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5. 梓、なんか色々とツライので……
梓、なんか色々とツライので…… ⑫
しおりを挟む十二月三週目の金曜日。帰って来たアパートの前に怜の姿は見えなかった。
(…金曜だしね。年末だしね)
怜がいきなり泣き出した日から、少しだけ会話するようになった。
その翌日の会話を思い出す。
「寒くないの?」
「寒いよ」
この日も寒さで鼻の頭を赤くして、ニコニコ笑った瞳の奥に期待が篭っているのを見て取り、梓は「ふ~ん」と眉を聳やかす。
「ご苦労様だね。んじゃ」
梓はサクッと会話を切り上げて中に入ろうとした。すると怜が扉に手を掛けて「んじゃって」と閉まるのを遮った。怜の手をしげしげと眺めながら、
「なに?」
「……何でもないです」
手を上げて降参のポーズをする怜は苦い笑いを浮かべる。
「アズちゃん好きだよ」
「唐突だね」
「これから毎日言うね」
「…あのさぁ。無駄だとか思わないの?」
「無駄かどうかはまだ分からないでしょ。そのうち洗脳されてくれるかも知れないし」
何か黒い事をキラキラとした笑顔で言う怜は、やっぱり近付けたら不味いかも知れないと思い直す。つい昨日の泣き顔に絆されてしまった感があるけど、気を引き締めようと心に誓った――――筈なのに、これまたついコートのポケットから取り出した缶コーヒーを怜の顔の前に突き出していた。
「……え? くれるの?」
一瞬ポカンとしてコーヒーを見詰めていた怜が言った。
「寒くてカイロ代わりにしてただけだから。いらないなら別にいいわよ」
「ありがと。貰う」
手を引っ込めかけた梓から半ば引っ手繰るようにしてコーヒーを受け取ると、両手に包んで「温かい」と嬉しそうに微笑む。
(女神さまが無防備に笑うのはナシでしょ!)
失敗したと後悔しつつ、あげた物を取り返すわけにもいかない。返してくれそうにもないけど。
昔からだけど、怜の笑顔に掛かるとどうにも調子が狂う。
(明日からはもお絶対に無視するッ!! 無視するったら無視する! いいわね梓。怜くんの笑顔なんかに騙されちゃダメ!)
梓の決意など知る由もない怜が笑顔を垂れ流しにしているのを見て、早くも挫けそうになる。これ以上は危険だ。
梓はドアノブに手を掛け「じゃっ」と引っ張る。今度は妨害せずに、閉まる扉の向こうで「おやすみ」と怜は帰って行った。
で。決意したものの、無視できているかと言えば、否だ。
心の中で “無視無視” と唱えながら、つーんと怜の前に立って鍵を開けていたら、「アズちゃんゴミ付いてる」と肩の糸くずを抓んだ怜。で反射的に「あ、ありがと」と返してしまった。次の瞬間、にーっこり笑った怜が「大好きだよ」と前日よりグレードアップさせてきたものだから、慌てて部屋に飛び込んだ。その時の敗北感と言ったらない。
その次の日もそのまた次の日も、何だかんだと怜の術中に嵌まり、一言二言でも会話するに至っている。
あたしの決意ってこんなもの、と思うと精神がザクザクガリガリ削られ、毎度玄関で打ちひしがれている。
そんなある日のことだった。
その日はレストランのバイトがあった日で、帰り支度をしていた彼女の元へ「大石さんにお客さんですよ」とバイトの女の子が呼びに来た。
「お客? 誰?」
怜がついにここまで押しかけて来たかと思って、自然と顔が険しくなった。けど違う事を直ぐに知らされる。
「お兄さんって方が、七番テーブルでお待ちです」
「おに……兄が?」
「はい。大石さんのお兄さんもやっぱり美形なんですねぇ。女の子たちが挙って遠巻きに見てますよ」
怜にバレていて、翔が知らないわけないと思っていたけれど、一向に姿を見せる気配がなかったので、心のどこかで安堵していた。
梓は項垂れて溜息を漏らし、持ち手を肩に掛けるとホールに向かう。無視して帰ったところでどうせ自宅もバレているのだろうから、無駄な足掻きは止めにした。
七番テーブルに座る翔は、頬杖を着いてぼうっと外を眺めていた。
脇に立った梓に気付き、見上げて「久し振り」と微笑んだ翔は、どことなくすっきりしているように見えて、梓は首を小さく傾げつつ「久し振り」と返した。
「突っ立ってないで座れば?」
「あ……ぅん」
促されるまま腰掛ける。どちらも言葉がないまま梓はホールの端、バックヤードに目を遣った。
何かお互いを押しやって争って見えるのは、気のせいだろうか?
そんな事を考えながら、近くに居たバイト男子を呼びつけて紅茶を頼む。すると翔が「飯食ったのか?」と訊いてきたので、「帰ってから食べようかと思って」と答えるとニヤリと笑った。
「律儀に帰ることもないだろ。アイツは寒空の下で待たせておけばいい」
アイツとはもちろん怜の事だろう。
翔はメニューを開いてどんどん注文していき、唖然としている梓にメニューを向けると「食いたい物頼みな」と涼しい顔で言う。一人で五~六品頼んでいたのだけでテーブルが一杯になりそうなのにと躊躇していると、待っているんだからとせっつかれ、慌ててカルボナーラを頼んだ。
「一緒に飯食うなんて、久し振りだな」
「……そうだね」
そう答えて恐る恐る翔を見る。今のやり取りで翔が怒っているようには見えない。しかし兄の心中が見えなくて、知らず探る目になっていた。それを心なしか楽しんでいる様に見えるのは、果たして気のせいなだけだろうか?
じーっと翔を見ていると、彼の前にグラスビールが置かれた。梓は、えっ? となって兄を見る。
「ビール? 車は? 帰りは?」
「車はコインパーキング。今日は梓んとこ泊まるから」
「え? 泊まるって、何でいきなりッ!?」
「怜が悔しがるから」
「はあ!?」
茫然と兄を眺めていると、翔は愉快そうに喉を鳴らし、物は序でとばかりの口調で梓の脳を停止させることを口にする。
「アイツとは別れたからな」
「………え?」
「別れて、お互いフリーになったから」
「…………え?」
「だから俺のことは気にしなくていいぞ?」
満面の笑顔の翔は、美味しそうに喉を鳴らしてビールを飲んでいる。梓は口をぱっくり開けたまま暫らく言葉が出なかった。頭の中をもたもた整理しながら「ちょっと待って」と声が漏れる。
しげしげと翔を見た。
「いいぞって……何が良いのッ!? 違うでしょ! あたしそんな事望んでないからね?」
前のめりで声高になってしまった。翔の視線につられて周囲を見れば、注目されていた。梓が咳払いをして座り直すと、みな自分たちの時間に戻って行く。
「お前が望むと望まぬと、怜が自覚したら結局こうなってただろうし。梓が気に病むことはない。だからいい加減、帰ってこないか?」
翔の目がじっと見入って来る。
(……怜が自覚したらって……お兄ちゃん、知ってた…の?)
つまり知っていて彼を放置していたという事だろうか?
愕然として翔を見る。兄は一気にビールを飲み干し、「梓も飲むか?」と訊いて来る。何か素面ではいられない気がして、梓は頷いていた。
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