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【番外編 1】君じゃなきゃダメだから、ね?

君じゃなきゃダメだから、ね? ①

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 新年度に入って、まだまだ忙しない毎日が続いているそんなある日の早朝。
 怜と愛姫あきが目を覚ますよりも早く、梓は大欠伸をしながら一階のポストまで新聞を取りに降り、当直だった管理会社の男性社員に呼び止められた。
 黒のスーツを早朝の時間帯にも拘らずビシッと着こなし、明るめの黒髪は後れ毛一本も許さない完璧さで撫で付けられている。特に特徴のある面立ちではないけど、『真面目が服を着て歩く見本だよね』といつも梓は思う。怜からアラフォーだと聞いた時は、失礼な話もっと上かと思っていたので、驚きで言葉に詰まったのは、彼には内緒だ。
 隙なくいつも柔和な微笑みを湛えているその彼が、珍しく瞳の奥に何かしらの動揺を滲ませている。

「ご主人様は、お目覚めになられましたでしょうか?」
「まだですけど。……何か有りました?」

 眼を瞬き、怪訝に首を傾げた。
 ほんの一瞬だったけれど、コンシェルジュの眉が動いたのを見逃さない。微笑みが常備の彼の表情の変化を捉えるべく、凝視するのは最早恒例の事だ。
 不測の事態でも発生したのか。

 梓たちが住むマンションは、怜が後継者を放棄して南条の家から出る時に、相続分の一つとして譲渡されたマンションだ。つまり彼はここのオーナーである。
 コンシェルジュは、その “オーナー” に話があると言っているのだ。

「代わりに伺いますけど?」
「いえ、ご主人様に直接伺う必要のある案件でして」

 平静な物言いで返してくるのに、どうにも歯切れの悪さを感じる。
 梓には言えない事だろうか?
 何となく胡乱な眼差しで見ていたのかも知れない。彼は困ったように微笑んだ。
 ジッと見た所で、彼が言わないと決めたなら、口が裂けたって梓に言う筈がない。そのように教育をされている。
 それに伝言なら出来るけど、意見を求められた梓の門外漢だ。
 梓は頷くと、怜を起こしに自宅へと戻って行った。



 疲れきって寝ていた怜を叩き起こし、管理室に送り出してから小一時間もすると、玄関が開く気配がして、梓は廊下に顔を出した。
 玄関で佇む怜は、真っ白な顔をして大きな荷物をいくつか抱え、茫然としている。

「怜くん、どうしたの? その荷物……」

 言葉が続かなくなった。
 梓もお世話になったとても身近な形状のものが、怜の右手にしっかり持たれている。
 籐で編まれた篭の淵にレースがぐるりと飾られ、中で何やら蠢いていた。そして左肩にはパンパンにはち切れそうになったバッグ。

(……ちょっと待て。このシチュエーションって)

 ドラマなんかで見たことがあるぞ、と眉間に力が入る。

(まさか怜くんに限って……ないない)

 咄嗟に否定する。
 が、それでは目の前の状況の説明が付かない。

(預かった?……誰から?)

 いろんな考えが浮かぶたびに打ち消して、ショックから立ち直れないまま、梓は「どーゆ―ことか説明して」とフラフラと怜に近付きながら言葉にしていた。
 焦点が合っていない瞳を揺らし、怜が顔を上げる。

「ぼ……僕にも、さっぱり」
「男との浮気は想定内だったけど、この事態は完全に想定外だったかな」
「はっ!? それってどう言う意味だよ!」
「怜くん煩い。兎に角。玄関は冷えるわ。風邪引かせたら可哀想よ」

 ジロッと怜を見て、梓は踵を返してスタスタとリビングに戻った。 



 ベビーキャリーですやすや眠っている赤ん坊をソファから眺め、梓から吐くともなしに溜息が零れる。
 怜の浮気を疑っている訳ではないけど、ここに赤ん坊がいる事実は変わらない。
 梓は赤ん坊に添えられていた手紙をテーブルに放るように置き、赤ん坊の脇に正座して眺め下ろしたまま、途方に暮れている怜に視線を送る。
 絶対に身に覚えはないが、絶対と言える根拠をコンシェルジュに話すことも出来ず、名指しされている以上、安易に警察に預けて、管理会社の社員たちとの信用問題になっても困ると判断したそうだ。

(そりゃまあね。あたしと結婚して子供までいるのに、元々ゲイなんですって、説得力ないばかりか、無責任男と取られなくもないもんねぇ)

