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【閑話】 ぼくのいもうと

ぼくのいもうと

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 小学校一年の頃、日に日に大きくなる母のお腹に、しょっちゅう話し掛けていた。梓も翔が話し掛けるとお腹をボコボコ蹴ってくるから、とにかく楽しくて待ち遠しくて仕方なかったのだ。
 生まれてくるのは絶対に弟だと信じ込んでいた翔は、大きくなったら何をして遊んであげようか考えるだけでワクワクしていた。

 梅雨の晴れ間の久々に青空が広がった日の早朝、ついに梓が生まれた。
 早く弟に会いたくてそわそわと落ち着かず、その日の授業はまったく頭に入って来なかった。
 学校から戻り、その頃まだ存命だった母方の祖母と一緒に病院へ行き、新生児室で眠る梓をガラス越しから眺める翔に、母と祖母が困った笑いを浮かべていることに全く気付かず、翔はとにかく有頂天だった。
 学校でも弟が生まれたと自慢していたのに。

 日曜日は朝から父を引き摺るようにして病院を訪れ、眠っている梓を飽きもせずに眺めていた。
 そして衝撃のカウントダウンが始まった。
 梓がぐずり出し、母が翔を見ながらそわそわし始める。そんな母に父は「腹を括るしかないだろ?」と言っていたのに多少変な空気を感じたものの、それよりも泣き出した梓が気になって仕方なかった。

「お母さん。あーくん泣いてるよ! 早くしてッ!」

 せっつく翔に母は天を仰いで「あ~ごめん」と何かを覚悟したようだった。
 ガーゼの肌着の前を開き、おむつカバーのマジックテープがパリパリと音を立てる。母の細い指がオムツを開いて行くのを張り付いて見ていた翔は、思わず大声を上げてしまった。

「おかあさんッ!?」

 ビクリと身体を震わせ、泣き出した梓を茫然と眺める。

「な、何かなぁ?」
「オチンチンがない!!」
「…あ~そうだねぇ。お腹に忘れてきちゃったみたいだねぇ。慌てんぼさんだよねえ」

 引き攣った笑いを浮かべながら母が言う。翔は真剣な眼差しを母に向けた。

「生えてくるッ!?」
「……ごめん。生えてこない」
「……!!!!」

 余りの事に翔は言葉が出せなくなった。
 “あーくん” が実は “あーちゃん” だと知った時のことでる。



 弟ではなく妹だった事に酷くショックを受け、その事実はどうにも受け入れ難いのに、梓の匂いはとても落ち着く。
 学校から帰ると先ず手洗いうがいを完璧に熟し、洋服も着替えて梓に触れる。そしてゆっくり隣に横たわり、梓のふわふわと舞う髪に頬擦りし、彼女の匂いを鼻腔一杯に吸い込むと、とても心が穏やかになって眠りに誘われた。
 ただし、母が言うには、添い寝をしながらよく啜り泣きをしていたらしい。

 とは言え、梓は弟ではない。
 生まれる前ほどの執着はなかった。
 その時の気分で梓を構う事はあっても、生まれた時の数日間の様に四六時中飽きることもなくなんて事はなかった。
 掌を返したような翔の態度に、母は『梓のこと守ってね。お兄ちゃん』と一日最低一回は言う。翔はいつも生返事をしていた。

 梓が生まれて二か月が経った頃。
 夏休みに入って数日後の事だった。
 母は回覧板を置いて来ると言って出て行き、友人たちと都合が合わなくて家でゴロゴロしていた翔は、アイスでも食べようかと一階に下りて行った。

 アイスを咥えながら、この時間和室で寝ているだろう梓の顔でも見てみるかと、偶々気が向いて行ってみることにした。
 和室を覗いて先ず、白くて丸いモフモフしたモノが目に飛び込んだ。
 目に入ったモノが何だか理解できず見入って、その下でパタパタ蠢く物体。それが梓だと理解した瞬間、一気に血の気が引いて白い物体に掛かって行った。

