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○2章 あやめ荘の愛おしき日常

 -15『彼女の世界』

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「まったく、その程度で痛がるなんて。どれだけ打たれ弱いのよ」

 溜め息まじりにアーシェが呟いた。

「まるで筋肉の欠片もない小枝のような腕。私の世界じゃ三日も生き残れないでしょうね」
「どれだけ恐い世界なんだよ」

 異世界とはそれほどに野蛮なところなのだろうか。

「それはもう壮絶なものよ。弱い者は強い者に喰われて終わる。ただそれだけ。ものすごく単純で、つまらない世界。こんなぬるま湯に浸れているなんて、それだけで幸せね」

 異世界のことを思い出しているのか、彼女の瞳はどこか遠くを見つめているようだった。

「シエラやエルナトを見ててもそんな恐い感じはしないけどな」
「あの子達は既に統治されている領域の出身だもの。多少の紛争はあれど、平和なものよ」
「アーシェの住んでいる場所は違うのか」

「昔は完全に違ったわ。統べる存在もいなくて、誰もが自分の好きなままに力を行使して跋扈していた。私たちの種族は元より実力主義なところがあるから、強い者が正義なのよ。けれど、最近はそれでも治まってきた感じかしら」
「統べる存在ってのが現れたのか」

「私たちにはもともと王族と呼ばれる絶対的な力を持った血統がいたわ。王が健在の時は誰もがその力にひれ伏して傅いていた。けれど前王が亡くなった時に、次に継ぐはずだった前王の子はあまりに非力で幼すぎたの。実力主義の私たちの世界では、その跡継ぎは瞬く間に玉座を追われたわ。数多の同胞だった者に狙われて命からがらに逃げ出した」

「本当に壮絶だな。けど、いまは統治されたんだろ。新しい王に乗っ取られたって感じか」
「いいえ、そうはならなかったわ。結局、死地から戻ってきた前王の子によって再び統治されたの。それが五年くらい前の話」
「へえ、すごいな。王の帰還。映画ドラマみたいだ」

 冗談のつもりで笑い飛ばしたが、それを聞くアーシェの表情は決して面白いものではなかった。ただ懐古とも郷愁ともとれないような虚ろ気な眼差しで中空を眺めているばかりだった。

 こんな血生臭い話、俺たちの世界でも世界史などでは同じような話だってあるかもしれないが、現代日本ではまず聞かないことだ。それほどに、目の前の少女とは文字通り住む世界が違うのだと痛感させられる。

「権力争いだとか、弱肉強食だとか。そんなの、俺にはまったくわからないし、関係ないよ」
「そうでしょうね」
「ああ、そうさ」

 鬱蒼とした話に、しかし俺はにっと笑む。

「だってここは温泉旅館。俗世も忘れて疲れを癒す、これ以上ない極楽施設なんだぜ。この場所に、そんな物騒な話なんて似合わないよ」
「これ以上ないだなんて、自分で言うの?」

「言うさ。自信の無いサービスなんてサービスじゃない。俺たちは、自分たちにいまできる最高の持て成しを、いまできる最大限に行えるように、いつだって胸を張って客を待ってる。だから、ここにきた人には最大限に楽しんでもらいたいし、そうさせる自信だってある」

 というのはふみかさんからの受け売りだ。実際に実践できているかはわからないが、その言葉の意味はとても深く染み入る。

「どんな事情があろうとも、どんな客が来ようとも、ひとたびこの旅館の敷居をまたいだお客様たちには自信を持って言うんだ。『ようこそ、温泉旅館あやめ荘へ!』ってな。普段を忘れて誰もが素直な笑顔になれる憩いの場所、それがここ、あやめ荘だからな」

