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6. 梓、ビビッて逃走する

梓、ビビッて逃走する ③

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 怜の心臓が早鐘を打っているみたいに、忙しい音を立てている。
 彼の胸にそっと手を押し当てて、梓は微笑んだ。

「ふふっ。怜くんでもこんなに緊張するんだね?」
「そりゃするでしょ。僕だって。女の子との恋愛は初心者だし。もお色々と上がったり下がったり心臓が大変なことになってるよ。毎回」

 顔を見ていると全くそんな風には見えなかったけれど、こうやって彼の心臓の音を聞いていると、そうなのかもと思う。
 怜は何度も髪にキスを落としてくる。

「ねえ。年末年始、ここに泊っても「ダメ!」

 怜の腕を振り切ってぐいっと顔を上げると、眉を寄せて彼を睨んだ。

「返事早過ぎでしょ。嘘でもちょっとは間を空けて」
「結果は同じじゃない」
「ホント釣れないなぁ。ねえ。本当にダメ? 絶対に何もしないから」
「男の何もしないは何かするの同義語だから、絶対に信用しちゃダメだって。前に由美さんが言ってたよ?」
「ゆ~ぅみ~ぃッ」

 怜のくぐもった声に「やっぱ何かする気だったんだ?」と胡乱な目で見遣ると、彼は慌てて否定する。

「会社休みで暇だし、だったら傍に居たいと思っただけで」
「年始くらい実家に顔出したら?」
「そしたら間違いなく、アズちゃんと結婚するって報告してくるけど良い? 女三人衆に捕まったら、もう引き返せな………うん。そうしよう。外堀からガッチリ埋めてこう」

 冴えてるなと独り言ちて、怜はワクワクした表情で何かを思案し始めた。慌てたのは梓だ。怜の行動力は時として怖いことを生み出す。彼の胸元をぎっちり掴んだ。

「あ、いや、ちょっと待って。報告はナシの方向で」
「じゃあここに泊ってもいい?」
「だから、それはまだダメ」
「まだって、じゃあいつならいいの?」

 具体的な答えを要求され狼狽いだ。目の焦点は浮遊して定まらず、偶に目端に入り込む怜の顔は不機嫌だ。
 早く答えなきゃと焦れば焦るほど、考えが纏まらない。

「えっとぉ……えっとぉ……に…二月?」
「それって、もうここにいないじゃん」
「……えへっ」
「えへっ、じゃないからね? もういいっ。本当に外堀埋めてくから覚悟しといてよッ!?」

 怜はすくっと立ち上がると踵を返し、靴を履き始める。梓は慌ててコートの背中を掴んで引き留めた。

「お願~いぃ、ちょっと待ってよぉ。昨日だよ? 付き合ってって言われたのぉ。なのに報告とかって」
「だから最初から結婚前提でって言ってるでしょ」
 瞳を潤ませて懇願する梓を半眼で眺めおろし、
「僕の結婚を端から諦めていた人たちにしてみたら、天地がひっくり返るほどの出来事だし、僕の子供を抱ける可能性が出来たとなったら、アズちゃんの否は百パーセント通らないからね? ごめんね。母も姉たちも僕より押しが強い人たちだから、こと結婚となったら僕でもどうすることも出来ないかも」

 怜の実家はAZ設計事務所とは比べものにならないくらい、大きな会社の社長一家だ。今は姉夫婦が跡を継ぎ、本来後継者のはずの怜がゲイだという理由で跡継ぎから外れたものの、唐突に浮上した、もしかしたら最初で最後になるかも知れない怜の結婚のチャンスを、南条家の女性たちはみすみす見逃したりはしないと言っているのだ。

 考えただけで空恐ろしくなってくる。
 前提が決定になったら、二進も三進も行かなくなってしまう。
 怜のバックグランドを知った上で彼の手を取った。とは言え、せめて時間が欲しい。
 梓は怖ず怖ずと怜を見上げた。

「もお……絶対に何もしないって、約束する?」
「天地神明に掛けて」

 左手を胸に当て、右手を肩まで上げて宣誓のポーズを決める。
 なんか嘘くさいと思いつつ、選択肢がそれしかないのなら、妥協するしかない。
 分かったと頷けば、怜は蕩けるような微笑みを浮かべて、梓の額にキスを落とした。



 イヴに梓と付き合えることになって、帰りの道中から翔に電話した。

『どうした? 事故ったか? それとも振られたか?』
「縁起悪い事言わないでくれる?」

 イヤフォンマイクから聞こえて来る翔の揶揄う声に一瞬ムッとしたものの、直ぐに気を取り直す。思い出しただけでニヤケてしまうなんて、十代の子供みたいだと思いながら、顔はどうしても緩んでしまう。

「アズちゃんと結婚前提に付き合うことになったから。その報告」
『チッ』
「いま舌打ちした?」
『梓ももっと引っ張れよなぁ。存外根性ないな』

 もっと愉しませてくれると思ったのに、そんな呟きが聞こえて来て、報告する相手を間違えたかもしれないと、少々後悔した。

 翌朝、同じように由美に報告すると、暫らく固まったまま怜を見た後、大仰な溜息を吐き「アズちゃんも早まったことを」と嘆かれ、怜の腕をポンポン叩きながら「精々振られないように頑張るのね」と鼻で笑われた。
 由美への報告を聞いていたスタッフたちが「やったーっ」と声を上げて喜んでくれたので、味方はお前たちだけだよ、とちょっと感動していたのに、「やっとアズちゃん帰って来る―ッ」の言葉で感動を返せと言いたくなった。
 何だか朝から打ちのめされて、もう自分の部屋に戻ろうと踵を返しかけて、突き刺さる視線に気が付いた。

「何だ? 剛志」

 自分の席で立ち上がって怜を睨んでいた剛志に声を掛けると、彼はドンッと机を叩いて今の憤りを吐き出した。

「散々俺にガードさせといて、ちゃっかり自分のモノにするとか、えげつねぇ。怜さんの為に梓守って来たみたいで、納得いかねえんだけど」

 剛志にしてみれば、同胞に完全に裏切られた気分なのかも知れない。
 それは梓のことで翔と折り合いが悪くなった時にも感じたことだろうが、今回は完全に交際宣言をした訳で、堪忍袋の緒が切れたようだ。

「……悪い。結果的にそうなった」
「俺もおお役御免ですよね? これから俺は自分の為に生きるんで、梓戻ってきたら自分で何とかして下さいね?」
「……はい」

 ただ働きさせていた訳ではないのに、この言われよう。しかし確かに剛志は自分の時間を費やして来た。一番文句を言う権利がある。
 でもまさか剛志の剣幕に圧される日が来ようとは。

 怜は事務所内を見渡し、大きな溜息を漏らす。
 誰一人、良かったねとは言ってくれない。

(いいんだけどね。一番欲しいモノが手に入ったんだし)

 今日は大人しく篭っていようと、少し切なくなった怜である。

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