上 下
33 / 115
5. 梓、なんか色々とツライので……

梓、なんか色々とツライので…… ⑨

しおりを挟む
 

 仕事は三日休んだ。顔の痣は黄黒くなったものの少し薄くなった気がする。
 出勤して直ぐに由美に挨拶に行くと、出払う前の事務所内は騒然となって、怜は苦笑してしまう。つい先刻も地下駐車場からエレベーターに乗り、一階で乗り込んできた他の会社の社員たちが、怜の顔を見て絶句していたのが妙に可笑しかった。

 このビル内でも屈指の美形と言われ、妙齢の女性ハンターたちが狙っている怜の痛ましい姿は、瞬く間に話題になるだろうが、彼にしたら知ったこっちゃない。いっそのこと喧嘩の弱い奴と、愛想を尽かして構わないでくれればいいのにと思っているくらいだ。

 スタッフたちが遠回しに翔にシメられた経緯を訊いてくるが、怜は笑ってスルーしている。梓が出勤してない時点でもうみんな察しはついている筈だから。  
 翔は目も合わせてくれなかった。
 たかが三日で態度が和らぐはずがない。事が梓だけに。

 数日経っても変わらなかった。変わるなんて甘い期待は端からしていない。
 いくら翔が腹を立てていようとも、所内でいきなり殴りかかって来るようなことはないが、偶々翔と怜が一緒になった所に居合わせてしまったスタッフの精神がガリガリ削られてしまうのは、如何様にもならない。その度に怜の所には、半泣きのスタッフが『アズちゃんまだ見つからないんですか~ぁ』詰め寄せる。
 彼らの精神衛生上、すこぶる宜しくないと思うのだが、怜とて好きで手を拱いている訳ではない。
 泳がせている狐がなかなか行動を起こしてくれないのだ。

 興信所に依頼した帰り、郁美の家に行った理由は一つ。絶対に梓の居所を知っている筈だと思い、彼女に調査員のマークを付けさせるため待ち伏せした。郁美の丁度いい写真を持っていなかったので、怜が引き止めている間に彼女の写真を撮って貰ったのだ。
 ずっと郁美の行動を張っているが、これと言った収穫もなく時間ばかりが過ぎていった。

 彼女がやっとが行動を起こしたのは、ひと月も経った頃だった。



 初めての一人暮らしは、何とかかんとか遣っている。
 最初こそ寂しくてホームシックに掛かったけど、二週間も過ぎるとそんな事を言っている暇がなくなった。

 今までやりたくても翔に却下されて出来なかったバイトを始めた。どんな仕事が向いているのか分からなくて、色々と試している。今後は少しずつ絞っていくつもりだ。
 レストラン、本屋、レンタルビデオ屋とすべて接客のバイトで、偶に困った人もいるけど、不特定多数の人との接触が多い仕事は楽しい。
 これがもし学生の頃にこっそり始めたバイトで、翔や怜に知られたら速攻辞めさせられるか、交代で見張りがつく。で結局、居辛くなった梓が自ら辞める方向に持って行くに決まっている。

 高校生のバイト先が家業の手伝いはままあるにしても、理由を付けて抜け出すことは可能だろうから、梓の様に終始監視はされていないだろう。思い返せば何とも味気ない青春だった。
 遅ればせながら今満喫している。   

 そしてほぼ毎日のように郁美と連絡を取って、一日の報告すると彼女も笑ってくれるのが嬉しかった。二十二時の定期便は楽しみな日課になっている。
 翔と怜からちょくちょく連絡があり、郁美が徹して白を切り通してくれているお陰で、今のところ平和だ。



 いつも通り十九時の定時で本屋を上がり、徒歩十五分の自宅アパート。
 梓は鼻歌混じりでアパートの階段を上りながら、鍵を探してバッグを漁っていた。
 視界の隅に人の気配を感じ、何気なく目線を上げる。と同時に梓はビクリと震えて鍵を落とし、身動きが出来ないまま見上げていた。

