13 / 30
○第2話 三つ目看板猫となかよし夫婦
-2 『老夫婦』
しおりを挟む
「…………ソルテ。ソルテ」
呼ばれていることに気づき、ソルテははっと顔を持ち上げた。
カウンターに座っていたはずの沙織の姿はなく、甘い香りもほとんど薄れている。黄色い光が差し込んでいた南向きの窓は、外にオレンジ色の空を覗かせるようになっていた。
「寝すぎだよー、ソルテ」
顔を近づけてきた美咲に指先で顔をつんと小突かれて、ソルテは自分がいつの間にか転寝してしまっていたことに気づいた。
「お腹が垂れてるよー。よく寝る子はすくすく育つからね」
にまにまと笑顔を浮かべながら今度は腹を突いてくる。
ぶよぶよと脂肪が弾み、ソルテは「ふぎゃあ」と泣き声を上げて飛び逃げた。
あれだけ美咲がうるさかったのにまさか眠ってしまったとは。相当に眠気が溜まっていたのだろうか。不覚である。
大急ぎで棚を伝って天井の梁へと昇ると、今度こそ落ち着いて寝転がった。
数刻もしないうちに日も沈んで閉店時間を迎える。
この様子ではもうほとんど来客もないだろう。今度はゆっくりと、邪魔をされずに眠るとしよう。と、ソルテが欠伸をしていた時だった。
静かにドアベルが鳴った。
マスターと美咲が「いらっしゃいませ」とほぼ同時に声を投げかける。
「まだやっていますか」と扉の向こうから顔をのぞかせたのは、一人のおばあさんだった。
「やっていますよ。美咲ちゃん、案内をしてあげて」
「かしこまりました!」
おぼんとオーダー表を持って美咲がおばあさんを案内する。
一人だけの来客かと思ったが、ソルテはおばあさんの後ろにもう一人、同じ歳ほどの男性が一緒にいることに気づいた。
二人ともおそらく七十代くらいの年齢で、おばあさんはふわりとパーマがかかったような白髪、おじいさんは天頂が薄く剥げた白髪まじりの黒髪だ。
おそらく夫婦なのだろう。おばあさんが窓際のテーブル席に腰掛けると、おじいさんもその奥に寄り添うように腰を下ろしていた。
おばあさんは肩に提げていた鞄から本や手帳、それに眼鏡や一枚の写真を取り出して机に並べる。厚手のコートを脱いで脇に寄せ、厚紙のメニュー表を開いた。
「あらあら、いっぱいあるのね。迷ってしまうわ。おじいさんの好きそうなものはあるかしら」
眼鏡をかけてメニューを見ていくおばあさん。その隣で、おじいさんも腕を組んで目を細めながら睨むようにメニューに目を通していた。
「ご注文は何にしましょうか」と美咲が尋ねる。
「ああ、ごめんなさい。ちょっとまだ決めていなくて」
「大丈夫ですよ。ゆっくり決めてもらえれば」
「ごめんなさいね」
おばあさんの口調はとても穏やかで、喋り方からして温和な性格が滲み出ているようだった。目尻の深いしわのせいもあって、常に笑っているような、優しさに溢れた表情をしている。
それに反しおじいさんはずっと仏頂面のように険しい顔つきだ。
ある意味ではプラスとマイナスでバランスがいいとも言えるだろうか。
「コーヒーもいっぱいメニューがあるのねえ。ねえおじいさん。このエスプレッソってどういう意味なのかしら。ちゃんとしたコーヒーなんてあまり飲んだことがなかったから、初めての感覚ね。まるで子どもになったみたい。このキリマンジャロとか、とても大きそうじゃなあい? って、あなたに言ってもわからないわよね。コーヒーが苦手だもの。あなたに付き合ったせいで、朝食は毎朝麦茶だったものね。変なこだわりがあるんだから困ったものよ」
楽しそうにおじいさんに語りかけながら、おばあさんはメニューを見ていく。
やがて、
「じゃあこれで」とおばあさんがメニュー表を指出したのを見て、美咲が注文を書き留めた。
「ブレンドコーヒーをお一つでよろしいですか」
「ええ、それでおねがい。ごめんなさいね、もたもたしてしまって。旦那はあまり外で珈琲が好きではないの。だからいつもはこういったお店に来る機会がなかったのだけれど。今日は思い切って入っちゃったわ」
「そうなんですね」
「旦那は『余所の泥水で沸かした茶など飲めるか』っていうのが口癖で。ただ珈琲が苦手なだけなのに強がっちゃってね。外ではまったくの無口のくせに、家の中だけは我が物顔で威勢がいいの。ねえ、あなた」
