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20 . Prisoner
Prisoner ⑨
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六月に入って最初の金曜日。
BEAT BEASTのホールを横切って、定位置に向かう途中で美空は唐突に足を止め、後ろから付いて来ていた萌と片岡姉弟が、怪訝な顔で彼女を見た。
想定外の人と対峙し、美空の頭が追い付いて来ない。
こんな偶然があっても別に不思議ではないのに、どこかで否定したがっている自分がいる。
まさかと思う場所で、まさかと思う人に偶然会ってしまった、微妙な居心地の悪さを感じ、引き攣りそうな顔で笑みを浮かべようとしてる美空を察したかのように、相手が先に口を開いた。
「奇遇ですねぇ。えっと……」
戸惑った笑みが美空を見下ろしてくる。
「あー兄が、ギターなんです。で、あたしもスタッフで」
そう言って首から下げたネームの紐を引き上げ、カメラを見せる。萌が後ろから袖をツンツンと引っ張り、訝しんだ目を相手に向けていた。
「誰? 美空さん」
「タロさんのスタジオ近くのコンビニの人で、ええと」
「藤田です」
名前を覚えていなかった美空から、言葉を引き取った藤田が軽く頭を下げた。萌は「ふ~ん」と鼻を鳴らし、不躾に探る目で見るのを止めない。困った笑みを浮かべる藤田に、美空が訊ねる番だった。
「えー…藤田さん?は、A・Dのファンとかではないですよね?」
「やっぱ分かります?」
「そりゃ。コンビニで兄に会っても平然としてたし、彼らのファンなら、あたしのこと知ってる人多いけど、そんな感じじゃなかったから」
職業柄素知らぬ振りをしても、瞳に喜色を浮かべたなら美空は見逃さない。これでも一応、被写体を見る目は養われているプロの端くれだ。
藤田がポリポリ頭を掻き、ホールに視線を巡らせる。
「実は知り合いがファンらしくて」
「連れて来られたパターンですか」
「まあ、そんなところです」
どこか歯切れの悪い口調に、美空の眉が微かに動いた。けれど、そんな事を突っ込んで聞いたところで仕様がない。
よく知らないバンドのメンバーの身内に会って、バツが悪いだけかも知れないと思うことにして、美空たちは藤田と別れて定位置に着いた。
少し高くなっている美空の位置から藤田の姿が見えるように、振り返って頭を下げた彼からも美空の居場所は目立つのだろう。
知り合いと合流したのか、隣の男性と何やら話している様だ。
もう振り返る様子はない。
メンバーたちがゾロゾロと姿を現し、ホールから嬌声が上がる。
竜助がカウントを取り、彼らのライヴが始まった。
(最近ライヴの度に違和感あるような……)
毎回変わり映えしない方がおかしいのだけど、明らかに何かが琴線に触れる。
無意識に藤田の姿を目で追い、美空は渋面になった。
近頃コンビニ以外の場所で、藤田との遭遇率が高過ぎると思うのは、美空の気のせいなんかではない。
まるで狙ったかのようなタイミング。
コンビニの帰りに言った晴日の言葉が思い出され、美空は振り払うように頭を振った。
「ははは、まさかね」
口中で呟き、カメラを構え直す。
マイクスタンドにしな垂れ掛かる十玖の視線が、不意にレンズ越しの美空を捉えた。強い眼差しが彼女を責め立てているようで、咄嗟にカメラを下ろしていた。
悪いことをしている訳じゃないのに、後ろ暗さを感じてしまう美空は、ドッドッドッと耳の奥で脈打つ心音が怖くなる。
(落ち着け、あたし)
狼狽えてはダメだと、自分に言い聞かせる。
十玖の視力は途轍もなく良い。
そして彼女のささやかな表情の変化すら見逃さないくらい、美空フェチだ。十玖本人が『美空の公認ストーカー』と言って憚らず、彼女を溺愛する彼に下手な誤魔化しは通用しない。
(だけど、十玖以外の男の姿を目で追ってましたなんて知ったら、百パーセント間違いなく、面倒になること請け合いじゃんかぁ)
ヤキモチを妬いた時の十玖の屁理屈に勝つ自信はない。
それで以てタジタジになって半ベソを掻き出した頃に甘やかされ、雪崩れ込むような彼の情欲に抗う術を持たないまま、寧ろ自らその情欲に取り込まれるだろう。ボロボロに疲れ果てるまで。
普段優しい分、嫉妬で怒っている時の十玖のしつこさは尋常じゃない。甘やかしと許しは必ずしもイコールではないのだ。
ふと視線を感じ、美空は十玖の眼差しから逃げるように目線を下に落とす。萌が何か言いたそうに、じーっと見ていた。
「…なに?」
「美空さん、なんか今日変」
「ど、どこが?」
「うーん。心ここに非ず? みたいな」
言葉に詰まった。
萌は偶にとんでもなく勘が働く時がある。鈍くてしょっちゅう晴日に苛められているのに、こんな時ばかり敏いのは勘弁して欲しい。
「先刻の人、一体何? 何かあるの?」
だから止めて欲しいとも言えず、言葉に窮していると、双子たちもこっちを窺いだした。ステージをチラリと見れば、十玖と目が合ったような気がする。