 自信満々に鼻を高くして言う俺に、アーシェは鏡面越しに呆れ顔を浮かべていた。そうして深く息を吐く。

「普段を忘れる、ね。そうね。たしかに、貴方を見ていると肩肘張っていることが馬鹿らしく思えてくるわ」
「それは褒めてるのか?」
「さあ、どうかしら」

 そう言うとアーシェはくすりと微笑んだ。
 これほど素直な笑顔は初めて見たかもしれない。俺はなんだか、それを見てとても安心した。

「どうしたのよ、気持ち悪い」

 つい表情をにやけさせてしまっていたらしく、アーシェがせっかくの笑顔を潜めさせて怪訝に顔を歪める。

「いや、なに――」

 へへっ、と俺は照れくさく笑う。
「自分で言っておいてなんだけど、俺って、自分が思ってたほどにこの旅館が好きなんだなって思ってさ」

 五年前に引っ越してからはこの旅館と離れて、引っ越したアパートでは、朝起きたって朝風呂から帰ってきた湯上りのオッチャンが気前よく挨拶してくれることも無い、昼間によく中庭で日向ぼっこしている常連の熟練夫婦が毎年のように持ってくる土産話を聞かせてくれることも無い、晩飯でたくさんの料理を並べて宴会のようにどんちゃん騒ぎする賑やかな喧騒だって聞こえない。

 昔から身体に染み付いていた、あの旅館の喧騒を失ってしまった一抹の悲しさは確かにあった。いや、旅館を一度離れた今でこそ遅れて実感しているのかもしれない。

「昔っから、客は少なかったけど、来てくれたお客さんはみんな温泉や料理とかを楽しんでくれて。風呂上りや晩飯時なんかはみんな笑顔で。母さんたちも楽しそうに笑って接客するからすごく和気藹々としてて。小さかった俺には、まるでこの旅館そのものが笑顔でできた場所だって思ってたんだ」

 それが、俺にとってのあやめ荘の印象だ。
 こんな片田舎の寂れた旅館なんて面白くもなんともない。ただただ退屈で、何もない旅館。そう思っていた時期も、確かにある。

 けれど「温泉旅館」という場所は、まるで魔法のようにどこか特別さがあるのだ。

 土壁で囲まれた機能美ばかりが追求された箱のような現代家屋とは違う、古風で壮観な佇まいの純和風建築に囲まれた中で生活。

 近年では珍しくなってきた畳部屋や大きな風呂でさえも、日常から離れた特別な空間のように時間を演出してくれる。

 料理だって、お造りや煮物、酢の物、焼き魚に茶碗蒸し。お肉を並べた鉄板や湯豆腐などが入った鉄鍋の固形燃料に火をつけるわくわく感と、火が消えて鍋の蓋を開けたときの旨みが目に見えて飛び出してくるような豪快に立ち上る白い湯気。

 これにはたまらず涎が出そうになること必至だ。

 温泉旅館はやはり普段と違う特別な場所で、特別な気分に浸れる楽しい場所なのだ。チェックインして部屋の畳に倒れこんだ瞬間に、その魔法は誰にも等しくかけられる。

 そんな場所に女の子のつまらなそうな顔なんて似合わない。
 だからアーシェにはつい声をかけてしまったし、今、こうして笑ってくれることが凄く嬉しいことのように思うのだろう。

「昔はそうでもなかったのに。今になってふと気がついたよ」
「何を今更言ってるのよ。顔が十分そう喋ってるわ」
「マジか」
「見て御覧なさい」

 言われて鏡に映った俺の顔を見ると、俺は確かに随分と楽しそうに口許をほころばせていた。

 可笑しな話だな、と思う。

 ここでバイトを始めたのだって、田舎すぎるこの町から出て上京したいからだった。でも、別にこの旅館が嫌いというわけではなかった。

 むしろ、ここまで思っているのは好きということなのだろう。
 政府の買収によって離れ離れになってしまっていたそんな俺の旅館への気持ちが、アーシェやシエラ、エルナトたちによって呼び起こされたのかもしれない。

「アーシェも温泉、気に入っただろ?」
「絶対に二度と入らないわ。興味は無いし、結局、私がここにいる目的だって変わらないわ」

 せっかく融和の可能性を感じていたのに、つれないヤツだ。

「探し物、だっけか?」
「そうよ」
「いつも出かけてるけど、そんなに見つからないものなのか?」

 ふと、鏡越しに目が合う。

「……一つは見つかったわ。でも、もう一つ、見つけたいものが見つからないの」
「へえ」

 アーシェももう随分と長いことこの旅館にいる。
 それでも見つけられない何かとは、いったい何なのだろう。

 興味はあるが、それほど執着していることだ。
 詮索するのも迷惑だろうと思って、俺はただ頷き返すだけにしておいた。
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