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1. 苦手
苦手 ②
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五月三週目の火曜日。
斉木晴日はベッドの上に胡座をかき、腕を組んで唸っていた。
見つからない。
四日前、たまたま耳にしたあの歌声の主を、夜な夜な捜し歩いている。
が、歌声はおろか、それらしき姿さえ見かけない。
「あの日だけだったんかなぁ……?」
だとしたら、見つけるのは絶望的だ。
声の張りからしてまだ若い。伸びの良いバリトンは、とても声通りが良かった。しかも上手い。きちんと発声訓練を受けている歌だった。
(スタンド・バイ・ミーだったよな、あれ)
どんな時でもそばにいて欲しい、そんな歌詞。
相手は恋人ではないけれど、今の晴日の心境に近い。
晴日はベッドに立て掛けていたアコースティックギターを爪弾き始めた。
スタンド・バイ・ミー。
(一体、どこのどいつだろう)
ちゃんと聴いてみたい。
発声訓練をしているくらいだから、バンドには興味がないかも知れない。もしかしたら、取り付く島もないほど無下にされるかも知れない。
しかし一縷の望み。
曲の間奏に入った頃、軽快なノック。程なくして扉が開き、妹の美空が顔を覗かせた。
「お兄ちゃん、ご飯だよ」
夕飯の支度が整ったことを妹は告げに来た。
「おうっ」
チラリと時計に視線を走らせる。十九時を少し回ったばかり。
晴日は手を止め、ギターをベッドの上に置いて立ち上がる。
「今日も捜しに行くの?」
少し心配げな面持ちで美空に問われた。
家族は全員知っている。
バンドの事となると聞く耳を持ち合わせていない長男を、言いくるめるのは無理と承知している両親は、インディーズデビューを期に何も言わなくなった。
特に母親は日米ハーフで、少女時代をアメリカで過ごし、大らかな両親の元で育ったためか、基本アバウトである。それを嫁にしている父親も大概アバウトだ。
「行く。もお藁にも縋りたい気分だもんよ」
「早く見つかるといいね」
「ほんとにな。今日は飯食ったら、公園辺りで張ってみるわ」
後ろ手に扉を閉めて、先に階段を下り始めた美空に続けざまに言う。
「涼、明後日手術だって。声聞けるの最後になるけど、明日一緒に行くか?」
「行く」
美空は、涼に可愛がられていた。
病気のことを知らせた時、二人で一晩泣き明かした。
「そうだ。お兄ちゃん。今日はあたしも付き合おうか? いつ現れるか分からないし、退屈でしょ?」
「妹と公園で過ごすって、可哀想な奴じゃん俺」
「付き合ってくれる彼女いないんだから仕方ないでしょ。あたしが嫌なら、竜ちゃん誘う?」
「竜助、今日いねぇもん」
「ああ、今日だっけ。如美お姉ちゃんの婚約者の家族と会食」
竜助と同様、二人の幼馴染みで、竜介の六歳上の姉。
二人にとって実の姉にも近い存在だった。
「結婚しちゃったら、気軽に遊んでもらえなくなるなぁ」
美空は、心底残念そうに呟いた。
女同士の内緒話をしていたのを晴日は知っている。いくら兄妹仲が良くて、晴日が美空を猫可愛がりに可愛がっているとしても、男には話しづらい事もあるのだろう。
「なお姉は結婚したって変わらないよ。心配すんなって」
晴日の大きな手が、ポンポンと優しく妹の頭を叩く。
見上げた美空に歯を見せて笑った。
「……うん」
「どれ、飯だ飯っ」
リビングダイニングへの扉を開け、「腹減ったあ」と言いながら、晴日は自分の席に着く。それに続いて美空も席に着いた。
食べたものが、ようやくこなれ始めた二十一時過ぎ、十玖は日課のランニングに出た。
これから十キロほど走る。コースはその日の気分。
ウォークマンの再生ボタンを押すと、間もなくヘッドホンから音楽が流れ出す。
