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7. 怜、果たして彼女は本当に自分を好きなのか?

怜、果たして彼女は本当に自分を好きなのか? ⑰

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 少し落ち着きを取り戻すと、畳に額を擦り付けんばかりに、梓は平伏した。突然の土下座に、怜は湯呑を口に待って行ったままポカンと眺めている。

「心配かけてごめんなさい」

 初めて見る怜の浴衣に茶羽織姿が色っぽ過ぎると心の中で身悶えながら、彼の顔色をそろそろと窺うと、怜は緑茶を一口啜り、湯呑を茶托に戻した。

「もお分かったから。ただし、次はもうナシでね? アズちゃんが離れてくって思っただけで、冷水浴びた気がして心臓が止まりそうになる」

 そう言った彼が、梓の失踪を知った瞬間を思い出したように、苦し気に顔を歪めた。怜を苦しめたい訳ではないのに、こんな顔をさせてしまった浅はかさに胸が痛む。
 しかも梓が言いそびれてしまった妊娠を知り、怜の中にどんな思いが渦巻いていたのか想像するだけで胆が冷えた。
 妊娠初期に考えもなしに遠出して何かあった時、梓が子供を厭んで起こした行動だと思われても仕方ないことだ。『僕の子供なんかどうなっても良い?』と冷ややかな言葉を口にした怜が、ずっと脳裏から離れないでいる。
 マリッジブルーとマタニティブルーのダブルで、感情の起伏について行けず、一杯一杯になっていた梓の何かがぷつッと飛んで、衝動的な行動だったとしても、軽んじてしまった結果は拭えない。なのに怜は「僕こそごめん」と呟いた。

「アズちゃんがマリッジブルーなのに気が付いてたのに、もっと気遣ってあげれば良かったって思ってる。それにあれだけ中出ししてるんだから、妊娠の事だってもっと配慮するべきだったんだ。本当にごめんね?」

 頭を下げた怜が眉尻を下げて微笑み、「抱っこさせて」と両手を広げる。梓がちょっと躊躇っていると、怜は身体を揺すって「早く」と広げた腕を上下させた。
 四つん這いで怜の元に行く。すると待ちきれないとばかりに梓を引き寄せ、彼女を胡坐の上に座らせた。ぎゅっと抱き締め、すんすんと鼻を鳴らして梓の匂いを嗅ぎ、「アズちゃんの匂いだ」と鼻を擦り付ける。
 翔と言い怜と言い、どうして二人とも梓の匂いを嗅ぎ捲るのか。梓が困った笑みを浮かべると、首筋にチュッとキスをして来た。

「梓に捨てられたんじゃなくて良かった」

 耳元でしみじみと言われ、怜の頭を抱くように右腕を回し、柔らかな栗色の髪に指を滑らせた。肩越しに振り返って彼を見ると、そっと唇が重なりすぐ離れて行く。
 梓の下腹をゆっくり撫で、「ここに居るんだよね?」愛おしそうに目を細めた。梓を引き留めるためじゃないと、今の怜を見たら信じられる。
 暖かな手の熱が、お腹を包むようにじんわりと浸透し、耳元でクスクス笑う怜の悦びが伝わって来た。彼の愛情が染み入って、信じ切れないでいた頑なな心を優しく解していく。

 この一週間、ずっと躊躇っていた。
 もしかしたら、口で言うほど妊娠を喜ばないのではないか、その考えが拭えなくて、戸惑った怜の顔が無理して笑う想像ばかりが頭を巡る。怖くて何度も言葉を呑み込んだ。
 いつかは話さなければならないと理解はしていても、怯える感情が先に立ってしまい、時間が無為に流れて行った。

 怜の唇が首筋に口付け、「アズちゃん。愛してる」と耳を蕩かす声で呟く。舌先がチロっと悪戯に舐め、慣らされてしまっている身体がピクッと反応してしまった。
 いままで当たり前にして来た戯れあいだったのだけど。
 お互い暫らく無言になって、口火を切って来たのは当然怜だ。

「ねえ。妊娠中って、セックスしてもいいの?」

 眉を寄せて、今後怜には切実な問題になるであろう事を、真剣な顔で訊いてくる。

(うん。予想はしてたよ。絶対訊かれるなって)