 今後の円滑な関係の為にも、僅かな傷さえ付けたくないだろう。
 怜は『僕の子じゃないけど』ときつく言い置いて、梓なら判ってくれるはずだと信じて管理室を出たのに、部屋に近付くに連れて足取りは重くなり、しばらく玄関前でウロウロしていたらしい。
 で、そうこうしているうちに時間ばかりが経ってしまい、段々悪い方向にばかり考えが行くようになって、管理室にもう一度預けようかと踵を返した時、小さなクシャミが聞こえて腹を括った、と言うのが玄関に佇むまでの顛末らしい。

「……本当に」

 怜がそう切り出したところで、ベビースピーカーから物音が聞こえだし、直ぐに「まんまぁままぁ」と一歳を過ぎたばかりの娘の、愛らしい声がリビングに響いた。
 ここで平時ならば『パパが行くよぉ』と小躍りでもしそうな足取りで向かう怜だけど、今日ばかりはそうもいかないと、ぐっと堪えている。ちょっと憐れな姿を一瞥し、梓は愛姫の元へ急いだ。
 愛娘の着替えを済ませ、伝い歩きを始めた愛姫の手を取ってリビングに戻ると、ラグの上でオムツ替えマットを広げ、今更ながら「男の子だ」と呟いている怜に遭遇する。

「手紙に “息子の千尋です” って書いてあったよ?」

 呆気に取られながら言うと、怜は『えっ!?』って顔でテーブルの手紙を振り返り、千尋の小さなイチモツに目を落として、「女の子だと思ってた」と力なく言う。
 確かに女の子でも通りそうなくらい整って、優しい面立ちだ。
 そう思うと、信じている心算でも “怜の子なんじゃ” と勘繰ってしまうのは、彼に対する裏切りだろうか?
 束の間呆けていた怜が、ハッとして梓を振り返る。

「僕の子じゃないからね! アズちゃん以外の女じゃ勃たないの、実証済みだよね!?」
「それって二年以上前の話だよね?」

 強制的に脱処女の目に遭った当時が甦り、梓の顔から表情が消える。怜はしまったとばかりに露骨に顔を背け、いそいそとオムツ替えを始めた。
 梓が疲れ果てて眠りこけている間に、ノーマルのエッチ動画でもその気になるのか検証した結果、男の方に勃っても女には一切勃たなかったと報告を受けた時は、反省の色が全くない怜に腸が煮えくり返ったものだ。
 怜に絆されて付き合うようになってからも、二回ほど眼前で検証され『アズちゃんだけでしょ?』と得意げに言った彼を見ながら、“浮気は男とか”と確信した瞬間でもあった。

(そもそも、あたしがイレギュラーなんだし、男相手なら間違っても子ど……やっぱムカつくッ!)

 梓だけだと豪語していたにも拘わらず、怜の子供だと預けられた赤ん坊を、どう解釈したらいいのだろう。
 身長は見た限り六十センチ前後。平均的な成長をしている子なら、二か月という所だ。
 怜がオムツを変えているのを見て、見慣れぬモノに警戒していた愛姫が、梓の手を振り解いて千尋の隣にちょこんと座った。
 不思議そうにオムツ替えを覗いている愛姫をぼうっと眺め、頭の中では逆算が始まっている。

(二月前半に生まれたとして、正期産で生まれたなら……去年の、五月頃か)

 愛姫が生まれて、毎日がてんやわんやだった。
 生後半年までの在宅勤務時期と丁度重なる。怜はたまに会社に顔を出してはいたけど、速攻返って来る馬鹿っぷりだった。今もだけど。
 一秒たりとも愛姫の傍を離れたくないと、翔相手に子供みたいな駄々を捏ねて捥ぎ取った時期を間違えたりしない。

(愛姫にメロメロになってる怜くんが、浮気とか、ある訳ないな)

 梓とよりも怜と一緒に居た時間の方が断然長いはずだ。梓とべったりなのは授乳の時くらいで、それも隣で怜が羨ましそうに見ていた。ふと脳裏に『おっぱい飲んでみていい?』と真剣に言った、残念な映像まで甦って顔を顰める。
 でもお陰で産後の日立ちも順調だったし、毎日快眠だった。怜くん様様である。
 となると、思考は振出しに戻るしかない。
 梓は味噌汁を温め直しながら、コンロの前で「う~ん」と唸った。

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