 近付いて来る踵の音がやけに耳を突く。    
 前屈みになって鍵を拾う繊細な指先が目の端に留まった。
 栗色の髪がサラサラ揺れ、上目遣いに梓を見上げた榛色の双眸。

「はい。アズちゃん。…ちょっと久しぶり」

 鍵を差し出した手に、またビクリとなった。その手から鍵を受け取ることに躊躇してしていると、怜は困ったように微笑んで「何もしないよ」と指二本に抓み直した鍵を差し出す。梓は恐る恐る手を伸ばし、ひったくるように鍵を手にした。

「どうして……?」

 怜がいるなんて。心臓が止まるかと思った。

「夜分にごめんね。アズちゃん。時間ちょっといいかな?」

 怜が首を傾げてふんわり微笑んだ。たった一か月の事なのに、とても懐かしく感じてしまう反面、あの日の事が思い出されて顔が強張る。

「どうして、ここに居るの?」
「僕なんかに、会いたくなかったよね…? ごめんね」

 悲し気に細められた目をじっと見返す。

「どうしてここに居るのか訊いてるの」
「…アズちゃんが何処に行ったって、絶対に見つけ出すよ? それくらい分かってるでしょ? アズちゃんなら」

 そうだ。そういう人たちが相手だった。
 いくら梓が上手く身を隠したところで、翔や怜はいつだって彼女を探し出してしまう。ひと月も掛かってしまったのは、寧ろ長かった方だ。

 小刻みに震える手をもう一方で包み込む。握り込んだ鍵が掌に刺さっても力を弛めることが出来ない。
 怜は伏し目がちになって小さく溜息を吐く。それから徐に梓の目を見て、少し考えるような素振りを見せて口を開いた。

「こんな所で立ち話もなんだから、場所を移さない? 部屋の中に入れてくれたら嬉しいけど、嫌でしょ?」

 二人っきりは、と消え入りそうな声で呟いた。
 そんな事ないと言ってしまいそうな長年の習性を捻じ伏せ、ギッと目に力を篭めて怜を睨み返す。

「話なんてない」
「僕はある」
「帰ってよ」
「ヤだ。ねえアズちゃん。少しでいいから、時間を僕に下さい」

 梓はついっと顔を背け、膝が笑うのをおして踏み出す。怜の脇を擦り抜けた瞬間、腕を掴まれて「いやッ!」と振り解くと、怜が悲し気に眉を寄せて「ごめん」と手を引っ込めた。
 梓は小走りで部屋に向かう。その背中を怜の必死な声が追い駆けた。

「梓ッ!!」

 カタカタ震える手が邪魔をして、鍵が上手く刺さらない。怜がゆっくり近付いて来る。
「もうッ! 何なのよバカッ!」
 近付く気配を感じながら手を叱咤し、ようやく鍵を開けると部屋に飛び込んで、寸での所で扉を閉めて施錠する。梓は力が抜けてズルズルと座り込んだ。

「梓ッ!」
「やだ。帰ってよぉ」
「分かった。今日は帰る。けどこれだけは答えて。僕の子…妊娠した?」
「してない! 何でもかんでも怜くんの思い通りになんてなりませんよーだッ。分かったらもお帰れッ。二度と来んな!」
「そ…っか。出来なかったのか」

 寂しげな声が扉の向こうから聞こえる。そして直ぐに「また来るから」と言ってドアを一回叩き、怜の足音が遠退いて行った。

 怖かった。
 なのにそれとは違う何かが胸に去来し、意味の分からない涙がボタボタと零れ落ちて、梓は「もお何なのぉ」と目の前にあったサンダルを手にすると、扉に向かって投げつけた。

しおりを挟む
感想 54

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。 でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。 けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。 同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。 そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

マッサージ

えぼりゅういち
恋愛
いつからか疎遠になっていた女友達が、ある日突然僕の家にやってきた。 背中のマッサージをするように言われ、大人しく従うものの、しばらく見ないうちにすっかり成長していたからだに触れて、興奮が止まらなくなってしまう。 僕たちはただの友達……。そう思いながらも、彼女の身体の感触が、冷静になることを許さない。

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

処理中です...