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○2章 あやめ荘の愛おしき日常

 -14『まるで普通の少女のように』

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     ◆

 不思議な浮遊感があった。

 身体が揺さぶられている。
 トラックに乗って砂利道を走っているときのような、けれどどこか揺り籠の中にいるように心地良い、そんな不思議な感覚だった。

 温かい。
 手にはざらざらした細かい感触がある。

 昔、友たちが飼っている犬を撫でた時の様な、毛皮のようなふさふさだった。

 そんな、どこか懐かしい感覚。

 確かに覚えている。
 小さい頃、同じ感触を味わった覚えがある。でも何かよく思い出せない。

 わからないけど、でも、安心する。
 柔らかい布団のように安らかなぬくもり。

 自分は今、夢の中にいるのだろうか。
 この浮遊感は夢の中だからなのだろうか。

 そんな疑問も些末に思えて、今はただ、この気持ちよさにひたすら身を委ねたいと思うばかりだった。

     ◆

 目が覚めると木目の天井が眼前に広がっていた。

 布団が敷かれ、その上に横になっているのだと気づいた。
 夢の心地よい感触は厚手の羽毛布団のせいだったのだろうか。

 寝転んだまま、アーシェに殴られた頬を触ってみる。
 相当強く殴られたように思ったが、不思議と傷跡も痛みもなかった。

 布団を被せられてはいるが、タオル一枚の格好のままなので、風呂からそのままここに移動したのだろうとは想像がつく。

 身体を起こす。見慣れた光景だ。
 どうやらここは客室のようだった。

 ふと部屋を見渡していると、いつか見たときのように、広縁で椅子に腰をかけて窓の外を眺めているアーシェの姿があった。

 どうやらここは彼女の部屋のようだ。
 布団の脇に脱衣所で脱いだはずの俺の作務衣があり、ひとまず着替えることにした。

 衣擦れの音で俺に気づき、アーシェの視線がこちらに向く。

「目が覚めたのね」

 心配するというよりも、彼女らしい、感情のない冷淡な調子だった。

 殴り飛ばして気絶までさせておいて、悪びれる様子もなく素っ気無い態度をとるのはどうなんだ。と彼女に出会ったばかりの俺ならば怒ったことだろう。

 だが今は、彼女が俺の目を見て、俺に気が付いてくれているだけで何故か嬉しく思ってしまった。

 決して殴られたことを喜んでいる変態というわけではない。
 アーシェの方から最初に声をかけてきてくれたというだけで、随分と距離が近くなったように思ったのだ。

「まさか、アーシェがここまで運んできてくれたのか」
「……だから」
「え?」

 消え入るような声で呟いたアーシェの言葉が上手く聞き取れなかった。

 小首を傾げて呆けていると、アーシェは顔をすっかり背け、
「……私のせい、だから」とまた呟いた。

 以前の休憩室でのことも含め、やはり本質的に悪い子というわけではなさそうだ。

 ふとアーシェを見やる。
 よく見ると、彼女の髪はいまだ濡れたままのようだった。

 頭から垂れる銀色の髪。
 その床につきそうなほど長い毛先から微かに水滴まで零れ落ちている。

 床も傷むし髪も傷む。

 いてもたってもいられなくなった俺は、アーシェが抵抗する間も与えず彼女の手を引いて無理やり洗面所に連れて行った。

 鏡面台の前で、木製の編みこみでできたスツール椅子に腰掛けさせる。

 壁にかけられていた台からドライヤーを手に取ると、手馴れた手つきで彼女の柔らかい長髪を乾かし始めた。

「ちょっと、何するのよ」

 首を振ったりしてアーシェが抵抗する。

「こんなに濡れたまま放ったらかしていいわけないだろ」
「こんなの、自然と乾くわよ」
「そんなこと言ってたら風邪ひくぞ」

 昔、風呂上りの千穂がテレビ見たさに髪を乾かさずにいたことがある。次の日には高熱を出して倒れたのを看病する羽目になった。

 子どものように小柄でどこか放っておけない印象を持ってしまうアーシェを、千穂と重ねてつい世話を焼こうとしてしまうのだろう。兄というか、保護者のような気分だ。

 断り続けるアーシェに、俺は頑として譲らなかった。
 肘でうまく肩を押さえ、あまり動かないように固定させながらドライヤーを当てていく。

 その後もアーシェは不満そうに頬を膨らませて抵抗していたが、やがて大人しくなり、されるがまま髪を俺に預けるようになった。

「……貴方たちといると調子が狂う」

 独り言だろうか。
 ほとんど聞こえない擦れる様な声をアーシェが漏らした。

「こんなの、私じゃないわ。まるで子どもよ」

 その真意もわからず、俺はただドライヤーを当て続けた。

 ドライヤーを揺らして強い温風の熱を加減し、熱過ぎて髪が傷まないようにする。手櫛だと爪などで繊維質を傷めたり絡まったりする可能性があるので、アメニティグッズとして置いている使い捨ての櫛で梳いていく。

 温風を噴出すドライヤーの音と、髪が擦れる微かな音が洗面所を満たす。

 二人の間に言葉はなくて、でも、間違いなくアーシェは俺に身を任せてくれている。心だけが互いに踏み入っているような、そんな心地よい時間だった。

「それにしても本当に小柄だな。妹と接してるみたいだ」

 近づいた距離を確かめたくて、何の気なしに俺はそんなことを口走った。身を委ねて瞑っていたアーシェの目が開き、鏡越しに鋭く睨まれる。

 ――あれ、せっかく良い雰囲気だったのに機嫌を損ねちゃったか?

 反射的にパンチが飛んでくることも警戒したが、しかしアーシェは不敵に笑みを浮かべた。

「ふん。貴方こそ、まるで赤ん坊のように小さいじゃない」
「え、ど、どこのことだ?!」

 俺は同年代と比べて身長が小さいわけではない。むしろ高いほうだ。

 となると他の事――。

「もしかして」

 そういえば、さっき露天風呂でアーシェに押し倒された時のことを思い出す。

 もしかすると俺はあの時、俺の大事な息子が丸出しだったのではないか。いやしかし、エルナトがいた手前しっかりと腰にタオルを巻きつけていたはずだ。

 ……まさか、運ばれている時に覗き込まれたのか?

 咄嗟に股を閉じて手で押さえる。

「か、体つきの話に決まってるでしょ、馬鹿!」

 動きでアーシェも何かを察したのか、顔を赤らめ、激昂するように叫んだ。

 パンチは飛んでこなかったが、代わりに背を向けたまま俺の太ももへと肘鉄砲を食らわせてきた。パンチよりは威力こそ低いが、十分に痛く、俺は眉をひそめて悶絶した。
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