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9. うん。まあそれなりに……?

うん。まあそれなりに……? ⑫

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 彩織が梓と二人だけでと言うので、怜の仕事部屋で話を聞くことにした。
 専門書が収められている壁一面の本棚と机だけの簡素な部屋に、寝室から持ち込んだガラステーブルを置き、リビングから持ち込んだクッションに腰を下ろしている。

 ドリップコーヒーの香りが部屋を揺蕩うように広がり、ホッとするはずの空間で梓は上目遣いに彩織を窺っていた。
 話があると言っていたのに一向にその気配を見せず、落ち着いた面持ちでコーヒーを飲む彩織に、内心バクバクしている。
 出会ってから何かと振り回されている三魔女の一人が相手では、今度は何だと戦々恐々な目で見てしまうのは弱者の習性と言っていいだろう。怜もかなり梓を振り回すけど、弟である彼が苦手とするほどだから、梓が脅えない訳がない。

(悪い人たちじゃないんだけどね、うん)

 寧ろ大事にしてくれるし、凄く可愛がられている。それはとても有難い事だけど、ただ常識を突き抜けている所が多々あり、悲しいかな、根っからの庶民である梓が着いて行けないだけなのだろうと思っている。

 まんじりともしない時間が居たたまれず、覚悟を決めて「それでお話というのは?」怖ず怖ずと切り出してみた。彩織は上目遣いでチラッと梓を見、カップを置いて溜息を吐く。その一連の動作に、訳もなく『ひえ~』と心の中で悲鳴を上げてしまった。

(顔見て溜息吐かれること、何かしたっけあたし……?)

 この溜めが怖い。いっそのことさっさと断罪してくれないかと、やや自棄になっていると、ようやく彩織が「実はね」と口を開いた。彼女の迷っているような口振りで、梓の断罪の線は消え、心の冷や汗を拭いながら安堵する。

「何か、お悩みですか?」

 彩織は小さく頷き、それでもチラチラと梓を見ながら何度も言い躊躇う。
 彼女が意を決したのは、それから優に十分も経った頃。

「あのね……暫らくここで、匿って、くれない?」
「は? だったらあたしじゃなくて、怜くんに頼んだ方が」
「そうなんだけど……」

 やけに歯切れが悪い。
 彩織は溜息を吐き、胸に抱き寄せた膝に顔を伏せる。

「何があったんですか?」

 言いたくないわけではないけど、言い辛い。そんな空気を醸し出している彩織をしげしげと見遣ると、目だけ覗かせてこっちを見る彩織と視線が合う。

「匿うって、なんか穏やかじゃないですよね?」
「だよねぇ」
「誰から匿うんですか?」
「……シオ姉さん」

 溜めて吐き出した名前に、梓はこてんと首を傾げた。
 姉妹喧嘩だろうか?
 仲の良い二人にしては、珍しい事もあるもんだ。逃げている所を見ると、今回は彩織が悪いのだろう。

「仲直りした方が、良いのでは?」
「無理」

 即答した彩織に困った笑顔を浮かべ、「そもそも原因は何です?」と期待しないで訊いてみたのだけど、彼女はあっさり口を割った。

「妊娠した」
「……え?」
「それがバレて、結婚しなさいって迫られて、逃げ出して来た」
「え…? ……え――――ッ!?」

 吃驚仰天をまんま体現した梓は、目を大きくひん剥き、顎は外れんばかりに開かれて、辛うじて後ろに引っ繰り返るのだけは留めた。
 寝耳に水とはこの事だ。
 愕然と彩織を見詰めていると、梓の声を聞きつけた男三人が、何事かと飛び込んで来た。彩織は「あっち行って」と素気無く追い払う。

 彼女が誰かと付き合っているなんて話は聞いていない。恐らく怜も知らないだろう。
 どれだけ上手く隠して来たのか。
 基本、嘘や隠し事に向いていない梓には、真似できない芸当だ。
 梓はドッドッドッと脈打つ胸を押さえ、居住まいを正した。

「あ、あの。お相手の方って、聞いてもいいですか?」

 そう訊ねたものの、本当に訊いていいものだか心配になる。何しろずっと隠されてきた人だ。人にはおいそれと話せない相手の可能性もある。

(彩織お姉さんに限って、ふ、不倫とか、ないと、思いたい。けど、結婚から逃げるって、つまり、そゆこと?)

