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5. 梓、なんか色々とツライので……

梓、なんか色々とツライので…… ⑧

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  ***


 翔に殴られた日、暫らく意識を失くしたらしい。
 気が付いた時には空が白み始めていた。
 体中が軋んで激痛を訴えてきたが、緊急を要する症状がない事を確認し、起きて来た翔の逆鱗に触れるのは避けるべきだと、一先ず大石家を後にした。

 二日寝込んだ。
 それで済んだだけでも感謝する。

 二日目の昼休みに由美から連絡が入った。翔と前日に飲んで、粗方の話を聞いたらしい。二日酔いで具合が悪いと言いつつ、散々管を巻くような説教をし、最後に『必ずアズちゃんを連れ戻しなさい』と言われた。
 由美に言われるまでもない。梓を必ず見つけて連れ戻す。

 仕事を放り出して梓を探したい気持ちはあるが、仕事でまで迷惑を掛けられないと、先刻興信所に依頼して来た。こう言う事はプロに任せた方が早い。
 怜はそのまま自宅近くのマンション前に車を横付けし、ひたすら待ち続けた。

 街灯が灯り、家々の窓からチラホラと灯りが漏れる。
 ずっと停まっているせいで、マンションの住人と思しき人たちがチラチラと、車の中の怜を訝しんで視線を寄越す。

(…まあ、怪しい奴だよね)

 外は薄暗くなっているのに、サングラスを掛けたままマスクしている不審な奴が家の近くにいたら、怜でもきっと警戒する。下手したら通報しているだろう。

(もう少し待っても帰って来なかったら、日を改めるか)

 ボコボコに殴られましたな姿で、職質は避けたいところだ。
 サングラスを摺り下げて、ルームミラーとドアミラーを何度も確認している。それから十数分、ようやく目当ての人物のお帰りのようだ。腕時計を確認すると、間もなく六時半になろうかと言うところだった。

 車に近付いて来て、首を傾げると立ち止まった。怜がその様子を窺いながら車から降りると、「やっぱりか」と皮肉めいた笑みを浮かべた郁美が彼を見上げた。
 顔を隠していようと、彼女には分かったようで少し安心する。今の怜は、下手したら声を掛けた瞬間に脱兎の如く逃げ出されてもおかしくない風体だと思うので。

「梓はうちに居ないよ?」
「…うん。でも郁ちゃんなら、きっとアズちゃんの居所を知ってるんじゃないかって」

 梓と郁美の仲の良さを知っているから、確信めいたものがある。
 怜との一件を郁美が聞いていると知って、梓が家出のことをこの親友に黙っているとは思えないのだ。
 斜に構えて郁美は怜の突然の訪問を胡乱気に見上げ、そんな彼女を怜も冷静に観察している。

「知らない。もし知ってても、怜くんにだけは絶対に教えない。あたし凄く怒ってるんだからねッ! 梓に酷いことして……怜くん滅茶苦茶じゃん。今どんなに梓が不安に思ってるか、辛いか考えただけであたし…ッ」

 郁美が涙を堪えて俯き、直ぐに持っていたトートバッグで怜を殴りだした。

「いっ……いたたたたたっ。痛いって郁ちゃん!」
「こんなもの梓の痛みに比べたら軽いもんでしょッ!」

 身体を捩って躱そうとする怜に容赦なくバッグを叩きつける。盲めっぽうに振り回すそれがサングラスを掠って勢いで吹っ飛ぶと、さすがの郁美も手を止めて怜の顔を見た。暫らく沈黙した後、彼女が小さく吹き出した。

「な、何ソレその痣……ぷふっ…絶世の美貌が、台無しじゃん……か。翔にぃやるなあ。躊躇いなしってヤツだね」

 そう言いながら郁美はトートバッグを漁りだし、「マスク外してよ」とスマホのカメラを起動する。怜は吹っ飛んだサングラスを拾うと、思い切り顔を顰めて郁美を見た。

「何で写真」
「記念に決まってんじゃん。ほら早くマスクっ」

 郁美にせっつかれ不承不承マスクを外しながら「何のための記念だよ」とぼやく。すると彼女は実に愉しそうに歯を見せて笑った。

「いやあ。ホントいい仕上がりで。絶対に顔だけは死守する人のパンダ目は、この先また拝めるか分からないじゃない?」

 腫れは引いたが右目の周りが青黒く鬱血し、目も少し充血している。これでも咄嗟に身を引いて衝撃を和らげた方だ。翔の拳を真面に喰らったら、網膜剥離か眼底骨折していたかも知れないし、左頬に捻じ込まれた翔の右フックで奥歯がガタガタになったかも知れない。口の中はざっくり切れたけど。
 梓を探すのに、行動を制限されるのは困る。

「アズちゃんがこの顔好きだから注意してただけで、別に僕はどうだって良いんだけど」

 あまり髭が濃い方ではないから電気シェーバーを使わないのだが、剃刀で少し切っただけでも梓はこの世の終わりとばかりに大騒ぎするため、顔だけは取り扱いに気を付けている。
 因みに高校の頃、空手の試合で怪我してもそこまで心配をされたことがないから、『存在価値は顔だけか?』と訊いたら、『怪我が付きもののスポーツしてるんだから、しょうがないじゃん?』とやっぱり怪我が標準装備の小学生だった梓に言われた。そしてこうも言った。『顔に拳受けるなんて下手糞のする事なんでしょ?』と。

 ふと思い出して笑みを浮かべると、郁美がケッて顔をして「反省してんのかね」と嫌味をくれた。

「梓が見たら卒倒もんよねぇ」
「写真見たら、心配して帰って来てくれるかな?」
「何甘いこと言ってるの? 電話もメールも着拒よ? これはあたしが純粋に愉しむ為だから、梓に会いたいなら自分で何とかして」

 素気無い物言いに怜が苦笑すると、「怜くんさぁ」とスマホをトートバッグに落とし込んで、郁美が少し強い視線を向けて来た。

「なに?」
「もし梓が見つかって、その時妊娠してたらどうするつもり?」

 探る様な目で見入って来る。

「もちろん責任は取るよ?」
「責任だけなの? だったら梓のこと探さないでやって。惨めじゃん」
「惨めって……?」
「子供が出来たから認知するとか、結婚するとか、梓はそんな事望んでないでしょ。それで済む話ならそもそも家出なんかしてない。違う? 怜くんは梓をちゃんと想ってる?」
「当たり前だろッ!」

 思わず出た大声に、帰宅途中の通行人が振り返ってこちらを見た。怜は辺りを見回しバツが悪そうに顔を俯けると、「彼女が凄く大事だ」と呟く。郁美は「ふ~ん」と俄かには信用できないと言いたげな目で怜を見上げ、彼の鳩尾におもいきりパンチを打ち込んだ。

「!? ……っく」
「え…ちょっと怜くん!? そんなに強かったッ!?」

 お腹を抱え込んで蹲る怜の姿に郁美が慌ててしゃがみ込み、「いつもこの位平気じゃん!?」と怜の肩を揺らす。怜は右手だけ上げて、大丈夫と意思表示したまま暫らく黙っていた。
 息を詰めていた怜が漸く普通の呼吸を取り戻すと、涙目で郁美の顔を見る。

「ぃ……郁、ちゃん。僕、翔のサンドバッグになって、昨日まで…寝込んでたんだよね。怒りは解る。けど、ちょっとだけ労わってくれると、助かります」

 自業自得とは言え、先刻のトートバッグ攻撃も今の渾身ボディーブローも、熱が出るほど傷んだ身体には相当堪えた。

「病院には行ったの?」
「行けるわけないでしょ。明らかに殴られたと判る怪我、病院側が警察に通報するでしょ。聴取取られて時間無駄にしたくない。幸い急所は外してくれたし、どっかヒビぐらいは入ってるかもしれないけど、取り敢えず骨折もないからね。……けど全身打撲だから、流石に僕も一杯一杯」

 立っていることも本当はかなりしんどい。それでも、少しでも動けるなら、梓に関わることをしていたかった。
 自己満足でも気休めでも良かった。じっと部屋で寝ていたら息苦しくなるばかりで、心が死にそうになる。
 傍らにしゃがみ込んでいた郁美が、怜の背中をポンポンしながら溜息を吐いた。

「今日はもう帰って休んだら? どうせ何の当てもないんでしょ?」
「家に居ても色々考えて落ち着かない」
「だったら尚更、深~く深~くどん底まで落ちて反省したら? 梓に会った時にまた同じ失敗しないで済むようにさ」
「なかなか辛辣なご意見ありがとう」
「どう致しまして」

 確かに梓が感じる謂れのない苦しみや悲しみに比べたら、自分の蒔いた種を刈り取るために、反省するくらい容易いものだろう。そう思い至って怜はゆっくり立ち上がった。

「郁ちゃんの意見に従って、今日は大人しく帰るよ」
「そお。まあ死にたくなったら電話して。更に塩擦り込んであげるから」
「はは…っ」

 ニヤリと笑った郁美に力なく笑い返して、怜は車に乗り込むと自宅マンションに向かってゆっくり発進させた。

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