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9. うん。まあそれなりに……?
うん。まあそれなりに……? ⑨
しおりを挟む⑧の終わり方が変な感じだったので、改稿しました。
始まりはちょっと被ってます。済みません。
*************************************
***
その日は唐突にやって来た。
つい昨日、検診に行って少し運動をするように指導を受けた梓は、普段フローリングモップで拭くところを四つん這いになって空拭きし、玄関の三和土を水拭きして満足気ににんまりと笑う。
家中のフローリングを雑巾掛けするのは、結構いい運動になる。安産の為のいいと先輩ママたちに聞いてから、たまに運動不足解消に床拭きをする。
怜には『熱くなってやり過ぎないでよ』と注意されたので、週に一回か二回のペースだ。『気合い入れ過ぎてお腹が張ってきちゃってさぁ』と、ついポロっと漏らしてしまったら、家に監視カメラを設置しようとしていたので、泣いて懇願し、諦めて貰った経緯もある。
ただでさえストーカー気質なのに、四六時中監視されるなんて冗談じゃない。
(そんな人を好きになったあたしにも、落ち度はあるけどさ)
俄かにお腹の張りを感じつつ、どこか虚ろな笑みを浮かべると、やれやれと立ち上がろうとして踏ん張る。お腹の辺りでプチっと音がした。それと同じくして太腿を伝い流れてくる生温かい水のようなもの。
お漏らし!? と一瞬焦った。
臨月に入ってから赤ちゃんが下がり始めて、膀胱を圧迫されるのでトイレが近い。実際漏らす寸前にまで追い詰められたことも有り、遂に遣っちまったか的な感覚だったのだけど、プチっていったよね? と冷静になってみる。
お腹の中で、風船が割れたような感じだった。
「これって、もしかして…破水?」
口にして急に不安になって来た。
怜に言われて、肌身離さず持ち歩いているスマホをエプロンのポケットから出し、何を思ったか由美に電話を掛けていた。
由美の声を聞いたら、急に気持ちが落ち着いた。
彼女に指示されたように病院に連絡して怜の帰りを待つ間、『感染症が怖いからシャワーしちゃダメよ』と釘を刺されたので、簡単に着替えだけ済ませる。言い付け通り大人しく待っていようと思ったけど、どうしても気になって「折角綺麗にしたのにぃ」と文句を言いつつ、濡らした三和土をささっと拭き、用意していた鞄を玄関先に置いた。
全然余裕、なんて笑っていたのは束の間のこと。
正直侮っていた。
最初は鈍い痛みが不規則に来ていたのが、怜が帰って来た時には、かなり間隔が狭くなっていて、入院準備の鞄を小脇に脂汗を滲ませた状態で玄関先に蹲り、怜が慌てて帰宅したらそんなだったので、大丈夫の言葉より先に彼の悲鳴を聞いた。
病院に着いた時には自力で歩けなくて車椅子で運ばれ、ベッドで悶絶すること三時間。
その時点で半分キレかかっていた。
人間、いつ終わるとも知れない激痛が続くと人格が崩壊するんだと、後になって思うのだが、この時はそんな余裕はない。
初産なのに陣痛の進行が早くて、「七センチ開大ね」と助産師に言われた時には、更に二時間経っていて、仕事を大急ぎで片付けた翔と由美が訪れた。
今のうちに何か食べた方が良いと言ってくれた由美に応えることも出来ず、取り敢えず水分補給だけはする。
そんな時に看護師が現れ、彼女が手に持っていたものを見るや「アナル洗浄か」と呟いた男二人に、由美は呆れ返り、梓は心底ブチ切れた。看護師の顔が僅かに引き攣っていたのは、この際見なかった事にする。
浣腸が呼び水になったのか、陣痛が激しさを増し、何をされても唸って威嚇する梓に、翔は「完全に野生に還ってるな」と怜に耳打ちしたけど、その頃には罵声を上げる気力はなくなっていた。
時間は刻々と過ぎるのに、まだ痛みは続くのか。
いい加減疲れてベッドの上で蹲り、「痛いよぉ」としくしく泣き始めると、やっと怜が梓の腰を擦り始めた。それまで迂闊に手を出せなかったらしい。
怜の手の温かさにウトウトし始め、意識が飛びかけた刹那、容赦なく現に呼び戻された。その時の形相は、翔曰『般若かと思った』そうだ。
因みに怜は『大丈夫。どんなアズちゃんでも…好きだよ?』と、麗しい微笑みを浮かべているのに目が泳いでいた。
兄も大概失礼だが、怜には感嘆符の意味と挙動不審を後から問い詰めねばなるまいと、心に誓った梓である。
破水してから八時間。遂に分娩台に舞台を移し、脚をベルトで固定されて、言い知れぬ恐怖に襲われる。
「ちょちょちょ、れ、れい、れい、あしあしあし~~~ぃ」
「大丈夫だから、落ち着いて」
隣で梓の手を握りしめて、そう言った怜の顔色も悪いし、小刻みに震えている。
これまでに内診台だって乗ったし、ドラマとかで出産のシーンは何度も見たことはあるけれど、実際に自分がその立場になったら違う。脚を大きく開かされた挙げ句、固定されるなんて怖すぎた。
起き上がって逃げ出そうにも、動いた瞬間なんかいろいろ漏れそうだし、先ず痛くて動けない。腹も括れず出てきた言葉は。
「ムリぃ。お家、か…帰ろ~よぉ」
家に帰ったところで事態は悪化するだけなのに、この時切実に家に帰りたくて仕方なかった。