おばあさんが、表情一つ変えないおじいさんの顔を見つめながら言う。茶化すような弾んだ口調に、隣にいたおじいさんは気恥ずかしそうに顔を赤くして眉をひそめていた。
「こういったお店の珈琲はどんな味なのか楽しみだわ」
「期待してください。うちの珈琲はとっても美味しいですから。……まあ、淹れるのは私じゃなくてマスターさんですけど」
「ふふ。期待しているわ」
美咲が注文をマスターに伝えに行こうとした時、ふと頭上のソルテに声をかけてきた。
「ソルテ、何を見ているの?」
さっきからソルテがおじいさんばかりを見ているから気になったのだろう。
しかしソルテにはどう答える手段もなく、ただ執拗に、一点を見つめるばかりでいた。おばあさんの隣でじっとしているおじいさんがどうしても気になってしまって目が離せないのだ。
「そこで寝てたらいつか落っこちちゃうよー」
と美咲は嘲笑を浮かべながらマスターの元に注文を届けに行った。
そんな間抜けをするはずがない。
これでもソルテは一端の猫である。
呼ばれていることに気づき、ソルテははっと顔を持ち上げた。
カウンターに座っていたはずの沙織の姿はなく、甘い香りもほとんど薄れている。黄色い光が差し込んでいた南向きの窓は、外にオレンジ色の空を覗かせるようになっていた。
「寝すぎだよー、ソルテ」
顔を近づけてきた美咲に指先で顔をつんと小突かれて、ソルテは自分がいつの間にか転寝してしまっていたことに気づいた。
「お腹が垂れてるよー。よく寝る子はすくすく育つからね」
にまにまと笑顔を浮かべながら今度は腹を突いてくる。
ぶよぶよと脂肪が弾み、ソルテは「ふぎゃあ」と泣き声を上げて飛び逃げた。
あれだけ美咲がうるさかったのにまさか眠ってしまったとは。相当に眠気が溜まっていたのだろうか。不覚である。
大急ぎで棚を伝って天井の梁へと昇ると、今度こそ落ち着いて寝転がった。
数刻もしないうちに日も沈んで閉店時間を迎える。
この様子ではもうほとんど来客もないだろう。今度はゆっくりと、邪魔をされずに眠るとしよう。と、ソルテが欠伸をしていた時だった。
静かにドアベルが鳴った。
マスターと美咲が「いらっしゃいませ」とほぼ同時に声を投げかける。
「まだやっていますか」と扉の向こうから顔をのぞかせたのは、一人のおばあさんだった。
「やっていますよ。美咲ちゃん、案内をしてあげて」
「かしこまりました!」
おぼんとオーダー表を持って美咲がおばあさんを案内する。
一人だけの来客かと思ったが、ソルテはおばあさんの後ろにもう一人、同じ歳ほどの男性が一緒にいることに気づいた。
二人ともおそらく七十代くらいの年齢で、おばあさんはふわりとパーマがかかったような白髪、おじいさんは天頂が薄く剥げた白髪まじりの黒髪だ。
おそらく夫婦なのだろう。おばあさんが窓際のテーブル席に腰掛けると、おじいさんもその奥に寄り添うように腰を下ろしていた。
おばあさんは肩に提げていた鞄から本や手帳、それに眼鏡や一枚の写真を取り出して机に並べる。厚手のコートを脱いで脇に寄せ、厚紙のメニュー表を開いた。
「あらあら、いっぱいあるのね。迷ってしまうわ。おじいさんの好きそうなものはあるかしら」
眼鏡をかけてメニューを見ていくおばあさん。その隣で、おじいさんも腕を組んで目を細めながら睨むようにメニューに目を通していた。
「ご注文は何にしましょうか」と美咲が尋ねる。
「ああ、ごめんなさい。ちょっとまだ決めていなくて」
「大丈夫ですよ。ゆっくり決めてもらえれば」
「ごめんなさいね」
おばあさんの口調はとても穏やかで、喋り方からして温和な性格が滲み出ているようだった。目尻の深いしわのせいもあって、常に笑っているような、優しさに溢れた表情をしている。
それに反しおじいさんはずっと仏頂面のように険しい顔つきだ。
ある意味ではプラスとマイナスでバランスがいいとも言えるだろうか。
「コーヒーもいっぱいメニューがあるのねえ。ねえおじいさん。このエスプレッソってどういう意味なのかしら。ちゃんとしたコーヒーなんてあまり飲んだことがなかったから、初めての感覚ね。まるで子どもになったみたい。このキリマンジャロとか、とても大きそうじゃなあい? って、あなたに言ってもわからないわよね。コーヒーが苦手だもの。あなたに付き合ったせいで、朝食は毎朝麦茶だったものね。変なこだわりがあるんだから困ったものよ」
