえ。予約もしてないのに急に入れてもらって助かりました」
「今日はお客様がいらっしゃらなかったので開店休業だったんですよ。ですからおかまいなく」
怪異旅館という雰囲気ではないが、奇妙であることは間違いない。
どうしてこんな若い女の子が女将をやっているのだろう。
大学生の同級生とそう変わらない風貌なのに不思議なものだ。
家業なのだろうか。
佇まいからして奥ゆかしく丁寧で育ちの良さを感じられる。綺麗な所作に着物が映え、絵に描いたような大和撫子だ。
彼女の黒い髪がなびく度に華やかな香りが漂う。
「それにしても、よくこの旅館にたどり着けましたね。ここは随分と奥地にありますから、あまり訪れる方も少ないんです」
「そうなんですか」
「ここには偶然?」
「いや、実はこういうとこに旅館があるって紹介されたんですよ」
嘘は言っていない。
意図のよくわからない眉唾な話だったが、それを信じて来てよかったと思う。
これほど可愛らしい女将さんに迎えてもらえるのだから役得というものだろう。
それに比べれば、部屋の壁紙が所々禿げていたり柱に大きな傷が入っていたり、角が染みのような斑点で汚れていたりしても、まあ目を瞑れることだ。
建物自体は随分と古いが、畳は綺麗に張りかえられているし広縁に続く障子も日焼けしていないあたり、最低限の手入れはされているようだ。
「ネットの書き込みだったんで半信半疑だったんですけど、無事にたどり着けてよかったです」
「ネットの……ですか?」
「はい、ネットの掲示板に」
スマホを取り出して、女将には見えないようにいつものオカルト掲示板を開く。さすがに怪しい文面は見せられないが、紹介されている一部くらいは見せても構わないだろう。
そう思ってスレッドを探したのだが、俺が見たはずのものはどこにもなかった。
――消されたのか?
あまりにも内容が適当すぎて荒しと見なされ消されてしまったのかもしれない。
まあ、なんであれどうでもいいことだ。
俺は実際にこの旅館にたどり着いているのだし、ここが普通の旅館でもちょうどいい傷心旅行になる。
俺がスマホを触っている間、女将さんはしばらく思い耽るように中空を見やっていた。それから何か合点がいったのか小さく頷く。そして胸の前で手を叩き、なるほど、と呟いて笑みを浮かべた。
なんだったのだろう。
「それでは、私は浴衣の用意をしてまいりますね。すぐにお茶もお入れしますのでもう少しだけお待ちください」
「あ、すみません」
「いえいえ。どうぞ、ごゆっくり」
礼をして淑やかに立ち上がった女将さんは、満面の笑みをこぼして立ち去っていった。
いちいち華やかに浮かぶ彼女の笑顔は可愛らしく、ついつい俺も鼻の下が伸びてしまう。
本当にここに来てよかった。
まだ振られた想い人のことが頭の隅をちらつくが、女将さんの天使のような笑顔だけで、傷ついた心も少しは癒えるというものだろう。
あの怪しい書き込みに感謝しながら、深く座椅子に腰を沈めて疲れた身体を休めることにした。
鋭い小枝が手首をかすめ、痛みに歯を食いしばる。
軽装で出かけたのは失敗だっただろうか。Tシャツとジーンズという格好で、俺――冴島悠斗(さえじまゆうと)は夜の山道を一人歩いていた。
地図もなく、スマホも圏外。荷物といえば背中に担いだ中サイズのバックパックだけで、中には着替えや財布などといった最低限のものしかない。
そんな準備もままならない状態で舗装されていない暗がりの山道を歩けば、遭難するのも時間の問題だった。
案の定、いつの間にか進むべき方向すら見失ってしまった俺は、どこに続くかもわからない獣道だけを頼りに、ただがむしゃらに前へと進んでいた。
「ああもう。こんな予定じゃなかったのに。はあ、ついてない」
溜め息が漏れる。涙も溢れそうだ。
きかっけは、インターネットで行きつけのとあるオカルト掲示板の書き込みだった。大学でオカルト研究会に所属していることもあって、話題探しのために度々訪れている場所だ。
流し見ていると、ふと、あるスレッドに目が留まってしまった。
『あなたの探しているものが見つかります ご宿泊は、古旅館・古こんへ――』
オカルト掲示板で話すにはあまりに場違いだし具体性に欠けていた。それなのに、よく見れば住所だけはしっかりと書かれている。
「探してるものってなんだよ。オカルト掲示板だし心霊現象とかか?」
見るからに怪しい。
どうせ適当なことを書いた釣り記事なのだろう。
常識的な判断ならば無視が安定だ。
しかしこの時の俺は、もう何もかもがどうでもいい気分になっていた。
その日、俺は生まれてはじめての失恋を経験したのだ。
それはもうショックだった。酒をあおって部屋に引きこもるくらいには。
そして、どうせ落ち込んでいるのならば、馬鹿みたいなことをしてガッカリを上塗りしよう。なんて、きっと酔っ払いながらに考えてしまったのだ。
「……行ってみるか」
そう思ってからは早かった。
傷心旅行だと銘打って、次の日には書き込みにあった場所を目指して家を飛び出した。
――そして結果、迷子になった。
がさり、と前方の茂みで物音が立つ。
暗くて様子はわからないが何かがいるのだろうか。
鹿か猪か、まさか熊なんてこともあるだろうか。
もし出会いでもすればそれこそ本当に死ぬかもしれない。
「……ったく、勘弁してくれよぉ」
朦朧と意識が浮ついていた俺も、さすがに緊張が走って我に帰る。恐怖心がこみ上げてきて、足が竦みそうになった。
また物音が鳴った。
今度は目の前の茂みからだった。
目を凝らして見つめると、突然に何かが飛び出してきた。
小さく、真っ暗で輪郭しかわからないが、それはまさしく人影だった。
――どうしてこんな山奥に。
疑問に思ったが、その人影はすぐに茂みの奥へと走り去ってしまう。
「あ、ちょっと待ってくれ」
俺は慌てて追いかけた。
道のない道を、茂みを掻き分けて進んだ。
枝が腕に引っかかって痛い。
足場が凸凹していて、踏み外しそうになるのを堪える。
ただとにかく、あの暗闇に消えた人影だけを頼りに走り続けた。
まるで夜中に誘蛾灯を見つけて引き寄せられる虫のように――。
しばらくすると開けた場所にたどり着いた。
脇には古めかしい灯篭が立っていて、まっすぐ続く砂利道に沿って並んでいる。その明かりが伸びる先――俺が頭を持ち上げて見上げたその向こうに、木造の古旅館が佇んでいた。
「……本当にあったんだ」
近くの灯篭の傍に掲げられていた木板の看板を見て確信する。
温泉旅館『古こん』
闇夜にぽつりと佇むその建物は木の柱や庇が見るからに傷んでいて、何十年も昔に建てられたのだろうと思われる風貌だった。
二階建ての純和風建築だ。
立派な鬼の顔をした屋根瓦が独特の威圧感を放っている。
山奥にひっそりと一軒だけ存在するというだけでも異質な雰囲気なのに、建物の古さや山の中の鬱蒼とした暗さも相まって、さながら幽霊屋敷のようだ。
もしかすると、あの書き込みで見た通り、本当に何か特別なことが起こるいわくつきの旅館なのだろうか。
ずっと眉唾に思っていた手前、途端に怖くなってしまう。
だがせっかくここまで来たのだし、帰ろうにも道がわからない。
俺は意を決して旅館の扉を開いた。
すべり悪い引き戸を開けると、中はごく普通の旅館のフロントだった。非常灯の明かりだけが館内を照らしている。
「ごめんください」と俺が叫ぶと、しばらくして照明がついた。
眩しい光に眼が潰れそうになる。
やがてフロントの奥から人影が現れた。
寂れた山奥の古旅館だ。
雰囲気からして幽霊か何かが出てくるかと身構えたが、しかし現れたその人を見て俺は拍子抜けした顔を浮かべてしまった。
現れたのは妙齢の女性だった。
綺麗な着物を身につけ、腰まで伸びた艶やかな黒髪が揺れる。
まるで日本人形のように綺麗で整った佇まいだ。やや幼げだが鼻の高い美人な顔立ちで、体つきは細身だが、丁寧に着付けされた着物の下からこれでもかと膨らんだ二つの大きな胸が存在感を示していた。
その女性は俺に気づくと、そそくさと小走りにやって来て、丁寧に膝をついて頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました。お泊りでしょうか」
あまりに唐突だったため、俺は面食らってたじろいでしまった。
「い、いや。ここにはたまたまたどり着いて……」
「まあ。こんな時間にですか?」
「ええ、まあ」
まさか普通の旅館の応対をされるとは。
よもやネットの怪しい書き込みを見て、尋ねてきたとは言い難い空気だ。出迎えてくれたこの女性の笑顔を曇らせる真似はさすがにできない。
着物姿の女性は終始丁寧な受け答えで俺を中へと招き入れてくれた。
