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5. 梓、なんか色々とツライので……

梓、なんか色々とツライので…… ⑥

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 どれくらい呆けていただろうか。
 翔が「だよな。姉御でもそうなるよな」と憮然と更に続ける。

「しかも梓を孕ませようとしたらしい」

 翔の額に青筋が浮く。
 由美の頭は先刻から正常に稼働していない。そこに新たなバグを追加され、顔は完全に無表情と化していた。

(………え? ………え? …………孕、ませる……? 誰が誰を? え…とぉ……落ち着け。落ち着くのよ由美………え…ッ!?)

 翔を見ていた目がどんどん大きく開かれて行く。そんな彼女を見返す彼は、由美の心情を肯定するように何度も頷いていた。
 暴走しそうな頭を落ち着かせようとして、由美は立て続けにグラスを開け、ボトルが空になったことに気付いた。翔が「同じものでいいのか?」と訊いてきたので、考えもせずに頷く。今日の会計は間違いなく六桁だ、と思いながら翔相手に遠慮はしない。

 由美はボトルが届くまで、深呼吸をしながらじっと意味もなくグラスの脚を握る手を眺めていた。
 新しいシャンパンが注がれ、半分ほど飲んで由美はグラスを置いた。

「つかぬ事をお伺いしますが、ホント今更で申し訳ないですが、確認事項がございます。私の知る限り、怜はゲイだったように記憶しておりましたが、記憶違いでしたでしょうか…?」
「ゲイだな」

 スパッとそれはもう清々しい即答に、茫然自失となった。

「だから俺も安心してた。あいつがゲイでいる限り、梓の身に何か起こる訳ないって」
「…ぅ……ん」
「ゲイがバイになろうが、そんな事知ったこっちゃない。問題なのは梓に手を出したことだッ! 俺がどれだけ大事にして来たか知ってる奴が、可愛い妹に手を出しやがった。それも一時の感情で孕ませようとしたなんて聞いて、兄として黙っていられると思うかッ!?」

 バンッ!!

 翔の掌がテーブルを叩きつけた。グラスのシャンパンが大きく波打ち、倒れるのではないかと由美は咄嗟にグラスを掴んでいた。
 これが手刀や拳だったら、確実にこのテーブルの寿命が終わっていたところだ。掌で本当に良かったと思いながら周囲に視線を巡らせれば、みんな驚いた表情でこちらを窺っている。由美は愛想笑いを浮かべ「すみません」とペコペコ頭を下げ、注意しにこちらへ向かっていた店員にも深く頭を下げた。

「ほら翔。周りに迷惑かけるから、少し落ち着いて」
「……悪い」

 そう言った翔も周囲に「すみません」と頭を下げ、大きく息を吐き出すと背凭れに寄り掛かった。
 翔が感情的になるのも解る。ちょっと強めのシスコンが、父親代わりとして梓を養って来て、激ヤバのシスコンになったのは梓にとって不幸ではあったけど、翔が妹の幸せを願う気持ちに嘘はない。
 いつだったか、“梓は絶対に処女で嫁に出す” と大真面目に言っていた。それよりも一応嫁に出すことは考えていたんだ、という事に関心が行ってしまった事を思い出す。しかしこれには続きがあって、翔に勝てればの話だったが。
 いるのかそんな男、と翔と二人笑ったものだったが、ダークホースがすぐ近くに居たとは……。

「急に子供でも欲しくなったのかしらね?」
「あ!?」

 半眼で由美を見る翔。自分でも何を唐突にと思ったが、ポロっと言葉として出てしまったのだから仕方ない。

「子供が欲しくてもあんたじゃ無理でしょ。アズちゃんなら遺伝子的に問題ないじゃない?」
「阿保か」

 完全に呆れている。

「言ってみただけよ」

 下唇を突き出して翔を見ると、「そんなんじゃない」と前振りもなしに否定され、由美はさらにムッとした。

「じゃあ何だってのよ」
「嫉妬だ。梓といた男に嫉妬して、頭に血が昇ったそうだ」
「嫉妬……? 到底怜には不似合いの言葉だわね」

 怜に誰かを羨むことがあったとは驚きだ。
 生まれながら満たされた環境に居た怜は、出会った頃すべてが面倒臭そうで、己が望まなくても手に入る状況は、彼を無気力にさせていた。それでも難なく事をクリアしていくのだから嫉妬も半端なかったのに顔色も変えず、次々言い寄る女子を完全に無視する姿を見る度、“何が愉しくて生きてるんだろ?” と由美はいつも憐れんだ目で怜を見ていた。