楽しそうにおじいさんに語りかけながら、おばあさんはメニューを見ていく。
やがて、
「じゃあこれで」とおばあさんがメニュー表を指出したのを見て、美咲が注文を書き留めた。
「ブレンドコーヒーをお一つでよろしいですか」
「ええ、それでおねがい。ごめんなさいね、もたもたしてしまって。旦那はあまり外で珈琲が好きではないの。だからいつもはこういったお店に来る機会がなかったのだけれど。今日は思い切って入っちゃったわ」
「そうなんですね」
「旦那は『余所の泥水で沸かした茶など飲めるか』っていうのが口癖で。ただ珈琲が苦手なだけなのに強がっちゃってね。外ではまったくの無口のくせに、家の中だけは我が物顔で威勢がいいの。ねえ、あなた」
おばあさんが、表情一つ変えないおじいさんの顔を見つめながら言う。茶化すような弾んだ口調に、隣にいたおじいさんは気恥ずかしそうに顔を赤くして眉をひそめていた。
「こういったお店の珈琲はどんな味なのか楽しみだわ」
「期待してください。うちの珈琲はとっても美味しいですから。……まあ、淹れるのは私じゃなくてマスターさんですけど」
「ふふ。期待しているわ」
美咲が注文をマスターに伝えに行こうとした時、ふと頭上のソルテに声をかけてきた。
「ソルテ、何を見ているの?」
さっきからソルテがおじいさんばかりを見ているから気になったのだろう。
しかしソルテにはどう答える手段もなく、ただ執拗に、一点を見つめるばかりでいた。おばあさんの隣でじっとしているおじいさんがどうしても気になってしまって目が離せないのだ。
「そこで寝てたらいつか落っこちちゃうよー」
と美咲は嘲笑を浮かべながらマスターの元に注文を届けに行った。
そんな間抜けをするはずがない。
これでもソルテは一端の猫である。
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
夫の不貞現場を目撃してしまいました
秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。
何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。
そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。
なろう様でも掲載しております。
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない
絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。
【完結】一夜の関係を結んだ相手の正体はスパダリヤクザでした~甘い執着で離してくれません!~
中山紡希
恋愛
ある出来事をキッカケに出会った容姿端麗な男の魅力に抗えず、一夜の関係を結んだ萌音。
翌朝目を覚ますと「俺の嫁になれ」と言い寄られる。
けれど、その上半身には昨晩は気付かなかった刺青が彫られていて……。
「久我組の若頭だ」
一夜の関係を結んだ相手は……ヤクザでした。
※R18
※性的描写ありますのでご注意ください
【完結】王太子妃の初恋
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
カテリーナは王太子妃。しかし、政略のための結婚でアレクサンドル王太子からは嫌われている。
王太子が側妃を娶ったため、カテリーナはお役御免とばかりに王宮の外れにある森の中の宮殿に追いやられてしまう。
しかし、カテリーナはちょうど良かったと思っていた。婚約者時代からの激務で目が悪くなっていて、これ以上は公務も社交も難しいと考えていたからだ。
そんなカテリーナが湖畔で一人の男に出会い、恋をするまでとその後。
★ざまぁはありません。
全話予約投稿済。
携帯投稿のため誤字脱字多くて申し訳ありません。
報告ありがとうございます。
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる