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○第2話 三つ目看板猫となかよし夫婦

 -2 『老夫婦』

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「…………ソルテ。ソルテ」

 呼ばれていることに気づき、ソルテははっと顔を持ち上げた。

 カウンターに座っていたはずの沙織の姿はなく、甘い香りもほとんど薄れている。黄色い光が差し込んでいた南向きの窓は、外にオレンジ色の空を覗かせるようになっていた。

「寝すぎだよー、ソルテ」

 顔を近づけてきた美咲に指先で顔をつんと小突かれて、ソルテは自分がいつの間にか転寝してしまっていたことに気づいた。

「お腹が垂れてるよー。よく寝る子はすくすく育つからね」

 にまにまと笑顔を浮かべながら今度は腹を突いてくる。
 ぶよぶよと脂肪が弾み、ソルテは「ふぎゃあ」と泣き声を上げて飛び逃げた。

 あれだけ美咲がうるさかったのにまさか眠ってしまったとは。相当に眠気が溜まっていたのだろうか。不覚である。

 大急ぎで棚を伝って天井の梁へと昇ると、今度こそ落ち着いて寝転がった。

 数刻もしないうちに日も沈んで閉店時間を迎える。
 この様子ではもうほとんど来客もないだろう。今度はゆっくりと、邪魔をされずに眠るとしよう。と、ソルテが欠伸をしていた時だった。

 静かにドアベルが鳴った。

 マスターと美咲が「いらっしゃいませ」とほぼ同時に声を投げかける。
「まだやっていますか」と扉の向こうから顔をのぞかせたのは、一人のおばあさんだった。

「やっていますよ。美咲ちゃん、案内をしてあげて」
「かしこまりました!」

 おぼんとオーダー表を持って美咲がおばあさんを案内する。
 一人だけの来客かと思ったが、ソルテはおばあさんの後ろにもう一人、同じ歳ほどの男性が一緒にいることに気づいた。

 二人ともおそらく七十代くらいの年齢で、おばあさんはふわりとパーマがかかったような白髪、おじいさんは天頂が薄く剥げた白髪まじりの黒髪だ。

 おそらく夫婦なのだろう。おばあさんが窓際のテーブル席に腰掛けると、おじいさんもその奥に寄り添うように腰を下ろしていた。

 おばあさんは肩に提げていた鞄から本や手帳、それに眼鏡や一枚の写真を取り出して机に並べる。厚手のコートを脱いで脇に寄せ、厚紙のメニュー表を開いた。

「あらあら、いっぱいあるのね。迷ってしまうわ。おじいさんの好きそうなものはあるかしら」

 眼鏡をかけてメニューを見ていくおばあさん。その隣で、おじいさんも腕を組んで目を細めながら睨むようにメニューに目を通していた。

「ご注文は何にしましょうか」と美咲が尋ねる。

「ああ、ごめんなさい。ちょっとまだ決めていなくて」
「大丈夫ですよ。ゆっくり決めてもらえれば」
「ごめんなさいね」

 おばあさんの口調はとても穏やかで、喋り方からして温和な性格が滲み出ているようだった。目尻の深いしわのせいもあって、常に笑っているような、優しさに溢れた表情をしている。

 それに反しおじいさんはずっと仏頂面のように険しい顔つきだ。
 ある意味ではプラスとマイナスでバランスがいいとも言えるだろうか。

「コーヒーもいっぱいメニューがあるのねえ。ねえおじいさん。このエスプレッソってどういう意味なのかしら。ちゃんとしたコーヒーなんてあまり飲んだことがなかったから、初めての感覚ね。まるで子どもになったみたい。このキリマンジャロとか、とても大きそうじゃなあい? って、あなたに言ってもわからないわよね。コーヒーが苦手だもの。あなたに付き合ったせいで、朝食は毎朝麦茶だったものね。変なこだわりがあるんだから困ったものよ」

 楽しそうにおじいさんに語りかけながら、おばあさんはメニューを見ていく。

 やがて、

「じゃあこれで」とおばあさんがメニュー表を指出したのを見て、美咲が注文を書き留めた。

「ブレンドコーヒーをお一つでよろしいですか」
「ええ、それでおねがい。ごめんなさいね、もたもたしてしまって。旦那はあまり外で珈琲が好きではないの。だからいつもはこういったお店に来る機会がなかったのだけれど。今日は思い切って入っちゃったわ」

「そうなんですね」
「旦那は『余所の泥水で沸かした茶など飲めるか』っていうのが口癖で。ただ珈琲が苦手なだけなのに強がっちゃってね。外ではまったくの無口のくせに、家の中だけは我が物顔で威勢がいいの。ねえ、あなた」

 おばあさんが、表情一つ変えないおじいさんの顔を見つめながら言う。茶化すような弾んだ口調に、隣にいたおじいさんは気恥ずかしそうに顔を赤くして眉をひそめていた。

「こういったお店の珈琲はどんな味なのか楽しみだわ」
「期待してください。うちの珈琲はとっても美味しいですから。……まあ、淹れるのは私じゃなくてマスターさんですけど」
「ふふ。期待しているわ」

 美咲が注文をマスターに伝えに行こうとした時、ふと頭上のソルテに声をかけてきた。

「ソルテ、何を見ているの?」

 さっきからソルテがおじいさんばかりを見ているから気になったのだろう。

 しかしソルテにはどう答える手段もなく、ただ執拗に、一点を見つめるばかりでいた。おばあさんの隣でじっとしているおじいさんがどうしても気になってしまって目が離せないのだ。

「そこで寝てたらいつか落っこちちゃうよー」

 と美咲は嘲笑を浮かべながらマスターの元に注文を届けに行った。

 そんな間抜けをするはずがない。
 これでもソルテは一端の猫である。
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