軽くストレッチをして、軽快に走りだした。
音楽に合わせて口ずさむマイ・フェイバリットソング。ジャンル関係無しで、好きな曲だけ延々と流している。そのせいかノってくると熱唱してることも多々有り、母に騒音公害だと言われるので、極力気をつけてはいるが、音楽を聴かずに走ろうという気はさらさらない。
十玖にとってストレス発散法の一つだから。
走り出してかれこれ十分。
身長百八十六センチのストライドは大きく、十分でかなりの距離を稼ぐ。
一定の速度を保ちながら、淡々と走る十玖の歌が不意に止んだ。前方に人影を発見したからだ。
男女の二人連れ。
近付くに連れ、その一人が美空だと気がついた。
(……男連れ)
何となく面白くない。
十玖はムッとした面持ちでスピードを上げると、通り過ぎざまに男を睨みつけた。
美空は十玖の視線に気が付いたようで、あっという顔をしたが、十玖はそれに気付きもしなかった。
隣の男がムカついた。かと言って美空にそれを問い質す権利もなければ、軽く尋ねられるほど仲がいいわけでもない。
彼だろうか、と脳裏をかすめる。
美空に兄がいることは知っているが、会った事もなければ見かけたこともない十玖には知る由もない。
それから彼は悶々としたまま五十分弱を走り続けて、イライラを翌日まで持ち越すこととなるのだった。
美空は脇を走り抜けた十玖を振り返って、その姿を知らず追いかけていた。
「何だ、知ってる奴か?」
「あ~。同じクラスの奴」
「ふーん」
特に気にかけた風でもなく、さくさくと晴日は公園に歩いて行ってしまう。
美空はもう一度振り返って、十玖の消えた方を見た。
いつもなら、美空を見るはずだった。何か言いたげに。
一度も視線が絡むことがなかった。
それが妙に腹立たしい、と気が付いて美空は大声を張り上げた。
「なっ、なんだ急にっ!?」
「……何でもない。ごめん。気にしないで」
「驚かすなよ」
「だからごめんて」
たった今の腹立ちを忘れたかのような笑顔で、兄の腕にしがみ付く。
目が合ったら合ったで腹が立つくせに、無視されたらそれも腹が立つ。
(…あたしって、何様よ!)
夜道だし、単に気がつかなかっただけかも知れない。
しかし彼は晴日を睨んでいなかったか? と思い至り、そろそろと兄を見上げる。
晴日は十玖の事を知らない。一方的に恨みを買っている可能性がないでもない。
(お兄ちゃんなら有り得る)
良くも悪くも目立つ兄は、よくケンカを売られる。バンド仲間にも暴れん坊将軍と仇名されるくらいだ。しかも四割くらいは美空が原因だったりする。
子供の時から、美空に近付いて来る男子を蹴散らしてくれるのは、父の洗脳の賜物だ。その目を掻い潜って出来た彼氏には酷い振られ方をしたが、結末が分かるだけに兄には教えていない。
(受験前だったしね)
兄を浪人させるわけにもいかなかったし。
晴日は、公園入口の車よけに腰掛ける。
「早く来ねぇかなぁ」
「もう行ってなければいいけどね」
「ヤなこと言うなよ」
「すぐ出るって言ってたくせに、テレビにハマってたのは誰よ」
公園入口から一番近いブランコに腰掛けた美空が、溜息混じりに言う。
「すいません。俺ですね」
「ほんと捜す気あるのかなぁ?」
「あるぞっ。兄ちゃん頑張って必ず見つけ出すから、安心しろ」
「はいはい」
「信用してないな」
「お兄ちゃんたまにザルだから」
肝心な事をスルーしている時があるのは、直情的な性格ゆえか。
バリバリとひよこ頭を掻きむしる晴日を眺め、美空はまた十玖の走り去った方向を見つめる。
この時二人はニアミスをしていたことに気づかず、二時間近く公園で遊ぶ羽目になった。
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