「何もないよ? や…なくもないんだけど、疚しいことはないからッ! 断じて」
「疚しいことある人が、疚しいですとは言わないよ?」
「ホントだってば」
「じゃあ、とーくちゃんに言っても良い?」
怒っている風な萌の上目遣い。美空の顔から瞬く間に血の気が引いた。
「や、その……え~っと」
「とーくちゃんが命張るほど、美空さんの事好きだから、萌諦めたんだよ? 裏切るようなこ「絶対にないからッ!!」
萌の言葉に被せて言葉を封じれば、周囲の客から非難めいた視線を食らった。美空はぎゅっと唇を結び、曲を止めずにこちらの様子を窺っているステージの四人に頭を下げ、もう一度萌に目を戻した。
有ること無いこと萌が吹聴しても困るので、これまでの事、思っている事をそのまま話すと、十玖たちに相談しようと彼女は言った。
正直気は進まない。話したその後を考えるだけで滅入る。
けど萌に話してしまった以上、美空が切り出さなければ彼女が話す。どちらにしろ内緒に出来ないなら、腹を括るしかないようだ。
ライヴが終了した後の控室。
ハグ付きの指定席で美空が意を決するように話すと、十玖よりも先ず晴日が憤怒の顔で「やっぱりかッ!」と声を荒げた。
やっぱりかも何も、偶然出会う頻度が高いと言っただけなのに、晴日の中では美空に懸想する男の設定が出来上がっているようで、ハラハラしながら兄を見る。
かつての晴日だったら、怒りの勢いに任せてとっくにこの場から走り去っていた事だろう。そうならなかったのは、萌が晴日にへばり付いて離れず、そんな彼女を力尽くで引き離せないと知っている萌の作戦勝ちだ。
(萌ちゃん、グッジョブ!)
完全に下心を手玉に取られている晴日である。
が、怒りは冷めやらぬようだ。
「アイツは最初から気に食わなかったんだッ!!」
「クゥちゃん絡みで晴が気に入る奴なんか、十玖以外いないだろ?」
小さい頃から斉木兄妹を見て来た竜助が言う。
「十玖と可愛い妹を天秤にかけて、泣く泣くクーちゃんを差し出したってのが、政略的で微妙~ぉだけどね」
当時の晴日が葛藤し、苦悶する様を思い出して謙人が一人ニヤニヤすると、筒井が「悪趣味ね」と彼の心を読んで苦笑する。
「上手く纏まったから良かったものの、クーちゃんにその気がなかったらアウトだったわよね」
「筒井マネまで言うか!? どんな手を使っても十玖を落とせって、プレッシャー掛けたよな!? お前ら全員でッ!」
唾を飛ばす勢いで三人を指差しながら言う晴日の手を叩き、筒井が「指差さないの」と窘め、ニコニコと美空を見て言を継ぐ。
「そこでしっかり契約書にサインさせたクーちゃんが、一番の功労者よねぇ。あんたたち頭上がらないわよねぇ」
偉い偉いと筒井に頭を撫でられて、些か複雑そうに美空が微笑む。
十玖を引き込むため、契約書片手に美空自ら餌になって迫った。
晴日に認めさせるために必要だったし、十玖も後悔はしていない。けど美空は、付き合う条件にして縛り付けたようで、心苦しが未だに胸を掠める。
結果として十玖は幸せそうなので、気に病む必要はないのだろうけど。
すっかり毒気を抜かれた十玖が、溜息混じりに口を開いた。
「僕がまんまと引き込まれた云々より、これ以上心配事を増やさない方法はないですか? 僕が目を離した隙に毎回こんなんじゃ、とても身が持たない」
ボヤいて美空を見、また溜息を吐く。
美空とて、好き好んで心配させたい訳ではない。十玖の顔を不満たっぷりに睨み付けるが、彼の溜息を深くしただけだった。
美空の頭を左腕で抱え込んで、十玖はコツンと額を当てると「ほんと……困る」とまた溜息とともに呟く。
こう何度も溜息を吐かれては、立つ瀬がないではないか。
とは言え、文句言ったところで馬耳東風だろうなと思う。
晴日は萌の頭頂に顎を置いて二ッと美空を見、十玖に視線を移した。
「俺の妹なんだから、美人なのは仕方ないだろ」
「それは何自慢ですか。僕は別に、美空が美人だから惚れたんじゃありませんよ。でなきゃ誰がこんな面倒臭いお兄さんがいるのに、我慢するもんですか」
「しばくぞ」
「返り討ちにして差し上げます」
中指を立てた晴日に、中指を立て返す十玖。二人は筒井に「下品ッ」と平手で頭を叩かれ、その彼女は「トークはこんな子じゃなかったのに」と晴日を一睨みして嘆く。
晴日の下品下世話な所は、感化されて欲しくない。筒井の意見には美空も賛成なので、十玖の目をジッと見ながら大きく何度も頷くと、途端にシュンとなった。
大型犬が耳を垂れて項垂れる様に萌えて、によによと頭を撫でていると、天から「いいなぁ」の呟きが聞こえた。
「美空はダメだよ?」
腕の中にがっしりと抱き込んだ十玖が、警戒心も露わに天を見る。
「そんな難易度高い所狙いません」
天はきっぱり言い切ったのに、十玖は胡乱な目で彼を見ている。
警戒モードの十玖に天が怯え、一様に困った笑みを浮かべる中で謙人が立ち上がり、仏の微笑を浮かべて十玖を見ると、「場所を移そうか」と底冷えのする声で宣うのだった。
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