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○2章 あやめ荘の愛おしき日常

 -9 『異文化交流』

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 案の定、二人ともピン球をまともにラケットへ当てることすら不可能だった。

 サーブでピン球をうまく上に投げれなかったり空振りしたり。
 エルナトは回数を重ねるたびに少しずつ上達し始めていたが、おっとりとしたシエラは難航した。

 動きがどれもゆっくりで、運動が苦手なのだろうとよくわかる。

 背中に翼がついているせいもあって殊更動きづらそうだ。だが、身体のごく一部――具体的に言えば彼女が持っている大きな二つのボールだけは、身体が揺れるたびに激しく上下に揺さぶられている。

 浴衣はあまり胸元を締め付ける着物でもないので、我侭ボディが我侭に暴れまわっている惨状だ。非常に目のやりどころに困る。

 と、シエラを眺めながら鼻の下を伸ばしていると、

「……シエラ様に邪な目線を向ける輩は即刻排除します」

 不意に耳元で囁く声が聞こえ、寒気が走った。
 気づけばいつの間にか、俺の背後にマリーディアが立っていた。

 何か首筋に冷たくて鋭いものが当てられている気がするが、それが何なのか知りたくなくて振り向く勇気はない。

「い、いたんですか」
「シエラ様のいらっしゃるところに私はいます」
「て、哲学みたいですね」
「人生です」

 瞬間的に彼女の声が弾む。
 しかしすぐに凄んだ声に切り替わった。

「シエラ様には十分、無礼の無いよう。あなたには前科がありますので」
「は、はい。気をつけます」

 血の気が引く思いで頷くと、マリーディアは「よろしい」と言って持っていた何かをしまった。生きながらえたことに安堵した。

 やがて、空振りばかりするシエラを眺めていた千穂が駆け寄ってレクチャーを始めた。

「お姉ちゃん、こうだよ。こう」
「え、こうですか?」
「違うよ。ちゃんとラケットをまっすぐ持って」
「まっすぐってどっちでしょうか」

「横にするんだよ」
「横ですね。こうですか」
「ああー、その横じゃないよ。ラケットの面を真上にするんじゃなくって、真横にするの」
「真横? こうですか」
「ちがうよー」

 二人は今さっき知り合ったばかりだ。
 だがまるで仲の良い姉妹のような微笑ましい会話にほっこりとする。いまひとつかみ合ってはいないようだが。

「微笑ましい光景ですね」

 マリーディアが俺の背後で呟く。まだいたのか。

「頼むから妹には手を出さないでくださいよ」
「彼女は無害そうですので今のところ問題はありません」
「俺は有害なんですね」
「ええ、もちろん」

 背後で何か金属が擦れるような音がしたが、気づかなかったことにしておこう。

 千穂が一生懸命シエラに説明してくれている間に、俺もエルナトの面倒を見ることにした。決してマリーディアから逃げたわけではない。

「どうだ、できそうか?」

 声をかけると、エルナトはさっぱりといった風に肩を竦めてみせた。

「へえ、意外だな。エルナトはなんでもこなしそうな器用なイメージだったけど」
「うーん。ボクも普段はあんまり運動系じゃないんだよね。他の道具を使ってもいいんだったらもっとうまくできるのに」
「道具?」
「うん、そう」

 見ててね、とエルナトがどこからともなく小さな材木と工具を取り出してくる。
 その材木を削ったり割ったり組み合わせたり、図工の工作のように器用に加工していった。手馴れた手つきは素早く、あっという間に何かが組み上げられていく。

「じゃじゃーん。完成」

 そう言ってエルナトが卓球台の上に置いたのは、まるで顕微鏡の形のような丸い土台に足を突いた棒状の何かだった。

 幾つかの木材が腕関節のような形で繋ぎ合わさっており、その先には軽く握った手を模った丸い窪みがある。

 エルナトがその窪みにラケットを差し込むと、間接の一つについたレバーのような棒を引いた。すると腕のようなそれが動いてラケットを振り回し、エルナトがほうったピン球を的確に打ちつけて向こう側のコートの叩き込んだ。

「おおっ」と俺は思わず感心の声を漏らしてしまった。

「えへへ、すごいでしょ。名づけて卓球振り子くん」

 この短時間でこれだけのカラクリを作り上げるとは大したものだ。前にも手先が器用なことは見ていたがこれほどとは。

「工作するの大好きだからね。故郷の村でもいっぱい物作りをしてて、家具とか小物とか、たくさん作ったから慣れたものなんだ」

「へえ。だったらこっちでもまた何か作ればいいよ。中庭から抜けた建物の裏に資材置き場があるんだけど、使わなくなった木材がいっぱい置かれたままなんだ。使い道に困ってるって言ってたから使っちゃえばいい」
「おもしろそう。また考えておくね」

 エルナトは嬉しそうに笑いながら頷いた。

「でもそれより、スポーツは自分でやったほうが楽しいだろ。ちゃんと教えてやるよ」
「ええー、いいよ」
「遊びってのは自分でやってこそだぞ」

 エルナトのすぐ真横に歩み寄る。

 胸がないせいもあって、エルナトが少し前屈みになっただけで弛んだ浴衣の胸元から白雪のような肌が見え隠れした。ついつい目が吸い込まれてしまいそうになる。

「あれ、もしかしてボクにドキドキしちゃった?」
「男にドキドキするか、馬鹿」
「ええー、ほんとかな?」
「そうやって人で遊びやがって」

 えへへ、と舌を出しておどけるエルナトを気にせず、俺は背後に回りこんだ。
「いいか、こうやってだな」と後ろからエルナトの両手を握ってレクチャーしようとする。

 同性同士なのだから別に肌が触れ合うくらい大丈夫だろう、という軽い気持ちだった。

 しかしどういうわけか、エルナトは俺が両手に触れた瞬間にびくりと体を震わせた。かと思うと一度だけ俺に視線を流し、すぐに顔を伏せてしまった。

 手を動かしてラケットの振りを教えようとするが、掴んだ手は彫刻のように固まって動こうとしない。

「おい、どうしたんだ」

 声をかけても、エルナトは尚も俯いたままだった。
 後ろから抱き込むようになったエルナトの細い肩が微かに震えている。耳を澄ますと小刻みに荒くなった鼻息が聞こえた。

 ――なんだ。もしかしてこいつ、普段はあれだけ俺を挑発してきたくせに、いざ手が触れ合っただけで照れちゃってるのか?

 誘惑して調子に乗っているエルナトの思いがけない弱みを暴いてやったぜ、と最初は内心ニヤニヤしていた俺だったが、すぐに様子がおかしいことに気づいた。

 エルナトがようやく顔を持ち上げ、俺の方に振り返ってくる。
 大きくつぶらな空色の瞳が潤んでいる。頬ははっきりと赤らみ、蕩けたような表情を浮かべていた。

 瑞々しい桃色の唇を震わせ、か細い声でエルナトが呟く。

「あ、あの。ボク、その、そんな急に……まだ、心の準備が」

 男とは思えない、吐息を混ぜたような色気のある声だった。
 動きを教えようと手を握っただけなのにどうしてこうなったのか。

 さすがに様子がおかしいと思い、シエラに助けを請おうと視線を送る。彼女は俺たちを眺めながら、口を両手で覆って目を丸くしていた。

「まあ。すごいです、ハルさん」

 何故か驚いている様子だが、その理由がまったくわからない。

「な、なんなんだよいったい?!」
「ハルさん、大胆ですね」
「どういう意味だ」
「え? 意味って、そのままですよ」
「そのまま?」
「はい」

 シエラがにこりと頷く。

「ハルさんは、エルナトさんに婚約のお誘いをなさったんです」
「え――」

 シエラの言葉を理解するのに数秒かかった。そして、

「ええええええええええええええええっ!」

 あまりの衝撃的な事実に、俺は目が飛び出すほどの勢いで叫んでいた。

「お、お兄ちゃん?」と千穂も慌てて駆け寄ってくる。

 ――いや、違う。誤解だ。そもそもプロポーズなんてしていない!

 パニックのあまり、言いたい言葉が上手く喉を通って出てこない。

「そ、そもそも、なんでこれがプロポーズなんだよ」
「ご存知ないのですか?」
「何を」
「エルナトさんたちエルフ族の方々にとっては、背中から両の手を握る、という行為はとても真剣な求愛を意味するんですよ」
「……は?」

 なんだそれは。
 どんなローカルルールだ。意味がわからない。

「そんなつもりなんてないぞ。そもそも、何で手を握るだけで求愛になるんだよ」

「それはですね、エルフ族の生い立ちに関係があるんです。エルフ族の方たちは昔から森の奥で暮らす人たちでした。森に姿を隠して生活していた彼らは非常に警戒心が強く、他者に対しては決して隙を見せないほどに神経質だったそうです。今となっては森の外とも交流が盛んで開放的になっていますが、昔の習慣は残っています。その一つがこの、求愛の行為です」

「ただ手を握っただけだろ」

「いえ、それだけではありません。背後から、というのが大事なのです。かつては警戒心の高かったエルフ族にとって、誰かに背中に位置取られることは非常に不安を煽ることでした。そのため、何の警戒もなく背中に居ることを許せる相手とは、自分にとってとても信頼できる家族のような人だけだったのです。それに加え、両の手を握られるということは自分が抵抗することができなくなるということを意味しています。そうなってしまえば握ってきた相手に身を委ねるしかない。握った側は決して危害を加えない親しみを捧げる意味を、握られた側は全幅の信頼を寄せて身を委ねても構わないという意味を持ちます。この行為が指し示すのは、互いがそう思えるような相手だということなのです」

「……で、これがまさにその通りの行為だと?」

 エルナトの後ろに立ち、背後から両の手を掴んでいる自分を見返す。

 確かにその伝承の求愛のポーズ通りなのかもしれないが、とんだ見当違いもいいところだ。

 こっちの世界では誰かが他人にレクチャーするときに普通にやっていることだ。異世界の理屈が適用されるとするならば、全国いたるところで求愛されていることになる。

 いや、そもそもエルナトは自称男なのだ。
 男同士で求愛なんて無効に決まっている。

「なあ、エルナト。さすがにこれはノーカン……」

 だよな、と尋ねようとエルナトに視線を落とす。

 だが、いつの間にか身体ごと振り返り寄り添うように身を摺り寄せてきていたエルナトの顔がすぐ鼻先にまで近づき、俺は思わず途中で息を呑んでしまった。

 荒くなったエルナトの吐息が肌にかかる。
 潤んだ瞳で俺を見上げ、目が合うと慌てて視線を逸らし、片手で口許を隠して照れるようにエルナトが呟いた。

「有無を言わさずプロポーズしてくるだなんて。ハルって、意外と男らしいんだね」と。

「ちっがああああああああう!」

 心からの否定は、顔を上気させて呆けているエルナトへ届くことはなかった。
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