痛さのせいで掠れた声を振り絞り、怜の腕に縋るように哀願する。と彼は梓の頭を抱き締めて、怜史上初といえるほどの狼狽して強ばりきった顔で「ムリ」を繰り返し、梓の潤んだ “お願い” の眼差しをダイレクトに受けると唇をぐっと噛み、半泣きの様相を呈した。
出来れば聞いてあげたいけど、堪えるように眉を寄せる。
「このまま連れ帰ったら、僕が無理だからっ。ホントごめん。無事生まれたら、アズちゃんの言うこと何でも聞いて上げるから、お願いです。頑張って下さい」
最後は敬語になるくらいには、怜も必死だ。梓はそんな彼をバシバシ叩く。
「れ……れいく…のばかぁ……だぃ、きらいだぁ」
「いいよ。それでも。僕はアズちゃんが好きだからね」
「れ………った、いっ……たぁ、お…お母さ~んんッ!」
八つ当たりされる怜には悪いけど、切羽詰まった状況に追い込まれると、思い出すのは母親の顔。仕舞いには「お母さん」と連呼しながら号泣し、「連れて来てぇ」ととんでもない無茶振りして、怜をほとほと困らせて。
「ほらほら。お父さんになるんでしょ。お母さんをちゃんとエスコートしなきゃ」
助産師にそう窘められて、怜は一瞬何のことかと眉を顰め、直ぐにハッとする。
立ち会うと決めて、父親学級に通ったことを危うく無駄にするところで、改めて梓の手を握った。それを見ていた助産師が目元を綻ばせる。
「お母さんも大変だけど、赤ちゃんも頑張ってるのよ。もうひと踏ん張りしたら会えるから、頑張って。ね?」
助産師が冷静に声を掛けてくれる。それが耳に入らないほど我を忘れてはいなかったけど、やっぱり痛いものは痛いわけで。
「もお一踏ん張りって、どれくらいぃ」
ふにゃふにゃの何とも情けない声で聞き返せば、「赤ちゃんの頑張り次第かな」と答えになっているんだかいないんだか。
思いの外テンパっていた怜も深呼吸すると、少々ぎこちない笑みを浮かべて梓を見る。
「一人で痛い思いさせてごめん。傍にいることしか出来ないけど、一緒にがんばろ?」
汗でしっとりした顔を手持ちのタオルで拭かれて、梓は瞳をうるっとさせる。小首を傾げた怜に見つめられ、小さく頷いた。
助産師の指示通り梓の呼吸を促す怜は、すっかり冷静さを取り戻していた。
梓も痛みを逃せるくらいには落ち着いたが、やっぱり「まだぁ? まだ、産まれない?」と疲れ切った声で何度もボヤいてしまうのは、致し方ないと納得して貰おう。
「なん……か、で…そう」
梓が苦しげに顔を歪めてそう言ったのは、二十三時近くなってからだ。
掴んでいた怜の手の甲に爪を立てた。
これが赤ちゃんなんだか、便意なんだか解らないけど、とにかく強烈な腹痛とともに産まれると言うよりは、出そうな感じ。
「次に波が来たらイキんで下さいね」
やっとイキんでいいとお許しを貰い、それだけで気持ちが楽になった。
イキミと短い呼吸を何度か繰り返し、顔が真っ赤になるほどイキミ続けると、ずるりとした感触。同時に嘘のように痛みが引いていく。
ぐったりとしている所に白い布に包まれた我が子を手渡され、その胸に抱いた瞬間、安堵と喜びに言葉が出ず、代わりに止め処ない涙が溢れてくる。
「ほらほら。垂らさないでよ?」
汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、怜が苦笑しながらタオルで拭いてくれる。梓は怜を振り仰いだ。
「れいく~ん。う"まれだ~ぁ」
「うん。アズちゃんよく頑張ったね。ありがとうね」
肩口に梓の頭を抱き寄せて頭頂に口付けし、我が子の頬を愛おしそうに突っつく。すると首を振って小さな口が指を探し始めた。
怜は慌てて手を引っ込めると、二人からクスリと笑いが漏れる。
「あ、汗臭い…でしょ?」
頭に頬を寄せたままの怜を離そうと身じろぐと、ぐっと引き寄せてまたキスをする。
「全然。梓の頑張りの証でしょ? ね。僕にも抱かせて?」
怜にそっと我が子を渡す。
甥や姪がいるからか、危なげなく抱き上げる怜の双眸が優しく細められ、「初めまして二号」と冗談混じりに言う。
「もおっ! 二号って言うの止めてって」
「だって見るからに梓二号だよ?」
そう言って向けられた顔は、確かに梓に似ているかも知れない。
唇を尖らせてじっと我が子を見、小さく唸った。
「怜くんに似たら、超美人さんになれたのに」
「僕はアズちゃんにそっくりでメチャクチャ嬉しいんだけど」
そう言う怜は、梓が引くくらい真剣な顔で『ママ似で生まれてくるんだよぉ』と只ならぬ念を送りながら毎日語っていた。お腹の中で “これはヤバい” と危機感を覚えた子が、造作を作り変えるくらいの事があったんではないかと、奇天烈な事を大真面目に考えていると、クスクス笑った看護師が「そろそろいいですか?」と手を出して近付いて来た。
生まれてすぐに抱っこさせてくれたので、まだ産湯にも浸かっていないことを思い出す。怜は名残惜しそうに手渡した。
「どちらに似ても美人さんじゃないですか。将来が楽しみですね」
赤ん坊の顔を覗き込んでにっこり微笑む看護師の言ったことが社交辞令だったとしても、我が子を褒められて怒る親はいない。
が。踵を返した背中を見送り、「美人さんだって」と振り返った怜の締まりのない顔を見たら、急に子供の将来が哀れに思えてきた梓だった。
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