 怜に少し人間味が出て来たのは、高校一年の夏休み明けからだったか。アイスドールが翔だけに笑うようになったのは。
 そして秋を過ぎた頃、翔と一緒になって梓の世話を焼きだした。それはもう愉しそうに。
 一緒にお出かけって何事!? と恐怖のあまり全身鳥肌が立った記憶は、一生消えることはないだろう。

 翔と梓の兄妹は、怜にとって特別だったはずだ。それを自ら壊しに掛かって行くなんて、有り得ないと思う。
 翔が言うところの “男” は間違いなく城田だ。そして彼に連絡を取って、梓の尻を叩いたのは外でもない由美だった。

(…アズちゃん、タイミング悪過ぎ)

 梓のためにと思って起こした行動が、怜を思わぬ方向へ導き、彼女を苦しめる結果となってしまい、申し訳なさが沸々と込上げる。
 そこであることに思い至って翔を見ると、「気付いてはいたんだ」と苦々し気に告白しだした。



 嫉妬するには、それなりの感情がなければ無理だ。

 弟が生まれることに過度の期待を持っていたせいなのか、こんな男を兄に持ってしまったせいなのか、梓には特別有難くもないだろう微妙なスキルを彼女は保持していた。
 それが発覚する切っ掛けを作ったのは、母の二番目の弟の光明みつあきだった。彼もまた翔と同類の人で、翔の性質を逸早く見抜いた人でもある。

 光明は生まれたのが姪っ子だと聞いて、正直どうでも良かったらしい。出産祝いにも来なかった薄情な弟を、母はよくチクチクと責めていたのを覚えている。
 その彼が漸く梓の顔を見に来たのは、『お食い初めのお祝いをするから絶対に来なさい。来なきゃ夢枕に立って一生祟ってやる』と母に脅され、今は亡き祖母にこんこんと説教を食らったからだったが、本当に嫌そうだった。
 嫌そうだったのに、ひと目梓の笑顔を見た瞬間『天使』と呟き、それから事ある毎に梓を連れ回すようになった。そして彼は確証を得たのだ。

 光明が梓を連れ回して何をしていたのかと言えば、XXの遺伝子保持者は赤ん坊でも無理という仲間に梓を会わせ、自分がおかしくなった訳じゃないと裏取りしていたらしい。結果、出された答えは全員が全員『天使』の評価を下し、梓の笑顔を “ゲイキラー” と命名していた。
 一番最初の餌食は間違う事なく翔だ。あれだけ弟に執着していたのに、コロッと梓可愛いになったのだから。

 それは怜にも如何なく発揮された。
 当時の彼は、女顔に酷くコンプレックスを抱いており、迂闊な事を口にすると無言で殴られる状態だった。翔でさえ睨まれるのだから、他の連中は死んでも口に出せない。

 初めて自宅に怜を連れて行き、梓と対面した。梓はじーっと怜を見詰め、『綺麗ねえ。女神様みたい』とうっとりして言い、いくらなんでも小学生の女の子に手を上げるとは思っていなかったが、その瞬間の肝の冷えた事と言ったらない。

 無言で梓を見下ろす怜に、彼女が笑みを浮かべた。咄嗟に梓を守るべく身体が動き、背中に庇おうとした翔を押し退け、嫣然と微笑んだ怜が『梓ちゃんも凄く可愛いよ』と目線を合わせて、頭を撫でたのだから青天の霹靂だった。
 梓が怜の両頬に触れるままにさせ、ニコニコしている光景はシュールに見えた。

 その時、怜も “堕ちた” と翔は確信した。

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