 なのに答えはまだ用意してなかった。
 何と答えるべきか、頭の中でごちゃごちゃ考えていると、怜が半眼で梓を見て来た。顔を逸らせない様に顎を掴まれる。
 適当に誤魔化していい加減なことを言ったら、バレた時が怖い、そう思っていた矢先に先手を打たれた。 

「嘘ついたらグレるよ?」

 目が本気だ。
 怜がグレて良いことある訳ない。それは本能で感じる。
 なんかもう、また泣きそうだ。
 梓は恐る恐る怜を見て、妙な緊張感に喉を鳴らして息を呑む。医者に言われたことをそのまま伝えるだけなのに、どうしてなんだろう。

 目が泳ぎそうになるのを必死に堪えて怜を見れば、彼は片眉を持ち上げて見返してくる。
 必要以上に神経質になって、夫婦間にすれ違いを齎す方が、胎教に悪いと言われたが、積極的にどうこうしたいとも思わない。寧ろしなくてもいい感じだ。

(男の人は、そうじゃないんだろうなぁ)

 怜など毎日したいと言って憚らないのに。
 返事を待っている怜を見、何度か躊躇いつつやっと口を開く。

「……初期は、控えめにって。安定期に入っても、いつもみたいに奥にグイグイはダメで、お腹が張ってきたら中止して…って」
「中止!? 出来ないのも辛いけど、中止って、殺生な」

 情けなく眉を寄せ、途方に暮れた表情だ。
 途中で止められるほど辛いものはないと、以前、怜に聞いた気がする。
 どうにかならないのとでも言いたげな怜の眼差しに、先刻までのほっこり温かな感情が冷めて行くようだ。憮然として彼を見る。

「しょうがないじゃない。怜くんだよ。赤ちゃん欲しいって言ったの」
「……そうだよね。僕のせいだもんね」
「あの、怜くんのせいとかって言ってる訳じゃなくて、ちょっと我慢してって」
「わかった。アズちゃんの子、抱っこしたいから、努力する」

 梓をきゅっと抱き締め、肩に額を預けてくる。怜の遣る瀬無さそうな溜息が耳に届いた。

(我慢じゃなくて、努力なんだね?)  

 安定期に入ったら、梓の体調が許す限りという事だろうか。
 薄ら寒いものを感じて、梓は身震いをした。



 十九時前になって、徐にノックされると間髪入れずに「失礼します」と扉が開かれた。部屋を覗いて来たのは、先程フロントに立っていた年配の女性だ。
 怜の膝に座っている梓を見て、ほっこり微笑む。

「お食事をお持ちしました」

 中に入って来るとテーブルの上を手早く片付け、部屋係の仲居と一緒に配膳を始める。余計なことは一切口にしない。

「先刻は、ロビーで大泣きして済みませんでした」

 羞恥で顔を赤らめ、梓は深々と頭を下げた。
 怜が放してくれないから、彼の膝に座ったままになってしまったが、女性は「いえいえ」とコロコロ笑い、料理の説明をしながら皿を並べて行く。
 泊り客が何事かと目を丸くして梓たちを見、怜が彼女を抱っこして移動するまで寛容に見守っていてくれたのだ。はっきり言って迷惑な客だろうに。  

「落ち着かれたようで、何よりでございます」

 そう言った女性は、恐らく心配して見に来てくれたのだろうと思う。
 最後に鍋の固形燃料に火を点け、女性は梓ににこりと微笑む。

「赤ちゃんの為にしっかりと滋養を取って、ゆっくりとお寛ぎください」
「あ…ありがとう、ございます」

 自覚のまだない新米が、無茶な事をして怒られているのを一部始終見られ、迷惑と心配を掛けてしまったのだから、本当に申し訳ない。

「全部食べられるかな?」

 テーブル一杯にずらりと並んだ料理。
 旬の山菜や川魚は山間ならではだろう。キレイな赤に霜降りの入った山形牛を見て、ついニヤリと笑ってしまい、怜は「はいはい。僕のも食べていいからね」と最初から諦めている模様だ。
 しかし、と並べられた皿数の多さに梓が苦笑すると、怜が「滋養を付けてください」とおどけた顔をする。
 女性はクスクス笑って「ごゆっくり」と部屋を出て行った。

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