 動悸の上に今度は額に変な汗まで掻いてくる。

「――――た」
「……え?」

 自分の心臓の音が大き過ぎて、肝心の事を聞き損ねた。

「すみません。もう一度」
「だから、城田」
「………はい? しろた、ってあの? カメラマンで、お姉さんの同級生の?」
「それ以外に居ないわね」

 顎がカクンって落ちそうになったのを、苦笑する彩織が閉じてくれる。梓の顎を一撫でし、「そりゃ驚くわよねぇ」テーブルに頬杖を着いて溜息混じりに言う彩織は、憂いを帯びた笑みを口端に浮かべた。
 どうやら梓の聞き間違いではないらしい。

(城田さんと…犬猿の仲、の筈では……? いや。仲良くなるのは、もちろん良い事なんだけど……城田さんって……)

 梓の困惑を正しく読み取った彩織は、「言いたい事は解る」ともう一度溜息を吐いた。



 一年半以上前に、彩織と城田は十五年ぶりの再会を果たした。
 梓に託けて、彩織がやたらと城田に絡んでいたのは知っている。
 彼女が泥酔するたびに怜は城田に呼び出され、文句を言いつつ姉を自宅まで送り届けていた。
 しかしそれも、城田が南米に撮影旅行に行ってしまうとピタリと治まり、帰国した後も特に変わらなかったので、一年も間が空けばそんなものかと思っていた。

 なのに。
 怜が呼び出されなかっただけで、二人の仲は着実に進展していたらしい。
 何だかちょっと複雑な心境だ。
 梓を好きだと言ってくれた人が、彩織の相手で、お腹の子の父親とは。
 城田にはこの先も変わらず、梓を好きでいて欲しかったとか、そんな自惚れた事を思って困惑しているのではない。彼には幸せになって貰いたいと思うし、その気持ちに嘘偽りはない。
 ないけど、もし彩織と結婚することになったら、義兄になり、怜とのしがらみが少しばかり怖く感じる。
 下手に仲よくしようものなら、怜の嫉妬が炸裂するのが目に見えるようだ。

(かと言って、無視も出来ないよねぇ……)

 何で選りにも選って城田なんだと、ちょっと恨めし気に彩織を見る。
 そして梓は、肝心なことを訊いていないことに思い至った。

「城田さんに、妊娠の事、話したんですか?」

 城田はまだ独身の筈だ。結婚しても問題がないはずなのに、彩織が躊躇する理由が分からない。
 もしかしたらと、厭な考えが頭を掠める。
 城田に限って、そんな事をするような情のない人とは思いたくないけれど。

「話してない」

 落ち着いた声音が返って来た。

「話してないって。ダメですよ、ちゃんと話さなきゃ」

 テーブルに身を乗り出し、真摯な目で彩織を見た。
 怜が聞いていたら『どの口が言ってる』と絶対に突っ込まれるだろう。何しろ梓も言いそびれて、隠し持っていたエコー写真からバレたクチだ。
 だからこそ、彩織の不安な気持ちが良く解る。
 梓の顔を見、大きな溜息を吐いて項垂れた。

「城田と、ちゃんと付き合ってるのかも怪しいのに、そんな事言える訳ない」
「えっ、それって。城田さんて、そんな人!? 付き合ってないのに、そんなこと出来る人ですかっ!?」

 梓の知っている城田は、相手に心配りのできる人だ。
 美空に頼まれたから、特別扱いだったとは到底思えない。

「そんな無責任な奴じゃない。けど」
「けど?」
「酔っぱらった勢いであたしが襲ったから、それで妊娠したとか、気不味いし、言い辛い」
「…あらぁ」

 しか返す言葉が出てこない。
 引き攣った笑いを浮かべていると、真っ赤な顔をした彩織が「ホント何やってるんだろ」と呟いた。
 彩織はすっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲み、ゆっくりと言を継ぐ。

「あたし、もう三十五だし、子供を産めるチャンスなんて、そうないと思うのよ。これを逃したら、また妊娠するかも分からないしね。だからこの子は産みたいの」

 そう言って下腹に手を当て、微笑んだ彩織の顔はとても穏やかで、優しい母親の顔をしている。

「たった一回しただけで妊娠したのは誤算だったけど、だから余計に城田に責任取って欲しいとは思わない。無理に結婚されても、みんなが可哀想じゃない?」

 小首を傾げて笑った彩織は、強がっている様にも、無理している様にも見えなかった。

「だから後ひと月半。結婚もせず、中絶が出来なくなるまで、シオ姉さんから匿って?」

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