 翔に驚いて動き出したソレは近所の飼い猫で、慌てて家から飛び出して行き、解放された梓は火が点いたように泣き出した。
 母は今いない。梓は号泣している。
 咄嗟に抱き上げ、「泣かないでよぉ」と半ベソを掻きながら、ゆらゆらと身体を揺らしてあやし始めて間もなく、梓はしゃくり上げながら翔に手を伸ばす。その手に顔を近付けると頬をペチペチと叩き、笑い掛けて来た。

 その瞬間、堕ちた。
 弟とか妹とか関係ない。
 この小さな存在は、自分が守ってあげなければならない、そう思った。

 間もなく母が戻り、事の次第を話すと「梓を守ってくれてありがとう。かあくんがお兄ちゃんでお母さん嬉しいよ」と梓ごと抱き締められた。
 腕の中の梓はふにゃふにゃで、目が合えばふにゃりと笑う。可愛くないと思っていた先刻までの自分はもう何処にもいなかった。

 件の猫は以前から我が物顔で侵入してくる困ったヤツで、鍵が掛かってなければ自分で戸を開けてしまうため、近所でも問題になっていた。
 今まで母は、所詮猫のすることだからと、寛容に受け止めていたけれど、我が子が死にそうになったっとあっては見過ごせなくなったようだ。
 網戸にすらロックを掛けるように徹底し、その上で飼い主にも管理を徹底するように言いに行った。その件で飼い主が有らぬ事を吹聴していたが、話を真面に受け取る人はいなかった。みんなその猫には困っていたから。

 以来、翔は猫が嫌いになった。
 猫に悪気があった訳じゃないのは解るが、発見した時の身の凍る思いは忘れられない。だから数年後、その梓が捨て猫を拾って来た時は、一家中が大騒ぎになって止め、泣く泣く梓は猫を諦め、翔と一緒に元の場所に返しに行ったのだった。



 梓には妙なスキルがある。
 それが発覚したのは梓のお食い初めだった。
 梓が生まれたと報告した時、姪っ子だと知った母の下の弟光明みつあきは面倒臭そうに返事だけしていたらしい。彼は遂に病院に顔を出すことはなかった。
 翔の時との余りの違いに、母は祖母に相当愚痴ったそうだ。
 祖母は薄情な末の息子にこんこんとお説教をし、その息子は母には逆らえず、漸くお食い初めの日に梓の顔を見に来た次第である。

 翔にはすこぶる良い叔父であったから、何で会った事もない梓をこんなに毛嫌いするのか不思議だったのだが、理由は数年後に納得する。
 翔と同類だった。
 しかも彼は、肉親以外の女性に触られると蕁麻疹が出る人だったのだ。
 なら梓も大丈夫なのでは? と思うところだが、彼の周りで肉親の女性は自分が生まれる前から存在し、上の叔父の子供も男ばかりで、年下は初めてであったため可なり警戒していたらしい。

 祖母に無理やり抱っこさせられた光明は、本当に嫌そうに顔を顰めて梓を見た。
 光明と目が合った梓が笑う。
 すると険しかった光明の顔が見る見る間に穏やかになり、彼は「天使」と無意識に呟いていたそうだ。

 梓の笑顔見たさに光明は足繁く遊びに来るようになり、そこから彼の微妙な葛藤が始まった。
 母と姉は尊敬している。しかし女性の美醜云々はどうだって良かった光明が、梓は無条件で可愛いと思っていることに、疑問を持ったらしい。
 最初は自分がおかしくなったのかと思ったらしいが、梓以外に関しては何も変わっていない。女性を見たって自分とは相容れない生命体という認識に変化はなく、いよいよ理解に苦しんだ光明は、試しに “赤ん坊でもXX染色体は無理” と言って憚らない友人の元に梓を連れて赴いた。
 友人もまた梓を見た瞬間「天使」と呟いた。そしてその後に “姪っ子” だと告げると、友人はショックのあまり頽れたそうだ。
 光明はそれからも同類の友人知人で確かめ、梓は “ゲイ・キラー” だと確信を得るに至る。そして一番最初の虜囚は翔だった。

 ダンサーの光明が、オフ・ブロードウェイから声が掛かって渡米するまでの二年間、暇さえあれば翔と梓を引っ張り回す人になっていた。偶に子供を連れて行くにはどうかという所も連れて行かれ、お陰で翔はそっち方面にやたら明るくなっていた。

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