旅館は特に珍しくもない内装だった。
赤いカーペットが敷かれたロビーには、裏山に面した庭を見渡せる壁一面のガラス張り。小さなリクライニングチェアがぽつりと置かれていて景観を楽しめる造りになっている。
傍には小さな売店コーナーがある。自動販売機も設置されていた。山奥という立地だが、旅館自体はごく普通のもののようだ。
昔に家族で温泉旅行に行ったときの事を思い出す。
木造の古い旅館の雰囲気はどこも同じで、建物中から溢れる独特な木の香りに心を落ち着かせた。
気がつけば夜の八時を過ぎており、俺はその旅館で一泊することにした。
女性の案内で部屋へと通される。十畳ほどの和室で、座椅子に腰掛けるとい草の香りが鼻腔をくすぐった。
脇息に肘をかけて疲れた身体を座布団に沈ませる。
すると傍に正座をした女性がおしぼりを差し出してくれた。
彼女はこの旅館の女将らしい。
女将といえばもっと年配の女性を想像するが、若々しい外見にしては、随分と落ち着いた佇まいで堂に入っている。
おそらく俺と同い年か、それよりも下なのではないだろうか。
「見ての通りあまり豪華な宿ではありませんが、どうぞゆっくりとごくつろぎください」
「いえいえ。予約もしてないのに急に入れてもらって助かりました」
「今日はお客様がいらっしゃらなかったので開店休業だったんですよ。ですからおかまいなく」
怪異旅館という雰囲気ではないが、奇妙であることは間違いない。
どうしてこんな若い女の子が女将をやっているのだろう。
大学生の同級生とそう変わらない風貌なのに不思議なものだ。
家業なのだろうか。
佇まいからして奥ゆかしく丁寧で育ちの良さを感じられる。綺麗な所作に着物が映え、絵に描いたような大和撫子だ。
彼女の黒い髪がなびく度に華やかな香りが漂う。
「それにしても、よくこの旅館にたどり着けましたね。ここは随分と奥地にありますから、あまり訪れる方も少ないんです」
「そうなんですか」
「ここには偶然?」
「いや、実はこういうとこに旅館があるって紹介されたんですよ」
嘘は言っていない。
意図のよくわからない眉唾な話だったが、それを信じて来てよかったと思う。
これほど可愛らしい女将さんに迎えてもらえるのだから役得というものだろう。
それに比べれば、部屋の壁紙が所々禿げていたり柱に大きな傷が入っていたり、角が染みのような斑点で汚れていたりしても、まあ目を瞑れることだ。
建物自体は随分と古いが、畳は綺麗に張りかえられているし広縁に続く障子も日焼けしていないあたり、最低限の手入れはされているようだ。
「ネットの書き込みだったんで半信半疑だったんですけど、無事にたどり着けてよかったです」
「ネットの……ですか?」
「はい、ネットの掲示板に」
スマホを取り出して、女将には見えないようにいつものオカルト掲示板を開く。さすがに怪しい文面は見せられないが、紹介されている一部くらいは見せても構わないだろう。
そう思ってスレッドを探したのだが、俺が見たはずのものはどこにもなかった。
――消されたのか?
あまりにも内容が適当すぎて荒しと見なされ消されてしまったのかもしれない。
まあ、なんであれどうでもいいことだ。
俺は実際にこの旅館にたどり着いているのだし、ここが普通の旅館でもちょうどいい傷心旅行になる。
俺がスマホを触っている間、女将さんはしばらく思い耽るように中空を見やっていた。それから何か合点がいったのか小さく頷く。そして胸の前で手を叩き、なるほど、と呟いて笑みを浮かべた。
なんだったのだろう。
「それでは、私は浴衣の用意をしてまいりますね。すぐにお茶もお入れしますのでもう少しだけお待ちください」
「あ、すみません」
「いえいえ。どうぞ、ごゆっくり」
礼をして淑やかに立ち上がった女将さんは、満面の笑みをこぼして立ち去っていった。
いちいち華やかに浮かぶ彼女の笑顔は可愛らしく、ついつい俺も鼻の下が伸びてしまう。
本当にここに来てよかった。
まだ振られた想い人のことが頭の隅をちらつくが、女将さんの天使のような笑顔だけで、傷ついた心も少しは癒えるというものだろう。
あの怪しい書き込みに感謝しながら、深く座椅子に腰を沈めて疲れた身体を休めることにした。
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